*七月二十二日*
……白い。
今度の白は、柔らかな白。何かを包み込むような、おだやかな白。
見渡す限りが白。触れるもの、見るもの、すべてが、白。
果ての無い、終わりの無い、白。
……旧い。
次に抱いたのはその感情。
遠い記憶の中にある、旧い旧い光景。
これは、どこかで見たことがある、白。
……悲しい。
次に抱いたのはその感情。
遠い記憶の中にある、悲しい悲しい光景。
これは、あたしに悲しみを抱かせる、白。
……なぜ悲しいのか分からない。
ただ、悲しい。この白には、悲しい記憶がある。それだけが、あたしの心の中にある。
そう、それは……
……大切な何かを、目の前で失ったような感情……
(ぴぃぃぃぃぃぃっ!)
「どはああああっ!?」
耳をつんざく不快な音で、あたしの朝は始まった。頭の中にものすごい残響音が残り、視界がぐらぐらする。頭がマジで割れそうになった。頭が割れるって感覚は、こんな感覚なのかも。
あたしはゆっくりと立ち上がり、今日の不快な音の正体を調べてみた。
(ぴぃぃぃぃぃぃっ!)
「……………………」
「たははっ♪」
……正体は、すぐ近くにあった。
(ぴぃぃぃぃぃぃっ! ぴぃぃぃぃぃぃっ! ぴぃっ! ぴぃっ! ぴぃぃぃぃぃぃっ!)
「……渚……」
「あ、愛子さんっ。おはようございますですっ」
「……あんた……」
「はい?」
「……なんでホイッスルなんて持ってるわけ?」
渚はパジャマ姿のまま、赤いホイッスルをすごく楽しそうに吹き鳴らしている。あんな小さい物から、よくぞあんなデカイ音を出せるもんだ。驚きを通り越して、もはやあきらめの境地。
(ぴぃぃぃぃぃぃっ! ぴぃぃぃぃぃぃっ! ぴぃっ! ぴぃっ! ぴぃぃぃぃぃぃっ!)
「やめんかっ」
「わ、愛子さん、すごい顔」
「この顔は生まれつき……って、昨日と同じことを言わすなっ」
「たははっ♪ 冗談ですよっ」
渚はぱたぱた走り回りながら、ホイッスルを元気よく吹き鳴らしている。すみません。ちょっと殴ってもよろしいですか?
「……うぐぅ……」
「あ、国崎さんっ。おはようございますっ」
渚の隣で寝ていた国崎が目を覚ました。大方の予想通り、目覚めは最低のようだ。この時ばかりは、国崎に全力で同情したくなる。国崎は、よりにもよってこんな起こされ方をするなんて思ってもなかったはずだ。あたしだって、一日目にはまさかこんな起こされ方をするなんざ、想像もしてなかったもん。
「……渚ちゃん、朝からキミの家に陸上部の合宿部隊でも来たの……?」
「たははっ。違いますよー。これは、渚っちの目覚ましですっ」
ホイッスルをぴーぴー鳴らしながら、渚は台所の方へとてとてと駆けて行った。国崎はものすごく憂鬱そうな表情で、しきりに頭をかいている。
「……神崎さん」
と、国崎があたしに話しかけてきた。
「うん。どうしたの?」
「……神崎さん、ひょっとして毎朝こんな起こされ方されてたの?」
「……まあね。ちなみに一昨昨日はフライパンとフライ返し、一昨日はボールとお玉、昨日はクラッカーだったわよ」
「……キミも、大変だね」
「……これから、あんたも大変になるわよ……」
あたしと国崎は、同時に大きなため息を吐いた。明日はどんな起こされ方をされるのかと思うと、なんだか今から憂鬱な気分だ。
「……国崎」
「どうしたの?」
「……今さ、耳栓とか持ってないかな?」
「そうだね……今日買いにいくってのは、どう?」
「了承」
なんだかたったこれだけで、国崎とずいぶん親しくなれたような気がする。不思議だなあ。昨日は一緒にいるのもなんだかヤな感じだったのに。今なら話し合えばなんでも分かり合える気がする。
耳鳴りと頭痛が治まって、十分に目が冴えてから、あたしと国崎は台所へと向かった。
「あ、愛子さん、国崎さんっ。おはようございますっ」
台所に着くと、渚がすでに朝食の支度を終えて待っていた。ちなみに、格好はまだパジャマのままだ。まあ、制服の上からエプロンを着る「あの格好」よりかはなんぼかマシだが。
「ん。おはよー」
「おはよう渚ちゃん」
改めて朝の挨拶をするあたしたち。そうなんだよ。むしろこれが正しい朝の風景なんだよ。間違いない。さっきまでのがおかしいんだよ。うん。朝っぱらからホイッスルで起こされるなんて、それこそ国崎の言うような陸上部の合宿部隊だけで十分だ。
昨日と同じ席に着くあたしと国崎。国崎は椅子に座るなり、こう言った。
「これ、渚ちゃんが?」
「そうですよっ。毎朝これぐらいの時間に起きて、朝ごはんの準備をするんですっ」
「これを一人でやっちゃうから、驚きよね……」
あたしは目の前に並べられた朝の献立を見て、ため息交じりにつぶやいた。今日は和食中心だ。炊き立ての白いご飯に、オーソドックスなわかめと豆腐の味噌汁、箸休めの漬物が二・三、海苔、梅干し、それから鮭の切り身を焼いたもの。今時こんな完璧な和風の朝食を忙しい朝に出せるなんて、ちょっと信じられない。
「たははっ。もう、慣れてますからねっ」
「へぇー……すごいね。感心したよ」
「あたしも、これだけは純粋にすごいと思うわ。これだけは」
「う〜……愛子さんっ、どうして『これだけは』っていうのを妙に強調するんですかっ」
「言葉どおりよ」
「うう〜……答えになってませんっ」
「ありのままよ」
「ううう〜……全然変わってないじゃないですかっ」
「だから、ありのまま、言葉どおりだって」
「うううう〜……愛子さん、いぢわるですっ」
渚がいつものように拗ねた表情を見せ、ぷいとそっぽを向いてしまった。
「二人って、いいコンビだね」
「う〜……国崎さんまで、ひどいですっ」
「やっぱり、そう思うよ」
「あたしは特にそうは思わないけどねー」
あたしは会話もそこそこに、お茶碗を手に取った。
お茶碗越しに伝わってくる炊き立てのご飯の温かさが、なんとも言えない刺激を与えてくれた。
「渚、あんた、確か今日も講習だっけ?」
「そうですよっ。お休みは明日です」
「へぇー……だから、学校に行ってたんだね」
食器を片付け、出掛けるまでのちょっとした時間を過ごすあたしたち。渚によると、日曜日には講習は無いらしく、明日は一日休みだとか。まぁ、講習に出てないほかの子達が毎日日曜日的な過ごし方をしていると考えると、一日ぐらい休みがあったところであんまり違わないような気もする。
「そうですよっ。でも、明日は講習もありませんから、愛子さんと国崎さんと一日中一緒にいられるんですねっ。渚っち、楽しみですっ」
「そう言えば今まで、一日中一緒にいたことなんかなかったもんね」
「いいね。僕もずっと一人だったから、たまには誰かと一日一緒にいるのも悪くないと思ってたんだ」
ふーむ。誰かと一緒にいる、か。そう言や、あたしも渚のとこで厄介になるまでは、誰かと一緒にいたことなんてほとんどなかったっけ。国崎もそうみたいだし、話を聞いているとなんか渚もそんな感じだ。ってことはあれか。ここにいるヤツはみんな、ちょっと前まで一人きりだったわけだ。
「今からみんなで何をしようかなって考えると、どきがむねむねしてきますねっ」
「何その死語」
「はははっ。渚ちゃんって、やっぱりちょっと面白いね」
「たははー。そんなに褒めないでくださいよっ」
「褒めてない褒めてない」
あたしは手をひらひら振りながら、いつもの調子で言った。
「あ、渚。そろそろ行かないとまずいんじゃない?」
「わわわっ。そうですねっ。愛子さん、どうします?」
「んー。あたしも出掛けるつもり。国崎、あんたは?」
「僕も出掛けるよ。特にすることも無いけどね」
「そいじゃ、そろそろ行きましょ」
あたしたちはぞろぞろと立ち上がり、めいめい荷物を持って外へ出た。
「ところで渚ー。ちょっといい?」
道すがら、あたしは渚に話し掛けた。一つ、聞いておきたいことを思い出したからだ。
「えっ? 渚っちですか? いいですよっ。どうしたんですか?」
「えっとねー、あんたが昨日貸してくれた本あるじゃん」
「あ、あれですねっ。もう読んでくれたんですか?」
「んー。読んだんだけど…………」
「どうしたんですか? 何かあったんですか?」
……どうしよう。どういう風に聞けばいいのか分かんない。あの本のことが気になってるのは事実で、あれと渚の見ている「夢」が何か関係あるような気もする。それに……
……それに、なんだかとてつもない胸騒ぎがする。何がどう騒ぐのかは分かんないけど、とにかく何かそわそわする。「羽根のある女の子のはなし」と「渚の見ている夢」、それから……
……それから……
「……あ、あの本、どこでどんな風にして見つけたの?」
……ダメだ。どうしても、まともに話を切り出せそうに無い。とてつもなくどーでもいいことを聞いてしまった。
大体、あたしの考えすぎとしか思えない。昨日あんなことがあったからって、すぐに話を飛躍させるのはヘンだ。「羽根のある女の子のはなし」と渚の見ている「夢」、それから……
……それから、あたしが母さんから聞かされた「あの文言」とは、何の関係も無い、独立した三つの話のはずだ。それを無理やりつなげようとしたあたしのほうが、きっとどうかしている。そうとしか思えなかった。
「あの本ですか? えへへ〜。実はあれ、渚っちのお母さんからもらったんですよっ」
「あ、お母さんが見つけてきたんだ」
「そうなんです。だから、渚っちの一番のお気に入りなんですよっ」
「……なるほどねぇ……」
返ってきた答えは、ごくごく普通の答えだった。そりゃあそうだ。正直、ここからこれ以上話題を発展させる自信はなかった。
そこに、国崎が割り込んできた。いいタイミングだ。
「気になるね。神崎さん、後で僕にも読ませてくれない?」
「ん。あたしは構わないけど、なぎ」
「了承♪」
「……だって」
「助かるよ。ありがとう。二人とも」
結局、この話題はこれで終わってしまった。あたしは心の中にもやもやを抱えたまま、渚を学校まで見送る羽目になった。
