「えっと……三○六だから、こっちだよね?」
「いや待て。そっちの開始番号は三一六だぞ。こっちじゃないか?」
「え〜? でも、案内板だとこっちってなってるよ?」
「……ぐああ……どっちなんだ……」
わたしと祐一は病院の案内板の前で、仲良く迷っている真っ最中だった。
「とりあえずだ名雪、秋子さんの病室は三○六なんだよな?」
「うん。それは間違いないよ」
「よし、とりあえずそのあたりの確認は問題ないな」
「この病院の中、ややこしすぎるよ〜」
案内板を見て、通りがかった看護婦さんに聞いて、病院の中をあちこち歩く。
「あっ……祐一、こっちだよ」
「やれやれ、やっと見つかったな」
目的地の病室は、通路からちょっと離れた場所にあって見つけにくかったけど、なんとか見つけることができた。
「しかし、前にも来たはずなんだけどな……」
「うん。わたしも、こんなに迷うとは思ってなかったよ」
「やれやれ……じゃ、入るか」
「うんっ」
祐一が病室へのドアを開けて、一緒に中に入った。
「あらあら……せっかくのお休みなのに……」
「お休みだから、だよ」
病室に入ると、お母さんが体を起こして待っていた。
「具合、どうかな?」
「大丈夫よ。もうあと少ししたら退院できるって、お医者さんが言ってたから」
「本当?! よかったよ〜」
「秋子さん、良かったですね」
お母さんは顔色も良くて、すっかり元気になったみたい。一時はどうなることかと思ったけど、もう大丈夫。
「でも、わたしお母さんが事故に遭ったって聞いたとき、ホントにもうダメかと思っちゃったよ……」
「そうね……二人には、ずいぶん心配をかけてしまいましたね」
「それでも、今こうして元気でいられてるじゃないですか。それだけでも十分ですよ」
病院の窓から差し込む光が、お母さんとわたし達を照らしていた。
お母さんが事故に遭ったのは、今からちょうど一ヶ月前。
買い物から帰る途中に、トラックに跳ねられた――
――ものすごく突然すぎて、全然訳が分からなくて、ただ、雪のように真っ白になっていく頭の中で、その言葉だけはしっかりと覚えていた。
もう、何もかも終わっちゃったんだ、っていう感覚が、体いっぱいに広がった。
……ここから先は、後になって聞いた話。
お母さんは意識不明のまま病院に運ばれて、三日三晩生死の境を彷徨った。
いつ死んじゃってもおかしくない状態で、たくさんの人が付きっ切りで診てくれたんだって。
その時はお医者さんも「もうダメかも知れない」と思ったって、元気になってから聞かされた。
……でも、四日目の朝。
「今でもあれは、奇跡としか思えないよ」
四日目になって、急にお母さんの状態がよくなって、意識を取り戻した。
何が起きたのかは分からないけど、とにかくそこからお母さんは、お医者さんもびっくりするぐらいの速さで回復していった。
もう一度歩けるかどうか分からないって言われてたのに、今じゃもう病院中を自分の力だけで歩いて、ほとんどのお医者さんや看護婦さんの顔まで覚えちゃったんだって。わたし、びっくりだよ。
「でも、こんなに早く良くなってくれるなんて思ってなかったよ。うれしいけど、びっくりだよ」
「そうですね……あれだけのことがあったんですから、もっと時間がかかると思ってましたよ」
「ええ……私も、こんなに早く良くなるなんて……びっくりです」
お母さんは笑顔を浮かべて、わたしと祐一に言った。
(やっぱり、お母さんの笑顔を見てると、安心するよ……)
わたしはそんなことを考えながら、お母さんがいない間のことを思い出した。
――わたし、もう笑えないよ――
――どんなに頑張っても、もう二度と笑えないよ――
……何もかもが、真っ黒だった。
大切なものが、すごい勢いで壊れていくような感じがして、目を開けているのが辛かった。
怖かった。
……現実を見るのが、嫌だった。
――わたしの前から、みんないなくなっちゃうんだね――
――お父さんも――
――真琴も――
――あゆちゃんも――
――お母さんも――
……同じ頃に、家にいた真琴とあゆちゃんが、揃っていなくなっていた。
せっかく、仲良くなれたと思ったのに……
