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「……ん……」
真っ白な部屋の片隅で、少女が目を覚ました。大儀そうに体を起こし、薄目を開けてぼんやりと壁に体を預ける。
「……………………」
惚けた表情で周囲を見回す。少女の目に飛び込んでくるのは、一面真っ白の壁、壁、壁。周囲にある上下左右前後すべての壁が、白一色に塗りこめられていた。少女のほかに、この狭苦しい立方体の部屋の中で「白」以外の色彩を持つものは、何一つとして存在しなかった。
「あれ……?」
少女が声を上げた。きょろきょろと左右に視線をやり、上を見上げ、下を見下ろす。その度に視界に映る白い壁に、少女は戸惑ったような面持ちになった。
「ここ……どこ……?」
次に上げた声は、不安げな色をいっぱいに湛えていた。部屋の隅に体を寄せ、自分の置かれている状況を掴もうと試みる。そんな少女の声と仕草にも、真っ白な部屋は押し黙ったまま返事をしようとはしない。
「わたし……どうしてこんなところに……?」
胸に手を当て、震える声でつぶやく。緊張しているのか、少女の首の動きは滑稽なほど遅い。白く狭い部屋の中で目のやり場を探すように、少女の目線はただ泳ぎ続ける。
「どうして……わたし……どうして……?!」
高まる不安、早まる鼓動。少女は胸に当てた手をきゅっと握り締め、その身をかたかたと力なく震わせる。止め処なくあふれ出てくる不安に身を引きちぎられそうになりながら、少女は誰かにすがるように、こんな言葉を口にした。
「こんなとこ……わたし……知らないよ……!」
得体の知れないどす黒く暗澹とした液状のものが胃から食道にかけて勢いよくせり上がり、そのまま口から飛び出して来そうだった。それは体の中で縦横無尽に暴れまわり、点々と黒々とした粘着性の染みを残しながら、少女の不安をさも楽しげに煽り立てていった。
「お……」
恐怖におののいた少女が、半開きにしていた口を大きく開ける。
「お父さん!!」
「お母さん!!」
悲鳴にも似た大きな声で、少女が父と母の名を呼んだ。顔を左右交互に向け、どこかから返事が返ってくるのを待った。
けれども、部屋の片隅で震えていた少女に返ってきたものは、
『おとうさんおとうさんおとうさんおとさんとさおおとうさとおさおとうおとさんとうさんさんおとうささ』
『おかあさんおかあさんおかおかああさおかあささんおかあさんおあかかんさおあおかさあさんおかさあさ』
狭い部屋で何重にも跳ね返り、おぞましいほどの重みと不快感を伴った、自分の声が奏でる不協和音だった。
「んっ……!」
少女は目をきゅっと閉じ、両手で自分の耳を塞いだ。
(耳が……あたまが……いたい……いたいっ……!)
だが、その小さな手のひらでは耳を塞ぎきることはできず、その隙間から何重にも醸成された不協和音が容赦なく流れ込む。それは耳から入り込んで三半規管をぬるりとすべり、土足で遠慮もなしに頭の中へとどかどかと踏み込んでくる。
(いやっ……! あたまが割れちゃうぅっ……!)
