「……お連れしましょう。この街の、願いがかなう場所に……」
夕方の公園で一人、演劇の練習をします。頭の中で情景を思い浮かべながら、その役になりきって台詞を言う。簡単そうに思えて、結構難しいです。
けれど、何度も繰り返して練習しているうちに、だんだんとその役に入り込めてくるような気がします。まだまだ未熟ですが、いつかきっと、もっと上手に役を演じられるようになって、たくさんの人の前で演劇を見せられたらいいと思います。
「今日は、これぐらいにしましょう」
辺りを見回してみると、もうすっかり夕暮れ時です。そろそろ家に帰って、夕食の準備をする時間です。
夕方の公園は少し物寂しくて、お昼に見る風景とはまったく違って見えます。おかしな例えかも知れませんが、何か、まったく別の世界に来てしまったような、そんな寂寥感を感じます。
けれど、夕暮れの公園もまた、公園の一つの顔なのだと思います。朝の公園、お昼の公園、夕方の公園、夜の公園。一つの場所がたくさんの顔を持っているから、その場所はあるのだと思います。
私はそんなことを考えながら、ちょっと早歩きで公園を後にしました。
その、帰り道。商店街を通った時です。
私の前から、学校帰りの女の子が二人、おしゃべりをしながら歩いてきます。
「最近あったかくなってきたねぇ」
「にはは。そうだね」
「もうすぐ春が来るよぉ。春になったら、みんなでどこかにお出かけしようよぉ」
「わ、いいアイデア。わたしも協力するね」
女の子たちは楽しそうにおしゃべりをしながら、私の横を歩いて行きました。
(そう言えば、最近あったかくなってきました)
昨日まではこの上にストールを羽織っていたのですが、今日はもうそれもありません。確かに、あったかくなってきたような気がします。
何気なく街路樹に目を向けてみると、まだまだ数は少ないですが、芽吹きがもう始まっています。日を追うごとに増えてきて、新緑の季節の到来を予感させます。
(春になれば、この辺りはきっと、桜が満開になります)
この辺りの街路樹は、みんな桜の木です。
春になれば、きれいな桜が満開に咲きます。私はそれを見るのが、ちょっと大好きだったりします。
(お花見にも行きたいです)
桜が満開に咲いた商店街を頭に思い浮かべながら、ゆっくりと家に向かって歩いていく……
……その、途中のことでした。
(どんっ)
「わっ?!」
後ろから、何かが当たったような感触がありました。
「わ、わ、わ」
私はよろめいて倒れそうになりながら、どうにか木につかまって、倒れずに済みました。間一髪です。
(あ、危なかったですっ。倒れたら大変なことになるところでしたっ)
あまりに突然のことだったので、びっくりして心臓がばくばく言っています。とりあえず深呼吸をして、ばくばく言っている心臓を落ち着かせます。
(それにしても、一体何が当たったんでしょう……)
びっくりしてすぐには気にならなかったのですが、何かが後ろから当たった事を思い出して、私はそれが何か気になりました。恐る恐る、振り向いてみると……
「う、ぐ……うぐっ……」
「……ど、どうしたんですか?」
「うぐ……うぐぅ……」
小学生ぐらいの女の子が、目を真っ赤にして泣きじゃくっていました。涙で顔がぐじゃぐじゃになっています。
「う……うぐ……うぐぅっ……!」
「え、えと……」
「うぐ……うっ……うぐっ……」
「えと……もしかして、私がぶつかったからでしょうか……」
「うっ……うぐぅ……うっ……」
女の子はただ泣きじゃくるばかりで、どうして泣いているのか全然分かりませんでした。ただ、何かとても悲しいことがあったんだ、というのは、手に取るように分かります。
「えと……どうしたんでしょうか……」
「うっ……うぐっ……」
「そ、その……どうしてか分からないと、私もどうしていいのか分からないです……」
「うぐっ……ううっ……うぐぅっ!」
