「まぼろしのマーニー」

586

一目見た瞬間から、さやかはすっかりこのお屋敷の虜になってしまっていた。

「わあ……素敵なお屋敷! わたしたち、ここに引っ越してくるのよね?」

「そうさ。長いこと人の手が入ってないから、業者に頼んで中を新しくしてもらう予定だよ」

この夏引っ越しをすることになっていたさやかは、下見をしに行くと言っていた兄にくっついて、はるばるここ北海道までやってきていた。飛行機で空を飛んで、電車を幾つも乗り継ぎ、最後はレンタカーを使ってたどり着いたこの新居は、さやかのイメージする「お屋敷」にそれはもうピタリと当てはまっていた。

あちらを見てはおぉー、と驚き、こちらを見てはわぁ……と目を丸くする妹の様子を微笑ましげに眺めながら、兄がぽつりとこんなことを呟いた。

「そう言えば、ここを不動産屋から紹介してもらったときに、屋敷のあだ名を教えてもらったんだ」

「あだ名? なになに、聞かせて聞かせて!」

「ここからじゃ分からないけど、裏手は海に繋がっててさ、潮が引くと一面が湿地になるんだ。そこで付いたあだ名が、『湿っ地屋敷』というわけさ」

「『湿っ地屋敷』? 変わったあだ名ね。でもわたし、気に入ったわ!」

ちょっと探検してくる、そう言って走り出したさやかを、兄は「あんまり遠くまで行くんじゃないぞ」と嗜めつつ、今の屋敷の状態を調べ始めた。さやかは裏庭まで走っていくと、改めてお屋敷の大きさと立派さに瞳を輝かせつつ、視線を上に上げてみた。

「あっ。あのお部屋……!」

そんなさやかの目に飛び込んで来たのは、二階にある大きな窓付きの部屋だった。掛けている大きな赤縁のメガネを直して、様子を今一度確かめてみる。

配置といい雰囲気といい、いかにも高貴なお姫様やお嬢様が使っていそうな部屋。一度そんなお部屋に入ってみたかった、できることなら住んでみたかった――ロマンチストな彼女はそんな願いを持っていて、しかも今はその願いを簡単に叶えられそうなのだ。さやかはぱあっと顔を明るくして、思わず大きな声を上げた。

「お兄ちゃん! わたし、あの部屋がいい!」

 

 

東京のお友達に「素敵なお屋敷に引っ越すの」と自慢げに言い、みんなから口々に「今度遊びに行かせて」と言われる中で、さやかは引っ越しにつきものの湿っぽさとは無縁の明るい表情のまま、堂々と東京を発った。その翌日、改めてあの「湿っ地屋敷」へやってきたさやかは、かねてからの希望通り、あの二階の窓付きのお部屋をもらうことができた。

「前にここに住んでたのは外国の人だったみたいだけど、その人にも娘さんがいてね。聞くところによると、彼女もさやかの部屋を使ってたみたいなんだ」

「やっぱり! そんな風じゃないかって思ってたの。きっと夕方になって陽が沈むと、ちょっとばかし寂しそうな表情をして、潮が満ちていく海を見たりしてたに違いないわ。そういうの、わたしも一度やってみたかったの!」

「はははっ。こんなにおてんばなお嬢様じゃあ、あんまり似合わないんじゃないか?」

自分の願望を笑って茶化す兄に「何よぅ」と口をへの字に曲げて、さやかは自室へ走っていった。お兄ちゃんったら、ちっともロマンがないんだから。ふんぞり返りつつ呟いたさやかが、陽の光が差し込む窓の前まで歩いていく。

夕方になってからの風景もきっと素敵だろうけれど、晴れ渡った空の下に海原が広がる今の風景もまた格別だった。これからは毎日、ここから素敵な景色を眺めることができるんだ――抱いていた期待は現実通りのものになって、これからは期待以上のものが待っている。そう思うと、さやかは今にも窓を開け放って、大きな声を上げたくなる思いがした。

「……あれ? あの子、誰?」

新居での暮らしに心弾ませるさやかが、窓から望む景色の中に人影を目にしたのは、ちょうどその時で。

屋敷の裏庭の辺り、小さな船着き場の近くを、少女が一人歩いている。ここには引っ越してきたばかりだから当たり前とは言え、見覚えのない顔だった。一体誰だろう、さやかは好奇心に胸をふくらませながら、お屋敷を散策する少女を二階の窓からじいっと見つめる。

背丈は自分より少し高くて、たぶん、東京に住んでいたころ近くにいた中学生のお姉さんと同じくらいに見える。線の細い印象を受ける風貌で、なんとなく読書や絵を描くのが好きそうだ。でもその割には、一人で船を漕いでここまでやってきて、結構速い足取りで裏庭を見て回ったりしていて、なかなか活動的でもある。つかみ所が無いけれど、それがかえってさやかの興味を強く引いた。

(あっ。もしかしたら、前にこのお屋敷に住んでたっていう、あの女の子だったりするのかも)

さっきお兄ちゃんが話していた、以前ここに住んでいたという外国人の女の子。もしかすると、あの子はその女の子かも知れない。以前住んでいた屋敷が懐かしくなって、ここへ戻ってきたんじゃないか。さやかはそんなことを思いついた。

しばらくすると謎の女の子はお屋敷を離れて、再び船を漕いで帰っていった。彼女が視界から完全に消えてなくなってしまうまで、さやかはずっとその姿を見つめつづけていた。

あの子、誰なんだろう、一体どんな子なんだろう――下にいた兄から「夕飯にするぞ」とお声が掛かるまで、さやかは物思いに耽っていたのだった。

 

 

引っ越してきてから一週間ほどが経った。最初の印象で素敵だと思った「湿っ地屋敷」は、住んでみるともっと素敵で素晴らしいものだった。

「お疲れさま! 今日も暑いから、熱中症に気をつけてね」

「やあ、さやかちゃん。ありがとう」

少し前から入っているリフォーム業者の人たちともあっという間に顔馴染みになって、こんな具合で気軽に言葉を交わすようになっていた。社交的で誰とでもすぐに仲良くなれるのは、さやかの一番の長所だった。東京でもたくさんの友達がいたし、ここ北海道でもみんなと仲良くなろうとやる気満々だった。

お気に入りである柄物のワンピースをひらりひらりと翻しながら、さやかは鼻歌まじりに歩く。彼女が上機嫌なのは、ある理由があった。

数日前のこと。備え付けの机をちょっと整理しようと思い立ったさやかは、まっさきに机に付いていた引き出しを開けた。

「……あれ? これなあに?」

すると不思議なことに、空っぽだとばかり思っていた引き出しの中に、一冊の古ぼけた日記が入っていたではないか。

(もしかして……前に住んでた人の日記じゃないかしら?)

どう考えても、そうとしか思えなかった。この机をいじるのは今日がまったく初めてのことで、言うまでもなくさやかのものではない。他の家族が部屋に入ることもほとんど無かったから、さやかが来てから入れられたものでもなさそうだった。

では、この日記には一体どんなことが書かれているのだろう。好奇心旺盛で知りたがりのさやかのこと、早速開いて中を読み始めた。

前に住んでいたのは外国の人と聞いていたから文章が外国語で書かれていて、読んでもちんぷんかんぷんじゃないかとちょっと不安に思っていたものの、幸いなことに中身は全部日本語で書いてあったのだ。ここに住んでいたから、日本語も達者になったんだろう。

日記には、このお屋敷での生活の様子が綴られていた。一回の大広間でパーティが催されたり、よく旅行へ出掛けるという母親から珍しい土産物をもらったりと、さやかのイメージする「お嬢様」そのものの暮らしぶりが分かる内容だった。ただ、よく屋敷で一人残されてしまって、寂しい思いをしていた様子も窺えた。屋敷には使用人やメイドも詰めていたようだが、あまり折り合いはよくなかったようだ。

少し気になったのが、日記の途中のページがごっそり破かれていたことだ。ある日から突然日記の記述が途切れて、最後まで何も書かれずに終わっている。日記を閉じてみると明らかにページが足りなくて、破いて切り離されたのは明白だった。何か忘れたい出来事でもあったのだろうか。

