残暑の厳しい九月。わたしはいつものようにジュースを買おうと思って、自動販売機を探しているところだった。
「えっと……確か、この辺りにあったはずなんだけど……」
わたしが飲んでいるジュースはすごくおいしいんだけど、なぜか売っているところがものすごく少ない。だからジュースを買う時も、探すところから始めなきゃいけない。すっごく大変。
「これかな……あれ? 違う違う……」
自動販売機で売っているものはしょっちゅう変わっちゃうから、わたしの好きなジュースをちゃんと帰る自動販売機を覚えてなきゃいけない。この前はここの自動販売機でも買えたんだけど、今日はもう売ってなかった。観鈴ちん、しょっく。
「向こうのを見てみようっと」
売ってなかったときは、場所を変えてもう一回。数は少ないけど、この町のどこかには必ず売ってるはずだから、諦めずに探す。探すのは大変だけど、見つかった時はすっごくうれしい。うれしい気持ちで、おいしいジュースが飲める。これぞ、一石二鳥っ。
「……………………」
商店街を抜けて、観鈴ちんの家に繋がる道を歩いてみる。この通りには「武田商店」さんっていうお店があって、そこの前にも自動販売機があったはず。あの自動販売機はちょっとすごくて、他では売っていないような味のジュースもあったりする。例えば……
「どろり濃厚、ピーチ味……」
……そう。そんな味のジュースも売ってたっけ。
「……………………」
懐かしい感じがする。ほんの少し前のことなのに、それはきれいな思い出になっていて、一つ一つの姿がとても曖昧になっている。思い出そうとすれば、ちゃんと思い出すことはできる。でも、それはなんだか「夢」のようで、なんとなく現実味が無い。
「……………………」
どろり濃厚ピーチ味。結局、最後まで飲んでくれなかったっけ……すっごくおいしいのに、どうしてかな? 飲めたものじゃない、って言ってたけど、そうかな? 飲んでみたら、きっとおいしいことが分かると思うんだけどな……。
「今、どこで何してるのかな……?」
ふと空を見上げて、そんなことを呟いてみる。わたしの言葉は空へと吸い込まれて、ゆるく吹いている風に流されていく。その行く先はどこなのか、誰にも分からない。
風みたいな人だった、と言えばいいのかな。ふらっと現れて、ぴゅーっといろいろなものをかき回していって、それから……どこへともなく消えちゃった。やっぱり、風みたいな人だと思う。ぶっきらぼうなところとか、本当に風みたいだと思う。
「ちゃんと、ご飯食べてるかな……」
それがすごく心配だった。ラーメンセットが大好きで、何かあるとラーメンセット作ってくれー、って言ってたっけ。野菜も食べないとダメだよって言ったけど、結局あんまり食べなかった気がする。やっぱり今もどこかで、ラーメンセットを食べてたりするのかな。
「……………………」
ここで待っていたら、いつかまた風みたいに、ふらっと戻ってきてくれたりするのかな? それとも、もうここには来てくれないかな? もしそうだったら……ちょっと寂しいな。
「……ジュース、買おうっと」
考えてても仕方ない。とりあえず、お目当てのジュースを買おう。あの自動販売機なら絶対に売っているから、安心して買いに行ける。ジュースを買ったら、堤防で飲んじゃおう。にははっ、今から楽しみ。
「あ、あったあった」
自動販売機、発見っ。いつもの場所でいつものように、それはそこに立っている。ここには色々な味のジュースが売ってるから、買うときはいつも迷っちゃう。でも……
(今日は、ピーチ味)
……懐かしいことを思い出したから、今日はピーチ味にしよう。きっと、まだここで買えるはず。
「お金っ、お金っ……」
ポケットからお財布を出して、小銭をちゃりちゃり。百円玉と……十円玉を二枚。わ、もうこんなに少なくなっちゃってる……今月も、お小遣いがぴんちみたい。やっぱり、ちょっと節約しないとダメかな。そんなに使った記憶も無いんだけどな……
でも、今はジュースが先。お財布をポケットに仕舞うと、わたしはすぐに自販機の前まで歩いていく。それからいつもやってるみたいに、小銭を入れ――
(がちゃんっ)
――ようとした瞬間、隣から伸びてきた小銭とわたしの小銭とがぶつかって、小さな音を立てた。
「……?!」
わたしはびっくりして、隣にいる誰かさんに目を向けてみる。
「……ごめんなさい。先にどうぞ」
「さっ……里村……さん……?」
隣にいたのは、クラスメートの里村さん。えっと……確か、里村茜さん、だっけ……? いつもわたしからはちょっと離れた席で、静かに過ごしていることが多い人。髪の毛がすごく長くて三つ編みにしてるけど、それでもびっくりするくらい長い。観鈴ちん、びっくり。
「え、えっと……」
「……………………」
それはいいんだけど、えっと……なんて言えばいいのかな。すっごく簡単に言うと、わたしは里村さんと話したことが一度もなくて、どんな人なのか全然知らない。とりあえず、補習で見たことは無いから、多分勉強はすごくよくできるんだと思う。アホちんの観鈴ちんから見たら、雲の上みたいな人。
「……………………」
「……………………」