家族が増えて、家の中がもっともっと明るくなると思っていたのに……
……みんな、わたしを置いて、どこかへ行っちゃう……
――ねえ、祐一もいなくなっちゃうの――
――みんな、どこかへ行っちゃうの――
――わたし、独りぼっちになっちゃうの――
独りになったわたし。広い家の中で、たった独り残されたわたし。
誰も彼もを失って、独りぽつんと残されたわたしを思い浮かべて、何もかもが嫌になった。
……もう、おしまいだと思った……
……でも。
――名雪――
――俺には、奇跡は起こせないけど――
――でも、名雪の側にいることだけはできる――
――約束する――
――名雪が、悲しい時には、俺がなぐさめてやる――
――楽しい時には、一緒に笑ってやる――
――白い雪に覆われる冬も――
――街中に桜の舞う春も――
――静かな夏も――
――目の覚めるような紅葉に囲まれた秋も――
――そして、また、雪が降り始めても――
――俺は、ずっとここにいる――
――もう、どこにも行かない――
――俺は――
――名雪のことが、本当に好きみたいだから――
……それは、間違いだった。
暗くて黒くて悲しい気持ちに沈んでいたわたしを、祐一は引き上げてくれた。
ずっと一緒にいるって、言ってくれた。
……一番言ってほしいこと、祐一は言ってくれた……
それだからだったかな。
さっきも言ったけど、お母さんの容態が、お医者さんもびっくりするぐらい良くなって、意識も取り戻して。
どこかに行っちゃって、もう帰ってこないと思ってた真琴とあゆちゃんも、揃って帰ってきてくれて。
……何もかもが、いい方向に回りだしたのは。
「そう言えば……真琴とあゆちゃんはどうしたんですか?」
「えっと……確か、真琴はどこかに遊びに行くって言ってたよね?」
「ああ。何か、この間知り合った人がいるらしいぞ。探し物を手伝ってくれたとかどうとか言ってたな。何を探してたのかはちょっと分からんが」
「あ、そうだよね。それで、あゆちゃんは……」
「古河の家に行くんじゃなかったか? 新作パンの味見に誘われたって……」
「そうなの……二人ともお友達が増えたみたいで、何よりですね」
お母さんの顔が、ふっと綻んだ。
「二人とも、元気でやっていますか?」
「うん。すっごく元気だよ。ヘンな言い方だけどね、前までとはいい意味で人が違うみたいなんだよ」
「ふふふ……早く元気になって、顔を見せてあげたいですね」
「二人とも喜びますよ。早く帰ってきて欲しいって、毎日のように言ってますから」
わたし達の話を聞いて、お母さんはとってもうれしそうだった。
お母さんは入院してる間何もすることがなかったみたいで、暇つぶしにいろいろなものを見てたんだって。
「この間は、近くの診療所の女医さんを見かけましたよ」
「看護婦さんの見習いの人が入ったみたいで、いろいろと頑張ってましたね」
「全身打撲で入院してらしたお隣の人ととても仲良くなって……確か、家政婦さんだと聞きました」
……お母さんの記憶力は、ちょっとじゃなくてすごくすごい。えっと、なんだかヘンな言い方だけど、すごくすごい。うー、なんだか落ち着かない。すごくすごい……とにかく、すごくすごいんだよっ。
「お母さん、よくそんなことまで覚えてるね」
「何もすることがないと、小さなことまで覚えちゃうものよ」
「……というかその隣の人、全身打撲なのに三日で退院したのか……」
「ええ。何でも薬学に精通してるらしくて、お医者さんも驚いてましたよ」
話をしてるお母さんは、とっても楽しそうだった。
「それと……一つ、こんな話も聞きました」
「どんな話?」
「本当かどうかは分からないんですが……なんでも、この病院にもう二年も入院してる女の子がいるみたいなんですよ」
「二年?! ずいぶん長くないですか? それ……」
「ええ。話を聞いてみたら、なんだかとても悪い状態らしくて、ここに運び込まれてからずっと眠ったままだというんです」
「……ずっと?」
「ええ、ずっと。一度も目を覚まさなくて、毎日お姉さんがお見舞いに来ているとか……」
「……………………」
