第三十五話「Seventh Heaven」

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「う〜。祐一っ、離してよ〜っ」

「……名雪……お前、何やってんだ?」

祐一君と坂上さんに取り押さえられて、水瀬さんがじたばたと暴れている。祐一君は水瀬さんをがっちりロックして取り押さえてはいるけれど、どうして自分がこんなことをしなければならないのか、状況がよく飲み込めていないみたいだ。

走ってきた水瀬さんの前に坂上さんが立ちはだかり、一瞬ひるんだところに間髪入れずに祐一君が捕まえた。そして、今の形になっているというわけだ。

「わたしはあゆちゃんに用事があるんだよっ」

「あゆに……? じゃあ、まさか……」

「ああ。どうやら月宮さんは、水瀬さんに追われていたらしい」

「う〜。わたし何もしてないよ〜」

あゆちゃんは坂上さんの影に隠れて、時折覗き込むようにして、水瀬さんをちらちらと見ている。その表情には、少なからず困惑と戸惑いの色があった。とりあえず分かることは、あゆちゃんは水瀬さんに追いかけられていて、水瀬さんから逃げるために商店街を突っ走っていたということだけだ。理由とかそんなのは、ちっとも分かっちゃいない。

「むむむ〜。状況がはちゃめちゃの無茶苦茶の滅茶苦茶さんだよぉ」

「月宮さん、これは、どういうことなんでしょうかっ?」

「うぐぅ……ボクに聞くよりも、名雪さんに聞いたほうが早いと思う……」

坂上さんの影に隠れながら、あゆちゃんが小さくてとても聞き取りづらい声で言った。

「というわけで名雪、状況を説明してくれ」

「その前に、腕を離してよっ」

水瀬さんに言われて、祐一君が水瀬さんを離して自由にした。水瀬さんは大きく息をついてから、こう、話を切り出した。

「わたしはあゆちゃんに用事があったんだよ」

「ああ。それはさっきも聞いたぞ」

「水瀬さん。具体的には、どんな用事があったんだ?」

「えっと」

坂上さんの問いに、水瀬さんは胸を張ってこう答えた。

「陸上部へのお誘い、だよっ」

おまけに、満面の笑みで。

「……あゆを……陸上部に?」

「うん。あゆちゃん、五十年に一度の逸材だもん」

「そんなに……すごいのか……?」

坂上さんが面食らった面持ちで、水瀬さんに聞き返した。水瀬さんは自信を持って深々と頷き返すと、こう言葉を続けた。

「すごいんだよっ。だって、わたしが全力で走っても追いつけないんだよ」

「確かに、そうじゃなきゃ逃げ切れないよな……」

「そう言えば……水瀬さんは陸上部の部長だったな。そう考えると、確かにすごい人材かも知れない」

なるほど、僕も理解した。水瀬さんは陸上部の部長で、当然、走るのはすごく速いわけだ。その水瀬さんを振り切っちゃうぐらいなんだから、月宮さんの走りといったらそれはもうものすごいものなんだろう。水瀬さんが「五十年に一度の逸材」というのも、十分頷ける話だ。

「だから、あゆちゃんに陸上部へ入ってもらいたかったんだよ」

「なるほど」

「それで、たい焼き屋さんの近くにいるのを見かけたから、追いかけたんだよ」

「……ということらしいぞ。あゆ。お前の返答はどうなんだ?」

「う、うぐぅ……」

困った顔を浮かべて、あゆちゃんが言葉を詰まらせた。明らかに返答に困っている。

「……………………」

けれど、やがて思い切った面持ちで、

「名雪さん、ごめんなさい……ボク、陸上部には入れないんだよ……」

そう、はっきりと断りの意志を伝えた。

「う〜……どうしても?」

「うん……ボク、もう部活に入ってるんだよ……」

「それだったら、仕方ないね……あゆちゃん、ごめんね」

水瀬さんは名残惜しそうな顔をして、渋々引き下がった。あゆちゃんはほっとしたような表情を浮かべて、坂上さんの影からひょっこり姿を現した。

「でも、あゆちゃんの速さだったら、きっと世界が獲れるよ」

「そ、そうかなぁ……そう言われると、ボクうれしいよっ」

「確かに、食い逃げで鍛えた足の速さは尋常じゃないよな」

「うぐぅっ! ボク食い逃げなんかしないよっ!」

祐一君とあゆちゃんは、見ているといつもこんなやり取りをしているような気がする。きっと、ああいう形でお互いの仲を確認しあってるんだろう。

「それにしても……名雪、買い物が終わって帰ろうとしたらいきなり走り出すから、びっくりしたぞ」

「祐一、ごめんね。あゆちゃんを見かけたら、足が勝手に動き出しちゃったんだよ」

祐一君と水瀬さんは買い物中だったらしい。よく見ると、水瀬さんの手にはビニール袋が握られている。祐一君の言うとおり、これから帰るところだったのだろう。

「とにかく、よかったですねっ。これで問題解決ですっ」

「うんうん。あゆちゃん、よかったねぇ」

「何はともあれ、月宮さんの身に危険が迫っていた訳ではなかった。一安心だな」

「それにしてもあゆ、別に逃げなくても良かったんじゃないか?」

「うぐぅ……だって、あの時の名雪さん、すごい勢いで走ってきたんだよ〜……」

「うー。だって、あゆちゃんを誘いたかったんだもん」

口々に感想を言い合って、少しずつ、事件は収束の方向へと向かい始めていた。それにしても、あゆちゃんがびっくりして逃げ出すような追いかけ方って、いったいどんな追いかけ方だったんだろう? 鬼のような形相で追いかけたとか、それとも、また何か別の要素があったのか……ちょっと、そこが分からない。