私がどうしていいのか分からずに慌てている内に、女の子の泣く声を聞いたのか、だんだんと人が集まってきました。
「どうした? この者は何故泣いておるのだ?」
「きっと、何か悲しいことがあったのでございます」
「いや、それは分かるが……理由が想像付かんな」
「あれ……姉妹か?」
「でもそれにしては、顔が似てないような気がしないかしら?」
「えっと……でも、お姉ちゃんと私も、顔立ちは結構違うと思いますよ」
「ふぇ……どうしたんでしょうかねー」
「……きっと、何かあったから……」
「気になります。泣いている理由がとても気にかかります」
なんだか大変なことになってきたので、私はとりあえず、場所を変える事にしました。
「え、えと……ちょっと、こっちに来てください」
「う……うぐぅ……うぐ……」
私は女の子の手を引っ張って、人のいないところまで移動しました。
人のいないところまで来て、ようやく落ち着いて話ができるようになりました。
「何か、悲しいことがあったんですか?」
「う……うぐぅ……うぐ……」
女の子は弱弱しく、首を縦に振りました。
「それは、とても悲しいことなんですか?」
「うぐ……うぐぅ……」
女の子はもう一回、小さく頷きました。
「えと……もし良ければ、お名前を教えてくれませんか?」
「うぐぅ……あ……ゆ……」
「『あゆ』さんですね」
女の子は、「あゆ」さんというお名前でした。
(小さな子なので、もしかしたら親御さんが探しているかも知れません)
それなら、早く会わせてあげないといけません。それなら、苗字も聞いておいた方がいいでしょう。
「えと……苗字は、言えますか?」
「うっ……あ……ゆ……」
「……えと、苗字も……『あゆ』さんなんですか……?」
女の子は、苗字も「あゆ」だと言っています。名前も「あゆ」です。
(となると、本名は……)
ちょっとヘンな本名だと思いましたが、本名は本名です。ヘンに疑ったりしては、失礼になります。
「えと、あゆあゆさん」
本名で呼びかけてみます。
「うぐぅ……あゆあゆじゃないもん……」
「えと……ち、違いましたか……」
「……………………」
あゆさんは少し泣くのをやめて、私のほうを見つめています。
なので私も少し落ち着いて、あゆさんの様子を見てみることにしました。
あゆさんはベージュのダッフルコートを羽織っていて、頭には可愛らしい赤いカチューシャがしてあります。身長はちょっと低めで、痩せ型です。顔立ちはとても整っています。可愛い子だと思います。
(……あれ?)
そして、目に付いたものが一つ。
(天使の羽……でしょうか?)
あゆさんの背中に、見慣れないものが見えました。それはよく見ると、天使の羽のように見えました。
「うぐっ……うぐぅ……」
「え、えっと……あ、あゆさん。とりあえず、落ち着いてください」
「うぐぅ……うぐうぐ……」
私はあゆさんの背中を静かに叩いて、あゆさんが泣きやむまで待ちました。
それから、十分ぐらい経ちました。
あゆさんも少し落ち着いてきて、何とかお話ができそうにはなってきました。
「えと……大丈夫ですか?」
「うん……いきなり泣いたりして、ごめんなさい……」
「気にしないでください。悲しい時は、泣いた方がいいですから」
申し訳無さそうな顔をして、あゆさんが言いました。
「それで、一体どうしたんですか?」
「……………………」
「何か、悲しいことがあったんですか?」
「……………………」
あゆさんは小さく頷いて、返事をしてくれました。
「えっと」
「……………………」
「私でよければ、相談に乗ります」
「えっ……?」
「えと……見ず知らずの人にいきなり言われて、びっくりしたかも知れませんけど……」
「……………………」
「けれど……やっぱり、泣いている人を見過ごすことはできませんから……」