と、内容もさることながら、さやかの目を引いたのは、裏表紙に記されていた名前だった。

「マーニー……どんな子なんだろう」

――「marnie」。日記のことを隠したままスペルだけを兄に伝えて、読み方を教えてもらった少女の名前。それがこの日記の持ち主であり、そして以前ここに住んでいたという女の子であることは明らかだった。

前に住んでいた人。そこからすぐさま思い浮かんだのは、以前見かけたあの女の子の姿だった。あの子はここに日記を置き忘れてしまって、取りに来ようとしていたんじゃないかしら。さやかはそこまで想像して、きっとそうに違いないと考えるに至った。

日記を書くくらいだから、繊細で真面目な子だろう。筆跡もとても綺麗で淀みない。何より、引き出しに日記を隠しておくというのがいかにも年頃の女の子らしくて、それだけでさやかの胸はときめいた。引っ越した先で、少女の思いがつまった日記を偶然見つけてしまう。このシチュエーションそのものが素敵で、さやかはあの少女に会ってみたくて仕方がなくなった。

そして今日である。足取りも軽くやってきた自室で、さやかは引き出しにしまっておいたあの日記を取り出した。

「会いたいなあ……わたし、マーニーに会ってみたい」

もし、あの子に、マーニーにもう一度出会えたら、この日記を返してあげて、それから友達になってもらおう。きっとすごく素敵な人に違いない、さやかの空想はどんどん広がって行った。

だから、お昼過ぎに窓の外を見たさやかが。

「……あれ!? あの子、マーニーじゃない……!?」

再びあの少女の姿を目の当たりにした時は、それはもうとんでもなく驚いてしまった。メガネを上へずらして目をごしごし擦り、見間違いではないか、蜃気楼とかそういうものではないか、何より夢ではないかと何べんも確かめた。何度見ても確かにあの少女だと確信したさやかは、思わず窓に張り付いた。

少女と目が合ったのは――まさしく、その瞬間。

こちらは言うまでもなく気付いている、少女の様子を見るに、相手もまたさやかの存在を認識したようだった。驚いたような顔を見せて、しばしその場に留まっていたが、やがておずおずと引き返し始めようとするのが見えた。たぶん、今は他人の家となっているお屋敷に勝手に入ろうとしたことに気が咎めたのだろう。けれどさやかはそんなことを責めたりするつもりは微塵もなくて、ただただ日記の持ち主であるマーニーに会えるという興奮でいっぱいになっていた。

どうにかして引き止めなきゃ。さやかはすぐさま窓をぐいぐい押して、どうにかこうにか開こうとする。いささか固くて苦戦はしたものの、さやかのあふれんばかりの「会いたい」という気持ちを押し止めるには、この程度の窓ではまったくの力不足だった。

ばん、と大きな音がして、二段構えの窓が大きく開け放たれて。

「マーニー! あなた、マーニーでしょ!」

さやかが少女を呼ぶ声が、辺りにこだました。

 

 

「さあ、上がって。歓迎するわ」

「あの……お邪魔します」

表の玄関からマーニーを案内したさやかは、今は彼女の部屋になっている二階へのあの部屋へ招き入れた。ちょっとばかり遠慮しいしい、マーニーは中へ足を踏み入れる。

マーニーはさやかが思い描いていた通りの、素敵な少女だった。自分より少し年上で背丈も高く、大人びた風貌をしている。声色や仕草からも、繊細で多感な様子がありありと伺えた。加えて、宝石のように美しい青い瞳は、彼女が外国の人であることの何よりの証拠だった。そして、外国の人にも関わらず流暢な日本語を話すではないか。絶対にこの部屋の元の持ち主としか思えない。さやかは逸る心を抑えながら、ベッドにぽふっと腰掛けた。

「この部屋はまだ手直ししてなくて、あなたが使ってたときのままよ。ほら、あの机もそのまま」

「えっと、私は……」

「マーニー、あなたがここに来てたのは知ってたわ。窓の外からあなたの姿が見えてたもの。きっと、これを取りに戻ってきたのよね」

引き出しを引いて、さやかはあの古びた日記を取り出した。マーニーが目をまん丸くしたのが見える、これは間違いない、彼女こそがマーニー、彼女こそがこの日記の持ち主だ。すっかり満足したさやかは、せっかくだからもう少しくつろいでいってもらいたいと考えて、飲み物を準備してくることにした。

「待ってて。あなたの好きなアールグレイをいれてくる」

日記をマーニーに手渡してから、さやかは部屋を出て階段をとてとてと降りていった。日記には、マーニーが紅茶を飲んで美味しいと感じた旨のことが書かれていた。なら、それと同じものを淹れてあげれば喜ぶに違いない。さやかは我ながら素晴らしい名案だと思い、キッチンへ走っていく。

慣れた手つきでてきぱきと紅茶を淹れると、ティーポットに詰めてすっかり準備を整える。こう見えても、さやかは家事が結構得意だった。紅茶を淹れるくらいならお手の物だったし、簡単な料理なら一人で作れるほどだ。東京にいたころは、家に遊びに来た友達にお手製のドーナツやクッキーを食べさせてあげるのが常で、決まって「おいしい」と驚かれたものだった。

あっという間に支度して二階へ戻ると、マーニーはベッドに座って日記を読んでいた。懐かしい日記を読んで感慨に耽っていたのかも、なんて考えながら、さやかはトレイを机の上に置いて、マーニーの隣へ身を寄せる。

「ね? これ、あなたの日記でしょ?」

「……ううん。これは、私のものじゃない。マーニーの日記よ」

さやかは思わず首を傾げた。この日記はマーニーのものじゃない、しかしマーニーの日記だ。どういう意味だろうと難しい顔をしていると、マーニーがこんなことを口にした。

「私は、マーニーじゃない」

「マーニーは……わたしの、空想の人物だから……」

「湿っ地屋敷に来ると、私は、マーニーに会うことができたの」

どこか思いつめた表情で口にした言葉を、さやかは少なからぬ衝撃をもって聞いていた。この女の子はマーニーではなく、マーニーはこの女の子の空想の人物だという。嘘をついているとか、口から出まかせを言っているとかではなく、その言葉はすべて真実のように思えた。

つまり、この子はマーニーではない。この部屋の前の持ち主では無かったというわけだ。

「そっか……あなた、マーニーじゃなかったんだ……」

ぽつりとそう呟いてから、さやかはベッドに寝そべった。絶対にこの子がマーニーだとばかり思っていただけに、少しだけ残念な気持ちになった。天井を見上げながら、まだ見ぬマーニーの姿に思いを馳せる。

だがここへ来て、少女が口にした言葉の中に、とても気になるものが含まれていることに気が付いた。

「ねえねえ。あなたさっき、マーニーは空想の中の人って言ってたよね?」

「えっ? あっ……うん、そう。私の夢や、想像の中に出てくる、女の子なの」

「でも、ここに日記があるわ。名前だってちゃんと書いてある。わたし、それでマーニーのことを知ったのよ」

「名前……?」

さやかが裏表紙を見せて、ここに書いてあるでしょ、と指差して見せる。

「マーニー……確かに名前がある。でも、どうして……」

「きっとマーニーはホントにいたのよ。このお屋敷に住んでて、日記を引き出しに隠してた。間違いないわ」

マーニーは紛れもなくこの「湿っ地屋敷」に住んでいて、この日記を書いていた。だから実在したことは疑う余地もない。この女の子の空想の中に現れる少女もまた「マーニー」で、この屋敷に来ることで出会えたと言っている。現実と空想が入り混じって、「マーニー」という不思議な少女の輪郭が浮かび上がってくる。

俄然、さやかは好奇心を燃え上がらせた。この子はマーニーでこそなかったが、素敵な女の子であることに何ら変わりはない。それに加えて、マーニーと何か特別な関係にあるような気がしてならない。もし空想の人物だとしても、偶然とはとても思えなかった。さやかはマーニーをきっかけにして、眼前の少女に強い関心を抱いた。

「きっと、これも何かの縁だわ。さあ、冷めないうちに飲んでね」

さやかは机の上に置いたティーカップに熱い紅茶を注ぐと、少女に差し出して飲むように勧めた。少女はためらいがちながらも、さやかからソーサーに載ったティーカップを受け取る。

