「あさ〜、あさだよ〜。朝ごはん食べて学校行くよ〜」
いつもの眠気を誘う声。目覚まし時計に吹き込まれた、名雪の声だった。その声を合図に、俺の意識が覚醒する。
「……さて。今日も一日頑張って行きますか」
俺はそう呟くと、掛け布団を払い、大きく伸びをした。窓から差し込む日の光が、なんとも言えず気持ちいい。
今日はいつもより暖かいな――ふと、そう思った。最近寒い日が続いていたから、暖かいのは純粋にありがたい。
もうすぐ春が来る。なんとなく、そう感じさせる天気だった。
俺は制服に着替えると、とりあえずは朝の挨拶をすべく、階下へと降りていった。
……すると。
「あ、祐一。おはようっ」
「なんだ名雪。もう起きてたのか」
「うん。なんだか昨日はものすごくぐっすり眠れたんだよ」
「いつもものすごくぐっすり眠ってそうなんだが」
「うー。でも、今日はちゃんと一人で起きれたんだよ」
「出来るんなら、毎日そうして欲しいんだけどな……」
「努力はしてみるよ」
俺は苦笑いを浮かべながら、椅子を引いて座った。
「祐一さん、おはようございます」
「おはようございます、秋子さん」
「朝食はパンで良かったかしら?」
「はい。いつものように頼みます」
「はい。ちょっと待っててくださいね」
秋子さんは微笑みながら、台所へと戻っていった。何事もない朝の風景。名雪がしっかり目を覚ましているから、時間の流れがいつもよりかなり遅く感じられる。時刻はなんとまだ七時十五分だ。余裕はたっぷりある。
「いちご〜いちご〜」
そう言いながら、パンにイチゴジャムを大量に塗りつけていく名雪。明らかにイチゴジャムを使ってパンを食べているのではなく、パンを使ってイチゴジャムを食べている。そんな感じだった。
「お前、本っ当にいちごが好きだな……」
「うん。いちごだからね」
「やっぱり理由になってないぞ」
「いちご〜いちご〜」
名雪は上機嫌だった。そりゃあ、こんなにゆっくり朝食を食べれるなんて、休日でもない限りありえないからな……
「ところで、真琴はどうしたんだ? いつもだったら、この辺で起きてくるはずだろ」
俺はトーストを食べ終えた後、登校前の細かな準備をしている名雪に聞いてみた。
「あっ、そう言えばそうだよね……どうしたんだろ……」
「どうする? 今から起こしに行くか? ……とも思ったが、もう時間ないな……」
「うー……どうしよう。真琴も遅刻しちゃダメだし……」
と、そこに。
「祐一さん、名雪。真琴は私が起こしておきますから、二人は気にせずに学校に行ってください」
「あ、すみません秋子さん」
「お母さん、それじゃあお願いするね」
「はいはい。ちゃんと起こしておきますから、心配しなくても大丈夫よ」
笑顔の秋子さんに見送られ、俺たちは家を後にした。
「今、何分だ?」
「えっと……七時五十二分。この時計、ちょっと早いから、本当はもうちょっと早いはずだよ」
「マジか……今までの最高記録じゃないか?」
「わ、そうだね。ちょっとビックリだよ」
暖かいとは言え、まだ雪が残る道。もう真っ白とは言えない雪をざくざくと踏みしめながら、俺と名雪は学校へと向かう。歩いていけば、二十分ぐらいで着く距離だ。余裕である。
と、そこに。
「名雪、相沢君、おはようっ」
「おはようございますっ」
「よう香里。それに栞」
「あ、おはよう〜」
香里と栞が現れた。そうか。こいつら、いつもこれぐらいの時間に登校してくるんだったな。
「今日はずいぶんと早いわね」
「うん。早く起きれたんだよ」
「相沢君に起こしてもらったの?」
「今日は自力で起きたぞ」
「わ、すごいですねっ。名雪さん、時々すごいことしますね」
「うー。栞ちゃん、密かにひどいこと言ってる」
何でもない朝のやり取り。しかし、こうしてゆっくりとしてられるのも、名雪が早起きをしてくれたお陰だ……いやまあ、あいつがいつもあんな殺人的な眠り方さえしなきゃ、いつもこうやってのんびりできるんだが。
「あっ、祐一さん、名雪さんっ」
「どうしたしおりん。まな板が洗濯板にアップグレードしたか」
「えぅーっ……そんなこと言う人、嫌いですっ。違いますよっ。今日はお弁当を作ってきましたから、一緒に食べようと思ったんですっ」
そう言えば、最近ずっと学食で食ってたからなあ。せっかくだし、ご好意に預かるとしよう。
「ああ、そうだな。場所はどうする?」
「そうね……中庭はどうかしら。あそこなら、スペースは余るほどあるわよ」
「なんだ香里、お前も行くのか」