「それじゃあ、行って来ますねっ」
「あいよ。今日も頑張ってね」
「はいっ。渚っち、頑張りますっ」
「ん。気を付けてね」
あたしと国崎は渚を学校まで送り届けると、そのまま顔を見合わせた。
「これからどーする?」
「うーん……僕は特に行きたいとこも無いから、神崎さんに付いて行くよ」
「ん。そいじゃ、今日は商店街に行くつもりだから、そっちに行きましょ」
「そうだね。…………買わなきゃいけないものもあるし」
「……でしょ?」
うーむ。不思議だ。あんなにいがみ合ってた(というかあたしが一方的にいがいがしてただけかも知れないけど)はずなのに、今日はどうも自然に話せる。なんだか妙な気分だけど、ま、悪くは無い。
「それじゃ、行きましょっか」
「そうだね」
国崎と並んで、あたしは歩き始めた。
「……へぇー。前は別の場所に住んでたんだ」
「うん。父さんと二人で住んでたんだけど、家を出てきたんだ。ちょっと、事情があってね」
「ふぅん……あの猫も一緒に?」
「いや。ネルは気がついたら一緒にいたんだ。猫なのに人懐っこくて、いつも誰かに擦り寄ってるんだ。可愛いと思わない?」
「思う」
「即答だね」
「あたし、猫好きだから」
商店街に行く途中に、あたしと国崎はずいぶんいろいろな話をした。
国崎は元々ここの人間ではなくて、一年ほど前に引っ越してきたということ。母親は……離婚したか死別したかは分からないけどとにかくいなくて、父親と二人で住んでいたこと。その父親の家から出て、今の場所で生活しているということ。こんなところだ。
「神崎さんは、旅をしてもうどれぐらいになるのかな?」
「んー……正確には覚えて無いんだけど……多分、十五、六年ぐらいかな」
「すごいね。ほとんど生まれついての旅人だね」
「まーね。結構いろんなことがあったのよ。冬の寒空の下で母さんと一緒に死に掛けたとか」
「……壮絶で凄絶だね……僕には想像も付かないや……」
「……うん……あん時だけは本当にヤバかったわ……」
あの時のことを思い出すと、今でも背筋がぞっとする。母さんもかねがね、あの日のことだけは別の意味で忘れたくても忘れられないって言ってたぐらいだ。もしあの時、あのメガネをかけたちょっとかっこいい男の人が通りがからなくて、その人の家に招かれなかったら、今頃あたしはここにはいなかっただろう。それぐらいだ。
「それで……」
「何? どったの?」
「……あの人形は、キミの母さんから譲り受けたものなの?」
「そうなるわね。まー、母さんが生きてた時から、半分あたしのものだったけど」
あたしは何気なく人形を取り出し、手にしてみる。
「でも、不思議なんだよね……」
「……何がだい?」
「この人形、ただの人形のはずなのに……」
「……………………」
「……なんだか、母さんが近くにいるような気がするのよ。別に幽霊とかそんなのじゃなくて、もっとこう……」
「……あれかな。近くで見てもらってるとか、もっというと、抱きしめてもらってる、そんな感じかな」
「んー。それに近いかな。なんだかこの人形を見てると、心が落ち着いてくるっていうか……」
……それは、つい最近感じ始めた感覚だった。
「前まではね、ホントにただの人形だとしか思えなかったわけ」
「まあ、実際、何の変哲も無いただの人形にも見えるよね」
「んだけど、最近になって、なんかこう……うん。そんな感じの感覚が来るようになったのよ」
「……………………」
「あれかな……あたしも変わったのかなー……どんな風に変わったのかは分かんないけど」
「……そうだと思う。人は、どんどん変わるものだから。変わることで、前に進む生き物だからね」
「そんなもんかねぇ……」
他愛も無い話をしながら歩いていると、そこはもう、商店街の前だった。
「……いつもこんな調子?」
「……今日はたまたま調子が悪いのよ」
あたしと国崎は軽く一時間ほど、商店街のアーケードの中で人が来るのを待ってみたが、今日は何故か人通りが異常に少なくて、ちっともひっかかりゃしない。たまに人が通ったかと思うと、小走りに駆け抜けていったり、あっ子供だ、と思ったらあたしのことなんか一瞥もせずに駄菓子屋へダッシュして行ったり、もう踏んだり蹴ったりだ。
「ねえ国崎」
「どうしたの?」
「なんかさ、いい呼び込みの手段知らない?」
「うーん……」
「……………………」
「来るまで待つんじゃなくて、とりあえずずっと人形を動かしてみて、ちょっとしたデモンストレーションをしてみる、ってのはどうかな?」
「うし。それでやってみるわ」
あたしは地べたに転がっていた人形を手に取ると、それを地面に立たせて、手をかざして念を送り始めた。いつもやっていることではあるけど、やっぱりやる時は緊張してしまう。
「……………………」
「……………………」
国崎はあたしの様子を、何も言わずに見つめている。
(すくっ)
念はすぐに伝わったみたいで、人形はしっかりと立ち上がった。そしてそのまま、自分の力で(まぁ、正確にはあたしが動かしてるんだけど)、あたしたちの周りをとことこ歩き始めた。一端動き始めたら、ちょっと気を抜いても大丈夫。
「で、周りを歩かせてるだけでいいのかな?」
「うーん……とりあえず普段はそうしておいて、人が来たら軽くジャンプさせてみたりするといいかも知れないね」
「よっしゃ。それで行きましょ」
あたしは人形をとことこ歩かせながら、たまにジャンプさせたり、無駄にダイビングボディプレスをさせてみたり、四回転ジャンプを決めてみたりして、人の目を引くことに精を出した。
「……ごめんね神崎さん。僕のアドバイス、ほとんど役に立たなくて……」
「……別にあんたが謝ることじゃないわ……どっちかっつーと、あたしの方に問題がありそうな気がするし……」
さらに一時間ほど待ってみたが、客足はすがすがしいほどの勢いで皆無だった。誰もいないのに人形を動かしてるあたしの姿は、道ゆく人に一体どう映っただろうか。少なくとも、相当間抜けだったことは容易に想像がつくけど。
「そろそろ十時、かぁ……渚を迎えに行くには、まだまだ早すぎるわね……」
「……かと言って、することも無いしね……」
あたしと国崎は顔を見合わせ、互いにため息を吐いた。
あー、こんな調子でやってたんじゃ、あたしはいつまで経ってもこの山村から出られそうに無いぞ。現在の所持金は一,八〇〇円也。どっかに行こうと思えば行けなくもないが、行った先でまた路頭に迷うのは目に見えている。
あまりにも場が持たなかったので、あたしは何気なく、隣に座っている国崎に声をかけた。
「ところでさ……」
「どうしたの?」
「昨日の夜……あの後、何を言おうとしたの?」
「……確か、渚ちゃんがお風呂に入ってたときのこと、だよね」
「うん。あの後渚が戻ってきちゃったから有耶無耶になってたけど、気になってさ」
そう。あの時国崎は、あたしに何かを言おうとしてた。あたしに「あの言葉」を言った理由、どうして「あの言葉」を知っていたのかという理由。その事を、告げるつもりだったのだろう。
「……………………」
国崎は沈黙したままだ。あたしは今度こそ続きを聞きだしたかったから、さらに言葉を続けてみる。
「……何か、言いにくい理由でもあるの?」
「……それは……」
「……………………」
「……僕が……キミと……」
……その時だった。
「姉ちゃん、それ、ホンマなん?」
「ほんまやって! うちがこの目で見たんやから!」
「ふぅん……あ、もしかしてあの二人?」
あたしの右から、二人の女の子が走ってくるのが見えた。年齢は……どっちも七歳か八歳ぐらいかな。国崎もあたしも会話を中断して、その方向を見やる。
「……神崎さん、ひょっとして……」
「……言われなくても分かってるわよ」
国崎と短く言葉を交わし、状況を整理する。会話の内容から察するに、あの二人の子の「二人」というのは間違いなく、あたしたち二人のことを指している。さっき二人の中のお姉ちゃんのほうが通りがかるのを見たから、きっと恐らく……
「ここや、ここやで!」
「郁姉ちゃん、ホンマにこの人たちが、なーんにも触れんと人形動かしてたん?」
「そうやって!」
……ビンゴ。
「やーお嬢ちゃんたち。どーしたの?」
「あのね、お姉ちゃん、さっき人形をこんな風にして、なんにもせんと動かしてなかった?」
「うん。動かしてたよ。もしかして、それが見たいのかな?」
「うん! 見てみたい!」
「よーしよしよし。これからお姉ちゃんが、君達二人に人形劇を見せてあげよう。さーさー、そこに座って」
あたしが促すと、二人は素直に座り込んだ。あたしから見て左がお姉ちゃん、右が妹のようだ。
「……………………」
姉妹はどちらも黙りこくっているが、その沈黙の種類は全然違う。お姉ちゃんのほうは、あたしが人形を動かすのを今か今かと待ちわびていて、それを邪魔しないようにおとなしく静かに座ってる、みたいな感じ。まぁ、これは大体想像がつく。これはこれで、素直でよろしい。
「……………………」
一方の妹のほうは……あれだ。「お前ほんとにそんな事できんのか?」的な表情とでも言えば分かるかな。疑り深い感じで、自分で見るまでは絶対に信用しないぞっ、って感じの顔してる。にしし。あたし、あんたみたいなのは嫌いじゃないよ。だって、あたしの子供の時がそんな感じだったんだもん。
「それじゃあ、始めるよー」
あたしはおどけた調子で言ってから、
「……世にも不思議な人形劇……開演!」
いつもの調子で、切り出した。
「……………………」
「……………………」
「……せめて……その美しい胸の中で……」
あたしは五分ほどの短い演目を選び(暑い中あんなちっこい子をずーっと座らせとくのもどうかと思ったし)、特につまづくこともなくそれを演り終えた。さぁて、二人の表情は……?