ほ、他には……ど、どうしよう……本当にそれくらいしか思い出せない。どんなことが好きだったかとか、いつもどんなことを話してるかとか、全然聞いたことない。いつも何をしてるんだろう……? 何か、好きなものとかあるのかな……? 恐竜さんは……なんとなく、あんまり好きじゃない気がする……
「……どうしました?」
「あっ、え、えっと……」
と、とにかく何か言わなきゃ。このまま黙ってたら、里村さん、きっと怒っちゃう。
「お、お先にどうぞっ」
「……いいんですか?」
「う、うんっ。みす……わ、わたし、後でいいですっ」
「……………………」
い、いけないいけない……今一瞬「観鈴ちん」って言いそうになっちゃった……慌てて言い直したけど、ヘンに思わなかったかな……ちょっと心配。
「それなら……お先に失礼します」
「あ、はいっ」
里村さんはそう言って、小銭を自動販売機の投入口に入れた。
(お、怒ったりしてないかな……)
里村さんはいつも無口で、なんだかちょっと怒っているようにも見えることがある。おっちょこちょいなわたしが側にいて、怒ったりしないかな……。わたしも里村さんみたいに、一人でてきぱきできればいいんだけどな……
「……………………」
「……………………」
ずっと見つめているのは失礼だと思ったから、わたしはちょっと目線を逸らして、堤防沿いの海を見つめた。海は今日もちっとも変わりなくて、寄せては返す波の音だけが聞こえてくる。たまに海鳥の声も聞こえてきたりするけど、変わりが無いことに変わりは無い。
(そういえば、この辺りだったかなぁ……)
そうして堤防と海を見ていると、やっぱり思い出してくる。最初に出会った日は、もっともっと暑い日だった。夏休みが始まるほんの少し前の、ちょっとした出来事。
(ここよりももう少し行ったところで、お昼寝してたんだっけ)
蘇ってくる光景。そう、確かそうだった。初めて出会ったときは、ここでお昼寝をしていた。わたしがジュースをあげると、それを少しだけ飲んで、そのまま握りつぶしちゃったんだっけ……もったいなかったな。あんなにおいしいのに、どうして握りつぶしちゃったりしたんだろう。
(ピーチ味が苦手なのかなぁ……)
もしかしたら、他の味なら飲んでくれるかもしれない。味の種類はいろいろある。チョコ味とか、バナナ味とか、イチゴ味とか、カルピス味とか。あっ……そういえば、髪の毛の色が白かったから、もしかしたらカルピス味は好きかも。今度ジュースを飲むときは、カルピス味を買ってあげようっと。うん。観鈴ちん、ナイスアイデア。
「……………………」
……また、一緒にジュースが飲めたらいいな……
(……………………)
わたしが、ぼーっとそんなことを考えていると。
「……買いました。神尾さん、どうぞ」
「えっ?! あっ、うんっ。そ、それじゃあ……」
里村さんが買い終わったことを知らせてくれて、わたしは慌てて小銭を持ち直す……
(ちゃりりりりぃーん)
……そうしようとした瞬間に、びっくりするくらい大きな音が聞こえた。
「わっ、わっ……」
……がお……慌てすぎて、小銭を落としちゃった……百円玉と十円玉がころころ転がって、地面に散らばっちゃう。どうしてこんなにおっちょこちょいなのかなぁ……
「大丈夫ですか?」
「が、がお……なかなか拾えない……」
「……………………」
わたしがまごまごしていると、里村さんが隣でしゃがみこんで、散らばった小銭に手を伸ばした。
「……………………」
「え、えっと……」
「……どうぞ」
里村さんはしゃきしゃきっと小銭を集めてしまうと、わたしにそっと差し出してくれた。
「あ……はい。ど、どうもありがとうございます」
「……いえ」
ちょっと戸惑ったけれど、わたしはそれを受け取った。うーん……なんだか、思ってたのとちょっと違うような気がする……ひょっとしたら、怒られちゃうんじゃないかと思ったけど……
「神尾さんも、どうぞ」
「あ……うん」
自販機にお金を入れて、ジュースを選ぶ。
「えっと……あっ、あったあった」
買うのはやっぱり、どろり濃厚ピーチ味。他の味も好きだけど、わたしはやっぱり、これが一番大好き。
がしゃんという音が聞こえて、自販機からジュースが出てくる。それを手に取ってから、なんとなく、隣に経っている里村さんに目を向けてみる……
「えっ……?!」
「あっ……」
「え、えっと……」
「……………………」
……すると、里村さんの手には。
「……神尾さんも、このジュースが好きなんですか?」
……どろり濃厚、ピーチ味。
「さ、里村さんも……?」
「……はい。とても好きです。本当は別の味が一番好きなんですが、売り切れだったので……」
「そうなんだ……」
わたしと里村さんが、同じジュースを手に持ってる。今まで全然関係ないと思ってたのに、同じジュースが好きっていう共通点ができた。なんだか、ちょっとうれしい。
「このジュース、おいしいよね」
「はい。おいしいと思います……けれども、段々と数が少なくなってきています」
「うん……わたしもずいぶん探したけど、やっぱりここにしかなかった……」
手に持ったジュースを抱きしめながら、わたしと里村さんが見合う。こうして見てみると、里村さんってそんなに怖い人じゃない気がする。わたしよりもずっと大人っぽいけど、でも、怖い人じゃない気がする。