「……あれ?」

「芽衣ちゃん、どうしたのぉ?」

さあ、お開きだ……という空気の中、不意に、芽衣ちゃんが疑問の色を帯びた表情を浮かべた。間髪入れずに佳乃ちゃんが反応して、話題のきっかけを作る。

「えっと、何となくなんですが……一つ、大切なことを忘れているような気がしませんか?」

「大切なことぉ?」

「大切な……こと?」

「大切なこと……」

芽衣ちゃんから呈された疑問に、一同揃って首をひねる。

「……あーっ! そう言えばあゆちゃん、一つ大切なことを忘れちゃってたよぉ!」

「えっ?! ボク? ボクに関係あることなの?!」

「あゆちゃん、そのたい焼きは、ちゃんとお金を払って買ったんだよねぇ?」

「うんっ。もちろんだよっ」

「うんうん。今回は間違えずに言えたねぇ。一字違いで大惨事だもんねぇ」

「お前、割と危険なネタも平気で言うよな」

祐一君が冷や汗をたらしながら、横から突っ込みを入れる。

「それで、それがどうかしたのかな?」

「えっとねぇ、あゆちゃんさっき百花屋さんでいたときに、お財布落しちゃったって言ってなかったかなぁ?」

「……う、うぐぅっ! そ、そうだよっ! ボク、お財布を落しちゃったんだったよっ!」

そう言えば、そんなことも言っていた気がする。

「どうしよう……まだ、ちょっとお金が入ってたのに……」

「いくらぐらい残っていたんだ?」

「えっと……二十円ぐらい……」

「それは世間一般では残ってると言わないぞ、あゆ」

「ボクの中では大金なんだよっ!」

あゆちゃんはきょろきょろと周囲を見回しながら、お財布が落ちていないか探し始めた。けれども、こんな近くに落ちていたのなら、世の中苦労しない。

……ところが。

「あゆちゃん。そのお財布って、茶色の小さなお財布かな?」

「えっ?! そ、そうだよっ! も、もしかして……」

「うん。走ってるときに落ちてたから、わたしが拾っておいたよ」

世の中、都合のいい事もあるもんだ、と僕は思った。あゆちゃんが落っことしちゃった財布を、なんと水瀬さんが拾っておいてくれたらしい。あゆちゃんは運のいい子だなあ。

水瀬さんはポケットへ手をやると、中をごそごそやり始めた。

「えーっと……お財布お財布……」

「……………………」

……しかし。

「……あれ?」

「……えっ?」

今度は水瀬さんが困ったような表情を浮かべて、ポケットの中をまた探し出した。何となく嫌な予感が、場にいる全員に走る。

「……えっと」

「……お願いだ名雪。そのオチはあまりにも情けなさ過ぎる」

「……ごめんね祐一。あゆちゃんのお財布、わたしがまたどこかで落しちゃったみたいだよ〜……」

「ぐはぁ」

もう、何がなんだか分からなくなった。あゆちゃんがお財布を落として、水瀬さんがそれを拾ってやれやれ解決解決と思っていたら、あろうことかそのお財布を水瀬さんがまたどこかに落しちゃったというのだ。一体、どこまで行けば問題は解決するんだろう。僕はなんだか、気が遠くなりそうだった。

「ぐぬぬ〜。まるで事件を解決させたくない見えない意志が働いているかのようだよぉ」

「相沢……水瀬さん……月宮さん……正直な話、何かの間違いだとしか思えないんだが……」

「えっと……事実は小説より奇なり、って言えばいいんでしょうか……」

 

「今この状況でそれを言うなら、小説は事実より奇なり、じゃないかしら?」

 

『?!』

第七の声色――佳乃ちゃん・芽衣ちゃん・あゆちゃん・祐一君・坂上さん・水瀬さん……そのいずれでもない――の持ち主が、不意に場に現れた。

「『七』番目にアタシが来るなんて、なかなかよくできてると思うわ」

「わ、留美ちゃんっ」

「七瀬……お前、どうしてこんなところに?」

そこに立っていたのは、みちるちゃん顔負けのロングなツインテールが目を引く、青色の髪の気の強そうな女の子だった。水瀬さんと祐一君の話を総合すると、この女の子は『七瀬留美』という名前の子らしい。青色の髪に巻かれた真っ赤なリボンが、強烈なコントラストを放っていて、思わず目がそちらへ行ってしまう。