「……どや? どや? ほんまに動いてたやろ?」
お姉ちゃんのほうは予想通り、目をキラキラ輝かせながら妹に話しかけている。うん。これは予想通りだ。
一方……
「……ホンマなん? なんか、糸とかついてるんと違うん?」
……まー、これも予想通りだ。妹のほうはまだ半信半疑みたいで、人形に何か小細工を仕掛けてあるんじゃ無いか? ってな感じで疑っている。ま、目の前で手も何にも触れずにいきなり人形を動かされたら、誰でもそんな気持ちになるわよね。あたしだってそう思う。
そこで……
「あ、まだ信じてないみたいだねー。よーし。それだったら、キミにこの人形を貸してあげよう」
「えっ?!」
「好きなだけ触ってごらん。糸なんかどこにもついてないから」
あたしは地面に寝転がっていた人形をわざと無造作に拾い上げ、同じく無造作に女の子に手渡した。
「う、うん……」
女の子は恐る恐る、人形を受け取る。まったく、かわいいもんだよね。疑ってる時はものすごく威勢が良いのに、いざこうやって自分の手で確かめられるとなると、借りてきた猫みたいにおとなしくなるんだから。間違いない。この子とあたしは同タイプだ。あたしに子供ができたら、きっとこんな子に育つだろう。
「……………………」
こわごわ触るその手が、なんとも儚げだ。あー、あたしにもこんな時代、あったのかなあ。
「……………………」
「……どう?」
「……なんにもない……」
「でしょ? 種も仕掛けも無い、正真正銘、本物よ」
何がどう本物なのかあたしにもよく分からなかったけど、まあ、とりあえず「本物」だということにしておいた。隣で国崎が笑っているが、気にしない。
「さ、もういいかな?」
「うん。ありがとう」
そう言って、あたしに人形を返す妹。もうすっかり、疑いは晴れたみたい。うんうん。それでいいぞー。
「郁姉ちゃん……」
「ん? どうしたんや?」
「うち思うねんけど……」
「?」
「……こういうの見たら、やっぱりお金払わなあかんのと違うんかなぁ……」
「……………………」
……妹……あんた、最高だよ。
「……悪く無い額だと思うけどな」
「まぁね」
小銭の数を数えながら、あたしと国崎が会話する。あの後、お姉ちゃんと妹からそれぞれ百円玉を三枚ずつ受け取った。子供にしては、割としっかりとした額だと思った。
「いくらになった?」
「んー。二,四〇〇円ってとこ」
「出ようと思えば、出られる額だね」
「まぁね……もうちょいここにいるつもりだけど。いくらいるか分かんないし」
それなりの額だとは思うけど、まだここから出て行くにはちょっと心もとない。前に「これぐらいあれば十分だろう」と思って別の場所へ行ったら、普通に足りなくて逆戻りしたこともあった。正直、それは避けなきゃいけないと思った。だってそんなことしたら、渚に笑われちゃうし。
……それに。
「……それにさ」
「……?」
「今月の三十日、あの子の誕生日なのよ」
「今月の三十日って言うと……来週の日曜日、かな」
「そうなるわね。だから、それまでにちょっと余分にお金作って、何か簡単なものでも渡してあげたいのよ」
なんだかんだ言って、ここに来てから渚にはお世話になりっぱなしだ。あたしみたいなどこの馬の骨かも分からない旅人に寝る場所を提供してくれただけじゃなくて、食事とか道案内とかその他諸々。とにかくお世話になりっぱなし。だから、ちょっとでもお返しをしてやりたかった。
都合のいい事に、今月の終わりが渚の誕生日と来てる。誕生日プレゼントも兼ねてあげれば、あの子はきっと喜ぶだろう。間違いない。どんなものがいいかな。
「そうか……それなら、僕も何か考えておくよ」
「あんたは……そうね。渚の傍にずっといてあげるだけでも、あの子にとっちゃ最っ高のプレゼントだと思うけど」
「それなら、お安い御用さ」
それから、二・三取りとめも無い話をしてから、ふと腕時計に目をやった。あー、これもうそろそろ電池換えてあげないと。最後に電池換えたの、何年前だろ。
「……あ、もうこんな時間……」
「そろそろ、行こうか」
「そうね」
あたしと国崎は立ち上がり、商店街を後にした。
夏の日差しは、相変わらず厳しい。
「それにしても、今日も暑いわね……」
「暑いのは嫌いじゃないけど、こう暑い日が続くとなんだか参っちゃうね」
校門からちょっと離れた場所で、渚が出てくるのを待つ。こうするのも今日で四回目。あれだなー。もうすっかり習慣になっちゃったな。
「いつもこの場所で待ってるの?」
「んー。まぁね。ここだと日陰だし」
しっかし、あたしはいつか必ずここを出て行かなきゃいけないのに……理解はしてても、なんだか実感は湧かない。
一つの場所に留まっちゃうと、どーしてもその場所に愛着が湧いちゃうんだよね。今の場所みたいに、誰かのお世話になってたりすると尚更。それが渚みたいなちょっと変わった子だと……言うまでも無いか。
「渚ちゃん、明日は休みだって言ってたね」
「そーね……あたしも明日は休もうかしら」
なんだか平和だなー。こーやって日陰に入って、誰かを待ってるとか。いつまでこんな日が続くんだろう。気のせいかも知れないけど、ずーっとこんな調子で続くような気もしてくる。
渚に朝信じられない方法で叩き起こされて、一緒に朝ごはんを食べて、学校まで送って行って、劇を見せて、渚を迎えに行って、お昼を食べて……
……ずーっと、この繰り返しなのかもね。
と、あたしが物思いに耽っていると。
「ところでさ……」
不意に国崎が口を開いた。口ぶりから見るに、あたしに何か話したいことでもあるみたいだ。さっきの続きかな。
「ん? どしたの?」
「渚ちゃんの……ことなんだけど……」
……と、思いきや、国崎が口にしたのは渚のことだった。一体、どうしたっていうのかしら。
「……渚がどうしたの?」
「……………………」
「……ねぇ国崎、渚が……」
「……ごめん。何でもないよ。僕の思い違いだった」
「…………はぁ?」
「本当に何でもないことなんだ。気にしないで」
「……………………」
……またこれだ。こいつのこーいうところだけは、どうしても気に入らないんだよね。何かを言おうとして切り出すんだけど、途中でやめちゃう。言われる方からしてみたら、もやもやすることこの上ない。一体、渚がどうしたっていうんだろ。
「渚がどうしたって言うのよ。あの子は朝から元気そのものだったじゃない」
「……そうだよね。だから、僕の思い過ごしだった」
「いや……だから、何がどう思い過ごしなのよ」
「……………………」
「……………………」
沈黙が続いた。渚はまだ出てこない。恐らくは、まだ授業中。
「……………………」
「……………………」
「……あんた、あたしに何か隠してない?」
「……………………」
「何とか言いなさいよ」
「……………………」
ダメだこりゃ。完全に黙っちゃった。こうなると、閉じた貝をこじ開けるより難しい。これ以上何を言っても、国崎はきっと何も話してくれないだろう。あーあ。もやもやは残るけど、仕方ないか。
「……ま、言いたくないんなら、別に言わなくてもいいけど」
「……悪いね」
「……でも、あんまりそんなことやってると、あたし、あんたのこと信用できなくなるわよ」
「肝に銘じておくよ」
国崎はほっとしたような表情で、木陰を提供してくれている大木に寄りかかった。あたしも一緒に寄りかかって、ただ時間が流れるのを待っていた。
「……………………」
何気なく、周りを見渡してみる。
(……ほんっとに山しか無いわね、ここ……)
周囲をぐるりと取り囲むのは、青々とした木で埋め尽くされた山々。白い雲を流した青空と共に見事なコントラストを描き出していて、日陰で暑さを凌ぎながら眺める分には悪くない光景だ。
(……んでもって、聞こえてくるのはセミかひぐらしか……)
目に飛び込んでくるものは、空・山・そして地面。水色・深緑・黄土色の三色ぐらいだ。それでは耳に入り込んでくるものはというと、これまたせいぜい蜩が鳴く声ぐらいだ。後はたまに、夏の暑くてゆるい風が木々の葉を揺らす時に鳴る、穏やかな葉の音が聞こえる程度。
どこにでもある、しかしそうは言っても同じものは二つとして無いような気がする、夏の風景だった。
(……夏は暑いから、あんまり好きじゃないんだけどね……)
最後にそう感想を抱いて、考えるのを止めた。
「あっ。あの子かな」
「ん。どれどれ……」
十二時十分を回った。渚が出てくる時間だ。国崎の声に反応して、あたしが目を凝らす。
「……あの子だね」
「……なんで走ってくるのかねぇ……」
学校の玄関からぱたぱたと走ってくる渚の姿が見えた。いつも思うんだけど、どうして走ってくるんだろう。せめて校門ぐらいまでは友達とでも一緒にしゃべりながら来ればいいのに。
「あ、愛子さ〜ん! 国崎さ〜ん! 待ちました?」
「そんなに待ってないよ。別に走ってこなくてもいいのに」
「たははっ。渚っちは、走るのが好きですから」
「まあ、嫌いそうには見えないね。僕も嫌いじゃないよ」
「わ、そうなんですかっ! それなら……」
「……へ?」
……待て。なんかヤな予感がするぞっ。例えば……
「渚っちのお家まで、みんなで競争しましょう!」
……どうして的中するかなぁ?!