あゆさんはきょとんとした表情で、しばらく私の顔を見ていましたが、
「えっと……」
「はい」
「ボクの話、聞いてくれる……?」
「はい。話して下さい」
「実は……」
ボクはあゆ。月宮あゆっていうんだ。あゆあゆじゃないよ。
それでね、ボクはいつもこの辺りを散歩してるんだ。
「今日も何かいいことあるといいなっ」
そんなことを言いながら、ボクは道を歩いてたんだ。
それで、お昼を過ぎたぐらいになって、
(……くー)
「うぐぅ……お腹が空いたよ〜」
お腹が空いてきちゃったんだ。ずっと歩いてたし、何か食べた方がいいな、って思って、
「そうだ! たい焼き、たい焼き食べに行こうっ。うんっ。それがいいよっ」
ボクの大好きなたい焼きを食べに行くことにしたんだ。
「たい焼きが好きなんですか?」
「うんっ。ボクの一番の大好物だよっ」
あゆさんはたい焼きが大好物みたいです。私もたい焼きは好きです。
「どうしてそんなに好きになったんですか?」
「訳を話すと長くなるんだけど……」
「すごいエピソードがあるんですか?」
「すっごく複雑な話なんだけど……」
「えと……少し気になります。良かったら、聞かせてもらえませんか?」
「うん」
小さく頷いて、あゆさんは深く息を吸い込みました。どんな話を聞かせてもらえるのでしょう。
「えっとね、少し前にボクが悲しい思いをしてるときにね、ボクの大切な人が、たい焼きを食べさせてくれたんだ」
「そうなんですかっ。それで、どうしたんですか?」
「それだけ」
「……え?」
「うん。それだけ」
私はぽかんと口を開けたまま、あゆさんの顔を見つめてしまいました。
「そ、それだけですか……?」
「えっと……本当はもう少しあったんだけど、大筋としてはそれだけだよ」
「……………………」
とりあえず聞いた感想としては、そんなに長いとは思いませんでしたし、分かりやすい話だったと思います。
「ごめんなさい……よく考えてみたら、長くもないし、複雑でも無かったよ〜……」
「あ、気にしないでください」
「で、でも……」
「確かにそんなに長い話じゃありませんでしたけど、それでも、それはあゆさんにとっては大切な記憶ですし、とても、印象に残ったことなんだと思います」
「……………………」
「ですから、私が何か言うことじゃないと思います。あゆさんにはあゆさんなりの思いがありますから」
そうです。
短くて、分かりやすい話でも、その人にとっては、大切で、忘れられないような話なんだと思います。
人には分かってもらえなくても、構わないと思います。
「それで、たい焼きを食べにいったんですか?」
「うん……それでね……」
「たい焼きっ、たい焼きっ」
ボクはたい焼きが食べられると思って、スキップをしながら歩いてたんだ。
それぐらい、ボクはたい焼きが好きなんだ。
「あっ、あったあった。たい焼き屋さんの屋台だよっ」
たい焼き屋さんの屋台は、いつもの場所にあった。ボクはそれを見つけると、早く食べたい一心で、そっちの方向に走っていったんだよ。
屋台にはおじさんがいて、たい焼きをたくさん焼いていた。
「おじさんっ。たい焼きくださいなっ」
「あいよ。五つかい?」
「うんっ。焼きたてでねっ」
「はいはい。嬢ちゃんにはひいきにしてもらってるからね。一番いいのを入れてあげるよ」
「うぐぅ、ありがとっ」
ボクはたい焼きが焼けるのを、まだかなまだかなって待ってたんだ。
「それでね嬢ちゃん。一つ、言わなきゃいけないことがあるんだ」
「えっ?」
「実はねぇ……」
その時、ボクは何か、とても不吉なことを言われる気がしたんだ。
それで、おじさんが言った言葉は……
「今日いっぱいで、たい焼きはおしまいにしようと思うんだ」
おじさんが言うには、もうそろそろあったかくなってきて、たい焼きがあんまり売れなくなってきたんだって……
たい焼きは、そろそろおしまいにしよう、って……