ぶんぶんと頭を振って、我が物顔で暴れまわる不快なノイズを追い払おうとする。けれども、そうしている間にも、手のひらでせき止め切れない毒を帯びた雑音が、後から後から押し寄せてくる。おとおとうさおあさあおとうかおあさおあと幾重にも幾重にもズレにズレた輪唱を繰り返し繰り返し、少女の感覚を瞬く間に崩壊させていく。
(ぁ……あたまが……ぐらぐら……してる……)
視界がぐにゃりと歪み、胃は沸騰したかのように熱い。圧倒的なまでの不快感が、少女を蝕み侵していった。気がつくと、少女は何も考えられないほどに意識を混濁させ、ふらふらとその華奢な体をよろめかせていた。
(くるし……い……きもちわる……い……)
少女が必死に振り乱していた頭の動きが止まり、力を込めていた両手からゆっくりと力が抜けていき、隅に預けていた体がぐらりと傾き……
(……だ……め……もう……だめ……)
……残酷なほど白く冷たい床に、どさり、と鈍く軽い音を立てて倒れこむまでには、そう、時間はかからなかった。
「……うぅ……」
小さく呻き声を上げ、俯せに倒れこんでいた少女が、再びその身をゆっくりと起こした。その花の蕾のような小さな唇は青みを帯び、気分が優れないことを如実に表していた。
「やっと……おさまったみたい……」
ささやくような、つぶやくような。そんな弱弱しい声で、少女が独り言を口にした。それは、必要以上に大きな声を出してはならないという過去の経験から得た反省の意味合いもあったであろうが、単に今の彼女がその程度の大きさの声しか出せないほどに弱っていると考えたほうが、より自然であるように思えた。
「はぁ……はぁ……っ」
少し大きく息を吸い込んでは吐き出しを繰り返し、少女はどうにか気分を落ち着かせた。胸のむかつきが取れたわけではなさそうだったが、その顔色は幾分赤みを取り戻していた。額にじわりと浮かんだ脂汗を小さな手のひらでごしごしとぬぐい、服の裾で拭き取った。
ようやく落ち着きを取り戻した少女が、はぁ、と大きなため息を吐いて、部屋の中をぐるりと見回した。
「誰も……いないのかな……」
部屋の隅に体を押し込め、少女がまた独り言をつぶやいた。何度となく首を左右に向け、自分以外の存在を探す。けれども無情なことに、少女の目が映し出すのは、ただただ白い壁と白い壁、そして白い壁に白い壁であった。それ以外のものは自分自身しか存在しないことを、少女はいやがおうにも認めざるを得なかった。
「わたし……どうしてこんなところにいるの……?」
「こんなところ……わたし、知らないよ……」
震える体を抱きしめながら、俯き独り言をつぶやき続ける。それに耳を傾ける者などいないと分かっていても、少女は呟き続けるしかなかった。体の上に休むことなく圧し掛かってくる圧倒的な孤独感に、背骨が軋む様な気がした。
「……………………」
少女はそのまま体を小さく折りたたみ、時間が流れるに任せていた。その瞳は微かに潤み、不安な心境がその小さな顔全体に余すところなく刻み込まれていた。こうしてまったく動くことなく、ただその場で時間が流れるに任せていることが、絶望的な選択肢しか無いこの状況において、彼女が選んだ答えだった。
「……………………」
それから、どれくらい時間が経っただろうか。
「わたし……こんな服、着てたっけ……?」
少女がようやく折りたたんでいた体を解いて、ふと、自分が身に纏っている服に目をやった。彼女がその華奢な身に纏わせていたのは、袖の無い真っ白なワンピースだった。汚れ一つなく、長さも大きさも適当なもので、まるで彼女のために誂えて仕立てたかのような印象を抱かせた。
「それに……このリボン……」
次に彼女が目にやったのは、髪の毛に結われた大きな蝶結びの真っ赤なリボンだった。手で触れてみると軽い感触が返ってきて、ふわふわとした柔らかい素材でできていることを伺わせた。少女は真っ赤な大きなリボンに真っ白なワンピースというシンプルないでたちで、この白い部屋で独り目覚めたことになる。
そこまで確認すると……
「……………………」
少女は落ち着かないそぶりできょろきょろと左右に目をやり、そこに――最初から分かりきっていたことだが――誰もいないことを改めて確認すると……
「誰もいないから……大丈夫だよね」
ワンピースの袖に手をかけ、恐る恐る、それを脱ぎ始めた。ぎこちない動きで両腕をくぐらせ、体からワンピースを外してしまうと、スカートの部分を持ち上げて頭をくぐらせ、最後に、一思いに脱ぎ去った。
「んっ……」
……そして。
「パンツ……ちゃんと穿いてる……」
下着姿――もっと有体に言うのなら、ショーツだけを身に纏った――の少女が、自分の体を見てつぶやいた。少女はまだまだあどけなさを多分に残した子供っぽい風貌をしていたが、自分が何を身に纏っているのか無頓着でいられるほど幼い、というわけではなかったようだ。
「誰かが穿かせてくれたのかな……」
まるで自分の存在を確かめるが如く、少女が己の裸体に触れる。痩せた腹部を撫で、その胸に直に手を置いた。手に伝わる鼓動と胸に響く鼓動とが入り混じり、少女の体内で一つにシンクロした。
「あぁ……」
少女はしばし目を閉じて、体の中で確かに動く心臓のささやきに耳を傾けていたが、ふと、今の自分の恰好を頭に思い浮かべ、
(やだ……私、裸なんだった……)
その頬を、微かに赤らめた。
「……服、着なきゃ」
少女は床に置いてあったワンピースを手に取ると、そそくさとそれを着なおした。元の姿に戻って、改めて周囲を見回す。誰もいないことを確認すると、少女はほうっ、と小さく息を吐いて、再び部屋の隅に腰掛けなおした。
(……わたし……どうしてこんなところにいるんだろう?)