「……………………」
わたしと祐一は、思わず顔を見合わせた。
「祐一、二年だって……」
「……ああ。二年、らしいな……」
この病院には、二年間もずっと眠り続けている女の子がいる。
(なんだか……ちょっと、可哀想だよ)
その女の子にはお姉さんがいて、毎日お見舞いに来ている。
(……わたしだったら、毎日なんてとても来れないよ……)
……ホントかどうかは分からなかったけど、できればただの作り話で、今はもう退院して、お姉さんと一緒に仲良くしてるといいな、って思った。
「あっ、もうこんな時間……」
時計を見ると、もうすぐ三時になろうとしてた。そろそろ、帰らなきゃ。
「すみません、長居をさせてしまいましたね」
「ううん。お母さんの元気な姿が見れて、良かったよ」
「来週の退院のときに、また来ます」
「ええ、楽しみにしてますね」
最後にそう挨拶して、わたしと祐一は病室を出た。
「お母さん、もうすぐ退院できるんだよね」
「そうだな……本当に良かった」
「うん……やっぱり、お母さんがいなきゃダメだよ」
「……………………」
「みんな揃わないと、やっぱり、ちょっと寂しいよ」
「……ああ。そうだよな……」
そんなことを話しながら、病院の廊下を歩いていたんだけど……
「……ねえ祐一」
「どうした?」
「……ここ、さっきも通ったよね……?」
「……いや、さっき通った時には、消火器はなかった気がするぞ……」
「え〜? わたし、左に消火器があった気がしたんだけど……」
えーっと……なんていうか……
「とりあえず、ここ何階だ?」
「えっと……わ、四階だよ〜」
「何で気がつかない間に上に上がってるんだっ」
「わたしに言われても知らないよっ」
……う〜ん……えっと……
「とりあえず、来た道を戻るぞ」
「うん……」
「……どうした? 不安そうな顔なんかして……」
「わたし達、ちゃんと帰れるよね……?」
「……来れたんだから、帰れるだろ……多分……」
「そうだよね……」
……病院の中で、帰り道が分からなくなっちゃったんだよ……
「とりあえず、下まで降りてみるか」
「うん。それから道を探せばいいよね」
祐一と一緒に階段を降りる。まだお昼だけど、すれ違う人は誰もいない。
こつん、こつんと、靴がリノリウムを叩く音だけが、なんだかとても大きく響いている。
「……あれ?」
「どうした?」
「ここ、二階だよね……?」
「ああ。2Fって書いてあるしな」
「……下り階段、ここで終わってるよ……」
「……マジか」
こんな風に、この病院の構造はおかしなぐらい複雑だった。
お母さんから聞いた話だと、この病院はもう何回も何回も建て増しを繰り返していて、そのたびに別の業者さんが設計して建てたものだから、いろんな場所でちょっとずつ構造が違ってて、病院の人でもちゃんとおぼえてる人は少ないんだって。
「別の下り階段を探そうよ」
「そうだな。一階まで降りられれば、何とかなるだろ」
別の階段を探して、また、病院の廊下を歩き始めた。
「……ねえ祐一」
「どうした名雪」
「わたし、そろそろこの病院が異次元空間につながってるような気がしてきたよ」
「待て名雪、俺の心を読むんじゃないっ」
……お母さんの病室を出てから、多分、三十分ぐらい経った。
それでもまだ、出口が見つからない。この病院、絶対どこかヘンだよ。
……あっ。
「わ……今、わたし祐一と同じこと考えてたんだね」
「そういうことになるな」
祐一と同じことを考えてた。
うん。なんだかこういうのって、すっごくうれしいよね。
「うれしいよ〜。以心伝心だよ〜」
「名雪がそんな難しい言葉を使うとは夢にも思ってなかったぞ」
「……夢でぐらい思ってくれてもいいのに〜」
祐一はこんな調子で、口ではちょっと意地悪だけど、
「とにかく、出口を探すぞ。このままここから出られなかったらシャレにならん」
「うん。とりあえず、もう一度案内板を見てみようよ」
……ホントは優しいことぐらい、わたしにも分かるよ。
「……ねえ祐一」
「どうした名雪」
「わたし、異次元空間から出る方法なんて知らないよ」
「奇遇だな。俺も知らない」