春からはまた、別のものを売ろうって……
「そんな……っ、ボ、ボクが毎日買いに来るよっ」
「いやあ、でも、嬢ちゃんばかりに買ってもらうのも悪いし……」
「だ、大丈夫だよっ。ボクが……ボクが全部買うからっ」
「でも嬢ちゃん、それだと、お金が足りなくなるんじゃないかい?」
「う、うぐぅっ……で、でも……でもでもっ!」
「大丈夫だよ。また冬になったら、たい焼き屋に戻るからさ」
「うっ……うぐっ……うう……」
「ほらほら、泣かないでおくれ。もう一個おまけしてあげるから」
おじさんはそう言って、焼きたてのたい焼きをもう一つ入れてくれたんだ。
「うぐっ……ありがと……うぐぅ……」
「毎度あり。また、次の冬にな」
「うっ……うぐぅ……うっ……」
ボクは泣きながら、たい焼き屋さんの屋台から離れた……
「うぐぅ……これが……最後のたい焼き……」
おじさんにもらったたい焼きを、いつもよりもすっごく時間をかけて食べたんだ。
「うっ……明日から……もう食べられないんだよねっ……うぐっ……」
でも、たい焼きは涙の味がして、どんな味か分からなかったんだ……
「うぐっ……ううっ……たい焼き……」
ボクは最後の一個を口に入れると、明日からもうたい焼きは食べられないんだって思って、どんどん涙があふれてきて、止まらなくなっちゃったんだ……
「うう……うぐっ……うぐぅ……」
「……それで、泣いていたんですね」
「うん……えっと……名前、なんていうんですか?」
「私ですか? えと……はい。古河渚、っていいます」
「渚さん……それでボク、泣きながら歩いてたら、渚さんにぶつかっちゃったんだ……」
「……………………」
あゆさんは俯きながら、訳を話してくれました。
(よっぽど、たい焼きが好きなんですね……)
あゆさんの表情は、暗く深く沈んでいました。
「ごめんなさい……いきなりこんなこと話されても、どうしたらいいのか分かんないよね……」
「あゆさん……」
私はあゆさんの話を聞きながら、あゆさんがどれだけたい焼きが好きで、自分の好きなたい焼きが明日からもう食べられないと知ったあゆさんの気持ちを思って、胸がいっぱいになりました。
「ボクが悪いんだよね……春になったら、たい焼きを食べる人なんかいないもんね……そんな変わった人、ボクぐらいだよね……」
「そんな……」
「ボクが……無理を言ってるんだよねっ……ボクが……わがまま……言って……うっ……うぐっ……うぐぅっ……」
「……………………」
あゆさんは拳を握り締めて、大きくてくりくりとした瞳から、大粒の涙をたくさん流しました。
(あゆさん……)
その姿を見ていると、私まで悲しくなってきて、何とかしてあげたい、という気持ちになりました。あゆさんの気持ちが伝わってきて、痛いぐらいでした。
けれど、たい焼き屋さんのおじさんの言うとおり、たい焼きはそろそろおしまいの季節です。おじさんにも、おじさんの事情があります。だから、無理を言うわけには行きません。
お店でたい焼きを買えば……とも思いましたけど、それもそんなにたくさんあるわけではありません。それに、温めたりするのが大変です。
「たい焼き……ボク……たい焼きがすごく……うぐっ……好きなんだ……」
「はい。それは、すごくよく分かります」
「うぐっ……祐一君がね……ボクの……うっうっ……うぐっ……お母さんが……うぐっ……ううっ……」
「……………………」
「ごめんなさい……こんなこと言ってっ……わがまま言って……渚さんを困らせてっ……うぐっ……ううう……」
あゆさんは泣いていました。あゆさんの言葉の一つ一つから、あゆさんが今どれだけ悲しくて、それをこらえるのに必死かが伝わってきます。
……大好きなものが遠くへ行ってしまう。どうにかしたいけど、どうにもならない。何とかしたいのに、何ともならない……