「待ていっ! あたしは走るの苦手だぞっ!」
「おんゆあまーく! げっとせっと!」
「ちょ……渚っ!」
あたしの存在を完全に無視して、渚が元気よく右腕を振り上げる。どーでもいいけど、「おんゆあまーく」って。「げっとせっと」って。
「まだあたしは……!」
「ごーっ!」
元気のいい「ごーっ!」の掛け声と共に、渚がぱたぱたと走り出した。もうあたしの声なんか聞こえてない。それにしても渚、みっちり三時間か四時間は授業を受けてきたはずなのに、その無駄な元気は一体どこにあるんだ。
「よし! 僕も走るかな」
「……つまり、あたしも走らなきゃいけない、ってわけね……」
スタンディングスタートの姿勢を取る国崎にあわせて、あたしも不承不承走る体勢に入る。
「なんだってこんな炎天下に……」
なんだってこんな炎天下に……
「お昼食べてなくて力の入らない体で……」
お昼食べてなくて力の入らない体で……
「全力疾走……」
全力疾走……
「しなきゃいけないんだろ……」
しなきゃいけないんだろ……
「ぜーはーぜーはー……」
「口で呼吸しちゃダメだよ。すぐに息が詰まっちゃうから」
「……はーひーはーひー……もう……そんなこと……意識できるわけなんか……ないでしょ……ぜーはーぜーはー……」
あたしはただいま渚と国崎を追っかけて全力疾走中。夏の日差しがじりじり照りつけて、しかも人形劇をやった後なので体力は消耗済み。そんな状況で全力疾走。お前ら、あたしを殺す気かっ。
「ひーはーひーはー……」
「もう少しだから、頑張って……あれ?」
「な、なに……どうしたのよ……」
あたしの前を走っていた国崎が、何を思ったか急に立ち止まった。あたしはぜーぜー肩で息をしながら、今にも空の向こうにでも飛びそうになる意識を必死に体に縛り付けるので精一杯だった。
「あれ、渚ちゃんじゃ……」
「……えっ?」
どうにか呼吸を整えて、あたしは国崎の見つめる方向を同じく見つめる。見ると、そこには……
「……どうしたんだろ……」
道端にしゃがみ込んでいる、渚の姿があった。どーしたんだろうか。走りすぎで気分でも悪くなったのかな? ま、そうだとしたら、いわゆる「自業自得」ってヤツだけど。
……と、あたしが考えていると、
「渚ちゃん……!」
「あ、ちょっと、国崎!」
国崎が急に走り出した。おいおい、別に走る必要は無いと思うけど。だって、渚はあそこで座り込んでるわけだし。
「渚ちゃん!」
「……………………」
……どうしてそんなに慌ててるんだろ。
「渚ちゃん!」
「……………………」
……なんだか、あたしまで不安になってきちゃうじゃない……
「渚……!」
あたしは国崎に続いて、渚のいる方に向かって歩き出した。
「渚ちゃんっ!」
「……………………」
狼狽した声で、国崎が渚に声をかける。渚から返事は無い。うずくまったまま、動こうともしない。
「渚っ!」
いつの間にか、あたしも声を出していた。声色は震えていた。何故だか、とても嫌な予感がした。理由なんて分からない。ただ何か……何か、とても嫌な予感が走った。日差しは容赦なく照りつけているというのに、背筋が凍るように寒かった。
「渚ちゃんっ!」
「……………………」
渚のところまでたどり着いた国崎が、一際大きな声で渚に呼びかけた。それでも、渚からの応答は無い。言葉にできない不安が、寒さと共にやってくる。
「渚っ! どうしたの?!」
遅れて、あたしも渚のいるところまでたどり着く。それでも渚は、身動き一つしない。
「渚……」
あたしが渚の肩に手をかけようとすると、
(……しーっ……)
「……?」
渚がいきなりこちらを振り向いて、静かにして欲しいというジェスチャーを返してきた。あたしはそれの意味するところがちっとも分からず、ただ呆然とするしかなかった。
「……………………」
隣にいた国崎も同じ心境だったのか、何も言えずにただその場にのけぞるようにして立っていた。
「……………………」
ふと、あたしが渚の前に出てみる。渚の視線にある、その先には……
「…………蟻?」
「そうですよっ。ありさんの行列ですっ」
「……ひょっとしてあんた、これが見たいがために……」
「えっ? そうですけど……」
「……もういい」
あたしは一際大きなため息を吐いて、まだ困惑の色を浮かべている国崎のところまで戻った。
「……どうしたの?」
「……答えは渚からあとで聞いて」
言うのも馬鹿馬鹿しかったので、あたしは渚に答えを言わせることにして、
「……はぁ」
もっかい大きなため息を吐いた。
「……ったく。心配させないでよ」
「ごめんなさいですー」
「まさか、蟻の行列を見てたなんてね……想定外だよ」
国崎は渚から道端でうずくまっていた理由を聞かされた途端、安堵と呆れの混じったなんとも言えない表情を浮かべた。さっきまでの狼狽していた表情とは、天と地ほどの差がある。まあ、どっちが天でどっちが地かなんて聞かれても分かんないけど。
「たははっ。渚っちは、ありさんの行列が好きですからっ」
「なんであんな不気味なものが好きになれるのよ」
「えーっ? だって、あんなにたくさんありさんがいるんですよっ。きっと、みんな仲良しさんなんです」
「まあ、たくさんいるのは否定しないけど」
「たくさんいると、きっとすっごく楽しいですよっ。一人よりも、きっと楽しいです」
そう言う渚の表情は、どこまでも子供っぽく、そして純粋だった。これまでにも、何度も見てきた表情。
まるで、子供がそのまま身長だけ、飴引き伸ばし機か何かで伸ばしたみたいに。
しかし、目の前にいるこの少女は、間違いなく、高校二年生の少女だった。
実際、子供っぽい仕草の中にも、子供と大人の危うい境目のような、微かな色香が見え隠れする。それは決して自己主張することもなく、ただありのままに、そこに存在している。だからこそ、余計にそれが際立って見えるのかもしれない。
「……さっ。もういいでしょ。こんなあっつい中全力で走って、あたしもう倒れちゃいそうよ」
「あ、そうですねっ。それじゃあ、そろそろ帰りましょう」
「歩きでよ」
「たははっ。分かってますよっ」
「……………………やれやれ」
あたしと国崎は渚の後について、とろとろと歩き出した。
「暑い時に熱いもの、ってのも、案外悪く無いわね」
「だね。絶対ダメだ、って思いがちなんだけど、実際試してみると違うね」
「たははっ。そうですよねっ」
冷たい麦茶を片手に、カレーうどんをずるずるすするあたしたち。渚が二日前に作り置きしておいたカレーを使って、それをカレーうどんにしてしまったのだ。
確かに、量的にはあたしと渚の分はあっても国崎の分はなかったし、こうすれば全員が食べられる。さすがは渚だ。
「それにしても、渚ちゃんって、本当に料理が上手いね」
「えっ?! そ、そ、そんなこと……」
「そんなに慌てなくてもいいじゃない。ホントの事なんだから」
「あ、あ、あ、愛子さんまでっ……そ、そ、そ、そんなこと、な、な、な、ないですおっ!」
慌てすぎだ。よーし。ちょっとからかってやろう。にしし。
「あんたってかわいいわね」
「い、え、い、いや、そ、そ、そ」
「地図書くのも上手いし」
「あ、あ、あの、その、えっと、そ、そ、そ、そんな」
「顔立ちもいいし」
「あ、わ、わ、え、そ、その、あの」
「子供っぽいし」
「あ、えっと……って、愛子さんっ。それは褒めてないですっ」
「あ、バレた?」
「もうっ、バレバレの見え見えですよっ。愛子さん、とってもいぢわるですっ」
あー、これは面白い。渚って本当にかわいい。反応のひとつひとつが、かわいくて仕方ない。今時こんなかわいい子、探してもほっとんどいないよ。きっと。まあ、いじってて面白いだけなんだけど。
「う〜……いつか見返してあげますからねっ」
「はいはい。冷めないうちに食べちゃうわよ」
渚の言葉を適当に流しながら、あたしはうどんをすすった。
「渚ー。あんた明日休みだったわよね?」
「そうですよっ。今から楽しみですっ」
「なんか行きたいとことかない? 明日はどーせあたしたちもヒマだし」
渚に何気なく聞いてみた。行きたいところがあるんなら一緒に行くし、一日ゆっくりしてたいならそれに付き合うつもりだった。要は、明日の予定を聞いたのだ。
「わ、どこか連れてってくれるんですか?」
「あんまり遠いとこはダメよ。一日で帰ってこれる範囲で、ね」
「全然構わないですよっ。それじゃあ……えーっと……」
渚が唇に指を当てて、どこに行こうか考え出した。
……しっかし、この辺りでどっかに行くって言っても、渚が行って楽しそうな場所って……どっかあったかしら?
「それじゃあ、神社に行きたいですっ」
「神社って言うと……」
あたしは手提げかばんから渚マップを取り出し、神社の場所を調べてみた。見ると、家からそんなには離れていない。
「……ここ?」
「あっ、そうですっ」
「家からはそんなに離れてないね。何なら、いっそ今日行く、ってのはどうかな?」
「えっ?!」
渚は戸惑ったように、国崎の方を見つめて答えた。
確かに、これぐらいの距離なら、今日行っても明日行っても変わんないだろう。昼からは特にすることも無いし、渚に何か希望があるなら、それに応えてやるぐらいの余裕はある。
「でも、愛子さんも国崎さんも、疲れてません?」
「あたしは大丈夫よ。何か食べたら回復するタイプだから」
「僕も平気さ。あとは、渚ちゃんだけだね」
国崎にこう言われて、渚は瞳をキラキラ輝かせながら、こう答えた。
「了承♪」
「こんなのがあるんだったら、さっさと借りとくべきだったわね」
「たははっ。愛子さん、よく似合ってますよっ」
「日傘に似合う似合わないも無いと思うけどね」
あたしは渚から日傘(結構でかい)を借りて、それを使うことにした。
それにしても、日傘があると無いとでは結構な違いだ。暑い事に変わりは無いけど、少なくとも直射日光は防げるわけで、それだけでもかなりの違いがある。あの焼けるような肌の熱さが無くなっただけでも、ずいぶんと過ごしやすく感じる。
「しっかし、日傘さすだけでも大分変わるもんね……」
「そうですよっ。渚っちのお母さんも、暑い時はいつも日傘をさしてました」
「ということは、これは渚ちゃんのお母さんのものなのかな?」
「はいっ。そうですっ」
渚は満面の笑みを浮かべて答えた。
うーむ。渚のお母さんの持ち物を、あたしみたいな適当な人間が勝手に使ってもいいのだろうか。一応渚が貸してくれたから、渚の許可は下りてることになるけど。
「えっと……どっちに行けばいいのかな?」
「あっ、こっちですっ。こっちから行けます」
「ん。そいじゃ渚、道案内、頼むわね」
「あっ、はいっ!」
渚を先頭にして、あたしたちは歩き始めた。
「それでは、神社に向かって、でっぱつしんこう〜!」
「……でっぱつ?」
「あー、『出発』のことだから」
「……なるほど」
国崎に簡単に説明して、渚の後ろに付いて歩く。