「えっと……」
「……はい」
……もしかしたら。
(……もしかしたら……)
……怖い人じゃなくて、優しい人かもしれない。
……もしかしたら。
(……あの時みたいに……)
……あの時みたいに、何かが起きるかもしれない。
(頑張ってみよう……)
今のわたしなら、あの時と同じくらい、頑張れる気がする。
「いっ……」
「い……?」
一瞬言葉が詰まる。頭のどこかで「やめた方がいい」って声が聞こえる。確かに、止めた方がいいかもしれない。今まで、ずっとそうだったから。
(でも……)
でも……やめたら、またここでおしまい。最初から、やりなおしになっちゃう。
「えっと……」
「……………………」
もう少し、もう少し。もうあと少しで、何かが起きる気がするから。
(……観鈴ちん、ふぁいとっ)
……頑張ってみよう。今なら、きっと頑張れるから。
「いっ……」
「……………………」
「一緒に……ジュース、飲みませんかっ?」
「……いい風の吹く場所ですね」
「う、うん……気に入ってもらえたかな……?」
わたしは今、里村さんと堤防に腰掛けて、一緒にジュースを飲んでいる。海から吹いてくる潮風が、里村さんの長い髪を揺らしている。すごく綺麗な髪だった。
「神尾さんは、いつも一人でここにいるんですか?」
「うん。ここ、わたしのお気に入りの場所。ジュースを買ってすぐに来れるし、海がすっごくよく見えるから」
「……そうですね」
一緒に海を眺める。こうしていると、なんだか気分が落ち着いてくる。さっきまでの緊張が、ちょっとずつほぐれていく気がした。
「里村さんは海を見るの、好きかな?」
「……はい。この町の海は静かで……心が落ち着きます」
小さな海鳥が、海原を静かに飛んでいく。その姿を、わたしと里村さんが眺めている。誰かと一緒にこの風景を見られるなんて、なんだか夢みたい。
(でも……)
わたしは、ふと思う。
(夢は夢でも、すごく楽しい夢だよね)
今この瞬間が夢だったとしても、わたしは多分、すごく楽しい気持ちで目覚められると思う。こんなに楽しい夢は、今までに見たことがなかったから。
「……………………」
「……………………」
時間がゆっくり過ぎていく。里村さんはまだ、わたしの隣にいてくれている。両手でジュースを丁寧に抱えて、時折髪を直しているのが見える。
(あんなに長かったら、お手入れもきっと大変)
わたしが、ふとそんなことを考えた時だった。
「……神尾さん」
「えっ? あっ……うん。どうしたのかな?」
不意に声をかけられて、わたしは慌てて顔を起こした。里村さんは穏やかな表情をわたしに向けて、一言、こう呟いた。
「その……」
「……?」
あっけに取られているわたしに、里村さんは、こう続けた。
「……とても、可愛い恐竜さんですね」
思ってもいなかった一言に、わたしはびっくりしてしまう。
「えっ……? ほ、本当に……?」
「はい。造型もよくて、瞳も愛くるしい……素敵だと思います」
「里村さん、こういうの、好きなのかな?」
「……大好きです」
「にはは……うん。わたしもこのキーホルダー、大好き」
観鈴ちん、さらにびっくり。里村さんは、わたしの恐竜さんのキーホルダーを「大好き」だと言ってくれた。今までそんなことを言ってくれた人は、他に誰もいなかった。だから、わたしすごくびっくり。
「どこで買ったんですか?」
「えっと……これはね、お母さんがプレゼントしてくれたものなの」
「プレゼント?」
「うん。小学校の入学祝いにって、どこかで買ってきてくれたの」
「……そうですか……」
「うん……だからね、これはお母さんからもらった、大切なキーホルダー」
「……………………」
キーホルダーを手にとって、これをもらったときの事を思い出してみる。それだけに留まらずに、このキーホルダーと一緒に過ごした、今までのことも思い出してみる。
(……………………)
わたしの側にはいつも、このキーホルダーがあった。
「小学校の時も、中学校の時も、今も……ずっと、このキーホルダーと一緒」
「そんなに……大切にしているんですか」
「うん。今までも、それから、これからも……大切にしていきたいな」
「……はい。大切にしてあげてください」
わたしに言った時里村さんの顔に、かすかに笑みがこぼれるのが見えた。
「にははっ……うんっ」
精一杯の笑顔で、返事をして見せた。
それから、少し経ってからのことだった。
「……神尾さん」
「どうしたのかな?」
また声をかけられて、私は里村さんの方に視線を向ける。里村さんは小さく目を伏せて、ゆっくり口を開いた。
「いくつか、訊いてもいいでしょうか」
「うん。何か、気になることがあるの?」
「はい……」
語尾をかすかに曇らせながら、里村さんは続けた。
「夏休みの時……」
「……神尾さんと一緒にいた男の人は、誰ですか?」
「えっ……?」
思いもよらなかった質問に、一瞬言葉が詰まった。里村さんの口から、こういうことを訊かれるとは思っていなかったから。
「何度か……見かけたんです」
「……………………」
「神尾さんと男の人が、この町を一緒に歩いているのを……」
「……………………」
「けれども、夏休みが終わってから……あの人の姿を見ていません」