「商店街をすごい勢いで走ってる名雪を見かけたから、気になって追いかけてみたのよ。そしたら、走ってる途中にコレを落っことしてたわ」

「あっ! それ、ボクのお財布っ!」

七瀬さんはにやりと笑って、あゆちゃんにお財布を返した。お財布は紆余曲折あって、ようやく持ち主の手へと戻ってきたのだ。

「良かったよ〜。お財布、ちゃんと戻ってきたよ〜」

「それにしても……智代、この面子は一体どういうことなの?」

「気が付いたら、雪だるま式に人数が増えていたとでも言おうか。正直、私や霧島はほとんど関係ないからな」

「ほとんどというか、実はまったく関係なかったりするんだよぉ」

「……よくは分かんないけど、ま、そーいうことにしておきましょうか」

割りきりの早い性格みたいで、七瀬さんはさっさと話題を切ってしまった。

「で、これでもうおしまいなわけ?」

「うんっ。これでおしまいだよっ」

「最後はずいぶんとあっけなかったねぇ」

佳乃ちゃんの言うとおり、これだけもめた割には、最後はずいぶんとあっけない気がした。

 

「さ、問題も解決したみたいだし、解散にしない?」

「そうだな。いい加減帰らないと、秋子さんも心配するだろ」

「うん。お母さん、きっとすごく待ってるよ」

気が付くと七人にまで膨れ上がっていた一団は、ここでようやく解散することとなった。

「それじゃボク、これぐらいで帰るねっ。みんな、またねっ!」

「うんうん。気をつけて帰ってねぇ」

「くれぐれも気をつけてな」

まず最初に、あゆちゃんが帰っていった。さすが名雪さんが認めるだけのことはある俊足で、あっという間に視界から消えてしまった。

「確か、名雪ん家とアタシん家って近くだったわよね。途中まで一緒に行きましょ」

「そうだな。お前がいれば、夜道も安心だ」

「って、アタシはあんたのボディーガードか何かかっ!」

「留美ちゃん、怒っちゃダメだよ。祐一、いっつもこんな調子なんだから」

「はぁ……どこかの誰かさんにそっくりだわ。ホント」

続けて七瀬さんと水瀬さん、それから祐一君が、三人まとめて歩き出した。家がお互い近くにあるらしい。

「そう言えば、さっき名雪にそっくりな子を見かけたのよ。その子は三つ編みだったけど」

「わ、そうなんだ。わたしもね、子供の時は三つ編みにしてたんだよ」

「子供の時って、お前は今だって子供だろ」

「うー。祐一よりは大人だよっ」

わいわいと話をしながら、こちらはゆっくりと、商店街を後にする。見ていて、とても楽しそうだった。

「……さて。残ったのは、私たちだけか……」

「えっと……坂上さん、でしたよね。これから、どうされるんですかっ?」

「私か? 私はこれから少し買い物に出て、夕食に必要なものを揃えてくるつもりだ」

「そうなんだぁ。それなら、ぼく達と一緒に買い物にいこうよぉ」

「……霧島も……買い物に行くのか?」

「そうだよぉ。お姉ちゃんに頼まれたんだよぉ」

「そうか……なら、私も二人に同行させてもらおう。構わないか?」

「はいっ。一緒に行きましょう」

「決まりだねぇ。それじゃあこれから、芽衣ちゃんと坂上さんを買い物部隊の隊員さんに任命するよぉ。ちなみに芽衣ちゃんは二号さん、坂上さんは三号さんで、ぼくは一号さんだよぉ」

残った三人で、一緒に買い物に行くことになった。芽衣ちゃんに坂上さんに、それに佳乃ちゃん。こんな取り合わせ、滅多に見れるものじゃないと思う。

「ぴこぴこっ」

僕もその後ろについて、一緒に行くことにした。

「坂上さんは、今日は何を作られるんですかっ?」

「明日少し忙しくなるから、カレーをいつもより多めに作って作り置きしようと思っている。保存も利くしな」

「むむむ〜。話を聞いちゃったら、ぼくも食べたくなってきたよぉ」

「同じですねっ。私も食べたくなってきましたっ」

「決まりだな。同じものをまとめて買えば、分類も……おや?」

坂上さんが急に立ち止まって、もう夕暮れに完全に染まった、商店街のずっと先を見つめた。

「……あれは……」

そうしてしばらく、奥のほうを見つめていたけれど、

「……………………」

やがて、見ていたものが視界から消えたのか、坂上さんの視線がまたこちらへと戻ってきた。

「どうしたんですかっ?」

「坂上さん、どうしたのぉ?」

「いや……すまない。大したことは無い。さあ、買い物へ行こう」

「それがいいねぇ」

「そうですねっ」

早々に話を打ち切ると、三人は夕暮れに沈む商店街を並んで歩き始めた。

「かー、かー」

空にはからすがまばらに飛んで、そこはかとなく、寂しげな雰囲気を作り出していた。

「……………………」

そんな中を、坂上さんは黙って歩いていたのだけれども。

「……しかし」

 

「今まで知らなかったが……月宮さんに、妹さんがいたとはな……」

その言葉は……僕の耳にだけは、しっかりと聞こえてきていた。

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

Thanks for reading.

Written by 586