どこにでもある、夏の風景だった。
「あっ、そう言えば愛子さん。ちょっと、いいですか?」
「ん。どしたの?」
渚が歩く速度を緩めて、あたしの隣に並んだ。それに合わせて、あたしも少し速度を落す。こうやって並んで歩いていると、ちょっと歳の離れた姉妹みたいだ。ま、顔がちっとも似てないから、近くまで来られたらすぐにバレちゃう程度だけど。
「今日、ちょっと変わったことがあったんです」
「ほー。どんなこと?」
「……夢が、いつもと違ったんです」
「……夢が……?」
その時だった。
「……………………!」
国崎がかっと目を見開いて、渚の顔を見た。傍目から見ても、表情が一変したのが分かる。あたしはその姿に、さっきの異常に狼狽していた国崎の姿を重ねた。今の国崎は狼狽こそしてはいないが、何か誰かが後ろを押してやれば、たちまち崩れてしまいそうな表情をしていた。
「えっと……」
しかし、渚はそれに気付いていない様子で、あたしの顔を見て話を続けている。あたしはとりあえず国崎のことは置いておいて、渚の話に耳を傾けた。
……あたし自身、渚の話が気になって仕方なかったからだ。
『わたしの背中に、まっしろな羽根が生えていて、それで空を飛んでるんです』
『空の上にいて、空の上から、下をじっと見下ろしているんです』
『空を飛んでるわたしは、ただ悲しくて、悲しくて、涙がこぼれて……でもどうしようもなくて、ずっと同じ場所をぐるぐる回っているんです。それで、悲しくなって目が覚めて、起きたわたしも泣いてるんです』
『どこにも行けずに、ただずっと……同じ場所にいるんです』
……あまり思い出したくない文言が、するり、と頭をよぎった。
「……とても、怖い夢でした」
「……………………」
そう、ぽつりとつぶやいた渚の表情は……
「誰かと一緒に手をつないで、自分を追いかけてくる誰かから逃げる夢でした」
……いつもとは違う……
「走って走って、もうダメ、ってなりそうになっても、まだまだ走って……」
……全然違う……
「泥だらけになっても、足が傷だらけになっても、まだまだ走って……」
……見たことも無いような……
「草むらを駆け抜けて、山々を越えて、大地を蹴って……」
……見たいとは思わなかった……
「……誰かと一緒に、どこかに逃げる夢でした」
……そんな、儚げな表情だった。
「渚、あんた……」
「……………………」
あたしは何か、声をかけようとした。何か、声を掛けなきゃいけないような気がした。
夢のことを話した渚の表情が、いつもとは違いすぎていて、あまりに違和感があって、まるでこの場にはいなくて、どこか遠くにいるようで……
どこか……遠くにいるようで……
……そう、例えば……
「きっと、それは思い人が現れる前兆だよ」
不意に国崎が声をかけてきた。その表情に、先ほどまでの異様さはない。いつものどこか飄々とした、それでいてつかみ所の無い、穏やかで悪びれない笑みを浮かべていた。
「えっ?」
「渚ちゃん。渚ちゃんは、誰かと一緒に逃げていたんだろう? それも、手をつないで」
「えっと……はいっ。そうです」
「それは……男の人? 女の人?」
「よくは覚えてないですけど……おっきくて、あったかい手でした。だから、男の人だと思います」
「そう……それなら、間違いないよ」
そう言って国崎は渚の前まで歩いて行くと、
(すっ)
……と渚の片手を取り、
「そうだね……ちょうど、こんな感じじゃなかったかな?」
「……わ、わわわっ?!」
その手を、ぎゅっと握り締めたのだ。
その瞬間。
(ぼっ)
……そんな擬音語が聞こえてくるぐらいの勢いで、渚の顔が……前とは比べ物にならないぐらい、真っ赤になった。
「え、え、え、えっと、そ、そ、そ、その、あ、あ、あ、あのっ」
渚は自分が今どんな状況にいるのか、きっと分かっていない。あえて言うなら、国崎に右手をしっかり握られてて、顔がやばいくらい真っ赤になっちゃってる。
「どう?」
「た、た、た、多分、そ、そうだったと、お、お、お、思いますっ!」
儚げな表情はどこへやら。すっかりいつもの表情に戻ってしまった渚を見て、あたしはほっとするやら気が抜けるやらで、なんかどこに気持ちを置いたらいいのか分かんなくなっちゃった。
んでもって、二人のやり取りは続く。
「その夢はきっと、僕とキミの愛の逃避行だったんだよ」
「なんだそれ」
「そ……そうですよねっ! きっとそうですよねっ!」
「んなわけあるか」
「それじゃあ今から、その続きをしようか。渚ちゃん」
「アホか貴様は」
「あ……はいっ!」
「そこで何故了承する」
手をつないで小走りに駆けて行く二人を見ながら、あたしは思わず頭を抱えた。
あの二人、きっとセットでばかだ。そうとしか思えない。
……そう思っていると、なんだか気が楽だった。
「神社にとうつきー」
「とうつき?」
「あー、『到着』って意味ね。到着」
「……なるほどね」
国崎は納得したようにつぶやいた。ちなみに、手はまだしっかり握ったままだ。渚の顔は、いつもよりほんのり赤い程度まで落ち着いている。
「それにしても、思ってたより大きな神社ね」
「たははっ。そうですよねっ。ここはこの街で一番大きな神社なんですよっ」
「や、この街の神社って、ここしか無いし」
「あ、そうでした……」
「あんた天然でしょ」
「たははっ。褒められると照れちゃいますよっ」
「やっぱ天然だわあんた」
渚の言葉に思わず苦笑するあたし。そりゃあ、一個しかなかったら、一番大きいし、一番小さいし、一番広いし一番狭い。一番微妙だし、一番大味だし、一番はっきりしてるし、一番繊細でもある。何もかもが、一番だ。
……競う相手のいない、ちょっと寂しい一番だけど。
「んー。せっかく神社に来たのはいいけど、ここ、ちょっと寂しいわね……」
あたしは周囲を見回してみて抱いた、率直な感想を口にした。
神社の真ん中には……多分ご神木だろう。一際大きくで太い樹が植えられていて、それをぐるりと取り囲むように石造りの床が並んでいる。お参りできる場所は三つあって、右・左・中の順番で大きくなる。きっと、真ん中が本堂だろう。
神社の周囲は高い木々で覆われていて、他の場所よりも葉の揺れる音がよく聞こえる。それにひぐらしの鳴く声が混じって、静かなはずの場所なのにどこかにぎやかだ。もっとも、今ここにいるのはあたしたち三人だけだけど。
「ねぇ渚、ここってさー、いっつもこんなに寂しい感じなの?」
「うーん……そうでもないですよっ。毎年七月の二十八日に、でっかいお祭りがあるんです」
「二十八日っていうと……来週の金曜かな?」
「そうですね。水曜ぐらいから、準備をするために人がいっぱい来て、みんなで準備をするんです」
「なるほどねぇ……」
どうやら、ここは夏祭りの会場になるらしい。二十八日か……それまでいるかは分かんないけど、なんかいそうな気がして怖い。いい加減、この町を出る目処も立てなきゃいけないんだけど。
「ねぇ渚ちゃん。せっかく神社に来たんだから、お参りしていかないと損だよ」
「あっ、そうですねっ。ちょっと待ってくださいねっ」
渚はそういうと、左手で右のポケットをごそごそ探り始めた。ちなみに、渚が今来ているのはいつもの白いワンピースだ。一昨日の「あの」悪夢のシャツとは比べ物にならないぐらい、普通な格好だ。でも、格好が格好だけにいつもよりさらに子供っぽく見えてしまうのは事実だ。
……どーでもいいけど。
「……渚さぁ、右ポケットにあるんだったら、右で探せばいいじゃない」
渚はものすごく探しにくそうに、うーうー唸りながら左手で右ポケットをごそごそやっている。はっきり言って、不自然でしかもなんだか妙ちくりんな光景だ。なんでそんな探し方してんだろ。
「ええーっ?! ダメですよっ。そんなことしたら……」
「……………………」
「……せっかく手をつないでもらったのに、失礼になっちゃいます……」
……あー、国崎と愛の逃避行やってたからか。納得。
「そんなこと、気にしなくていいのに」
「ダメですっ。失礼になっちゃいますっ」
渚が珍しく、強い調子で(でもいつもとあまり変わらない)反論した。国崎は苦笑いを浮かべながら、
「分かったよ。大丈夫。キミの手は、ずっと離さないでいるよ」
こう言って答えた。
「はいっ。絶対にそうしててくださいねっ。約束ですからねっ」
「うん。約束するよ」
渚はまたいつもの煌くような笑顔に戻って、ポケットをごそごそ探り始めた。しかし、一体何を探しているんだろう。
「あ、あったあった」
そう言って、渚が取り出したものは……
「じゃじゃーん! お財布ですっ」
「財布?」
「そうですよっ。やっぱり神社に来たからには、お賽銭をしなきゃいけないです!」
「そりゃそうね。そいじゃあたしも……」
珍しく、渚がまともなことを言った気がする。確かに神社に来て、お賽銭もせずに帰るのはちょっと無粋だと思った。確か十円くらいならポケットの奥底の方にあったはず……
「あっ、待ってくださいっ」
「どしたの?」
「お賽銭のお金は、みんな渚っちが出しますから」
「えっ?」
「今日は渚っちのわがままで来てもらったのに、お金まで出させちゃ失礼ですからねっ」
「や、別にそんな事気にしてないけど……」
「そうだよ渚ちゃん。お賽銭は、それぞれのお金から出すよ」
「ダメですっ。それじゃ、失礼になっちゃいますっ。お願いですっ。受け取ってくださいっ」
渚が何故か強い調子で言うので、あたしと国崎は互いに顔を見合わせて、
「どーする?」
「……それじゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
「んじゃ、あたしも」
そう言って、渚の前に一本ずつ手を出す。
「たははっ。今日は渚っちのおごりですよっ」
「うーん……こういうのって、おごりって言うのかな……」
「どーでもいいけど渚、左手だけでどーやってその財布を開けるのよ」
「あっ……」
渚の右手は、国崎の左手としっかりつながれたままだ。渚の財布は、どー見ても片手だけで開けられる形はしてない。さて、渚はどうするんだろう。
「うーん……」
「……………………」
「えっと……」
「……………………」
「むむむ……」
「……………………」
たっぷり三分は悩んだ後だった。
「あっ! 渚っち、ナイスアイデアひらめきましたっ」
「む。どうするの?」
「こうするんですっ」
と、あたしに向かってぐいっと財布を突き出す渚。それを見つめるあたし。
「ああ、そういうことね」
「そういうことですよー」
「んじゃ、遠慮なく」
「ふぇ?」
あたしは財布を受け取って……
「もうかっちゃったー」
「わわわ〜! そうじゃないですよ〜!」
そのままポケットに突っ込んでみた。
「渚って太っ腹な子ねー。体は痩せてるけどー」
「う〜……違いますよ〜!」
「いくら入ってるのかなー」
「うう〜……そうじゃないです〜!」
「財布そのものも結構きれいだしー」