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「……………………」
……こんなに悲しいことが、あるでしょうか……
「うぐっ……うっうっ……たい焼き……」
「……………………」
……私はこんなに悲しんでいるあゆさんに、何もしてやれないのでしょうか……
「うぐぅ……ううっ……ごめんなさいっ……でもボク……悲しくて……」
「……………………」
……私は何もせずに、ただ悲しむあゆさんを見ていることしかできないのでしょうか……
そうじゃないはずです。
私にもきっと、できることがあるはずです。
どれだけできるかは分かりませんが、やるのとやらないのとでは全然違うと思います。
だったら、できるところまでやってみようと思います。
そう、決心した時でした。
(……あっ)
ふと、一つの光景が脳裏をよぎりました。
(……もしかすると、これならあゆさんも喜んでくれるかも知れません)
その光景から、私は一つ、案を思いつきました。
成功するかどうかは分かりません。ひょっとすると、みんなに迷惑をかけてしまうかもしれません。
けれども、せっかく思いついた案です。やってみないことには、始まりません。
「あゆさん」
「うぐっ……うう……」
「あゆさん、少しだけ話を聞いてください」
「……うん」
あゆさんが話を聞いてくれる状態になったところで、私は言いました。
「あゆさん」
「……………………」
「実はたい焼き屋さん以外にも、たい焼きを食べられるところがあるんです」
「……えっ?!」
私がそう言うと、あゆさんは目をぱちぱちさせて、私の目を見つめました。
「えと……本当は、たい焼きに似たものなんですけど、でも、見た目はちゃんとたい焼きです。味も、たい焼きそっくりだと思います」
「な、渚さん……それ、本当?」
「はい。本当です」
「う、うぐぅぅ……本当に、本当なんだねっ?」
「はい。本当に、本当です」
あゆさんの表情が、みるみるうちに明るくなっていきました。
「渚さんっ! それ、どこ?! ボクはどこへ行けばいいの?! 今からでも間に合う?!」
「えと……今日はもう時間が遅いですから、お店は閉まっちゃってます」
「……そうなんだ……」
「でも、大丈夫です。明日も営業しています。朝一番でも、ちゃんと開いてます」
「本当?! じゃあ、明日になったら食べられるの?!」
「はい。大丈夫です」
暗い影はすっかり消えて、あゆさんは輝くような笑顔を見せてくれました。泣き顔や暗い顔しか見ていなかったのですが、やはり明るい顔が一番似合っていると思いました。
「それで、どこに行けばいいの?」
「えと……紙と鉛筆があればいいんですけど……」
「あっ、それならボクが持ってるよ。ちょっと待ってて」
そう言って、あゆさんは背中に腕を回しました。
すると、私の目の前に、羽のついたリュックが現れました。
「あっ……それ、リュックだったんですか」
「そうだよ。ボクの大切な羽リュックだよっ」
「かわいいです」
「うぐぅ、照れちゃうよ〜」
あゆさんは気恥ずかしそうにしながら、リュックの中をごそごそと探っています。しばらくすると、
「あ、あったあった。はい」
「ありがとうございます。ちょっとだけ待っててください」
ノートの切れ端と、鉛筆を渡してくれました。
「えっと……ここがこうですから……」
私はそれに、ある場所への行き方を記していきます。
「……はい。できました。ここからこう行ってそこを曲がれば、あゆさんの目指している場所に行けます」
「うわぁ……渚さん、本当にありがとうだよっ! ボク、飛び上がっちゃうほどうれしいよっ。今から楽しみだよっ」
「はい。私も楽しみです。あゆさんには早く来てもらいたいと思っています」
「本当に……ボク嬉しいよっ。渚さん、本当にありがとうっ。ボク、元気になったよっ!」
「良かったです。あゆさんは、元気な方が似合ってます」