……あれから、さらに二十分。
いくら歩いてみても、どうしても同じところに行き着いてしまって、帰り道が見つからない。
「どうしよう〜……このままだと、二人が先に帰ってきちゃうよ〜」
「そりゃまずい。あの二人、家の鍵持ってなかったんじゃないか?」
「うん……わたしと祐一が最初に帰ってくるって思ってたから、鍵は作ってないよ……」
「まずいな……こりゃ、本気でまずいぞ……」
「う〜ん……どうすればいいのかな……」
全然頼りにならない案内板の前で、二人揃って頭を抱えていた……
……ちょうど、その時。
「どうしたんですか?」
「?」
「?」
綺麗なお姉さん――どこかで見た記憶があるんだけど、ちょっと思い出せない――が、わたしと祐一に声をかけてきた。
そして、次に出た言葉は。
「もしかして、迷ったんですか?」
「えっ?! どうして分かったんですか?」
「くすくす……案内板の前で悩んでたら、誰だって迷ってると思いますよ」
「……確かに」
わたしと祐一の悩みを、ぴたりと言い当てていた。
「すみません……出口、分かりますかね?」
「はい。よくここに来ますから」
お姉さんは笑顔を浮かべて、わたしと祐一に言った。
(……あっ)
お姉さんの手を見ると、そこにはきれいに咲いたガーベラの花があった。
花はまだすごく新しかったから、多分……
「もしかして、今お見舞いに来たんですか?」
「あら、分かりますか? そうですよ。花を取り替えて、声をかけてあげようと思いまして」
「えっと……お見舞いが終わったら、出口まで案内してもらえませんか?」
「あ、わたしもお願いします」
「えっ……? でも、今からでも構いませんよ。道順を教えますから……」
「いや、道順を教えてもらっても、ちゃんと帰れる自信がないんです」
「うん……多分、またここで頭を抱えてるような気がするんです」
「くすくす……そうですか。それなら、お見舞いにお付き合いいただけますか? たくさん人がいたほうが、きっと喜んでくれますから」
お姉さんに言われて、わたしと祐一は後に付いていった。
「誰が入院してるんですか?」
「妹です。風子、っていうんです」
「風子……」
お姉さんには風子ちゃんという妹さんがいて、入院してるのはその風子ちゃんみたい。
「どんな病気なんですか?」
「うーん……病気じゃなくて、怪我をしてるんです」
「怪我……ですか」
「ええ。交通事故に巻き込まれてしまって……」
そう言うお姉さんの表情が、ちょっとだけ曇って見えた。両手に持ったガーベラの花が、小さく頭を下げている。
「そう言えば……お二人は、高校生ですか?」
「あ、はい。二年生です」
「二年生の方ですか……もうすぐ三年になりますから、いろいろと大変ですね」
「そうですねー……大学受験とかもありますし……」
お姉さんはまた微笑んで、病室まで歩いていく。
(こんなにややこしい病院なのに、お姉さん、全然迷ってないよ……)
わたしはそんなことに驚きながら、ただ、祐一と一緒にお姉さんの後ろを付いていった。
「さ、入ってください。一番奥の、窓際のベッドにいますから」
「はい」
お姉さんに案内された病室は、お母さんのいた病室とは違って、それよりもベッドの数の少ない、どちらかと言うと、症状の重い人が入る病室だった。
「久しぶりに私以外の人が来てくれましたから、風子もきっと喜んでくれると思いますよ」
「でも……いきなりわたし達みたいな知らない人が来て、びっくりしないんでしょうか?」
「はい。大丈夫ですよ」
「……………………」
わたしはちょっとためらったけど、お姉さんが本当にうれしそうな顔をしてくれたから、多分大丈夫なんだって思って、静かに風子ちゃんのいるベッドまで歩いていった。
すると……
「わっ……これ、お星さまかな?」
「どう見ても星にしか見えないが……星、だよなぁ……」
ベッドの周りには、たくさんのお星さま……のクッションとか、彫り物とか、時計とか、そんなのがたくさんあった。風子ちゃんのベッドの近くにあるものは、みんなお星さまの形をしていた。
すると、後ろからお姉さんが歩いてきて、こんなことを言った。