「ううう〜……返してください〜……」
「ん。あたしがこれを開けて、みんなの分を出せばいいのね。んで、あとで財布を返す、と」
「うううう〜……そうじゃな……あっ、そうですっ。そうですよっ」
「どっちなのよ」
あーもう最高。渚ったら、あたしがそのまま財布ごと持ってっちゃうって勘違いしてるんだから。いくらあたしでも、そんなひどいことはしないって。するならお金だけ抜き取……いや、何でもない。……冗談だって。
「いくら?」
「えっと、みんな十円でいいです。三つありますから、九十円出してください」
「ん。分かった」
あたしは手の中で小銭をちゃりちゃり言わせながら、十円玉だけを選って取ってゆく。四、五、六……これで九枚。
「そいじゃこれはあたしの分。これは渚、それからこれはあんたね」
「ありがとうございますですっ」
「悪いね」
全員に小銭が行き渡ったところで、渚が先陣を切って、
「それじゃあ、お参りしましょうねっ」
「そうだね。どの順番ですればいいのかな?」
「えっと……最初に右に行って、次に左に行って、最後に真ん中です。これで間違いないですよっ」
「順番みたいなの、あるんだ」
「そうですよっ。これ以外の順番だと、願いがうまく通じないんです」
「そういうものなのかねぇ……」
あたしは渚と国崎の後に従って、まずは右側からお参りすることにした。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
十円玉を賽銭箱に放り込み、柏を打ってから、無心で手を合わせる。たったこれだけのことなのに、なんだかすごく心が落ち着いた気がする。夏の日差しも、今はそんなに気にならない。あ、これは日傘のお陰か。
「これでいいかな」
「はいっ。これで全部ですねっ」
渚はそう言いながら、また国崎としっかり手をつないだ。渚が国崎の手を離したのは、お参りをするほんのわずかな時間だけだった。手をつなぐのって、そんなにいいものなのかね。
「渚ちゃんは、どんなことをお願いしたの?」
「ふふふー。なんだと思います〜?」
「『早くあんなとこやこんなとこが大きくなりますように』じゃないの?」
「たははっ。そうですよって違いますっ! 全然違いますよっ」
渚がぶんぶんと首を振って、全力で否定する。ポニーテールがぶんぶん揺れて、渚の顔にばしばし当たっている。
「あれ? それ以外、あんたがお願いするようなこと、なんかあるの?」
「う〜……ありますよっ。もっとちゃんとしたお願い事ですっ」
「ふーん。どんなの?」
「えっとですねー」
渚は少しはにかんだ表情を見せて、
「えっとですねー」
「……………………」
「えっとですねー」
……さんざん間を置いてから、
「渚っちと愛子さんと国崎さんが、ずっと一緒にいられるように、ってお願いしましたっ」
そう答えた。
「……なるほどね。ま、あんたらしい願いといえば願いだわ」
「いい願いだね。僕もそう思うよ」
国崎が続けて、感想を述べた。
……まー、確かに、渚の気持ちも分からないでは無い。母親が長いこと出張中で、その間ずっと一人だったみたいだから、寂しい気持ちも分かる。あたしと国崎がいると、なんだかんだで結構楽しいしね。
「たははっ。そんなに言われると照れるですー」
「……………………」
……でも、残念だけど、その願いは叶いそうに無いよ。渚。
あたしはいつかここを出て行く身。そりゃあ、今すぐってわけじゃないけど、じゃあずっといるのかっていうと、そーいうわけでもない。またいつかここに来ることはあっても、ずっといることはできない。
それがあたしたちの宿命。誰から教えられたことでもない。生まれつき、「分かってる」こと。
……ま、あれかな。もし渚が……
……あたしの探してる「空の少女」なら……ずっと一緒にいてあげられるんだけど、ね……
「そいじゃ、そろそろ帰りましょっか」
「そうだね」
「そうですねっ」
神社でするべきことはしっかりしたので、渚の家に帰ることにした。行きは上りだったから、帰りは下り。行きに比べたら、帰りはきっとすごく楽――
(ぎゅっ)
……って。
「……どったの渚」
「えっ? どうしたの、って、見ての通りですよっ」
「や、答えになって無いから。なんであたしの手ぇ握ってんのかな?」
あたしが考え事をしていると、渚があたしの右手をぎゅっと握ってきた。もちろん、左手は国崎としっかりつながれたままだ。
「愛子さんとも手をつなぎたかったからですっ」
「……………………」
「……えっと……」
あたしが何も言えずに黙っていると、渚が戸惑ったような表情を浮かべ、
「……ダメ、ですか……?」
……そんな目で見ないでよ。なんかあたしが悪いことしてるみたいじゃない。
「……渚っちと手をつなぐのは、嫌……ですか……?」
うっ……「おねだり殺し」の瞳だ……あたしが女だったから良かったけど、もし男だったら完全にアウトだったわ。まさか渚にこんなテクニックがあったなんて。侮りがたし。
「あの……」
「あたしはまだ何も言ってないじゃない」
(ぐいっ)
「わっ?!」
「ほら、行くわよ」
あたしは渚の手を引いて、ゆっくりと歩き出した。
「い、いいんですかっ?!」
「手ぐらいいくらでもつないであげるわよ。約束してもいいわ」
「あうう〜……うれしいですっ。うれしいですよ〜」
「手ぇつないだぐらいでそんなに喜んでちゃ、この先どーなるか分かんないわよ」
渚を真ん中にして、あたしたち三人は数珠繋ぎに手をつないだ。
「うう〜……誰かと手をつなぐのって、こんなにあったかくて、優しい気持ちになれることだったんですねっ」
「んな大げさな」
「たははっ。それじゃあ、渚っちのお家に向かって、でっぱつしんこう〜!」
「……えっと、『出発』だよね?」
「そーそー」
あたしたちは手をつないだまま、神社を後にした。
「あっ!」
渚が急に立ち止まった。
「ん? どした渚」
「愛子さん、のど渇いてません?」
「んー。どっちかって言うと、渇いてるかな」
「国崎さんはどうですか?」
「僕も同じかな」
「わ、二人ともですねっ。分かりましたっ」
うーむ。この展開だと、渚が何か飲み物を買ってくれるのかな。うんうん。それはありがたいぞ。夏の暑い日に結構長い距離を歩いたわけだし、何か喉を潤すようなものが欲しいのは確かだ。それに、目の前にはちょうど売店
……売店?
はっ!! しまったッ!!
「それじゃあ買ってきますね〜!」
「ちょ、渚! ストップ! 待てぃ!」
あたしは全力で渚にストップをかける。今止めなければ、それこそ世界が終わってしまうんだぐらいの勢いで。いや、実際終わりかけたし。
「ふぇ? どうしたんですか?」
「あのジュースは禁止」
「えーっ?! どうしてですかっ」
「何が何でも禁止」
「う〜……理由になってませんよ〜」
「理由なんかいらないわよっ」
当然だ。あんなジュースを飲まされたら、もう二度とこの世界に戻ってくる自信は無い。あたしにはまだまだやらなきゃいけないこととかやりたいことが山ほどあるってのに、それは絶対にヤだ。
「ねえ神崎さん、『あのジュース』って何?」
「知らない方が身のためよ」
「気になるね。僕はちょっと飲んでみたいかな」
「……それ、本気で言ってんの?!」
「たははっ。決まりですねっ。それじゃあ、買ってきますね〜」
「ちょ……渚ああああああああああああああああーーーーーーーっ!!」
あたしの絶叫が、夏の空に木霊した。
「……………………」
「はい♪ これが愛子さんの分ですっ」
「ということは、僕はこれなのかな」
「そうですよ♪ 遠慮なく飲んでくださいねっ」
あたしに渡される、オレンジ色の劇物。
今からあたしは、これを飲まなければならない。
「……………………」
何この処刑。
「それじゃあ、もらうね」
何も知らない国崎が、ストローを外してそれを紙パックに突き刺し、ストローを口につける。
「……………………」
ああ、もう見ていられないっ……
「……うぐっ?!」
(どさっ)
「わ、国崎さんっ?!」
「……あーめん」
ストローがオレンジ色に染まった瞬間、国崎が垂直にぶっ倒れた。見事なぐらい、垂直にぶっ倒れた。目を回して、完全に意識がぶっ飛んでしまっている。
「国崎さんっ、国崎さんっ!」
「……………………」
「……せめて安らかに眠ってね……国崎……」
あたしは国崎にお悔やみの言葉を掛けて、お供え物としてあのジュースをそっと……
「あ、愛子さんっ。食べ物は粗末にしちゃいけませんっ」
「これのどこが食べ物だっ! 人が一人ぶっ倒れたじゃないっ」
「きっとすごくおいしくて、感動して倒れちゃったんですよ」
「アホかあんたはっ」
渚のペースにとことん飲まれていくあたし。この先、一体どうなっちゃうんだろ。
「うぐぅ……」
妙なうめき声を上げて、国崎が起き上がった。どうやらまだ息が残っていたらしい。良かった良かった。
「あっ! 国崎さんっ。起きたんですねっ」
「……あれ? 白いワンピースを着た茜色の髪の黄色いリボンが目印の小さい女の子は? 夏の青空は? どこまでも広がる緑の大草原は? ハムスター風の奇妙な形のでもかわいい顔をしたヘンな生き物は?」
「たははっ。国崎さん、何言ってるんですか〜」
国崎はどうやら幻覚を見ていたらしい。っつーか、なんつー幻覚だ。
「ここは……」
「さっきの場所よ。あんた、どんな幻覚を見てたのよ」
「……いや、なんでもないよ」
国崎はよろよろと立ち上がり、手に持っていた紙パックを見やると、
「渚ちゃん……これ、キミにあげるよ」
「えっ?! でも、それは……」
「いいんだ。僕からのほんの気持ちさ」
「そいじゃ、あたしからも」
あたしも便乗して紙パックを渡す。今がチャンスだ。
「本当に……いいんですか?」
「いいよ。全部飲んでくれて」
「あたしも構わないわ。いつもお世話になってる、ほんの気持ち程度に」
「……それじゃあ、もらっちゃいますねっ」
渚は(計画通り)二つの紙パックを受け取り、それを抱えながら、
「こんなにたくさん持つのは初めてですー」
「そりゃあ……ねぇ……」
まず自分のにストローを突き刺してから、
「たはは〜」
「……………………」
「……………………」
(ごくごくごくごく)
それを一気に飲み干した。
「う〜……やっぱりおいしいですよっ。本当にいらないんですか?」
「い……いいよ。渚ちゃんが飲んでるのを見るだけで、僕は十分だから」
「お……同じく。渚の飲みっぷりを見てるだけで十分」
「たははっ。それじゃあ、もう開いちゃってる国崎さんのをもらいますねっ」
続けて国崎のを口に入れると、
「たはは〜」
「……………………」
「……………………」
(ごくごくごくごく)
やはり一気に飲み干した。
「うう〜……ほんとにおいしいですっ。飲まなくて良かったんですか?」
「う……うん……」