「里村さん……」
「あの人は……誰だったんですか?」
静かに問いかける里村さんの姿を見て、わたしは……質問にどう答えたらいいのか、分からなくなった。里村さんが――わたしの夏休みのことを知っていたなんて、思ってもみなかったから。
「もう一つ……訊いてもいいでしょうか」
さらに続けて、里村さんが言う。
「……病気はもう、治ったんですか?」
「え……? 病気……?」
「夏休みに……車椅子に乗った、神尾さんの姿を見ました」
里村さんが言っているのは……わたしが少し前、体の調子を悪くして、それで……歩けなくなって、車椅子に乗っていたときのことだ。はっきりとは覚えてないけど、でも、そんなことがあったことは覚えてる。
「どこか、体の具合を悪くされていたんですか?」
「……………………」
わたしの脳裏に、あの夏の記憶がよみがえってくる。だんだん時間を遡っていって、おぼろげだった部分もはっきりしてきて、少しずつ、形を成していく……
(あの夏……)
……そして、わたしの記憶は。
(……往人、さん……)
一番最初のところまで、辿り着いた。
「……あのね、里村さん」
「……はい」
「わたしがヘンな子だって噂、聞いたこと無いかな?」
「……………………」
里村さんは応えない。けれども、その顔からは、似たような話を聞いたことがある、というような雰囲気が伝わってきた。多分、わたしのことを思って、口に出してはっきりとは言わないんだと思う。だからわたしは、そのまま話を続けることにした。
「友達がいなくて、誰かが声をかけても、すぐにどこかへ行っちゃう」
「いつも一人ぼっちで、教室の端っこに座ってる」
「そういう、ヘンな子だっていう噂」
遠くの海を眺める。青い海と青い空。限りなく遠くを見詰めると、それはいつしか、一つに交わっているように見えてくる。そんな風景を目に写しながら、わたしは話を続ける。
「小さい頃から、ずっとそうだったの」
「誰とも一緒に遊ばずに、一人っきりで遊んでた」
「……すごく、寂しかった」
よみがえって来る記憶は、いつも一人っきりの自分。どんな時期の、どんな季節の、どんな場所の記憶も……わたしの隣は、いつも空いていた。その隣に誰かが入ってくれることを、ずっと夢見ていた。
「わたしね、小さい頃からヘンな病気だったの」
「誰かと仲良くしようとすると、癇癪みたいなのを起こして、どうしてもうまくいかない」
「急に悲しい気持ちで一杯になって……わーっ、って、泣き出しちゃうの」
わたしも、頑張ろうとしたことはあった。お友達を作るために、できることはみんなやってみた。でも、それはみんなうまくいかなかった。最後には必ず、泣いているわたしだけが残った。他には何も残らずに、ただ、それだけが。
「そんなことがあったから……わたし、もう諦めてたの」
「これからはずっと一人でいるんだって、そう考えてた」
「もう、誰かと仲良くしようとするのはやめよう、って」
最初からできないことなら、もう、しようとしない方がいい。わたしは、そう思っていた。無理なことは無理なんだって、諦める方がいいと思ってた。
「でも、その時に――」
「往人さん……国崎住人さんっていう、旅人さんに出会ったの」
それは、ちょうどこの堤防から始まった。
「旅人さんなら、いつかこの街を出て行くから、仲良くなっても大丈夫かな、って思ったの」
「仲良くしてても、あの病気が起きない……そんな気がしたから」
たくさんの記憶が、一気に胸の中に満ちてくる。
「最初はね、ちょっと怖かったよ。目つきも怖いし、背もすごく高いし」
「わたしがあげたジュースも、おいしくない、って言って握りつぶしちゃったし」
そういえば……そんなこともあった。あの時買ったのも、ピーチ味だった。
「いつもお腹空いたーって言って、ご飯いっぱい食べてたんだよ」
「ラーメンセットが好きだからって、そればっかり頼んでた。野菜も食べなきゃダメだよ、って言ったら、ちょっと難しい顔してたっけ……」
あんなにラーメンを何度も作ったのは、あの時ぐらいだと思う。往人さんはそれをいつも、スープも残さずに全部食べてたっけ。食べた後は……いつも、満足そうな顔してた。
「お金を稼がないといけなかったんだけど、全然人が集まらなくて、大変だったって」
「人形劇をしてたんだよ。手も触れてないのに、人形だけが動くの。すっごく不思議」
それは、今思い返してみても不思議だと思う。手も何も触れていないのに、人形はまるで生きているみたいに、飛んだり跳ねたり歩いたり、たまに転んだりする。不思議な、不思議な人形劇。
「お母さんに人形取られたりして、大変だったんだよ」
「リサイクルショップのお手伝いとかしたり……あ、その時ね、わたしがこの街の地図を書いてあげたんだよ。にははっ」
往人さんにお願いされて、わたしはすごく張り切って地図を書いた。誰かに何かしてほしいって頼まれるのが、こんなに嬉しいことだったなんて、思いもしなかった。後で色を塗ったり、場所を書き込んだりして、もっと使いやすくしてあげたっけ。
「毎日学校まで送ってくれて、帰るときも一緒」
「遅刻しちゃったときは、堤防で遊んだりもしたんだよ」