「あなたはマーニーじゃなかった。じゃあ、あなたの本当のお名前を聞かせて」

マーニーではないとしたら、あなたの名前を教えてほしい。さやかが少女にそうせがむと、わずかばかりの間を挟んでから、おもむろに顔を上げて、つぼみのような小さな唇を開いて。

「私は……杏奈。杏奈よ」

杏奈。その名前を、さやかに告げた。

 

 

毎日のように晴れ渡っていた空に分厚い雨雲が迫り出し、いつ泣き出してもおかしくないような空模様となった、八月下旬のある日のこと。

「お兄ちゃんお兄ちゃん、このお屋敷に住んでた人のこと、もっと教えてくれない?」

杏奈と顔を合わせた日から、さやかはマーニーについて調べていた。とは言っても、自分よりもいろいろ知っていそうな兄にちょっと方向性をぼかして訊ねてみるのが精一杯だったのだけれど。

「おいおいさやか、俺もそんなに詳しいわけじゃないぞ。だいだい、この屋敷から人が引き払ったのは、もう三十年くらいは前のことなんだ」

「そんなに前なの? じゃあ、ずいぶん長いことほっとらかしにされちゃってたのね、湿っ地屋敷」

「三十年……いや、もっと前だったかな。とにかく相当昔のことだから、知ってる人を探すのも大変なくらいさ。それにしても、なんでそんなことを知りたがるんだ?」

自分がこのお屋敷の歴史に興味を抱いたことを不思議に感じたのか、兄はそんなことを訊ねてきた。ここでマーニーや杏奈のことを知られては大変だと思い、なんでもないよと適当にごまかして、さやかは自分の部屋へ退散した。そのままベッドへ寝転んで、ぼうっと天井を眺める。

マーニーのことを知るのはなかなか大変そうだと、さやかは大きくため息を付く。あれから杏奈とは時々会っていて、このお屋敷のことやマーニーの日記について話すことはあったけれど、杏奈がマーニーと会ったときのことはなかなか聞かせてもらえずにいた。

「杏奈ちゃん、マーニーとどんなことして遊んだりしたのかな……」

さやかはマーニーのことももちろん気になっていたけれど、それ以上に杏奈のことが気になって仕方なかった。いささか繊細な印象で、でも芯は強そうで、どこかで聞いた「凛とした」という言葉が当てはまる女の子だと思っている。けれどどこか人を寄せ付けないところがあって、端々に暗い陰を見出さずにはいられない。杏奈は自分や東京の友達にはない、内に何かを秘めている感じがした。

杏奈ともっと仲良くなりたい。杏奈自身のことも、杏奈がマーニーとどんなことをしてきたのかも、マーニーが杏奈にとってどんな人なのかも、もっともっと知りたい。さやかは持ち前の好奇心を発揮して、杏奈とマーニーという不思議な二人の少女と親しくなりたいという思いをいっそう強くした。

「あっ、そうだ。もしかしたら、日記のほかに何か隠してたりするかも!」

ベッドからばっと身を起こすと同時に、さやかはそんなことを閃いた。あの時は日記を見つけたことに驚いてしまって、引き出しの中をきちんと全部調べたわけではなかったのだ。まだ何かあるかも知れない、さやかは思い立ったが吉日、すぐさま机へ向かって、もう一度引き出しの中を探り始めた。

中には何も入っていないように見えたが、手を突っ込んで奥の方を調べてみると、何か引っかかるものに触れた。あっ、と思い慎重に引き出してみると、さやかはそれが一枚の絵だと気付いた。

「この絵は……ここだわ、湿っ地屋敷。ずいぶん上手ね、マーニーが描いたのかしら……あら?」

絵を確認しようとしたさやかだったが、その時両手の間をすり抜けて、数枚の紙束が落ちたのを目撃した。絵といっしょに隠していたものだろうが、その紙を目にした途端、さやかのまん丸い目がさらに大きくなった。

「これ……日記の残りだわ!」

年月を経て色褪せた紙の色には強い見覚えがあった。他でもない、マーニーの日記の破かれていた部分だ。二つに折り畳まれた状態で、絵の裏に隠していたらしい。厚みを見ても、マーニーの破いた全量が揃っていそうな感じがした。

素晴らしい大発見をしたと、さやかは飛び上がらんばかりに喜んだ。早速杏奈に見せに行かなければ、そう考えたさやかはポシェットに紙束を入れて、二階の部屋から勢いよく飛び出した。

「お兄ちゃん、わたしちょっとおでかけしてくる!」

「今からか? 今日はこれから雨が降るぞ。あんまり遅くなるなよ」

「分かってるって! すぐ戻ってくるもん!」

兄に一言断り、さやかは玄関を飛び出して自転車に飛び乗る。杏奈はよく海辺にいると言っていた。特に他に行く場所も聞いていなかったから、きっとそこにいるはずだ。

「待っててね、杏奈ちゃん。マーニーの秘密、見せたげるから!」

 

 

東京だとどうしても安全運転にならざるを得なかった自転車も、ここ北海道なら思い切り気持ちよく漕ぐことができる。カゴに入れたポシェットを揺らしながら、さやかは鼻歌交じりに砂利道を颯爽と駆け抜けていった。晴れの日ならもっと気持ちいいのだけれど、今日はあいにくの曇り空。この分だと兄が言っていた通り、雨も降り出しそうな気配だ。

杏奈を見つけたらまずは家へ招待して、雨に濡れないようにしよう。普段の雨降りは憂鬱だけど、自分の――すなわちマーニーの部屋で杏奈ちゃんと二人きりになって、雨音を聞きながらマーニーの秘密の日記を読む。ついでにおいしい紅茶もセットだ。これに胸がときめかないさやかではなかった。なんとも素晴らしい、女の子のためのシチュエーションじゃないか。

何はなくとも、まずは杏奈を見つけ出さないと。普段いると言っていた海辺まではあと少し。さやかのペダルを漕ぐ足に、ますます力がこもる。しばらくもしない内に、さやかは海辺の船着き場の辺りまで辿り着いた。

「……あれえ? 杏奈ちゃーん、いないのー? 杏奈ちゃーん!」

ところが、そこに杏奈の姿は見当たらなかった。杏奈の代わりに見つかったのは、何かを作ろうとして崩れたように見える砂の塊と、そこから始まる一組の足跡だけ。きっとこの辺に住んでいる子供が砂山を作ろうとして、雨が降りそうになったから止めて帰ってしまった、そんなところだろう。特に気にも留めずに、さやかは杏奈の姿を求めて再び自転車を走らせた。

あと行きそうなところはどこだろう。これといって思いつく場所もないまま、とりあえず自転車を走らせる。歩いて行ける場所はそんなに広いわけじゃないから、あちこち走り回っていれば見つかるかも知れない。さやかは楽観的な考えで、行方を眩ませた杏奈を捜し続ける。

砂利道が途中で舗装された道に変わって、町の小さな郵便局が見えてきた。この辺りは少し坂道がきついので、自転車から降りて押していくことにする。郵便局と言えば、この間東京の友達に手紙を書いてあげて、ここにあるポストへ入れたっけ――なんて考えていると、ポストの隣を通り掛かる人影が見えた。

「やっぱり気にしてるよ。こっちに顔も向けてこないんだもの」

「それにしたって、まるで誰かと一緒にいたみたいじゃない。ちょっと様子が変じゃないかしら」

ずいぶん大柄で恰幅のいい女の子と、おそらくそのお母さんに見える女の人が、並んでいっしょに歩いている。お母さんが痩せ型の割に、女の子の方は並の男子じゃ全然歯が立たなさそうなくらい立派な体格だ。お母さんのエネルギーを吸い取ってるんじゃないかしら、さやかはそんなしょうもないことを考えつつ、何気なくふたりとすれ違う。

「あと、この間は草むらの中で倒れてたって話も聞いたわ。前に家に来たときは、そんな風には見えなかったけれど」

「杏奈ちゃん喘息持ちだって聞いたから、それでしょ。ドラマとかでもさ、喘息の発作起こして倒れるってよくあるし」

ちょっと待て。今さらっととんでもない名前が出なかったか。

「向こうにあるのって、あの古いサイロだけよね。杏奈ちゃん、何しにいくつもりなのかしら」

杏奈はサイロへ行った。この町でサイロといったら、ここから少し走った先の小高い丘の上にある、あの老朽化したものしか考えられない。杏奈は間違いなくサイロの近くにいるはずだ。さやかの胸がとくんと高鳴り、自然と口から笑みがこぼれる。これで、杏奈ちゃんといっしょに自室で雨音を聴き紅茶を飲みながら秘密の日記を読める。そんなさやかのやけに細かい空想が、いよいよ具体化の兆しを見せてきた。

「ああ見えて杏奈ちゃんも杏奈ちゃんで、やっぱり気にしてるのかしらね」

「まったくもう。こっちはあれで手打ちにしたげるって思ってるのに、強情なんだから」

残りの会話はほとんど耳に入ってこないままに、さやかは再び自転車に飛び乗った。

サイロのある丘までは、全速力で走って五分と掛からなかった。一度スピードを落として、近くを杏奈が歩いていないか確かめつつ、徐々にサイロまで近付いていく。

すると――そこで、さやかは坂道を登っている最中の杏奈の姿を目撃した。脇目も振らずにまっすぐ歩いて、そのまま丘を登りきろうとしている。

(あれ……間違いない、杏奈ちゃんだわ!)