あゆさんはすっかり元気を取り戻してくれたみたいです。良かったです。
「それじゃ……ボク、そろそろ帰るね。渚さん、本当にありがとう」
「気にしないでください。あゆさんが元気になって、私も嬉しいです」
「うん……渚さん、また会えるといいねっ。ボクはいつも商店街にいるから、見かけたらいつでも呼んでよね」
「はい。またお話しましょう」
最後にそう言って、あゆさんは走っていきました。
(……後は、家に帰ってお願いしてみるだけです)
私はあゆさんを見送ってから、家路を急ぎました。
「ただいまです」
「お帰りなさい。寒くなかったですか?」
「はい。だんだんあったかくなってきたみたいです」
家に帰ると、お母さんが出迎えてくれました。
「お父さんはまだですか?」
「はい。今、余ったパンをご近所さんに配ってくれてます」
チャンスです。お父さんは外に出ていていません。お母さんにお願いするなら、今しかありません。
私は一歩前に出て、お母さんの目を見ました。
「お母さん」
「はい」
「一つ、お願いがあります」
「はい。何ですか?」
「えと……実は……ちょっと、耳を貸してください」
私はお母さんの耳元で、静かにささやきました。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………?」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……という訳なんです」
「そういうことですか……いいですよ。早速、試してみますね」
お母さんはにっこり笑って、私の案を聞いてくれました。良かったです。
「ちょうど、新しいネタを探してたところですから」
「それだったら、ちょうど良かったです」
「はい。それじゃ渚、夕飯の準備をしますから、手伝ってくれますか?」
「あ、はい」
私はお母さんについて、台所へ入りました。
次の日の朝。
「たい焼きっ、たい焼きっ」
ボクはいつもより二時間も早起きして、渚さんに教えてもらった場所へ急いだ。
「う〜っ……やっぱり朝はまだ寒いよね……こういう時は、たい焼きを食べるに限るよっ」
吐く息が真っ白になるぐらいの寒さの中を、ボクはすたすた走る。たい焼きをおいしく食べるために、ちょっとでもお腹を減らしておくため。もちろん、朝ごはんは食べてないよ。
「たい焼きがまた食べられるなんて……ボク、夢みたいだよっ」
ボクはたい焼きの皮の香ばしさと、中の餡の甘さを思い浮かべて、いてもたってもいられなかった。放っておいたら、きっとよだれも垂らしちゃってたに違いない。さすがにそれは良くないから、そんなことのないように気をつける。
「たい焼きっ、たい焼き……うぐぅ、楽しみだよっ」
渚さんにもらった紙を見ながら、ボクはひた走り続けた。
「えっと……ここで合ってる……よね?」
ボクがたどり着いたのは、商店街の外れにある……
「……う、うぐぅ……ほ、本当にここなのかなぁ……?」
……ちょっと小さなお店で、中をよく見てみると……
「ここ……パン屋さん……だよね……?」
……焼き立てのパンが、お店いっぱいに並んでいた。どう見ても、パン屋さんだった。
「……うぐぅ……間違えちゃったのかなぁ……」
ボクは紙を何度も見直してみたけど、間違ってはいなかった。道順通りに来たら、このパン屋さんまで来ちゃう。だからきっと、このパン屋さんが渚さんの教えたかった場所なんだと思う。
(……でも、パン屋さんにたい焼きはない気がするんだけど……)
たい焼きとパン。これを一緒に売ってるお店なんて、そんなにたくさんないと思うんだけど……
(本当にここにたい焼きがあるのかなぁ……?)
ボクはだんだん、不安な気持ちになってきた。何度お店を見ても、やっぱりパン屋さんだったからだ。
そして、その内……
(……もしかしてボク、かつがれちゃったのかな……?)