補修だらけで、夏休みでも学校に通っていたわたし。往人さんはわたしを学校まで送ってくれて、帰るときもいつも迎えにきてくれた。お母さんに言われたから、って言ってたけど、往人さんとお話しする時間ができたのは、すごく嬉しかった。
「他にもね、いっぱい、いっぱいあるんだよ」
「セミのこととか、カブト虫のこととか……あと、縄跳びのこととか」
後から後から、思い出があふれてくる。それはどれもこれもキラキラと輝いていて、今でもはっきり思い出せる。
「往人さんはね……わたしに、たくさんの思い出をくれたんだよ」
「今までできなかったこと、やってみたかったこと……それをみんな、往人さんが叶えてくれたの」
いつかどこかで、往人さんの人形劇を「魔法みたいだ」と言っていた人がいた気がする。それは、わたしも正しいと思う。往人さんは、魔法使いだ。わたしの夢をみんな叶えてくれた、魔法使いみたいな人だった。
「今まで、こんなに楽しい夏休みは無かった」
「何もかもが楽しくて、楽しくて、楽しくて……」
「一生、こんな時間が続いたらいいな、って……そう、思ってたの」
「でも……」
「……まだまだこれから、っていう時に、また……」
せみ時雨。夏の日差し。わたしの家。お茶の間。止まった扇風機。鳴らない風鈴。散らばったトランプ。駆け寄る往人さん。
……泣きじゃくるわたし。
「……今度は、いつもと少し違ったの」
「体の調子がどんどん悪くなっていって……動けなくなっていったの」
いつもとは違う、悪くなっていくばかりの体。足がしびれて、立てなくなって、体に痛みが走って……
「体中が、泣いてるみたいだった」
「何かに突き刺されて……泣いてるみたいだった」
記憶が混濁してくる。どの時に何が起きたのか、はっきりと思い出せなくなってくる。
「それでね……それが、わたしだけじゃなくて」
「……往人さんにも……起き始めたの」
うずくまる往人さんは、背中が痛いと言っていた。そして、わたしは――
「何が起きてたのか、全然分からなかった」
「ただ――ありもしないはずの、背中の翼が……痛かったの」
翼。そう、翼だ。あの時わたしは、翼がすごく痛かったんだ。でも、わたしに翼は無い。でも……痛かったのは、確かに翼だった。
「このままじゃ、どっちも苦しくなっちゃう」
「わたしと仲良くなりすぎたから、往人さんもつらい思いをしてる」
「でも、わたしはどうすることもできなかった」
「……だから、往人さんが……」
あの時、確かに往人さんは家から出て行ったはずだった。混濁する記憶の中でも、それだけはちゃんと覚えている。
「少し前から、お母さんもどこかへ行っちゃって」
「往人さんもいなくなって」
「わたしは本当に、独りぼっちになっちゃったの」
独りきりになった部屋で、わたしは一人横になっていた。遠くに行く往人さんを、引き止めることができなかった。
「……その時が、わたしが往人さんを最後に見た時だったはずなの」
「その後、戻ってきたりなんかしてないって……」
「でもね……でもね……」
「……往人さんが戻ってきてくれて、わたしの側で人形劇をしてくれた気がするの」
夢だったのか、それとも、本当のことだったのか。今でも、はっきりとは思い出せない。けれどもあの時、往人さんが側にいて、わたしを笑わせようとして、人形劇をしてくれた……そんな記憶が、今も確かに残っている。
「どうしてだろう……荷物も、何も残ってなかったのに」
「あの瞬間に、往人さんがいてくれた気がするんだよ……」
病気に負けそうになった、最後の瞬間。往人さんが側に来て、わたしを励ましてくれた。夢か現実かは、もうどっちでもよかった。ただその時、わたしはすごく嬉しかった。これだけは、絶対に間違いの無いことだったから。
「その後ね……お母さんが帰ってきたの」
「ややこしいことをみんな片付けたから……今までできなかったことを、わたしにいっぱいしてくれるって……」
びっくりした。お母さんと本当の親子になれる日が来るなんて、思ってもみなかったから。あの時の嬉しそうなお母さんの顔が、頭に焼き付いて離れない。
「わたしね、すっごくうれしかったんだよ」
「お母さんと一緒にいられる時間が、たくさん増えて……」
そう。髪を切ったのも、あの時だった。お母さんがちょっと切りすぎちゃって、いつもよりうんと短くなっちゃったけど……でも、すごく嬉しかった。今まで、そんなこと一度も無かったから。
「でも……」
「でもね……」
……あんなに楽しかったはずなのに、記憶はだんだんと薄れていく。何もかもがぼんやりしていって、思い出すことさえできなくなっていく。お母さんの顔が……すごく、すごく遠くなっていく。
「……その時のことは、はっきり覚えてないの」
「ただ、体の調子がまた悪くなっていって、歩くこともできなくなって……」
辛かった。ただ、辛かった。これだけは覚えている。失われていく記憶の中でも、それだけははっきりと、わたしの心の中に残っていた。
「里村さんが見たのは……たぶん、その頃のわたし」
「その時はもう……お母さんのことも、全然思い出せなくなってた」
かすかに残る記憶の断片。その中のわたしは、大事なことを全部忘れて、ただ、惚けたようにぼんやりとしている姿。お母さんのことも、往人さんのことも、全部……忘れていたはずだった。