ここを逃す手は無い。ポシェットから持ってきた紙束を取り出してしっかり握り、自慢の大声を張り上げた。

「杏奈ちゃーん! 杏奈ちゃぁーん!」

自分の名前を呼ばれたことに気が付いた杏奈が立ち止まって、さやかの方を向いたのが見えた。ほっと一安心したさやかが、紙束を振ってアピールしながらさらに声を上げる。

「大発見! マーニーの日記の残りが見つかったの! 引き出しの中に絵といっしょに隠してあったわ!」

だから、わたしといっしょに帰って日記を読もう、続けてそう言おうとしたさやかだったが。

「ごめんなさい。私……行かなきゃいけないの。日記のことは後にさせて」

「マーニーが……マーニーが私を待ってる。だから私、行かなきゃ」

行かなきゃいけない。そう繰り返して、杏奈はさやかから目線を外して再び歩き始めた。あれれれ、とさやかが目を点にしている間に、杏奈はどんどん先へ進んでしまって、いつの間にか姿を消していた。

独り残されてしまったさやかはぽかんと口を開けたまま、手に持った紙束をじいっと見つめる。

「杏奈ちゃん、どうしちゃったのかしら……それに、マーニーが待ってるって、どういうこと?」

いまいち釈然としないながらも、後にさせてほしいということは、少し待てば自分の家まで遊びに来てくれるに違いない。いっしょに帰れないのは残念だったけど、約束を取り付けることはできた。

空模様は悪くなるばかりで、いつ雨が降り出してもおかしくない状態だった。あまり外に長居しない方がいい、さやかはポシェットに紙束をしまい直すと、来た道を戻って湿っ地屋敷へと急いだ。

 

 

雨が降り出したのは、さやかが湿っ地屋敷へ戻ってきて十分と経たないうちのことだった。

「やあ、こりゃひどい雨だ。俺もさやかも、紙一重だったな」

「雨に濡れたら風邪を引いちゃうわ。ちゃんと窓も閉めとかなきゃね」

さやかが兄を屋敷へ招き入れながら、食べ物のつまったビニール袋を分担して持ってあげる。あれから兄も買い出しに出ていて、本降りになる前に滑り込みで帰ってきたのだ。キッチンで袋の中の食材を確かめて、これは冷蔵庫、それは冷凍庫、あれは棚の中にしまう、と言った具合に手際よく分けていく。

仕分け作業がすっかり終わったところでさやかは一息ついて、兄が大広間でくつろぎ始めたのを見てから自室へ戻った。もうしばらくすれば杏奈も家へ来るはずだ。それまでに部屋のお片付けを済ませて、きちんと迎えられるようにしておこう。さやかは腕まくりをする仕草を見せて、部屋の掃除に取りかかった。

「さあ、これでいつ来てもらっても恥ずかしくないわ。杏奈ちゃん、早く来ないかしら」

掃除は二十分ほどで終わって、部屋は小奇麗に整頓された状態になった。これで準備万端、杏奈がいつ遊びにきても堂々と迎えられる。あとは杏奈が来てから紅茶を淹れて、ここまで持ってくるだけだ。さやかはこれから来たる楽しい時間に心躍らせながら、杏奈が呼び鈴を鳴らすのを今か今かと待ちわびた。

しかし、さやかの予想は外れてしまって。

「一体どうしちゃったのかしら……あれから、もう一時間くらい経つのに」

待てど暮らせど、杏奈が屋敷までやって来る気配は無かった。窓から外を眺めてみたり、何度か濡れない程度に外へ出て確かめてみたけれど、杏奈の姿は影も形も見当たらない。後にさせて、と言っていたからには、用事が済んだら来てくれると思っていたのに。

こういう時、さやかは友達が来ないことに苛立つよりも、途中で何かあったんじゃないかとか、遊びに来られなくなるような出来事に巻き込まれたんじゃないかと心配してしまうタイプだった。聞いたところだと、杏奈も自分より少し前にここへ来たばかりで、地理にもそんなに明るいわけじゃないらしい。どこかで道に迷ったのだろうかと、さやかは不安な気持ちを抱かずにはいられなかった。

(そういえば杏奈ちゃん、マーニーが待ってるって言ってたっけ……)

マーニーが待ってる、だから私は行かなきゃいけない。杏奈はそんなことを言っていた。マーニーが待ってるとはどういうことだろう。さやかはベッドの上で腕組みをしてああでもないこうでもないと考えてみてから、ふと、隣に置いておいたあの紙束――マーニーの日記の残りに目が留まった。

ここでさやかがお得意の空想の翼をはためかせる。杏奈はもしかすると、昔ここに住んでいたマーニーと何かの「つながり」を持ったのではないか。だから杏奈はマーニーといっしょに遊んだりすることができて、マーニーのいる場所も分かるのかも知れない。突拍子もない空想だったが、さやかはそうした空想をするのが大好きだったし、不思議なことは実際に起こりうると考えるタイプだった。

けれど、とここで足が止まる。前に読んだ日記だと、この湿っ地屋敷で起きたことばかりが書かれていて、ここから外へ出た形跡すら見つけられなかった。マーニーはほとんどの時間をお屋敷で過ごしていたのだ。だとすると、杏奈の言っている「マーニーが待ってる」というのは、どこで待っているというのだろう。湿っ地屋敷でないとしたら、マーニーはどこへ行ったのだろう。

胸騒ぎがする。杏奈と出会ったときのような楽しい「わくわく」という胸騒ぎでは無くて、何か大変なことが起きるのではないかという「ざわざわ」という類の胸騒ぎだった。

(もしかすると、ここに何か書いてあるかも知れないわ)

さやかは無意識のうちに紙束へ手を伸ばしていた。既に読んだ部分には無い、どこか別の場所での出来事が書かれているかも知れない。本当は杏奈が来てからいっしょに読みたかったところだけど、今の状況を鑑みると、このままじっと待っているわけには行かない気がした。

紙束を丁寧に広げて、日付を追いながら中を読んでいく。そうしてさやかが真っ先に目に留めたのは、ここまでの日記には登場していなかったある人物の名前だった。

「カズヒコ、カズヒコ……あっ、ここにも。この日記、カズヒコだらけじゃない」

カズヒコという、明らかに男性の名前がそこかしこに出てきていた。いわく、カズヒコといっしょに散歩をした、いわく、カズヒコといっしょにボートに乗った。ページをめくれどめくれど、とにかくカズヒコという名前が延々と登場するのだ。東京の友達の中にもカズヒコという男子がいて、名前を見る度にそちらの顔が浮かんでくるものだったから、さやかは調子が狂ってしまいそうだった。

書いてある内容から察するに、カズヒコはマーニーの幼馴染で、マーニーは彼に思いを寄せていたようだった。カズヒコの方もマーニーのことが好きで、彼女に楽しいことをいろいろしてあげたらしい。

(ははあん、そういうことね。マーニーったら、可愛らしいんだから)