国崎の表情がすごいことになっている。そりゃそうだ。自分を一撃でノックアウトしたあのジュースを、渚はさもやすやすと、しかも二個も続けて飲んでしまったからだ。これで驚かない人など、いるわけがない。
「たはは〜」
「……………………」
「……………………」
「……神崎さん」
「……どったの」
「……渚ちゃんってさぁ……」
「……うん……」
「……すごいよね」
「……すごいわね」
何がどうすごいのかも分からないまま、あたしたちはその場に立ち尽くすしかなかった。
「愛子さんのは、また今度飲みますねっ」
「あー、好きにしていいから」
帰り道。
「楽しかったですねっ♪」
「まー、悪くはなかったわよ。最後はどうかと思うけど」
「……あそこにいたのは、誰なんだろう……」
国崎が少しおかしくなっていることを除けば、いたって平和な風景だと思う。それにしても、気の毒だ。飲まなきゃ良かったのにって、本気で思う。
「そー言えば渚、海にも行ってみたいって言ってなかった?」
「はいっ! 渚っちは今まで一回も海に行ったことが無いですから、一度行ってみたいんです」
「行ってどーするのよ?」
あたしがそう聞くと、渚はうれしそうに、こう答えた。
「決まってるじゃないですか〜! みんなで水の掛け合いをして遊んだり、砂の上に絵を描いたり、砂に棒を立ててそれを倒さないように砂をすくったり、一緒に紙飛行機を投げたりして遊ぶんですよっ」
「最後の以外は普通ね」
「たははっ。それでも、渚っちは海に行ってみたいです。海に行って、いっぱい遊んで、海に沈む夕暮れを見てみたいです」
「……………………」
「くたくたになるまで走って、びしょびしょになるまで遊んで、また遊ぼうって約束して、いっぱい思い出を作りたいです」
「……………………」
……「海」に行きたいと語る渚の表情は、いつもよりもずっとずっと、輝いて見えた。
……「海」に行くことが、まるで自分の唯一の願いだとでも言うように……
そんな表情を見ていたら、あたしの口から、自然とこんな言葉が出ていた。
「……明日は無理かもしんないけど、海、行こっか」
「えっ?!」
「日帰りで行けるところに、きっとあるよ。海」
「ほ、本当ですかっ?!」
「ま、調べてみなきゃわかんないけどね。でも、あんたの顔見てたら、あたしも海に行きたくなっちゃった」
「いいですねっ! 絶対に行きたいですっ! 本気の本気ですっ! 約束してくださいっ!」
「いいわよ。その代わり、お金は割り勘よ」
「分かってますよっ!」
渚は……とてもうれしそうに、スキップで歩き始めた。
「……こらっ! あたしの手を無理やり引っ張るなっ」
「たはは〜♪」
「……『もう、かえれないんだよ』……とか言ってたような気がするんだけど……」
「とうつき〜」
「えっと……」
「『到着』」
「……だよね」
あの後渚の家にたどり着くまで、あたしたち三人はずっと手をつないだままだった。渚は終始うれしそうな顔をして、スキップ混じりに歩いていた。
「るるる〜♪」
「……………………」
……さて、もう家に着いたんだし、そろそろ手を離してもらおうかな。
「それじゃ渚、そろそろ離してくれない?」
あたしがそう言うと、渚は驚いたような表情を見せた後、ちょっとがっくりしたような表情になって、
「え〜っ? ……離さないとダメですか?」
「またつないであげるから」
「う〜……分かりました……」
しぶしぶ手を離す渚。何もそんなに残念がらなくてもいいと思うんだけどなー。
「う〜……残念です……」
「……………………」
手をつなぐことに何かものすごい思い入れでもあるんだろうか。この子は。
とりあえず手を離してもらい、渚の家へ戻る。
「それじゃあ渚っちはちょっと宿題をしてきますから、ゆっくりしててくださいねー」
「ん。分かった」
渚は家に入るなり、自分の部屋のある(そーいやあの子には自分の部屋があったんだよね。すっかり忘れてた)二階へとてとてと駆けて行った。
「……………………」
「……………………」
あたしはそれを見送ってから、同じくそれを見送っていた国崎に目をやった。
「……そいじゃ、行きましょうか」
「そうだね」
あたしたちは靴を脱いで玄関を上がり、和室へと向かった。
「……………………」
「……………………」
和室で二人、黙ったまま肩だけ並べる。正直、めっちゃ息苦しい。
「……………………」
「……………………」
国崎から聞きたいことは、それこそ山ほどあったが……
「……………………」
「……………………」
こんな状態じゃ、答えてくれるかどうかも怪しい。
「……………………」
「……………………」
……仕方ない。ここは思い切って、あたしから話を切り出してみるか。
「あのさ……」
「あの……」
……どうしてこんな時だけ重なるかなぁ?
「……ごめん。あんたから話していいよ」
「いいよ。僕はレディーファーストが信条だから」
「……うそつき」
「本当だよ」
ちっ。なんだかうまく逃げられた気がするけど……ま、いっか。それじゃあ、こっちから話すまでだ。
「今まで何回も話しようとして、その度になんか邪魔が入ってるけどさ……」
「……………………」
「……結局、あんたは一体誰なの?」
我ながら、曖昧で答えにくい質問だとは思う。でも、それ以外に聞きようが無かった。
国崎が「あの文言」を知っていた理由、「あの文言」を言った理由。あの「本」を持っていた理由。
……あたしに近づいてきた理由。
「……それは……」
「……………………」
「……それは……」
「……………………」
長い長い、長い沈黙を置いた後。
「……信じられないかも知れないけど……それでも、聞いてくれる?」
「……信じられないかも……知れない?」
「……………………」
そう言って、国崎は少しだけ間を置いてから、
「……僕とキミは、同じなんだ」
「……同じ目的を持って、この世に生まれた存在なんだ」
……そう言った。
「……?」
あたしは意味がまったく分からず、怪訝な顔をしてみせる。
「……馬鹿げた話だ、って思うかも知れない。僕自身、こんな話をして、キミにどう思われるか、ちょっと怖い」
「……まぁね。いきなりそんなこと聞かされたんじゃ、あたしもよくわかんないし」
「だろうね。僕も何でこんなこと言ってるのか、分からないよ」
国崎は小さく笑って、それきりまた黙ってしまった。
「……………………」
「……………………」
会話は、そこで途切れてしまった。
「ごめん。ちょっと僕、出掛けてくるから」
「ん。わかった」
それからしばらくして、国崎がどこかに出かけるといって、家を出た。どこに出掛けるかは聞いて無いけど、まあそう遠くには行かないだろう。
「……………………」
渚はまだ勉強しているらしい。部屋から一歩も出てくる気配が無い。
「……………………」
で、残されたのはあたしと……
「うなー」
「やっぱりあんたね……」
……黒猫のネルだけだった。
「あんたとあたしって、きっと似たもの同士なんだね。うん。そう思うわ」
「にゃーん」
あたしはネルを抱きしめて、すりすりしてみた。あー、やっぱりねこだよ。今の時代は猫。これだね。
「うにゃー」
「かわいいかわいい」
こうしてネルを抱きしめてると、なんか難しいことはみんな忘れられそうな気がしてくるから不思議なんだよねー。黒猫なのに目つきがほんわかしてるからかな。
「うにゃーん」
「ん? どした? 何かしてほしいのか?」
「うなー」
「そーかそーか。よし。どうすればいいかな?」
あたしはネルを一度離して、ネルがどんな行動を取るか見守ることにした。
「にゃー」
ネルは一鳴きしてから、部屋をきょろきょろと見回した後、
「おっ、やっぱりそれかー」
「にゃーん」
あたしの手提げ袋に前足をちょこんと置いた。うーん。多分人形だな。人形が動くところが見たいんだろう。
「よーしよしよし。お姉ちゃんが人形で遊んであげよう。ちょっと待っててね」
「にゃーん」
あたしは手をうーんと伸ばして、手提げ袋をこっちに近づけた。それに合わせて、ネルもこっちに近づいてくる。
「えーっと……人形人形……」
「……………………」
手提げ袋をごそごそやって、人形を探す……
……と、その時だった。
「……あっ、これ……」
あたしの目に、一冊の本が目に留まった。
「……そう言や、これのお陰で、あいつがここに来ることになっちゃったんだよね……」
……それは、古びた一冊の本。味気の無い明朝体で、「翼人伝」と書かれた、一冊の本。
「……………………」
あの時感じた猛烈なまでの「読みたい」という感情が、また湧き起こってきた。ネルはあたしのことをじーっと見つめたまま、ただ尻尾を振って黙っている。
「……ごめん、ネル。人形遊びは、また今度ね」
「うなー」
ネルは納得したようにゆっくりとその場を離れて、いつもの場所である国崎のボストンバッグの上に陣取った。何て聞き分けのいい猫なんだろう。親とは大違いだな。
「……さて。どんな本かわかんないけど、読んでみますか」
あたしは手提げ袋の中から本を引きずりだし、掌に載せた。
「……なんじゃこりゃ?!」
最初のページを開いた瞬間、あたしは大きな声かつ素っ頓狂な声でそう言ってしまった。国崎のかばんの上で寝ていたネルが、びっくりしてこっちを見たぐらいだ。
「……一体、何なのよこれは……」
それは……あまりにも常識外れで、今までに見たことの無い「本」だった。もしこの世にこんな「本」がもう一冊でもあったら、あたしは「本」の定義を疑わざるを得ない。世の中にある「本」すべてを疑いの目で見なきゃいけなくなる。
「……これは本当に……『本』なの……?」
あたしは思わずつぶやいた。
「……なんにも書いて無いじゃない……」
……そう付け加えて。
……その「翼人伝」と書かれた本は、タイトルこそちゃんとあったものの、中には何も書かれていなかった。ひたすらにまっさらな……や、ところどころ黄ばんで汚れてるけど、とにかくひたすらに白紙のページだけが続いていた。
……嫌になるぐらい、白紙しかなかった。
不意に国崎の顔が思い出された。すると、なんだか急にむかむかしてきて、
「……あいつ……カマかけやがったなっ」
と、つぶやいてみたのだが、
「……や、カマかけるも何も、あいつがあたしのことを知ってるわけなんかないし……」
そう思い直し、むかむかした気持ちは急にしぼんでいった。
今間違いなく言えることは、国崎から借りた本はまっさらで何も書かれておらず、国崎がどーしてこんな本を持ってたのかもまったく分からない、そしてあたしはとても本とは呼べない「本」を持ってぼけっとしてる。これだけだった。
「……あいつ……一体何考えてんのよ……」
国崎の顔が思い出されて、なんだかもやもやしたものが残った。
「ただいま」
それからしばらくして、国崎が帰ってきた。
「お帰り。どこ行ってたの?」
「ちょっと買い物に、ね」
見ると、その手に小さなビニール袋を提げている。一体、何を買ってきたんだ?