「……後でね、お母さんから聞いたことだけど……」
「わたしはもう、長くは生きられないって言われて、病院に入院するところだったんだって」
「わたしのお父さんが、そうするって言って、お母さんからわたしを離そうとしたって……」
そう言われて、お母さんとわたしは、離れ離れになるはずだった。
「でも……その時に……」
よろめきながら歩いていくわたし。砂浜に寄せては返す波。飲み込まれていく恐竜の人形。
前から歩いてくるお母さん。わたしは必死に、前へ前へ。足がぬれるのも、構わずに。
辿り着いた先に満ちる、お母さんのにおいとぬくもり。いっぱい、いっぱい、頭を撫でられる……
「……お父さんはね、それでお母さんと話をして、二人で一緒にわたしを支えていこう、って決めてくれたの」
「もちろん、わたしがお母さんのそばにいられるようにして……」
あの時はもう、立つこともままならなかったはずなのに。お母さんが誰か、思い出すこともできなかったはずなのに。それでもわたしは、お母さんのところまで辿り着いた。
それは……いろいろなものを全部背負って、たくさんの悲しい出来事を乗り越えて、長い長い道のりの果てに、ずっと、ずっと目指してきたゴールに、ようやく辿り着いた……そんな感触を、わたしの中に残した。
「それからね、不思議なことが起きたの」
「だんだん具合が良くなってきて、体の痛みも消えてきて……」
「忘れてたこともみんな思い出して、歩くこともできるようになって……」
そうして、わたしは……
「今こうして、ここにいるの」
「……そんなことが……」
一度にたくさん話をして、ずいぶん喉が渇いちゃった。飲みかけていたジュースのストローをくわえて、からからに渇いた喉を潤す。
「ふぅ……ごめんね、こんなに一気に話しちゃって……」
「いえ……話を聞かせてくれて、ありがとうございます」
里村さんもジュースを一口飲んで、ふぅ、と小さく息を吐き出した。
「……………………」
「……………………」
そのまま、また二人とも黙り込む。潮風がわたしと里村さんの間を吹きぬけて、里村さんの髪をかすかに揺らした。
(どういう風に思ってるかな……)
里村さんに聞かれて、今まであったことを一気に全部話しちゃったけど、里村さんはわたしの話を聞いて、どういう風に思っているだろう。ヘンなことを話す子だって、気味悪がってたりしないかな……
(がお……)
せっかく仲良くなれそうだったのに、また失敗しちゃうのかな……わたし、今までお友達とお話したことが無いから、どういう風に――
「……とても、楽しそうでした」
「えっ?」
突然、里村さんが口を開いた。わたしは慌てて、隣の里村さんの顔を見る。
「国崎さん、でしたか」
「う、うん……往人、さん……」
「その……国崎さんの話をするときの神尾さんの表情は、とても楽しそうでした」
「わたしの……?」
「はい。活き活きとしていて、輝いて見えました」
やんわりと微笑を浮かべて、里村さんがわたしに言う。
「とても、大切な思い出なんですね」
「……うん。全部、すごく大切な思い出……」
胸に手を当てて……また、一つ一つ、往人さんのいた風景を思い返してみる。
「あの時も、この時も、その時も……いつまでも忘れたくない、大切な思い出……」
「初めて楽しいと思えた、あの夏休み……」
「往人さんと一緒だった、あの夏の日……」
そのすべてが、ずっと取っておきたい、かけがえの無い思い出だった。
「今のわたしがあるのも……今、こうしてこの場所にいられるのも……」
「あの夏、往人さんと一緒にいられたから……」
「たくさんの楽しい記憶を、一緒に作ってくれたから……」
そして……
「……往人さん……」
……思わず、こんな言葉が漏れた。
「……もう一度、会いたいな……」
あれから、わたしは往人さんの姿を一度も見ていない。夏が終わって、季節はもうすぐ秋になろうとしてるけれども、往人さんがこの町に戻ってきたという話は聞かない。
「それから……会っていないんですか」
「うん……あの時出て行ったきり、一度も……」
「今も……ずっと待っているんですか」
「……うん。いつか、きっとどこかで会える気がするから……」
今は……どこで何をしているんだろう。ちゃんと……ご飯食べてるかな。屋根のある場所で寝られてるかな。人形劇、うまくいってるかな……
(往人さん……)
空を見上げながら、今はどこにいるのかも分からない、往人さんのことを考えていたときだった。
「そう……ですか……」
「里村さん?」
不意に、里村さんが言葉を呟いた。
「……神尾さんも……」
「……大切な人を、待っているんですね」
物憂げな顔で呟く里村さんに、わたしはどんな返事をしたらいいか分からなかった。例えようも無い憂愁の色がにじみ出ているのが、里村さんの横顔から見て取れた。
「里村さん……」
「……………………」
「もしかして、里村さんも、誰かを……」
「……はい。ずっと……この町で、待ち続けています」
そう言って、おもむろに里村さんが立ち上がった。
「ずっと……待っているんです」
「……………………」
「突然いなくなってしまった、あの人を……」
「思えば、どうしてあの人が私に興味を持ったのか、今も分からずにいます」