ここまで読み進めて、マーニーが日記を破いて切り離していた理由を、さやかはそれとなく察することができた。何のことはない、それまでの淡々とした日常を描いたものとは違って、ここにはカズヒコとの楽しい逢瀬の様子がありありと描かれている。他人には一番読まれたくないプライベートな部分だ。だから人目に付かないように切り離した、けれど捨てるには忍びなくて、分かり辛い場所へ隠した。これに間違いないと、さやかは自信を持って頷いた。

他の子の恋をしている様子は読んでいて楽しいけれど、日記に登場するのは相変わらず湿っ地屋敷とその周りの海や小径ばかりで、一向に外へ出る様子がない。やっぱり思い過ごしかしら、読み進めつつも内心諦めの感情を抱きつつあったさやかが、次の紙片に目を向けた時だった。

「……えっ!?」

その日の記録は筆跡がひどく乱れていて、感情が高ぶっているのが誰の目にも明らかだった。

普段の流麗さとはかけ離れたたどたどしい文字と文体で書かれた文中に、さやかは思いも寄らぬ文言を見つける。

「マーニーが……サイロへ……!?」

 

 

「何も、こんな雨の日に出かけなくたっていいだろ?」

「ダメダメ。もしかしたら、杏奈ちゃんがサイロにいるかも知れないもの」

「杏奈ちゃん……ああ、この間うちに遊びにきた女の子のことだな」

「そう。わたしの大切なお友達よ」

一人で行くのはさすがにちょっと怖かったので、さやかは兄にお願いしていっしょに付いてきてもらうことにした。兄は「雨の中出かけるのか?」と不思議がりつつも、すんなりさやかに同伴してくれた。いつも軽口をたたいてロマンを分かってくれないこともあるけれど、何だかんだで自分のことを見守ってくれる。

さやかは、そんな兄のことが好きだった。

「サイロっていうと……向こうの方か。今まで行ったことないから、道を間違えないようにしなきゃな」

「大丈夫。道はわたしがちゃんと知ってるわ」

「そいつは頼もしいな。なら、早く杏奈ちゃんがサイロにいるかいないか確かめて、うちへ帰ろう」

二人連れ立って歩き、一路サイロを目指す。湿っ地屋敷からは歩いて二十分ほど、雨が降っていることを鑑みて、三十分くらいはかかると考えておかねばならないだろう。

さやかは表立って見せてはいなかったものの、杏奈のことが心配で心配でならなかった。サイロは使われなくなってずいぶん経つから、中がどうなっているかは分かったものではない。それにこの雨だ、もしかすると出るに出られずに立ち往生しているのかも知れない。そうなってしまっていたら、濡れないように自分の傘に入れて帰らせてあげよう。何ならそっくりそのまま貸してあげて、自分は兄といっしょの傘に入ってもいい。とにかく杏奈が濡れないようにさえできればよかった。

というのも、さやかはあることを思い出していて。

(杏奈ちゃんは喘息持ちだってあの女の人が言ってたわ。風邪なんて引いたら、命に関わっちゃう)

今日杏奈に会う直前に聞いた会話の中に含まれていた「杏奈ちゃんは喘息持ち」という言葉が、ひどく気に掛かっていた。喘息がどういう病気かはさやかも多少なりとも知っていて、風邪なんて引いてしまえば一大事になることも分かっていた。だからこうして兄と連れ立ってサイロまで向かい、杏奈が無事かを確かめにいこうとしているわけだ。

「お兄ちゃん、大岩さんから電話来ないの?」

「来てないなあ。事情を話して、もし杏奈ちゃんが帰ってきたら教えてくださいって伝えたんだが……」

杏奈が今住んでいるのは、お屋敷から少し離れた場所にある大岩さんの家だった。引っ越してきてからしばらくしてに兄と連れ立ってご挨拶に行き、人の良さそうなおばさんとおじさんが暮らしているのを見かけたのをよく覚えている。この時兄はおばさんから杏奈の話も聞いていたようだったが、さやかはと言うと面白いものだらけの大岩家にすっかり魅了されてしまい、あちこちを好きなように探検していてちっとも話を聞いていなかった。まあ、さやからしいと言えばさやからしい。その時聞いた「杏奈」という名前と、妹の口にした「杏奈ちゃん」という名前でピンと来た兄が、居候先の大岩さんに連絡をしたという寸法だ。

もし杏奈が帰ってきたならそれで問題無し、途中で見つかればすぐに大岩さんに連絡できる。こうした体制の中で、さやかは兄と共に杏奈の姿を捜しつづける。

さやかの脳裏に一抹の不安が過る。もしかすると杏奈は雨の中家へ帰ろうとして、どこかで雨に打たれてしまったんじゃないか。いやいや、そんなことは無い。雨宿りして難を逃れているはずだ。まさか、道端で倒れているなんてことはありっこない――。

この時さやかは、最後に「ありっこない」と付けたとはいえ、道端で倒れているなんていう不吉な空想をしてしまったことを後悔した。

なぜなら。

「ん……? あれは……人か? 人が倒れてるのか?」

「えっ……!?」

兄の指差す先、草むらにほとんど隠れているけれど、確かに見える人の影。

まさか。さやかがたまらず走り出す。泥水を跳ねさせながら全力で駆けつけたさきで、彼女が目にしたものは。

「杏奈ちゃん……!」

ずぶ濡れになり、泥まみれになって道端で倒れていた、杏奈の姿だった。

「お兄ちゃんっ! 杏奈ちゃんが、杏奈ちゃんが……!」

「なんてこった……雨に打たれちまったんだな」

必死に杏奈を抱き寄せて、泣きながら兄を呼ぶ。すぐさま駆けつけた兄が杏奈の容態を確かめると、険しい表情を浮かべたのが見えた。どうやらかなり危険な状態のようだった。

「ひどい熱だ……! さやか、杏奈ちゃんが雨に濡れないように見ててくれ。すぐに人を呼んでくる!」

さやかに杏奈を任せるた兄は、近くの民家まで人を呼びに走っていった。残されたさやかは杏奈を抱きしめ、目から涙を溢れさせながら、幾度となく杏奈に呼びかける。

「杏奈ちゃん、しっかりして! 杏奈ちゃん……!」

「マーニー……ひどいよ、ひどい……私を、置いてくなんて……」

「お願い、目を開けて……! 杏奈ちゃん、杏奈ちゃん!」

程なくして、兄が近所の人の運転する車に乗って戻ってきた。直ちに後部座席へ載せて寝かせると、一路大岩家へ急ぐ。

 

それからどうにか杏奈を大岩家まで運び込み、雨に濡れた体を丁寧に拭いてからベッドへ寝かせるところまでできたものの、具合は思わしくないようだった。

「杏奈ちゃん……大丈夫かな……」

「今はまだ、何とも言えないわね。多分、寝れば良くなるとは思うけれど……」

おばさんの声からも覇気が感じられない。さやかと同じく、不安な気持ちに包まれている様子がありありと窺えた。杏奈が快復するかどうか、それはまさしく杏奈次第だった。

(杏奈ちゃん……)

杏奈のことを想う。それだけで胸が締め付けられてキリキリ痛み、今にも張り裂けてしまいそうになる。けれども、けれどもさやかは、あえて、こんなことを口にして見せた。

「あのね、おばさん」

「どうしたんだい、さやかちゃん」

「杏奈ちゃんが元気になったら、お見舞い、来てもいい?」

起き上がれるくらいまで体調が戻ったら、お見舞いに来させてほしい。それは、さやかが杏奈が必ず復調すると信じているからこそ出た言葉だった。

「――もちろんさ、大歓迎だよ。杏奈ちゃんだって、きっと喜んでくれるよ」

「ありがとう、おばさん。わたし、絶対お見舞いしにくるから」

さやかの言葉で、少しだけ、この場の張り詰めた空気が、和らいだ気がした。

 

 

倒れた杏奈をさやかが助け出してから、三日ほど経ってからのこと。

「ふっふふーん♪ ふっふっふーん♪ ふっふふーん♪ ふっふっふーん♪」

「おっ、朝からずいぶん機嫌がいいな。何か作ってるのか?」

「クッキー焼いてるの! 杏奈ちゃんが元気になったから、お見舞いに持ってってあげるんだ!」

大岩さんから電話をもらって、杏奈がすっかり回復したことを教えてもらったさやかは、数日前の沈みようが嘘のように上機嫌だった。気持ちよく鼻歌を歌いながら、お見舞いに持っていくためのお手製のクッキーを焼いている真っ最中だった。