「ふふふ……やっぱり、お星さまに見えますよね」
「……えっ?」
「これ、本当はお星さまではないんですよ。何だか分かります?」
「……う〜ん……祐一、分かる?」
「……分からん」
わたしと祐一は、お姉さんと出会ったときみたいに、揃って仲良く頭を捻っていたんだけど……
「くすくす……正解は、ヒトデです」
「ヒトデ?」
「これ……全部ヒトデなんですか?」
「はい。みんなヒトデです」
……お姉さんが、先に答えを言った。
「そう言えば……よく見ると、ちょっとだけ先が丸いですね……これ」
「あ、あと、ちょっとでこぼこしてる」
「分かってくれましたか? 風子はヒトデが大好きなんです」
「……そ、そうなんですか……」
「ヒ、ヒトデですか……」
わたしと祐一は、ヒトデ大好きという風子ちゃんの性格がどういうのかちょっと想像がつかなくて、今日三回目ぐらいの「顔見合わせ」をやっちゃった。
……あっ、そう言えば。
(風子ちゃんのこと、すっかり忘れてたよ〜)
いきなり目に飛び込んできたヒトデにばっちり気を取られてて、風子ちゃんのこと、すっかり忘れてたよ。
(でも、話に入ってこなかったみたいだから、もしかしたら寝てるのかも)
わたしが目線を横にそらして、風子ちゃんの姿を見てみると……
「……………………」
「……………………」
やっぱり、風子ちゃんは目を閉じて眠っていた。
眠っている風子ちゃんは、目がすごく細くなってて、
(なんだか、わたしみたいだよ)
眠っている時のわたし(この前、祐一が写真に撮って見せてくれた。どうしてそんな写真を撮ったのかはちょっと分からないけど)と、なんだかそっくりだった。
耳をよく澄ませると、すーすーと規則正しい寝息が聞こえてきて、見てると、なんだかわたしも眠くなって……
「うにゅ……」
「こらっ名雪。こんなところで寝るなっ」
「くー」
「寝るなと言っておろうにっ」
「さすがに冗談……だ……おー……」
「頼むから分かりにくい反応を返さないでくれ」
……半分ぐらい目を閉じかけて、放っておいたら冗談じゃなくて本当に眠っちゃいそうだった……
「今は昼寝の時間なんですか?」
「えっと……実は……」
「……………………?」
「実は、もう二年ぐらいずっと、こうやって眠ったままなんです」
閉じかけていた目が
思いっきり
ばっと
開いた。
「……えっ?!」
「ごめんなさい。言おうとは思っていたんですけど……」
「……じゃあ、もしかして……」
……もしかして……
「あ、あのっ」
「はい」
「もしかして……病院に二年間ずっと入院してる女の子って……!」
「……はい。多分、風子の事だと思います」
……わたしはその言葉を、上の空で聞いた。
お母さんの話は、作り話なんかじゃなかった。
本当に、今ここに、二年間もずっと眠ったままの女の子がいて。
その女の子には、お姉さんがいて。
お姉さんは、毎日のようにお見舞いに来ていて……
……みんな、本当の話だったんだ。
(……もう二年も……ずっと……眠ったままなんて……)
わたしが呆然としたまま、ふと、お姉さんの方を見てみると、
(きらり)
一瞬、何かが光ったように見えた。
「……………………」
もう一度目を凝らして、光ったと思う場所を見てみた。
すると、そこには……
「……指輪?」
「あら、見えましたか」
「結婚してるんですか?」
「そうですね」
お姉さんはにっこり笑って、右手の薬指にぴったりはまった指輪を見せてくれた。
「でもこれは、婚約指輪の方です」
「……ということは、まだ結婚は……」
「はい……相手の方にも、ずいぶん待ってもらってるんですが……」
「……?」
わたしはお姉さんの言ったことの意味がよく分からなくて、思わず聞き返しちゃった。
「どういうこと……なんですか?」
「はい……婚約をしたのは、もう結構前になるんですが……」
「……………………」
「こうやってずっと眠っている風子を置いたまま、私だけが幸せになってしまうのは……どうも、心が落ち着かなくて……」
お姉さんは静かにそう言って、目を閉じた。
私は
「えっ……? えっえっ……?」