「一人でいた私に声をかけてきたのは、去年の冬だったと思います」
遠くの海を見詰めながら、里村さんが呟く。
「最初は、うまく噛み合いませんでした」
「関わらないでほしいと、思っていました」
潮風が吹きぬけて、里村さんの髪を揺らす。わたしはただ、里村さんのことを見詰めている。
「けれども……不思議なものです」
「だんだんと、あの人のことが、嫌いではなくなってきました」
里村さんは、一体誰のことを話しているのだろう。
「一緒にお弁当を食べたり、学校から二人で揃って帰ったり……」
「どうしてかは分かりませんけど、それがとても自然なことに思えました」
わたしは里村さんの言葉を思い返して、じっとその顔を見詰めてみる。いつもと変わらない落ち着いた表情に見えたけど……でも、少し嬉しそうにも見えた。
「……何よりも……あの人は……」
「私を……助けてくれたんです」
声を詰まらせながら、里村さんは呟き続ける。
「……私の目を、『過去』から『今』へと向けさせてくれたんです」
「ずっと、後ろを向いていた私を……前向きにしてくれたんです」
そこまで話をしてから、ここで里村さんは一旦、言葉を切った。
わたしは……不思議な気持ちになっていた。どうしてだろう? 里村さんの気持ちが、手に取るように分かる気がした。里村さんのこと、何も知らないはずなのに……。話したのだって、今日が初めてだったはずなのに。
「それからも、あの人との交流は続きました」
「たい焼きを食べたり……あと、ワッフルも食べました。甘いものは苦手だと言っていましたが、残したのを見たことはありません」
「家に呼ばれて、一緒にパーティをしたりもしました。一番羽目をはずすかと思ったら、一番落ち着いていました」
「あの人は、いつも面白いことばかり考えている、不真面目な人でした」
「どうして、付き合っている異性に、自分が飲んだことも無い不思議なジュースを薦められるでしょう?」
「そういうことを、本気でやるのがあの人なんです」
「だから……きっと、あの人は馬鹿なんだと思います。それも、筋金入りの」
「けれども……それでいいんです」
「私も……馬鹿ですから」
続けざまに言う里村さんの表情は、さっきよりも一際、楽しそうに見えた。そうだ。きっとわたしも、あんな表情をしていたんだ。里村さんの言っていたことは、正しかったんだ。
「今なら、言うことができます」
「あの時私は、とても楽しかったです」
「こんな日が続いてくれれば、私はずっと、前を向いて歩くことができる」
「そう考えていました」
……けれども。
その表情に、僅かな影が差した。
「何かが壊れていきました」
「世界が壊れたのか、それとも、あの人が壊れたのか」
「どちらなのかは、私には分かりません」
「ただ……どちらかが壊れてしまったのは、間違いのないことでした」
繰り返し「壊れた」と口にする里村さんの表情には、一段と濃い憂愁の色と、抑えようの無い悲しみの色が溢れていた。胸を締め付けるような、密かな切実さと共に。
「縁の遠い人から、順番に、順番に」
「ついには、彼の側にいた人にまで」
「親友にも、家族にも、幼馴染にも」
「崩壊は、及んでいきました」
震えていた。里村さんが……震えていた。拳を小さく震わせて……何かを、堪えているみたいだった。
「そして、最後にあの人は……」
「……あの人は……」
「……私の前から、消えてしまいました」
そこまで呟いてから、里村さんは固く握り締めていた拳を、静かに解いた。
「今はもう、どこにもいません」
「私以外に彼を知っている人も……誰もいません」
「まるで、最初からどこにもいなかったように」
「影も形も、消えてなくなってしまいました」
力なく伸ばした指先の隙間を、潮風が潜り抜けていく。
「あの人は……今、どこにいるのでしょうか」
「ちゃんと、おいしいものを食べているでしょうか」
「暖かい布団で寝ているでしょうか」
「今も……私のことを、覚えていてくれているでしょうか」
それを、わたしは見つめ続ける。
「私は……ずっと待っています」
「あの人が、もう一度……ここに帰ってくるのを」
里村さんが、静かに呟いた……
……その時だった。
(……?!)
誰かが一瞬、記憶の片鱗を掠めて行った。
(今のは……?)
町の風景の中に溶け込む、どこか見覚えのある姿。教室にいたような気がする。友達とお話していたような気もする。学校から帰る姿を、どこかで見た気がする。
(そういえば……誰かが……)
……記憶違いかもしれない。けれども……どうしてだろう。里村さんの隣に、誰かがいたような気がする。その人の顔は思い出せない。どうしても、思い出せない。
もう少しで思い出せそうなのに、あと少しのところで、記憶が曖昧になってしまう。霧のように、姿を消してしまう。
(でも……)
そこに誰もいないわけじゃない。誰か……誰かがいる。間違いなく、里村さんの側に誰かがいて、里村さんと一緒の時間を過ごしていた誰かがいるんだ。わたしは思い出せないけど、でも……
(わたしの忘れてしまった……誰かを……)
里村さんは……ずっと待っているんだ。
一緒の時間を過ごした大切な人が、ここに……戻ってくるのを……
その人が消えてしまったときから、ずっと……ずっと……!