「それにしても、いい匂いだな。せっかくだし、俺にもちょっとおすそ分けしてくれよ」

「ダメダメっ。これは、杏奈ちゃんのお見舞いのためだもん」

「あーあ、そいつは残念だ。さやかのクッキー、俺は結構好きなんだがな」

杏奈に持っていくから分けられないと言われた兄が、物欲しそうに指を咥えてみている。兄の様子を見たさやかはふふっと小さく笑ってから、おもむろにこう付け加えた。

「……なーんて、うそうそっ。ちゃーんとお兄ちゃんの分も焼いてあるんだから。杏奈ちゃん助けるの手伝ってくれたお礼だよ」

「はっはっはっ。そりゃ光栄だ。じゃ、焼けるのを楽しみに待ってるな」

とまあ、こんな具合のやりとりをしているうちに、さやかの仕込んだクッキーが綺麗に焼きあがったのだった。

クッキーを小袋にたくさん詰めて、ついでに可愛らしいリボンをあしらって。小洒落たクッキーの詰め合わせを提げたさやかが、杏奈のいる大岩家まで意気揚々とやってきた。呼び鈴をぐいぐい押すと、ドアの向こうから「はーい」という聞き覚えのある声が聞こえてきた。

がちゃり、とゆっくりドアが開かれる。そこには、さやかが待ちわびた顔があった。

「杏奈ちゃん! 元気になったって聞いたよ!」

「さやかちゃん、来てくれたんだ……! さあ、上がって。向こうでお話ししよっか」

杏奈はまだパジャマ姿だったけれど、もうすっかり元気を取り戻しているようだった。顔色もいいし、声にも張りがある。

それに、心なしか――いや、そんな曖昧なものじゃなくて、もっとはっきり分かるくらい、杏奈の表情が明るくなっていた。今までのどこか陰を感じさせる固い表情ではなくて、杏奈が持っている自然な特徴が、はっきりと表に出ているという印象を受けたのだ。

「心配かけちゃってごめんね。セツさんにもさやかちゃんにも……それに、おばちゃんにも、みんなに心配掛けちゃって」

「ううん! 杏奈ちゃんが元気になって、ホントに良かった! でも、おばちゃんって誰? 大岩さんじゃなくて別の人?」

「……うん。私、親を亡くしてて、親戚の人のお世話になってるの。今はここに療養しにきてて、家は札幌にあるんだ」

遠くから来ているということは、以前それとなく聞かされていた。けれど、そんなに大変な事情があったなんて。さやかはこういう話にとても弱くて、自他ともに認める涙もろい子だった。大変な思いをしてきたんだなあと感じ入ると同時に、よく回復してくれたと感慨深い思いも持った。瞼に涙がうっすら浮かんでいることに気がついて、せっかくのお見舞いに涙は似合わぬとばかりに、眼鏡を外してぐいぐいと目をこすった。

杏奈に連れられてやってきた縁側で、さやかは早速持ってきたクッキーを差し出す。

「はい、これお見舞いのクッキー。わたしが家で焼いてきたの。食べて食べて!」

「わぁ……! ありがとう、さやかちゃん」

さやかがクッキーを薦めると、杏奈は顔を綻ばせてすぐに一枚手に取って食べる。口の中でおいしそうに何度かもぐもぐしてから、気持ちよくごくんと飲み込む。しっかり味わってから、自然と朗らかな表情を見せて「おいしい」と言ってくれた。それがもうとても嬉しくて、さやかもいっしょになって笑ったのだった。

二人で仲良くクッキーを分け合って食べて一段落したところで、杏奈がさやかにこんな質問をした。

「おばさんから聞いたよ。私を助けてくれたの、さやかちゃんだって。でも、どうして私があそこにいるって分かったの?」

「マーニーの日記の続きを読んだときにね、サイロって言葉が出てきたの。あの時の杏奈ちゃん、サイロの方へ行こうとしてたでしょ? それで、ひょっとしたらって思って」

「そうだったんだ……さやかちゃんの言う通り、私はサイロへ行ったの。そこで、マーニーが待ってたから」

「あの時も言ってたよね、マーニーが待ってるって」

「うん。私がマーニーに『サイロへ行こう』って言って、彼女が先にそこへ行ったから。だから、私も行かなきゃいけなかったの」

杏奈の話に耳を傾けるさやかは、彼女の言葉を疑ったりであるとか、空想であると決めて掛かったりということが少しも無かった。杏奈が「マーニーのところへ行かなきゃいけなかった」と言うならば、それは紛れもない本当のことなのだ。

確かに、マーニーは形を伴わない、まぼろしの存在かも知れない。杏奈だけが視ることのできる、まぼろしの女の子かも知れない。けれど、マーニーという名の少女が、自分と杏奈を結び付けてくれた。例えマーニーのことを見たり、彼女の声を聞いたりすることはできなくても、彼女は大事な絆をプレゼントしてくれた人なのだ。

「さやかちゃん。この間教えてくれた日記の続き、読ませてもらえる?」

「もちろん! ちゃんと持ってきてあるんだから! あとね、日記といっしょにこんなものも出てきたの」

「こんなもの……?」

さやかが杏奈に日記といっしょに手渡したのは、切り離された日記と同じ場所に隠されていた、あの古びた一枚の絵だった。

「これは、湿っ地屋敷の……誰が描いたのかしら?」

「マーニーが描いたのかなあ? もしかしたら、裏に何か書いてあるかも」

裏、という言葉を耳にした杏奈がこくんと頷いて、絵をゆっくり裏返してみる。

すると、そこには――。

「……『hisako』……この絵、まさか久子さんが……!?」

驚く杏奈の隣で、初めて聞いた「久子」という名前に、さやかは目をぱちくりさせていた。

 

 

その日の夜。

お風呂に入って、歯も磨いて、眠りに就く準備はすっかり整ったというのに、さやかは少しも寝付ける気がしなかった。

「マーニーと湿っ地屋敷に、あんなお話があったなんて……」

さやかを何時までも覚醒させていたのは、昼下がりに聞くことのできた、マーニーとこのお屋敷についての話だった。

久子さん。彼女はこの辺りに昔から住んでいて、時折海辺で絵を描いている姿を見ることができる。相応に高齢のはずなのに、その風貌はお洒落で若々しくて、独特の暖かさを感じさせるものだった。さやかも何度か姿を見たことだけはあって、一体どんな人だろうと密かに興味を抱いていたところだった。

「昔は、よくあの湿っ地屋敷に遊びに行ったものだったわ」

「マーニーと遊ぶのが、とても楽しくて」

マーニーにとって、久子さんは心を許せる親友だったようだ。よくお屋敷へ遊びに行かせてもらって、プレゼントをもらったり、マーニーの話を聞かせてもらったりしていたという。

今はさやかが使っているこの部屋で、確かにマーニーと久子さんはいっしょに遊んでいたのだ。

「華やかなパーティの様子や、母親が旅行先で買ってきた珍しい土産物のことを、たくさん聞かせてもらった」

「けれど――本当は、寂しかったのよ。いつも放っておかれて、一人ぼっちだったから」

マーニーの両親はしょっちゅう家を空けてしまって、彼女だけが取り残されてしまうことがとても多かった。もちろん、彼女が一人ぼっちでいるというわけではない。住み込みで働いている使用人とメイドが、名目上、彼女の身の回りの世話をすることになっていた。

しかしながら。

「使用人のばあやはとても厳しい方で、マーニーは本当に怖がっていた」

「もっと辛かったのが、二人のメイドからよくちょっかいを出されて、苛められていたことなの」

彼女を真に想ってくれる人間は、屋敷には誰一人としていなかったようだった。

久子さんはその後、マーニーが意地悪なメイド二人に無理やり連れ出されて、雷鳴の轟く中であのサイロへ行かされたという話をしてくれたのだが。

「……ひどい! そんなひどい話、聞いたことない!」

あまりにも理不尽で陰険な仕打ちに、さやかは思わず声を荒げて怒りを露にした。話し手たる久子さんは繰り返し頷いて、さやかの気持ちを共有していることを暗に示して見せた。