「名雪? どうしたんだ……?」
「お姉さんは……」
頭が
「お姉さんは」
「……………………」
何がなんだか
「ずっと眠っている風子ちゃんのために」
分からなくなって
「もう、婚約もしたのに」
自分でも
「いつ起きるか分からない、風子ちゃんのために」
何を言っているのか
「ずっと、風子ちゃんのことを」
分からなくなって
「起きるまで、待ってるんですか……?」
……………………
「はい。やっぱり、風子にも私の晴れ姿を見てもらいたいですから」
「そ、そんな……で、でも……」
「名雪っ、どうしたんだっ?! 顔色が悪いぞ?!」
「で、でも……お姉さんは……もうずっと待ってて……」
「名雪……」
「そんなの……そんなの……」
その後しばらくのことは、よく覚えていない。
ただ、祐一に支えられて。
お姉さんの心配そうな声が聞こえてきて。
そのまま、そのまま……
……………………
「名雪、起きられるか?」
「大丈夫ですか? ずいぶん、顔色を悪くしてましたけど……」
「……あれ?」
気がつくとわたしは、外にあった椅子で横になっていた。
「わたし、どうしてこんなところに……?」
「実は……あの後、ぱったりと倒れてしまったんですよ」
「えっ?」
「それで、どこかに横にした方がいいと思って……とりあえず、男の子に手伝ってもらって、ここまで……」
「……………………」
そう言えば……
確か……
お姉さんの妹さんの風子ちゃんがいる病室まで行って。
そこで、風子ちゃんのことを知って。
それで、風子ちゃんがもうずっと眠っていることを知って。
それで……
(お姉さんは風子ちゃんのために、ずっと結婚を延ばしているって……)
それを聞いたわたしはショックを受けて。
風子ちゃんのために、幸せをずっと後回しにしているお姉さんにショックを受けて。
それが、すごくかわいそうで。
それが、すごく悲しくて。
今までに感じたことがないぐらい、とてもとても悲しくて……
「すみません……ちょっと、ショックだったみたいですね」
「俺も驚きはしたが……名雪、大丈夫か?」
「うん……もう、大丈夫……だと、思う……」
見てみると、お姉さんが隣にいた。
「……仕方のないことなんです」
「……………………」
「事故に遭ってしまったのは……ひょっとすると、私の責任なのかも知れませんから……」
「……えっ……?!」
「……風子の心には、私の言葉は重すぎたのかも知れませんから……」
お姉さんは寂しげな微笑みを浮かべて、わたしと祐一を見ていた。
「ですから、風子が目を覚ましたら、言ってあげようと思うんです」
「……………………」
「いつでも傍にわたしがいるから、もう、無理はしなくていい、って……」
「……………………」
お姉さんの言葉は……
……とても、重い意味を持っているみたいで……
……深い事情があるみたいで……
……一つ一つに、静かな悲しみと、自責の念がこもっているみたいで……
……ただ、悲しかった。
お姉さんは、わたしと祐一を出口まで案内してくれた。
「私はもうしばらく風子の傍にいますから、先に帰ってください」
「はい。いろいろとすいませんでした」
「いえいえ。もしまた良ければ、風子のお見舞いにも来てあげてください」
「はい。早く良くなるといいですね」
「ありがとうございます。それじゃ、気をつけて帰ってくださいね」
「はい。ありがとうございました」
「……………………」
わたしは結局何も言えないまま、お姉さんに見送られて、病院から出た。
「名雪……まだ、ショックなのか?」
「……………………」
祐一が声をかけてくれたけど、わたしに返す気力はなかった。
(もし……)
そして、こんなことを考えた。
もし、わたしが何かの拍子に、寝ちゃったままずっとずっと起きなかったら。
祐一は、わたしが起きるまで、ずっとずっと待ってるのかな。
ずっとずっと起きなくて、何度朝が来ても、何度夜が来ても、ずっと起きなくて。
眠ったまま、ずっとそのままで。
祐一がどれだけ頑張ってわたしを起こそうとしても、わたしは起きなくて。
すぐ近くにいるのに、声も届かなくて。