(…………!)
「戻ってくるっ! ぜったい、ぜったい戻ってくるよっ!!」
「……神尾……さん……?」
「ちゃんとは思い出せないけど……でも、でもっ!」
「……………………」
「里村さんと一緒に誰かがいたのは、憶えてるからっ……!」
「……!」
「だから……きっと、きっと戻ってくるっ! 戻ってくるよっ!!」
「神尾……さん……」
「わたしも……わたしも、往人さんが戻ってくるまで待つよっ……!」
「……………………」
「だから……だから、里村さんも……その人のこと、待っててあげて……!」
気持ちがどんどんあふれてきて、抑えられなかった。あふれた気持ちが言葉になって、とめどなく、口をついて出て行く。ちゃんとした言葉になってないかもしれない。でも……きっと、気持ちは伝わっているはず……
「きっと……帰ってくるよ……」
「……神尾さん……」
「だって……里村さんの大切な人だもん……」
「……………………」
「里村さんが忘れちゃったら……その人は、本当にいなくなっちゃうから……」
「……………………」
「ずっと……忘れないでいてあげて……」
「……はい。神尾さん……ありがとうございます」
里村さんはわたしの手を取って、静かにしゃがみ込んだ。
「神尾さんも……ずっと、待っていてあげてください」
「うん……きっと、もう一度戻ってきてくれるはずだから……」
「……はい。私も、そう思います」
二人で一緒に立ち上がって、里村さんとわたしは、固く手をとりあった。
「神尾さん……」
「里村さん……」
里村さんの手は……とても、あったかかった。
「……ありがとうございます。神尾さんのおかげで……気持ちが、楽になりました」
「えっ?! わ、わたしは……ただ、お、思ったことを言っただけで……」
「その素直さが……とても、心強いです」
「が、がお……なんだか、ちょっと恥ずかしい……」
わたしは、ちょっとびっくりした。里村さんの表情が、今まで見たことが無いくらい、晴れ晴れとした明るいものになったからだ。
「思ってもみませんでした……神尾さんと、友達になれるなんて」
「……えっ……?」
その言葉に、私は思わず息を呑む。里村さんは、今、何て……
「前から……一度、お話してみたいと思っていたんです。不思議と……気の会う方のように思えましたから」
「わ、わたしと……?」
「はい。同じクラスになったときから、ずっと……そう思っていました」
……言葉が出ない。うまく、言葉が出てこない。けど……それは、いつもの調子とは、全然違う。それとは正反対の、まったく正反対の気持ち。
「けれども……躊躇っていたんです。神尾さんが、他の方を拒絶しているように思えて……」
「里村……さん……」
「まるで……昔の私を見ているようでした。あの時の私は、何もかもを拒絶していましたから」
「……………………」
「でも、今はこうして……お互いの気持ちを率直に伝え合うことができている」
「……………………」
「不思議です。神尾さんと話ができている、今の私が……」
里村さんの手に、一段と力がこもる。鼓動が早くなって、音が聞こえてくるみたいだった。
……でも、これは……
(これは……)
……今までとは違う、全然違う……すごく前向きな、暖かい気持ち……
(……うれしい……)
うれしい。その気持ちで、胸が一杯になる。胸が締め付けられる、あの感覚とは全然違う。胸の中一杯に、あたたかいものが満ちていく。何もかもが、今までとは正反対……
(今なら……ぜったい、ぜったい言える……)
湧き起こる自信。満ちていく思い。わたしは……もう、独りじゃないんだ。
「里村さん」
「はい」
「わたしと……お友達になってほしいな」
「……もう、友達です」
「にはは……うんっ」
里村さんの手を、強く握り返す。きっと、それはもう解けない。強くてあたたかい、つながりの証。
「また、一緒にジュースを飲んでほしいな」
「もちろんです。今度は、また別の味にしましょう」
「うんっ。あ、あとっ、わたしの恐竜さんのキーホルダー、里村さんにもあげるよっ」
「ありがとうございます。私も、とびっきり可愛いものを用意しておきます」
「にははっ。観鈴ちん、今から楽しみ」
わたしに……初めて、「友達」ができた日になった。
(ねえ、往人さん……)
往人さん。わたし、お友達ができたんだよ。
往人さんのおかげだよ。往人さんが、わたしに魔法をくれたおかげだよ。
往人さんが……わたしに、お友達を作れるようにしてくれたんだよ。
あのね……往人さん。
お友達は、里村さんっていう名前。同じクラスの、きちんとした女の子。
里村さんはね、大切な人のことを、この町でずっと待ってるんだって。その人が帰ってくるまで、ずっと待ってるんだって。
いつまでも……待ってるって。
だから……往人さん。
わたしも、ずっと待ってるよ。往人さんが戻ってきて、もう一度、わたしに会いに来てくれるのを。
戻ってきたら、ラーメンセット、また作ってあげるからね。往人さんの、大好物だもんね。
どんなに遅くなっても、わたしは待ってるよ。わたしの大切なお友達と、約束したことだからね。
夏はもう、終わっちゃったけれど。
往人さんのくれた夏の魔法は、いつまでも続いていく。
いつか……もう一度会える、その日まで……
ずっと、笑顔でいるからね。往人さん。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
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