やがて時は流れて、マーニーも成長してこの町を旅立つこととなった。その時パートナーとなったのが、他でもない、あの日記に繰り返し名前の綴られていた幼馴染・カズヒコだった。久子さんも結婚式に呼ばれて、幸せに包まれた様子のマーニーを確かに目にしたという。

マーニーとは成人してからも手紙でのやりとりを続けていて、互いの状況をつぶさに把握していたという。

「――マーニーはカズヒコさんを早くに亡くして、どうしようもなくなって、娘さんを全寮制の学校へ進学させたの」

「でも、それが娘さんの心をひどく傷つけてしまったみたいで」

「『自分は見捨てられたんだ』……そんな風に考えてしまって」

「卒業して町へ戻ってきた頃には、自分のことを一番に考えるようになって、独立心が強くなっていて」

「もう、かつての彼女ではなくなっていたの」

夫を失い、娘に対して良かれと思ってしたことが裏目に出てしまい、マーニーは孤独を募らせていった。さやかは押し黙ったまま神妙な面持ちをして、久子さんの話に真剣に耳を傾けていた。

「顔を合わせる度にケンカばかりしてして、娘さんはついには家を飛び出してしまった」

「しばらくして孫が生まれたのだけれど、娘さんが帰ってこないものだから、顔を見ることも叶わなくて」

「けれど、それからもっと衝撃的な報せが届いたの」

「娘さんと旦那さんが交通事故に巻き込まれて、子供を残したまま亡くなった、って……」

止まることの無い不幸の連続に、さやかは思わず言葉を失った。

どうしてマーニーは幸せになれないのだろう。そんな途方もない疑問が湧き起こってきた。彼女は何か間違ったことをしたわけではない、ただ懸命に生きようとしただけなのに、どうしてこれほどまでに辛い目に遭わなければならないのだろう、と。

何が、彼女をここまで追い詰めるのだろう。

「そうして一人遺された子供を、マーニーが引き取ることにしたの」

「とても可愛らしい、女の子だって教えてくれたわ。どこか自分の面影がある、瞳の色もお揃いだって、いつも自慢していたもの」

「娘を自分の側に居させてあげられなかった。その罪滅ぼしのために、彼女だけは何があっても離さない、ずっと側に居て愛情を注ぎつづける、そう誓った」

「きっと……愛する孫娘といっしょに過ごすことのできたこの時間こそが、マーニーにとって一番幸福な時間だったと思うわ」

この時久子さんが杏奈の目をまっすぐ見つめていたことを、さやかは気付くことができなかった。何故なら、マーニーの孫娘の話を聞く頃には、もうどうにも堪えられなくなってしまって、両手で目を覆ってぼろぼろ涙をこぼしていたからだ。

最後にほんの少しだけ訪れた、とても幸せなひととき。それさえも永くは続かなくて、マーニーは大切な孫娘との今生の別れを迎えることとなる。

孫娘が物心付いた頃――マーニーは、静かに息を引き取った。

(マーニー……あなたは、幸せだったのかしら)

真っ暗な部屋の天井をぼうっと眺めながら、さやかが答えの出ない疑問を投げかける。

とても辛い人生だったと思う。幸せな時間はごく短く、多くの時間は懊悩と悲哀に包まれていたと思う。それでもマーニーは、孫娘といっしょにいることができて、少しでも幸せだったろうか。

そうしてマーニーの思いに考えを巡らせていたさやかが、不意に、その後孫娘はどうなったのだろうと考えた。

(久子さん、孫娘は親戚に引き取られて、今は北海道のどこかで暮らしてるって言ってたっけ)

(じゃあ、まだ北海道にいるんだ。一体どんな子だろう)

冴えていた頭も少しずつ落ち着いてきたさやかが、ぼんやり瞼を下ろし掛けた時、ふわふわと取り留めもない考えがいくつか浮かび上がってきた。持ち前の空想力や好奇心が無意識のうちに発揮されて、頭の中でいつの間にかそれらを結び付け始めていた。

(久子さん、マーニーは青い目をしてたって言ってたっけ。外国の人だし、それが普通だよね……)

(マーニーが死んだのは今から十年くらい前だったから、孫娘は、多分今頃中学生くらいになってる……)

(今も北海道にいて、親戚といっしょに暮らしてる……)

(……えっ? ちょっと、ちょっと待って)

無秩序に散らばっていたピースを集めて、それとなく繋げてみると、さやかはあることに気がついた。

(……青い瞳をしていて)

(今は中学生くらいになってて……)

(今は北海道で、親戚のお世話になってる……!?)

あまりの驚きに、寝ぼけ眼だった目がかっと大きく見開かれた。そのまま勢いよく体を起こして、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。

頭に思い浮かんだすべての条件にピタリと当てはまる人が、自分のすぐ側にいることに、さやかは気が付いてしまったのだ。

「もしかして……マーニーの孫娘って……!」

愕然とした面持ちのまま、思わず口を突いて出てきた言葉。

 

「――杏奈ちゃん、杏奈ちゃんじゃないの……!?」

 

 

夏休みも終わりが見えてきた頃。さやかはすっかり仲良くなった杏奈と連れ立って、海辺をゆっくり散歩していた。

「いよいよ夏休みもおしまいかあ。杏奈ちゃんがいなくなったら、寂しくなっちゃいそう」

「私も、さやかちゃんとお別れしなきゃいけないのは寂しいよ。でも、この間も約束したけど、手紙、必ず書くから」

「うん! わたしも絶対書く! それでね、またお休みになったら、いっしょに遊ぶの!」

先日船の上で交わしたお互いに手紙を書こうという約束を、さやかはもちろん覚えていた。元々手紙を書くのは大好きなさやかのことだ、杏奈の方から言われたのなら、書かないわけが無かった。

風を浴びながら歩く二人。心地よい時間の中で、先に口火を切ったのは、杏奈の方だった。

「さやかちゃん」

「私はここに来てから、マーニーとずっといっしょに遊んでたの」

「マーニーは、みんなには内緒にしてほしい、私たちだけの秘密にしてほしい。そう言ってたわ」

「でも――」

そこで言葉を切った杏奈は、さやかの目をぶれることなく見つめる。青空のように透き通った青い瞳に射抜かれたさやかは、文字通り瞬き一つせずに、瞳の奥へ吸い込まれていくような感覚を味わう。

「さやかちゃんには、私とマーニーのこと、話してもいい……ううん、話したいって思った」

「きっと、全部受け容れてくれる。間違いないって」

「私の、大切な友達だから」

頷く。

ゆっくりと、深く、確かに頷く。

「――聞かせて、杏奈ちゃん」

杏奈の言葉を一言もこぼさずに、ありのまま受け容れようと、さやかは固く決意する。

「あれは、七夕祭りの夜だった」

「お祭りでちょっと嫌なことがあって、一人になりたいと思って、ここまで走ってきたの」

「そうしたら、湿っ地屋敷に明かりが灯ってて」

「見ているうちに、どうしてもそこへ行きたくなったの」

「近くにあったボートを必死に漕いで、お屋敷までやっとの思いで辿り着いた」

「そこにいたのが――マーニーだった」

マーニーの話をする杏奈は、まるで夢を見ているかのよう。

あざやかで、美しくて、そして――どこか、儚い夢。

「二人でいっしょにピクニックに出かけたこともあったわ」

「向こうに小屋が見えるでしょう? あそこの近くまで船を漕いでいったの」

「マーニーは葡萄のジュースとビスケットを持ってきてくれて、私にご馳走してくれた」

「それから、こんな約束をしたの」

「『お互いに相手の気になることを、毎日三つずつ質問しよう』って」

私のこともマーニーのことも、そこでたくさん話したわ。楽しそうに語る杏奈の姿を、さやかは瞳を輝かせて、うんうんと何度も頷きながら、興味津々の面持ちで聞いていた。

「お屋敷で開かれたパーティにお邪魔させてもらったこともあった」

「大勢の人が詰め掛けて、色とりどりのごちそうや、たくさんのプレゼントがあった」

「私、マーニーに頼まれて、花売りの恰好までしたんだから」

「マーニーのお父さんから飲み物をもらって、ジュースだと思って飲んだら、ワインだったのよ。びっくりしちゃった」

「眠くなって外で休んでたらマーニーが来てね、いっしょに踊ろうって」

「パーティがお開きになるまで、ふたりでずっとダンスを踊ってたの」

日記に書かれていたパーティの光景が、さやかの脳裏にありありと浮かんできた。

マーニーとステップを踏む杏奈。二人の姿を想起するだけで、さやかはふんわりとした幸せな気持ちに包まれる。そこに自分がいなかったのは少し残念だけれど、杏奈とマーニーが幸せな時間を過ごせたならば、ただ、それだけで十分だと思うことができた。