こんなことを、考えた。
(もしそうだとしたら……ボク、すっごく間抜けだよね……)
だんだんだんだん、ボクの気持ちが変わっていく。
(渚さん……親切そうに見えたけど、もしかしたら……)
だんだんだんだん、ボクの気持ちが暗くなっていく。
(……ボク、本当にたい焼きが食べたかったのに……)
だんだんだんだん、ボクの心が重くなっていく。
(……このまま帰ったほうが、いいかも知れないよね……)
もしこのままボクがお店の中に入って、「たい焼きくださいっ」って言って、お店の人がびっくりして、「ここにたい焼きはないよ」って言われたら、ボクはきっとすごく傷つくだろう。
だったら最初から、このことは無かったことにしたほうがいいのかも知れない。傷つかないうちに、帰ったほうがいいかも知れない。
(……うん。このまま、帰っちゃおう……)
ボクがそのまま後ろを向いて、帰っちゃおうとした時だった。
「あっ! あゆさん、あゆさん!」
「う、うぐぅ?!」
後ろから、聞き覚えの声が聞こえた。
「な、渚さん?!」
「おはようございます。朝早くから来てくれたんですね」
「え、えっと……うん」
「ちょうど良かったです。今なら、一番おいしいのが食べられますよ」
「……えっ?」
渚さんはボクの腕を優しく掴んで、お店の中に案内した。
「こ、これは……!」
ボクはお店に入ってすぐに、見たこともないような「何か」が置いてあるのが見えた。
「た、たい焼き……!」
「えと……正確には、『たい焼き風味の、たい焼きの形をしたパン』ですが……」
「パン……」
ボクはそれを手にとって、感触を確かめてみた。
「すごいよ……触ったときの感触も、たい焼きそっくり……」
「気に入っていただけましたか?」
渚さんは嬉しそうに笑って、ボクのことを見ている。
「えっと……ボク今すごく嬉しいんだけど、渚さん、どうしてボクがこんなに朝早く来るって知ってたの?」
「えっ?! えと……それは……」
「……?」
ボクが渚さんの返事を待っていた、その時だった。
「いらっしゃいませっ。朝早くから、ありがとうございますっ」
「……渚さん?!」
渚さんがもう一人、お店の奥から出てきたんだ。
「渚、この子が昨日言ってた、たい焼きの子ですか?」
「あ……えと、はい」
「えっ? えっえっ?」
ボクだけが全然事情を飲み込めずに、あちこちきょろきょろ見回している。渚さんはちょっと申し訳無さそうに、頭を下げている。
「ね、ねえ渚さん、これ、どういうこと? ボク、全然分からないんだけど……」
「えと……その……」
渚さんはしばらく言葉を詰まらせていたけど、やがてゆっくりと顔を上げて、ボクの目を見た。
「あゆさん、ごめんなさい。本当は、あまり言いたくなかったのですが……」
「えっ……?」
「実は、ここは私のお父さんとお母さんのお店なんです」
「……………………!」
その言葉を聞いて、ボクは頭を固いもので殴られたみたいな衝撃を受けた。
「えと……昨日のあゆさんの様子を見てたら、とてもいたたまれなくなって、それで、お母さんにお願いして、その……」
「な……渚さん……」
渚さんはまた頭を下げて、しょんぼりした表情をした。
「えと……あゆさん、ごめんなさい。あゆさんを騙すつもりはなかったんですが……」
「……………………っ!」
ボクはただ、渚さんのことを見ていることしかできなかった。
渚さんは、ボクのためだけに、お母さんにお願いして、このパンを作ってくれたんだ。
泣いていたボクのために、渚さんはここまでしてくれたんだ。
ボクのわがままのために……渚さんは……ここまでして……
それなのに……
それなのに……ボクは……ボクは……
着いた所がパン屋さんだからって……
嘘を突かれたんじゃないかって……
渚さんのこと……疑って……嘘付いてるって思って……
それで……そのまま帰っちゃおうとして……
ボクは……ボクは……
「うっ……うぐっ……ううっ……」
「あ、あゆさんっ?!」
「うぐっ……ううっ……うぐぅ……」
「え、え、え、えと……わ、私何て言って謝ったらいいのか分かりませんけど、その……ごめんなさい! あゆさんを騙そうとか、かつごうとか、そんなのじゃなかったんです……ただ、その……あゆさんに、元気になってもらいたくて……」
「うぐっ……ち……が……う……」
「……え?」
「渚さん……うぐっ……ボクのために……ここまでしてくれて……ボクが……たくさん迷惑をかけて……うぐぅ……渚さんを困らせて……」
「……………………」
ボクはまた、たくさんの涙を流した。
渚さんの思いが、ボクに痛いぐらい伝わってきたから。
渚さんの優しさが、ボクにはすごくうれしかったから……