……それでも、体は死んでなくて、ちゃんと生きてて……
「……祐一……」
「……どうした?」
「あのね……」
「……………………」
頭の中が、どんどん真っ白になっていく。
こんなことを言ってもどうにもならないのに、言わずにはいられない。
言葉をせき止めるものが、何もない。
思ったこと、感じたことが――
――溢れてくる。
「……もし……」
「もし、わたしがずっと眠ったままで起きなかったら」
「祐一、わたしのことなんて気にしなくていいから」
「わたし、祐一に幸せになってほしいから」
「わたしなんかのために、祐一を不幸にしたくないから」
「他の人と一緒になっても、怒ったりしないから」
「いつまでも起きないわたしを、いつまでも起こそうとしなくてもいいから」
「わたしが眠ったままになったら、もうずっと、眠ったままでいいから」
「祐一には、幸せになってほしいから」
「お姉さんみたいにずっと待っててくれなくても、わたし、怒らないから」
「だから……だから……」
言葉と一緒に、涙が溢れてくる。
止めようとしても、どっちも止まらない。
ただ……言葉と涙が、どんどん溢れてくる……
「……わたし……よく寝ちゃうし……寝起きも悪いから……!」
「……………………」
「だから……もしかしたら……風子ちゃんみたいに……眠ったままになっちゃって……!」
「……………………」
「祐一やお母さんがどんなに呼びかけても……わたしは起きなくて……ずっとずっと眠ったままで……!」
「……………………」
「もしそんなことになったら……わたしのことなんか早く忘れて……ゆうい」
わたしがそこまで言った時。
「……………………」
「……………………」
……何かが、柔らかくて暖かいなにかが。
「……………………」
「……………………」
……わたしの唇に、優しく触れた。
「……………………」
「……………………」
……それから、ゆっくりと離れて。
「それ以上は……言わなくていい」
「祐一……」
「お前の気持ちは……良く分かった。本当に良く分かった」
「……………………」
優しげな視線を、わたしに向けた。
「けどな。俺は今少し、ほんの少しだけ、お前に怒ってる」
「えっ?」
「俺は……お前にはどう見えてるかは分からないけど、俺は一度言ったことは、何が何でも守り通す主義だ」
「……………………」
「俺が何て言ったか……もう一度、よく思い出してみてくれ」
祐一の……言った言葉……
――名雪――
――俺には、奇跡は起こせないけど――
――でも、名雪の側にいることだけはできる――
――約束する――
――名雪が、悲しい時には、俺がなぐさめてやる――
――楽しい時には、一緒に笑ってやる――
――白い雪に覆われる冬も――
――街中に桜の舞う春も――
――静かな夏も――
――目の覚めるような紅葉に囲まれた秋も――
――そして、また、雪が降り始めても――
――俺は、ずっとここにいる――
――もう、どこにも行かない――
――俺は――
――名雪のことが、本当に好きみたいだから――
……ああ、そうだったよ……
……祐一は……約束してくれたんだったよね……
……ずっと……わたしの傍にいてくれるって……
……もう、どこにも行かないって……
……ずっと、ここにいてくれるって……
「名雪……お前の気持ちも分かる。俺だって、同じ立場に立たされたら、きっと同じことを言ってたと思う」
「……うん……」
「……けどな名雪。あの女の人だって、ただかわいそうだから、あの子が起きるまで待ってるわけじゃないと思うぞ」
「……え?」
「女の人は……風子って子に自分の晴れ姿を見せたいから……だから、ああしてずっと待ってるんじゃないのか?」
……そう言えば……そんなことも、言ってた気がする……
「お前を散々待たせた俺が言っても説得力がないかもしれないけどな……やっぱり、待つにはそれだけの理由があるんじゃないかと、俺は思うぞ」
「……………………」
祐一に言われて、初めて気付いた。
(そう言えば……わたしも、「いつかまた祐一に会えるから」って信じて、ずっと待ってたんだよね……)
待つことは、とても大変で辛いこと。