少女はまたその小さな体をさらに小さく折りたたんで、独り考え事に耽っていた。自分がどうしてこんな得体の知れない小さな部屋の中に押し込まれているのか、ここで目覚めるまで自分が何をしていたのか、そんなことばかり考えていた。
(もっと……もっと、ここに来る前のことを思い出さなきゃ)
そう考え……少女は再び、目を伏せた。
「だめ……やっぱり、思い出せない……」
重い気持ちを押し出すように、少女が大きなため息を吐き出した。悲しげに目を閉じて首を左右に振り、足と足の間に顔をうずめると、そのまましばらく動かなかった。
(どうして……? わたし、どうしてこんなところにいるの……?)
僅かに顔を動かし、その隙間から白一色の部屋に視線を向ける。相変わらず変わり映え一つしない白を映し出すその小さな瞳は、白い壁が跳ね返す光の影響かはたまた彼女の意思を反映したものか、うっすらと涙を浮かべているように見えた。
(思い出せない……思い出せないよ……)
その瞳の潤みが瞬く間に膨張したかと思うと、それは目頭の僅かな領域では飽き足らなかったのか、目頭を乗り越え、頬をつつつと伝い、最後に、少女が身に付けている真っ白なワンピースに小さな沁みを作った。沁みはじわり、と僅かに広がると、あっという間にその動きを止めた。そこが、彼女の涙の終着点だった。
「うっ……うぅ……うぅぅっ……」
こらえきれなくなったのか、少女は小さくしゃくり上げて泣き始めた。声と涙はすべて顔をうずめたワンピースに吸い込まれ、時折かくんと跳ね上がる彼女の背中だけが、彼女が涙を流して悲嘆に暮れていることを示しているように思われた。
「ひっく……ひっ……ぐすっ……」
小さな箱の中で、少女は独り、泣き続けた。
「はぁ……ぐすっ……はぁぁ……」
流す涙も枯れたのか、少女が再び落ち着きを取り戻し始めた。真っ赤になった瞳を右手の人差し指の付け根辺りで何度もこすり上げ、どうにか涙を拭った。
(泣いてても……誰も来てくれないから……もう、泣くのはやめなきゃ……)
少女は自分にそう言い聞かせると、ほんの少しばかり顔を上げ、そのまま惚けたように口を開けると、ふぅ、と小さく息を吐き出した。
「……………………」
小さく開けていた口と目を順に閉じると、少女は再び回想を始めた。
(憶えてるのは……)
………………
…………
……
……それから、幾許かの時間が経ってからのこと。
(……わたしにはお父さんとお母さんがいて、お友達がいて……学校に通ってて……)
少女はおぼろげな記憶の一端にぶら下がる小さな紐にしがみつくことができたのか、曖昧ながらも少しずつ、形のある記憶を取り出すことに成功し始めていた。そこから引き出された情報は、次のようなものだった。
彼女には両親がいたということ。顔も名前も思い出せないが、擦りガラスを通したかのような曖昧でおぼろげな姿だけは思い出すことができた。それだけではない。彼女には友人もいた。その友人達の姿も明確なものではなかったが、それは間違いなく、彼女にとっての友人の記憶であった。友人とは一緒に学校へ通っていた。通っていた学校は忘れてしまったが、自分の背丈から考えて、それは小学校だろうと考えた。彼女は改めて自分の姿かたちや背丈を可能な限り客観的に見つめてみて、恐らく自分は十歳前後で、小学校では第三学年、あるいは第四学年に属していたのであろうと判断した。
……そして、こういったことをある程度落ち着いてまとめて考えることができる程度の知識と知性を持っていることも、付け加えなければなるまい。
「でも……やっぱり、ここに来るまでのことは思い出せないや……」
一面白い壁。それが六つ組み合わさった、箱の中の世界。その中に、彼女は独りいる。どうやって中に入り込んだのか、あるいは誰かにここに押し込められたのか。入ったのだから、どこかにここへ入るための口――それは即ち、ここから出るための口とも成り得る――が在らなければならないはずであったが、何度周囲を見回してみたところで、その要件を満たすような口が、彼女の目に飛び込んでくることは無かった。
「もしかして……わたし、夢を見てるのかな……」
そう考え、少女はその小さな手をぎゅっと握り締め、ぱっと開かせた。だが、そこから得られた感覚は紛れも無く、彼女にとって「起きている」時に感じる感覚そのものだった。何度か手を握ったり開いたりしてみたが、そこには確かに自分の意思と感覚が介在し内在し、そして存在していた。
「……夢じゃ……無いんだよね……」
少女は力なくぱたんと手を落とすと、その表情を再び曇らせた。今ここにこうして自分がいるのは紛れも無い現実のことで、時間が経てば終わることではないのだということを、今ここではっきりと突き付けられた恰好である。へにゃり、へにゃり、と指を動かしながら、少女は思案に暮れた。
(じゃあ、ここはどこ? どうしてわたしがここにいるの? どうやってこんなところへ来たの?)