……だからボクは、また泣いちゃったんだ……
「……うぐっ……ごめんなさい……ボク……また、渚さんを困らせて……」
「そ、そんな……私こそ、ごめんなさいです……あゆさんに、ちゃんと説明してなくて……」
「うぐぅ……ごめんなさい……」
「私こそ、ごめんなさいです……」
ボクと渚さんが、そうやってお互いに謝りあっていると、
(ぽむっ)
誰かの手が、ボクの頭に載せられた。
「二人とも、もう謝ることはありませんよ」
「お母さん……」
渚さんの、お母さんの手だった。
「お互いの気持ちが伝わったなら、それでもういいんです」
「うぐぅ……」
「渚もあゆちゃんも、どっちも悪くありません。あゆちゃんだって、食べたいものが食べられなかったら、とても悲しくて、泣き出したくなりますよね」
「……………………」
「さっ、焼き立てですよ。冷めないうちに、一つ食べてみてくれませんかっ」
渚さんのお母さんはにっこり笑って、ボクにたい焼きパンを薦めてくれた。
「えっと……いいんですか……?」
「はいっ。ただ今試食サービス中ですからっ」
「それじゃ……ボク、いただきます」
「えと、私もいただきます」
ボクと渚さんはたい焼きパンを手にとって、お互いの目を見つめた。
「あゆさん、食べてみてください。私も食べてみます」
「うん……いただきます」
それから、ほとんど一緒に、パンを口に入れた。
(ぱくっ)
(ぱくっ)
「……………………」
「……………………」
「どうですかっ」
……渚さんの表情が、真顔で硬直してる。
……きっと、ボクも同じような表情で固まってる。
「……ち、ちょっと変わった味ですけど、いいと思いますっ」
「う……うん。ボ、ボクもそう思うよっ」
「本当ですかっ」
とりあえず渚さんがフォローの言葉を言ったので、ボクも何となくそれに合わせて言っておく。
……でも、実際は……
(……ど、どうしてたい焼きなのに、こんなに塩辛いんだろう……?)
……パンはなんだかすごく塩辛くて、全部食べたら涙がどばどば出てきそうなぐらいだった。
「そう言ってもらえてうれしいですっ」
……でも、渚さんのお母さんはすごくうれしそうにしてるから、とても本当のことは言えなかった。
「……………………」
「……………………」
ボクと渚さんは、一口だけ食べて、そのままずっと硬直していた。
でも、その時だった。
「ん? なんだこれ……金魚か?」
若い男の人の声が、店の奥から聞こえてきた。
「こんなモン焼いた覚え……って、なんじゃこりゃあああああっ?!」
「!!」
「!!」
「く……見た目からしてたい焼き風のパンかと思ったら……塩水にでも浸けたのか?! 辛さで危うく向こうに逝っちまうところだったぞ……」
「……………………」
「……………………」
「ったく……パンは釣るもんじゃなくて、焼くもんだっての。これは後で海に返してやんねーとな」
その言葉を聞いた途端、渚さんのお母さんの表情がどんどん曇っていって……
「私のパンは……」
「はわわ、お母さんっ」
「私のパンはっ……」
それから……
「海で一本釣りする物なんですねーっ」
涙をいっぱい流しながら、お店の外へ走って出て行っちゃったんだ……
「……えと……ごめんなさい。多分、お塩とお砂糖を間違えちゃったんだと思います……」
「うん……多分、ボクもそうだと思う……」
後に残ったのは、たくさんのたい焼きパンと、ボクと渚さんだけだった。
「……でも、今度はちゃんと焼きます。そうしたら、きっととてもおいしいパンになると思います」
「渚さん……」
「ですから、今度はちゃんとたい焼きが食べられると思います。その時はまた、食べてくれますか?」
「……うん! ボク、すごく楽しみにしてるよっ!」
今日は、たい焼きは食べられなかった。
でも、ボクはちっとも悲しくなかった。
たい焼きは食べられなかったけど、ちょっと泣いちゃったけど。
でも……
「渚さんっ」
「はい」
「今度冬になったら、ボクが本物のたい焼きをおごるよっ」
「本当ですか? 今から楽しみです」
「うんっ。約束だよっ」
……渚さんと知り合えたから。
……ボクのためにこんなにしてくれた、渚さんと知り合えたから……
……だから……
「えと、たい焼きパンはダメでしたけど、あんパンは大丈夫ですよ。一つ、どうですか?」
「うんっ。ありがとっ」
――たい焼きのない春も、きっと、楽しくなると思う――
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
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