「行っちゃいけない理由でもある?」
「いや、むしろ来てくれるとものすごく助かる」
「……でしょ?」
「でも栞ちゃん、わたしたちも行っていいのかな?」
「いいんですよー。たくさん作りましたから」
何も知らない名雪が聞く。名雪、全然構わないぞ。むしろどんどん来てくれ。
「そうだわ。北川君も誘ったらどうかしら?」
「北川も? 俺はまったく構わんが、むしろあれだ。お前らはいいのか?」
「いいのよ。四人でも不安なぐらいだし……」
「……だろうな」
「えぅーっ……お姉ちゃんと祐一さん、ひどいこと言ってます。そんなこと言う人……」
『嫌いです』
栞のセリフを奪って俺と香里が言う。おっ。なんか今日は妙に気が合うな。
「えぅーっ……二人ともひどいですっ。極悪ですっ」
「わ、それはわたしのセリフだよ〜」
「そうよ栞。人のセリフを勝手に使うのは良くないわ」
「ぐはぁ」
昨日のことを思い出して、俺が一人で悶絶する。
「さ、あんまりのんびりしてたら遅れるわ。行きましょ」
「そうだな」
「わ、待ってよ〜」
「あ、待ってくださいっ」
先陣を切って走り出す香里を追いかけて、俺、名雪、栞が相次いで走り出した。
「それじゃあ、また昼休みにね」
「はい。中庭で待ってますね」
「うん。必ず行くからね〜」
途中で栞と別れ、俺たちは二階へ上がる。栞は一年なので、一階だ。
「ねえ祐一」
「どうした?」
「わたしたち、本当に行ってもいいのかな? 栞ちゃんの食べる分、なくなっちゃうんじゃないかな?」
「大丈夫よ名雪。逆はあっても、それはないから」
「ああ。香里の言うとおりだ。逆はあっても、それはない」
「う〜ん……よく分からないけど、それじゃあわたしも行くね」
名雪はようやく納得したように、俺の横について歩き出した。そりゃそうだよな。栞がどんな弁当を持ってくるかを知ってるのは、この中じゃ俺と香里ぐらいのものだからな……
そのまま歩き続け、教室へ。中に入ると、北川が先に席に着いて待っていた。俺たちが来たのを見ると、北川は体をこちらに向けた。
「よう、北川」
俺はいつものように、気軽に声をかける。ごく普通の挨拶だ。
……だったんだが。
「……よ、よう。あ、相沢……」
「……どうしたんだ? やけに元気がないみたいだが……」
「……い、いや。大丈夫……だ」
北川の様子がおかしい。明らかに、いつもの北川とは何かが違う。ひょっとして、どこか具合でも悪いのだろうか。
「北川君、おはようっ」
「おはよう〜」
「お……おはよう。美坂に……な……水瀬さん」
「どうしたのよ。朝からそんなんじゃ、一日身が持たないわよ」
「……あ、ああ。分かってる……」
「ほら、もっとしゃきっとしなきゃ。北川君らしくないわよ」
……「な」? 今こいつ、名雪のことを「名雪」って呼ぼうとしてなかったか? いや、別に呼んだ所で俺がどうこうするわけじゃないけど、一体どうしちまったんだ。
「……北川君、どうかしたの? なんか、いつもと雰囲気が違うよ?」
「き……気のせいだって。だ、大丈夫……だ」
北川の妙な様子は続いている。
……気になる。いや、同性の俺から気にされてもうれしくもなんともないのは分かりきっているが、それでも普段からなんだかんだで世話になってるわけだし、そもそもこいつとはいちいち隠し事なんてしない間柄だったはずだ。ちょっと聞いてみるか。
「なあ北川。お前、やっぱどっか悪くしてんじゃないのか?」
「うん。わたしもそう思うよ。今日の北川君、なんだか元気がないよ」
「い……いや。本当に……大丈夫だ……本当……だぞ」
……北川って、こんな口調だったか?
「ほら、本人が大丈夫だって言ってるんだし、もういいじゃない」
「……ま、そうだな。早くいつもの北川に戻ってくれよ」
「北川君に元気がなかったら、わたしたちも元気じゃなくなっちゃうからね」
「あ、ああ……分かってる……ぞ」
香里に促され、俺も名雪もまだ疑問を残しながらも、これ以上北川の事について聞くのを止めた。北川はほっとしたように、机の上に教科書を並べている。
……まさかこの時、あんなことが起きていたなんて、俺は想像にすらしていなかったわけだが……
……いや、あんな出来事、想像する方が難しいと……今でも俺は思う……
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
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