怒涛の如く湧き上がる疑問に、彼女の頭脳はパンクしそうになっていた。後から後から疑問が押し寄せてきて、その中のただの一つにさえ、満足な回答を用意することができない。切れ切れに呼吸をし、せめて落ち着きを取り戻そうとする。けれどもそれも、無駄な努力に過ぎなかった。
(お父さんやお母さんは? お友達は? それに……)
……このとき彼女ははっとした。ある大事なことを、まだ思い出せていないことに気がついたのだ。
(……それに……)
小さく口を開き、不規則な呼吸を繰り返しながら、彼女はその疑問に答えることのできない自分に愕然とした。
その、彼女を戦慄させた疑問とは。
(わたしは一体……誰なの……?)
(そうだ……わたしの名前………)
少女は震える両手を見つめながら、自分を識別するための言葉である「名前」を思い出せないことに愕然としていた。頭に貯蔵された曖昧な記憶のどれをひっくり返しても、彼女の「名前」を表すような記憶は、何一つとして存在しなかった。彼女は自分の「名前」を忘れてしまったのだ。
(うそ……どうして? わたし……わたしの名前……)
彼女は名前を思い出そうと必死の努力を続けたが――他の多くの記憶と同様に――、それは残念な結果しかもたらさなかった。彼女は自分の名前はおろか、自分がここに来るまでどこに住んでいて、どういった人間であり、また彼女の周囲を取り囲んでいたはずの人間がどのような者達だったのかさえ、思い出すことができなかった。
(何も……なんにも思い出せないよ……)
正確に言うのなら、思い出すことができるものはある。曖昧な情景、ぼやけた風景、あやふやな光景。そして、それに登場する、どこかよそよそしい印象を持たざるを得ない、モザイク混じりの「家族」や「友人」たち。彼女の記憶すべてが、出来損ないのフィルタにかけられたような、粗悪で見るに耐えない映像と化していた。
(わたし……名前……なくしちゃったんだ……)
呆けたように口を空け、少女が呆然と遠くを見詰める。彼女はこの白い箱に入れられてあらゆるものから遮断されただけではなく、人間が長い時間をかけて溜め込んでいく財産である「記憶」も、人間であれば――そして、場合によってはその他の動物や、時には無機物にさえ与えられる――必ず持っている持ち物である「名前」でさえも、彼女は無くしてしまった。彼女は自分の体とその身に纏っている服、そして、この状況を理解するための「心」という三つだけを残して、ありとあらゆるものを収奪されたのである。
(わたし……みんな……なくしちゃったんだ……)
その瞳に涙が浮かぶまでには、そう、長い時間は必要なかった。すべてを無くした事のショックが、彼女の未成熟で未発達で未精錬なその幼い心に、何の躊躇も容赦も無しに圧し掛かってきた。彼女は己の置かれた状況に完全に押しつぶされた。その瞳に涙が浮かぶまでには、そう、長い時間は必要なかった。
「うっ……ぐすっ……ひぅっ……」
一度はもう泣くまいと心に決めていた少女だったが、彼女を取り巻く状況はそんな彼女の決意などものともせずに、瞬く間に、圧倒的な物量と存在感で、彼女のちっぽけな体を悲しみの海へと押し流していく。途方も無い悲しみに締め上げられ、彼女の瞳はあっけなく涙を搾り出した。その涙も悲しみの海に飲み込まれ、大海の一滴となり消えていく。
「わたしっ……みんな……なくしちゃったんだ……」
喪失、喪失、喪失。少女の心に去来するは、喪失の悲しみ。
喪失、喪失、喪失。彼女の心を取り囲むは、喪失の悲しみ。
「うぐっ……はぁぁっ……うぅ……ぐすっ……」
少女は悲嘆と涙に暮れながら、その体を静かに横たえた。
「ひっく……ぐす……うぅ……」
もう、座って体を起こしていることさえ、彼女には億劫で苦痛なことだった。悲しみに浸けられた体の求めるままに、少女は白い床に横たわろうとする……
……その時だった。
「……んっ……?!」
彼女の表情が微かに歪んだ。横たえようとした体をまたゆっくりと起こし、再び座り込む形になる。少女はきょろきょろと周囲を見回しながら、しきりに自分の体を触っている。
(今……なんか、ヘンな感じが……)