……そんなことより。
「……国崎さぁ、一個聞いてもいい?」
「なんだい?」
「……この本、本じゃないでしょ」
「読んだの?」
「読めなかったのよ」
あたしは迷わず言ってやった。国崎が持っていたあの本は、見た目こそ本だが中身は決して本じゃない。なんでそんなもんを意味ありげに持ってたのか、気になったのだ。
「あぶり出しかなって思って火にもかけてみたけど、何にもなかったわよ」
「そりゃあ、あぶり出しじゃないからね」
「……からかってんの?」
あたしはちょっと怒り気味になって聞いた。あぶり出しじゃないなら、何だって言うのよ。フェイク? 嫌がらせ? それともまた別の何か?
「そうじゃないんだ」
「じゃあ、何だって言うのよ」
「ちょっと貸して」
「……あいよ」
国崎が手を伸ばして来たから、あたしは訝しがりながら本を渡す。
「……………………」
「……………………」
国崎はしばらく黙ったまま、本を開いて読んでいた。……いや、読むって言う表現は違うだろあたし。真っ白なノートを開いて見つめるのは「読む」とは言わない。それは「見る」って言うもんだ。
「……………………」
「……………………」
それから、結構な間を置いた後。あたしがそろそろ二の句を継いでやろうか、そう思ったときだった。
「……葉の話によると、金剛石は高野山・金剛峰……」
「……?!」
国崎が突然、わけの分からないことをつぶやきだした。
「あんた、一体何を……」
「本に書かれてることを読んだだけだよ。ほら」
そう言って国崎は、あたしに本を向けてきた。どーでもいいけど、国崎の額にうっすらと汗が滲んでいる。そんなに暑いのか? 家の中はそーでもないと思うんだけど。
「『葉の話によると、金剛石は高野山・金剛峰』……」
「ほらね? ちゃんと書いてるでしょ?」
「……唾液?」
「違うよ」
……おかしい。あたしが見たときは間違いなく、全ページが真っ白のまっさらだったのに、今国崎があたしに向けているページの一行だけ、ちゃんと文字が出ている。上下が切れてるから、多分文章の途中なんだろうけど。
「悪いけど、僕じゃこれぐらいが限界だ」
「……はぁ?」
「この本を読めるのは、キミしかいないよ」
「どーいう意味よ」
「そのうちわかるよ」
「……………………」
国崎はそう言って、あたしに本を返した。あたしは何一つ理解できないまま、ただ本を受け取ることしかできなかった。
「あんたさぁ……」
「僕かい?」
「……あたし、今どんな気持ちだと思う?」
「そうだね……」
「……………………」
「……言葉にするなら、手で触れそうなぐらい濃いもやもやとした湿っぽいものが、胸の中で渦巻いてる、かな」
「……大当たりよ。さすがね」
あたしはこれ以上このことに触れるのをやめることにした。やればやるほど、無意味に何かを消費して、磨耗して、消耗していくだけだと思ったからだ。
「頼むからさぁ……」
「なんだい?」
「……謎掛けするにも、もうちょっと分かりやすく謎掛けしてくんない? あたし、あんまりここ強くないから」
あたしが頭を指さしながら言うと、国崎は苦笑いを浮かべた。なんだか、あたしも笑いたい気分になった。
それからしばらくして、渚が自分の部屋から出てきた。
「あ、渚。ずっと勉強してたの?」
「そうですよっ。ちょっと量が多くて、時間がかかっちゃいました」
「そっか。そいじゃ、そろそろ晩ご飯の支度しよっか」
「あ、はいっ! 愛子さん、手伝ってくれるんですか?」
「最近手伝えなかったからね。今日は手伝うわ」
「わ、うれしいですっ! それじゃあ、早速行きましょう!」
渚はとてとてと台所に駆けて行った。あたしもそれを見て、ゆっくりと立ち上がる。
「それじゃあ、僕も手伝おうかな」
「あんたはいいわよ。男子厨房に入るべからず、って言うじゃない」
「……でも愛子さん、渚っち昨日、国崎さんに手伝ってもらっ」
「言わなくてもいい事は言わなくてよろしいっ」
「むぎゅ! むぎゅぎゅぎゅぎゅー!」
渚の口を塞いで、あたしはそのまま台所へ渚を持っていった。
「うー……むぁいごあん、いおいえずー(注:うー……愛子さん、ひどいですー)」
渚と一緒に、今日の夕飯の支度をする。献立は、かつおのたたきと野菜炒め、それから、茶碗蒸しだ。
「こういう風にすると、筋にぶつからなくて綺麗に切れるんですよ」
「ほうほう」
「並べる時は、大根のつまを下に敷くと、汁気も吸ってくれるし、見栄えもよくなって一石二鳥です」
「なるほど」
「茶碗蒸しを作るときは、卵を泡立てないように混ぜないとダメなんです」
「泡立てちゃダメ」
「ですから、こんな感じで、『こ』の字を書くみたいに、箸を底に付けたまま混ぜるといいんですよっ」
「この字この字」
渚は前と同じように、懇切丁寧にレシピを教えてくれる。教えてくれた傍から実践できるから、すぐに覚えられる。こーいうことを考える渚は、地味に賢いと思う。
「後は待つだけですねっ」
「そうね。いろいろ教わっちゃって、なんだか悪いわ」
「そんなことないですよっ。渚っちは、誰かに何かを教えることが好きですからっ」
「それならいいんだけどね」
あたしは小さく笑みを浮かべて、そう返した。
不思議な気分だ。
渚と一緒に何かをしていると、なんかすごく穏やかな気分になれる。たまにヘンなことをして、こっちがびっくりしたり怒ったりすることはあるけど、こんな風にちゃんとしたことをしていると、渚といるのがとても心地よく感じられる。
「たははっ」
……ま、この笑顔を見てられるのも、今のうちよね。
あんたはあたしの思い出の中で、結構いいところまで来てるわよ。渚。
「うーむ。あの渚がこんな茶碗蒸しを作るなんて、見た目と技量は一致しないもんだ」
「う〜……愛子さん、地の文に見せかけてひどいこと言ってますっ」
「あ、バレた?」
「バレバレですよっ」
あたし、渚、国崎で囲む、二回目の夕飯。あたしと渚がいつものやりとりをして、それを国崎が微笑みながら見ている。
どーってことない風景だと思う。よくある、夕飯の風景だと思う。
「むー……渚っち、怒っちゃいますよっ」
「そう言えば、渚が怒ったところって見たことないわね。やっぱり顔が青くなったりするのかしら」
「なりませんよっ! 渚っちはちゃんとした人間ですっ」
「あ、ロボットじゃなかったんだ」
「むむむ〜……どーしてロボットになるんですかっ」
でも……
「あはは。冗談冗談」
「もうっ。明日から愛子さんだけ朝ごはんはジャムだけにしますねっ」
「それだけは、それだけは勘弁してください」
「ダメですよ〜。もう決めちゃいましたからねっ」
……結構……
「……そーいえば、渚昨日ジャム切らしてなかったっけ?」
「……はうっ! すっかり忘れてました……」
「それでどーやってあたしの朝ごはんをジャムオンリーにするつもりなのよ」
「うう〜……愛子さんに出し抜かれました……」
……………………
「渚ちゃん、ほっぺたにご飯粒ついてるよ」
「わ、ホントですかっ」
「それも大量に」
「わわわ、取ってくださいよっ」
「嘘だけど」
「うううう〜……愛子さん、いぢわるですっ」
……いいもんなんじゃないかな。
渚とあたし、渚と国崎、国崎とあたし。血のつながりも何にも無いけど、そんなことはどーでもよろしい。一緒にいれば、それでいい。
(……こんなもんなのかねぇ……)
世の中には、血のつながりはあっても心のつながりが欠片も無い関係だってあんのにね。それなら今みたいに、血のつながりはなくても心のつながりがある方が、あたしとしては断然いい。
「渚、おかわりちょうだい」
「あ、はいっ」
……どれだけ強いつながりかは、ちょっと分かんないけどね。
夕飯を済ませた後、順番に風呂に入って(昨日のこと(渚がのぼせたアレ)があったので、今日一番最初に入ったのは国崎だった)、そのままなんとなーく時間を過ごしていると、もう寝る時間になっていた。
「それじゃ、そろそろ寝よっか」
「そうですねっ。渚っちは戸締りをしてきますから、その間にお布団を敷いてて下さい」
「ん。分かった」
あたしと国崎が和室に入り、押入れから布団を出して敷く。
と、国崎があたしに声をかけてきた。
「ねえ神崎さん」
「待った。謎掛けは禁止よ」
「そうじゃないよ。今度は普通の頼みごと」
「それならよし」
「良かった。神崎さん、キミが渚ちゃんから借りてた本、僕に貸してくれない?」
「ああ、あれね。いいわよ。ほい」
あたしは手提げかばんの中から本を取り出し、掛け布団ならぬ掛け毛布を持って立っていた国崎に渡した。
「ありがとう。僕が読み終わったら、渚ちゃんに直接返していい?」
「んー。いいわよ。あたしはもう全部読んじゃったから」
「悪いね」
国崎はそれを受け取ると自分の枕元において、持っていた掛け毛布を敷いた。
「それじゃあ、おやすみなさい、です」
「おやすみ渚ちゃん。それに神崎さん」
「それに、って何よー。あたしがおまけみたいじゃない」
「たははっ。残り物には福がある、って言うじゃないですかっ」
「あたしは残りもんかいっ」
最後の最後まで、馬鹿馬鹿しいのか微笑ましいのか分からないやり取りをした後、あたしはぴたっと瞼を閉じた。
部屋の明かりの残像がゆっくりと薄れていって、だんだんと目を閉じているのか開けているのか分からなくなり、そのまま……
………………
…………
……
(……あ)
眠りかけたあたしの脳に、ちょっとしたことが思い出された。
(……耳栓、買ってない……)
……こりゃ、明日も目覚めは最低だろうな……
(……ま、いっか……)
あたしは眠たくてよく考えられない頭を使って五秒で決断を下し、今度こそそのまま……
………………
…………
……
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
Thanks for reading.
Written by 586