「私のスケッチを見て、上手ねって言ってくれたこともあった」

「船の漕ぎ方を教えてくれて、ずっとボート遊びをしていたこともあった」

「ここじゃない、どこか遠くの森まで出かけて、きのこ狩りをしたこともあった」

「マーニーは、いつも私の側にいて」

「『あなたのことが大すき』」

「――心からの言葉を、私に聞かせてくれたわ」

杏奈はやわらかな表情を浮かべると、そこで一度、さやかから目線を外した。

「今なら、その言葉の意味が分かる。はっきりと、とてもはっきりと」

「マーニーは、本当に、私のことを愛してくれてたんだって」

「私、ずっと思ってた。誰からも愛されてない、自分なんて、いらない子なんだ、厄介者なんだって」

「そんなことない。そんなことなかった」

「一人ぼっちになった私を、守り、慈しみ、育ててくれた」

「それが――マーニーだった」

ああ。

やっぱり、そうだったんだ。

マーニーの孫娘は――杏奈ちゃんだったんだ。

「マーニーだけじゃない」

「セツさんも、清正さんも」

「――お母さんも」

「みんな、私を愛してくれてたんだって」

「やっと気付けた。遠回りしちゃったけど、でも、私、気付けたんだ」

杏奈が「お母さん」という言葉を口にした途端、さやかは胸にこみ上げる熱いものを抑えられなくなった。思わず眼鏡を外して、浮かんだ涙を懸命に拭う。

この間までの「おばちゃん」という他人行儀な呼び方ではない、「お母さん」という言葉。そこに至るまでの杏奈の想いを綺麗に汲み取ったさやかは、涙を流さずにはいられなかった。さやかが泣いているのを見た杏奈が、同じく目尻に涙を浮かべながら、ありがとう、と呟く。

涙を拭いたさやかが、杏奈の目を今一度見つめる。

「杏奈ちゃん」

「わたしね、杏奈ちゃんに会えてよかった、本当によかった」

「素敵なお話をたくさん聞かせてくれて、夢みたいに楽しかった」

「大変なこともあったけど、でも、今はみんな、きれいな思い出。宝石みたい」

「だからね、お別れしちゃう前に……どうしても、言わせてほしいの」

「杏奈ちゃん。わたしも――」

胸を張って、穏やかに微笑んで、まっすぐに前を向いて。

 

「『あなたのことが大すき』」

 

あなたのことが大すき。

さやかは、杏奈に――確かに、そう告げた。

思いのたけをこめたさやかの言葉に、杏奈は。

「さやかちゃん……!」

「……わっ、杏奈ちゃん……!?」

「私もだよ、さやかちゃん。私も、さやかちゃんに会えてよかった、本当に良かった……!」

「杏奈ちゃん……!」

「あなたと仲良くなれて、本当に良かった……!」

さやかを強く抱きしめることで、しっかりと応えて見せた。

 

 

季節はすっかり秋めいて、夏物を片付ける時期がやってきた。

「さやかー、杏奈ちゃんから手紙が来てるぞー」

「本当!? 見せて見せて!」

「慌てるな慌てるな、ほら、これだぞ」

「ホントだ、杏奈ちゃんからだ……!」

とある休日の朝。ポストを見に行った兄が、杏奈から届いたという手紙をさやかへ手渡した。さやかはいささか興奮気味に、便箋をまじまじと見つめている。

封筒をひっくり返してみると、そこには一人の女の子の絵が描かれていた。

「おお、それだ。封筒に女の子の絵が描いてあったが、あれは誰なんだ? 杏奈ちゃんとも違うし、さやかでもないし……」

「えへへっ、ひ・み・つ。わたしと杏奈ちゃんだけの秘密なんだから」

「おっ、さやかも秘密を持ちたがる年頃になったか。こりゃもうすぐ、誰それを好きになったとか言い出しそうだ」

「何よぅ、いつまでも子供扱いして。お兄ちゃんには見せてあげないもんっ」

さやかはぺろりと舌を出して兄にあかんべえをすると、そのまま二階にある自分の部屋まで駆けてゆく。

部屋へ駆け込んださやかがきちんとドアを閉めて、兄がここまで追いかけてきていないことをしっかり確かめてから、さやかはそっと封筒に鋏を入れた。

「――さやかちゃんへ。お元気ですか。私は身体の具合もよくなって、とても元気です……」

取り出した手紙には、杏奈が喘息の発作も収まって健やかに暮らしていること、二学期から美術部に入ったこと、学校でもみんなと少しずつ打ち解けてきたことが、丁寧な文体で書かれていた。落ち着いた言葉選びをしているけれど、毎日がとても充実していることが分かる、読んでいて気持ちが爽やかになる手紙だった。

「また必ず遊びにいきます。杏奈より――。杏奈ちゃん、元気みたいでホントに良かった……!」

夏の最後、杏奈と抱き合ったあの甘い記憶を思い返すように、さやかが手紙をそっと抱きしめる。

手紙からは微かに、ほんの微かにだけれど――杏奈の、あの甘い香りがしたように思えた。

「よーし、わたしも早速お返事書かなきゃ!」

杏奈の手紙から元気をもらったさやかは大はりきりで、すぐにでも返事の手紙を書こうと意欲を漲らせていた。椅子を引いて机に付き、お気に入りの便箋と削りたての鉛筆をしゅっと取り出す。

しばし手にしたままだった杏奈の手紙だったが、さやかはここで、眼前に見えるとあるものに釘付けになった。

「……そうだわ! ここに手紙をしまっちゃおうっと!」

さやかが目にしたもの。それは他でもない、あの引き出し。

すべてのはじまりになった、マーニーの日記が収められていた引き出しだった。

「杏奈ちゃんもマーニーも、きっと喜んでくれるわ……!」

手紙を丁寧に封筒へしまい込んで、引き出しの中へそっと収める。かつてマーニーが引き出しの中に大切な日記を隠したように、さやかもまた、ここに杏奈との思い出の記憶を重ねていこうと考えたのだ。

自分と杏奈の縁を結んでくれた、マーニーへの恩返しとして。

「マーニー……」

引き出しへ置かれた封筒。そこには、杏奈の描いた微笑む少女の――マーニーの姿があった。

マーニーの肖像を見つめながら、さやかは目を閉じ、静かに語りかける。

(ねえ、マーニー)

(あなたは、わたしにとって、まぼろしだった)

(姿形は見えなくて、声を聞くこともできない、まぼろしの女の子)

最後まで、さやかはマーニーの姿を見ることは叶わなかった。声を聞くことも、触れ合うこともできなかった。

(けれど、あなたはわたしに大切なものをくれた)

(かけがえのない、とても大切なもの)

そのマーニーから、さやかは確かに受け取ったものがある。

(わたしと杏奈ちゃんとのつながり)

彼女がつないでくれた、杏奈との絆だった。

(ねえ、マーニー)

マーニー。杏奈を愛し、彼女に生きる希望を見出させてくれた、まぼろしの少女。

自分はまだまだ、彼女ほど大きな存在ではないかもしれない。彼女ほど、杏奈にとって忘れることのできない人になるためには、もっと長い時間が必要だと思う。

(わたしも、あなたのように――杏奈ちゃんと、たくさんの思い出を作っていきたい)

(あなたが愛した杏奈ちゃんとの思い出を、ここに集めていきたいの)

けれども――それは、これから紡いでいけばいい。これから、描いていけばいい。

杏奈との、思い出を。

「……わたしも、杏奈ちゃんのこと――大すきなんだもの」

ふたりの、思い出を。

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

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