少女がぱんぱんと体を手のひらで軽く叩きながら、一瞬感じた違和感の正体を探る。
「あっ……」
少女の手が自分の脇腹に触れた時、その手の動きがぴたりと止まった。だが間もなく、停止した辺りを中心として、ワンピースの上を這いずり回るかのように、彼女の手がずるずると嘗めるように再び動き出した。少女は手をやっている脇腹を目を凝らして見つめながら、しきりに手を動かし続ける。
「……………………」
おもむろに手を動かすと、少女は――このとき初めてその存在に気づいたのだが――ワンピースの脇にあった小さなポケットに、それよりもさらに小さなその手を突っ込んだ。ごそごそと中を探り、少女がポケットから何かを取り出した。
「これ……鍵なのかな……?」
少女がポケットから取り出したのは、錆のついた小さな鉄の鍵だった。錆はついていたが、鍵の部分はまばゆい銀色を保っていて、もしこの鍵に対応する鍵穴があるのなら、何の支障もなく差し込んで回すことができそうに思えた。少女は鍵をしげしげと眺めながら、小さくため息を吐く。
「どこの鍵なんだろ……?」
ポケットの中に入っていた、小さな鉄の鍵。それは彼女の身に付けていた服と同様、見覚えの無いものであった。けれどもそれは、頭の中にある曖昧な記憶などとは異なり、今彼女がその手でしっかりと持っている、形のある「財産」だった。自然と、鍵を握る手に力がこもる。
「あぁ……」
少女がほんの少し表情を緩めて、鍵を愛しげにぎゅっと握った。鍵から伝わる鉄特有の冷たさが、なんとも心地よく思われた。
「……でもこれ、どこの鍵なのかな……」
当然の疑問を口にする。そう。鍵があるからには、鍵穴もあってしかるべきだ。鍵穴があって初めて、その鍵は意味を持つ。鍵穴の無い鍵は「鍵」ではない。それは「鍵」の形を取っていたとしても、「鍵」としての機能を有さない。それはつまり、「鍵」ではない。鍵は鍵穴があって初めて「鍵」となることができるのだ。
「……………………」
少女が周囲を見回す。今彼女が手にしている鍵を、本当の意味での「鍵」にしてくれる鍵穴は無いかと、目を凝らして周囲を見回す。
……すると。
「あっ……! ここ……小さい穴が……!」
少女が座り込んでいた部屋の隅の端に、小さな穴があるのが目に留まった。少女は色めき立ち、手にした鍵と眼前の穴とを交互に見やる。
「もしかしたら……うん。やってみなきゃ!」
決心がついたようだ。少女が頷き、手にした鍵を穴へと差し込む。祈るような気持ちで、少女は鍵を中へと入れ込んでいく。そうすると、ちょうど持ち手の部分だけを残して、鍵は穴の中にすっぽりと納まった。
「お願い……」
目をきゅっと閉じ、少女が鍵に力を込める。
……そして。
(かちゃり)
「やっぱり……箱だったんだ……」
足元へと目をやりながら、少女がぽつりとつぶやいた。彼女の足元には、厚さをまるで感じさせない薄っぺらい材質でできた立方体が、丁寧に展開されて地面にぴったりと張り付いていた。彼女を閉じ込めていた真っ白な檻は、もはやその形を完全に失っていた。
(鍵を開けたらいきなり箱が開いて……ちょっと、びっくりしちゃった……)
少女が立ち上がって口元に手を当て、先ほどまで自分を取り囲んでいた立方体に目を向ける。それはもう二度と、彼女を閉じ込めてしまうことはないだろう。再び組み立てることさえ、決して容易なことではあるまい。この立方体はもう、立方体としての機能を失ってしまったのだ。「少女を閉じ込める」という機能を失った立方体はその形を失い、「立方体」ではなくなった。
(でも、これで外に出られるね)
少女は顔を上げ、開かれた外の世界へと視線を移す。淀みの無い瞳で少女が映し出した世界は、飽き足るほど見させられた真っ白な狭い空間とは、まさに対極に位置するものだった。少女は小さな瞳をぱちぱちさせ、眼前の光景を食い入るように見つめた。
「真っ暗で……なんにも見えない……」
不安げな面持ちで見つめた世界は、ただひたすらに黒一色で塗り込められた世界であり、それはどこまでもどこまでも、気の遠くなるような深さをもって、どこへともなくつながり続けているように見えた。ただ、その中にあって一つ、何の手立ても持たない彼女の、重要な道しるべとなりうるものがあった。