ただ、「かわいそう」というだけじゃ、絶対に待てない。
待った先に、何かとてもうれしいことがあるから。
そのうれしいことを信じるから、人は「待てる」んだって……
「……祐一、一つ……言ってもいいかな……」
「ああ。言ってみろ」
「……ありがとう」
「俺はただ、俺の思ったことを言っただけだ。それを……お前が、ちゃんと汲み取ってくれたんだ」
「祐一が思ったことを言ってくれるのが、わたしには一番うれしいよ」
「よし分かった。じゃあ、俺の思ったことを率直に言ってやろう」
「うん。聞かせてよ」
「とりあえず、涙で顔がぐしゃぐしゃになってるぞ」
「……祐一、この雰囲気を壊しちゃダメだよ」
「俺はただ、俺の思ったことを言っただけだぞ」
「うー」
わたしは祐一に支えられて、また歩き出すことができた。
悲しみに飲み込まれそうだったけど、でも……
「風子ちゃん、早く起きてくれるといいよね」
「そうだな。また、お見舞いに行ってみようか」
「うんっ」
「何気に可愛い顔をしてたしな」
「それは関係ないよっ」
「俺はただ、俺の思ったことを」
「もう言わなくていいよっ」
……祐一となら、ずっと一緒に歩いていけるよ……
……そうだよね? 祐一……
……病院からの帰り道の途中。
(たったかたったか)
後ろから、誰かが走ってきた。
「祐一君っ! 名雪さんっ!」
声をかけられて、振り向いてみると……
「わ、あゆちゃん! ちょうど良かったよ〜」
あゆちゃんとばったり出会った。良かった。締め出されてたら、寒くて大変だったもんね。
「お前、ずいぶん遅くまで古河のところにいたんだな……」
「うんっ。途中でね、すっごく綺麗な女の人が遊びに来たんだよっ」
「女の人? どんな人?」
「えっと……身長はボクよりもずっと高くて、髪もボクよりもずっと長かったよ」
「そりゃあ、いくらなんでも条件が緩すぎるぞ。名雪だって身長も髪もお前以上だし」
「うぐぅ……ホントにそうだったんだもんっ」
あゆちゃんは遊びに行った先で誰かに出会ったって言ってるけど……誰のことなんだろう?
「それでねそれでね、ボク、みんなにおみやげをもらってきたんだよっ」
「わ、何かな?」
「えっと……渚さんにはパンをたくさんもらって、その女の人からは……」
「その人もおみやげをくれたのか?」
「そうだよ」
「おみやげと銘打った新手の食い逃げか……何気に策士だな」
「違うよっ。食べるものじゃないよっ。とりあえず、これ見てよ」
羽のついたリュックを下ろして、ファスナーを開けて、あゆちゃんが取り出したもの……
それは……
「……木彫りの……」
「……ヒトデ……?」
「そうだよ。お姉さんがボクにくれるって言ってくれたんだ」
「それで……どうして、こんなにたくさんあるの?」
「えっと……これ、すっごく可愛いから、もっとたくさん欲しいって言ったら、お姉さん、ちょっと喜んでくれて、ボクと秋子さんと祐一君と名雪さんと真琴ちゃんの分、みんなくれたんだよ」
「……なんという気前の良さだ……」
……木彫りの、ヒトデだった。
「これ、すっごく良くできてるよねっ。ボク、宝物にしちゃいそうだよっ」
「……………………」
「……………………」
わたしは、あゆちゃんがくれたヒトデを見ながら、すごく不思議な気分になっていた。
(そう言えば……風子ちゃんも、ヒトデが大好きだったよね……)
偶然……だよね。
風子ちゃんは病院で眠ってるんだし、あゆちゃんが出会ったのは、髪の長いお姉さんみたいだし。
……でも、よくできた偶然だよね……
「あっ! そうそう、一つね、お姉さんからお願いされたんだよっ」
「お願い?」
「うん。聞いてもらえるかな?」
「うん。言ってみてよ」
「えっとね……」
「『このヒトデを作ってる人のお姉さんがもうすぐ結婚するから、みんなで一緒にお祝いしてあげてください』」
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
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