「白い道……どこまで続いてるんだろ?」
うねうねと曲がりくねった、ぼんやりと眩い光を放つ真っ白な道。それは彼女を包み込んでいた立方体の先端から伸びていくかのように、前と後にどこまでも続いていた。立方体の天井だった部分がぺしゃんと地面にへばりついているから、どうやられっきとした地面、あるいは道のようだ。
「……………………」
少女は小さく息をしながら、一歩一歩、立方体だった箱の上を歩いていく。ぺたん、ぺたんと小さな音がして――言い忘れていたが、彼女はサンダルを履いている。彼女の足にぴったり合った、暑い夏に履くようなサンダルだ――彼女はゆっくりと歩を進めてゆく。そして、立方体の平面と白い道の境目までやってきて、彼女は一端立ち止まった。
(どうしよう……歩いて……大丈夫かな……)
口元に手を当てながら、おどおどした目線を白い道へと向ける。白い道はそんな少女に一向構うことなく、ただそこに存在し続けている。少女の長い影が、白い道に沿って伸びていく。少女に決断が迫られていた。白い道を歩くのか、それとも、ずっとこのままこの場所でいるのか。不安に瞳を滲ませながら、少女がゆらりと体を揺らす。
「うぅ〜……」
小さくうなり声を上げる少女。それはまるで、何かに対して苛立っているかのよう。彼女は何に苛立っているのか。訳の分からないこの状況か、殺風景な白い道に対してか、それとも……
「……うぅ〜……!」
……なかなか一歩を踏み出すことのできない、自分に対してか。
「……はぁっ!」
彼女は肩の力を抜いて強く息を吐き出すと、きっ、とその目を見開いて、彼女は大きく一歩を踏み出した。
(こんなところで立ち止まってても仕方ないから……とにかく、前に進まなきゃ!)
……そして。
ぺたん。
(……大丈夫。この道は……ちゃんと、歩いていける……!)
白い道にしっかりとその足をつけて、少女は前に向かって歩き始めた。ぺたん、ぺたんと地面を叩く音がするたびに、少女の足取りは早まっていく。
そうして……少女は自分を閉じ込めていた立方体から、少しずつ少しずつ、けれども確実に確実に、離れていくのであった。
「ここ……どこなのかな……?」
白い道に沿って歩きながら、少女が呟いた。これは後になって気づいたことだが、白い道以外の黒い部分も普通に歩くことができ、底無しの穴になっている、などということはなかった。それでも少女はあたかも吊橋を渡るかのごとく、白い道から足を踏み外さないよう、慎重に歩を進めていく。
「どこかにつながってるのかな……」
すべての道はどこかへつながっている。それが行き止まりへと続く道であったとしても、それは「行き止まり」という目的地につながっている道であると考えられる。どこへもつながっていない道は存在しない。すべての道はどこかへとつながっている。
つながりの無い道は「道」ではない。どこへもつながっていない道というのは、「どこかとどこかをつなぐ」という「道」としての機能を持たない存在である。すべての道はどこかへとつながっている。どこへもつながっていない道は「道」ではない。それは他では形容しがたい、道以外の存在である。道はどこかへとつながって初めて「道」と呼ばれる。道が「道」と呼ばれるためには、どこかへとつながっていなければならない。
それがどこであるかが完全に道次第であることは、私は否定しないが。
「……………………」
少女は無言で歩き、白い道を辿っていく。これが「道」であるならば、必ずどこかへつながっているはずだ。その「どこか」がどこであるかはを知るすべを少女は持っていないが、それでも、そこに行き着くことで何らかの変化がもたらされるであろうことは、誰の目にも明らかに思われた。
(行かなきゃ、始まらない……)
そう信じて、少女は進んでいく。誰もいない静かな道を、少女は進んでいく……
(……あれ?)
……否。先程の文章には一つ、致命的な誤りがあった。
(あれ……誰だろう?)
少女の行く先に小さな人影が見えたのを、書き忘れていた。