「……えっ?」
「聞こえなかったのか? ここに住み込んで働く気は無いかと聞いたんだ」
聖さんは腕組みをして口元に微かに笑みを浮かべながら、唐突に思わぬ提案をされて面食らった表情を浮かべている往人さんを楽しげに見つめていた。僕は聖さんの提案したことの意味がよく分からなかったけれども、とりあえず、ここからの成り行きを見守ることに決めた。
「いや、ちょっと待って。それ、どういう意味?」
「言葉通りの意味だ。君がここに住み込んでこの診療所の手伝いをする代わりに、君に寝食を提供する。悪くない提案だと思うが?」
「そりゃあ、ありがたいと言えばありがたいけどさ……」
往人さんは湯呑を手にとってお茶を一口すすると、ふぅっ、と小さく息をついて、再び聖さんに視線を向けた。
「この街には他人を泊める様な場所もない。寝床を探すのも、何かと面倒だろう?」
「そりゃあ、ここに来てからは毎日野宿だったから、それは間違ってないけど……」
「ここで働くからには、きちんと給料も出す。何、君一人を雇うくらい、大したことは無い」
「……給料……」
「君が人形劇で日銭を稼いでいることは聞いている。その足しにはなるだろう」
聖さんは冷静に話を進めながら、往人さんの目をずっと見つめている。往人さんは聖さんの視線から逃れようともせず、逆に聖さんを見つめ返している。相当、度胸が据わっているみたいだ。
「でもさ、急にどうして?」
「簡単な事だ。佳乃が君をここへ連れてきた。それが理由だ」
「……………………」
「……それだけ? 本当にそれだけなの?」
怪訝な顔つきをして聞く往人さんに、聖さんはあくまで表情を崩さず、小さく頷いた。
「ああ。理由などそれで十分だ。君の事は、つい先程あらかた知ったつもりだからな」
「もしかして、さっき診療所の前で会った時のこと?」
「そうだ」
今度は聖さんが湯呑に手をかけて、ずずいとお茶を一口啜ってから、往人さんへと顔を向けた。
「君はなかなか度胸がある。人を楽しませるコツも心得ている。他人との交渉も手馴れたものだった」
「褒めても何も出ないわよ。手ぶらで旅するのが身上だからさ」
「ふふっ。君は本当に面白い人だ。佳乃が連れて来たのも分かる。あの子は滅多にうちへ人を連れてこないからな」
「そうなの? あの調子だと、誰でも連れてきそうに見えたんだけど……」
往人さんが首筋に手を当てて、首をぐるりと回した。どうにも自分の置かれている状況に納得できていないというか、聖さんの提案に何か裏があるのではないかとか、そんなことを考えているような表情だ。
「雇ってもらえるのはありがたいんだけど……あたし、医師免許とか持ってないわよ?」
「心配するな。素人に治療を任せるほど逼迫した状況ではない。雑用全般をこなしてくれれば十分だ」
「それくらいなら、まぁ何とかなりそうね。分かったわ。ありがたく受けさせてもらおうかしら」
「助かったぞ。何分、見ての通りの二人暮しなのでな。男手があると、何かと助かるんだ」
「……?!」
聖さんの発したさりげない言葉に、往人さんが大きく身を乗り出してきた。僕は聖さんの言いたいことがますます分からなくなって、全身全霊で耳を研ぎ澄ませて、聖さんの次の言葉を待った。
「そうだ。一つ言い忘れていたことがある。君にはしばらく、男でいてもらいたいんだ」
「ちょ、それ、どういう意味?!」
「そのままの意味だ。私はここで『国崎住人』という旅芸人の『男』を雇い入れた。それ以上の意味は無い」
「いや待って待って……あたしはれっきとした……」
往人さんが聖さんに反論しようとした時、聖さんが右手を伸ばし、それをぴたっと静止した。
「いろいろと事情があるんだ。主に佳乃のことでな」
「……先生の弟さんのことで?」
「そうだ」
「……………………」
「君の言い分も理解しないではないが、まずは聞いてもらいたい」
立ち上がりかけた往人さんが椅子に座りなおして、聖さんの目を見つめた。聖さんは立ち上がって窓の外を見つめると、ゆっくりと話を始めた。
「単刀直入に言うなら、君が女だと何かとややこしいことになるんだ」
「どういう意味?」
「もっとストレートに言ってやろうか? 私は少なくとも二人、佳乃のことが好きな子を知っている」
「……あー、大体分かった。つまりあたしが女だと、その二人がやきもちを妬いちゃう、ってわけね」
「そういうことだ。私はあまり人間関係をこじらせたくない。そこで、君には男でいてもらいたいんだ」
この言葉に、往人さんが渋い表情を浮かべた。やっぱり、どこか納得できないみたいだ。
「それだったら、最初からあたしなんか雇わずに……」
「あいにく、それは選択肢には無い」
「どして?」
「単純な理由だ。佳乃は君のことをとても気に入っている。君を安易に手放すわけには行くまい」
「いや、それなんかあたしの意見無視されてない?」
「気のせいだ。もっとも、私は君が拒否権を発動するとは思っていないがな」
さりげなく胸ポケットに手を忍ばせながら、聖さんはあくまで冷静に言った。往人さんは聖さんの胸ポケットに入っているものをよく分かっているから、それ以上突っ込むことはしなかった。
「それに、君は最初男のふりをしていただろう? それを続けてもらえばいいだけのことだ」
「そうは言っても、先生とあの子には正体がばれちゃったわけだし……」
「いや、ダメだ。君が男でなければならない正当な理由が、私にはあるんだ」
「理由? 何よそれ」
往人さんに問われて、聖さんが往人さんの方へ向き直り、腰に両手を当てて言い放った。
「答えは簡単だ。私は初見で君を男だと認識した。私の中で『国崎住人』は男なんだ。れっきとしたXX染色体持ちの男だ。この私が間違っているはずは無いっ!」
「……………………」
「という訳で、君は女ではなく男なんだ。その辺りを理解してくれたまえ」
「それ、ただの負け惜しみじゃないのよぉぉっ!」
聖さんの無茶苦茶な論理に、往人さんが絶叫して答えた。無理もない話というか、聖さんってすごいなぁと僕は思った。聖さんならきっとどんな世界でもゴリ押しで生きていける気がする。
「もちろん、寝床と食事はきちんと提供する。給料も出そう」
「……………………」
「君が出て行きたいというなら、引きとめることはしない。君は流浪の旅人の身だ。旅が恋しくなることもあるだろう」
「……………………」
「どうだ?」
「……いいわ。その代わり、あたしは男のふりをする。それくらいで寝床と食事にありつけるんなら、儲けものってとこよ」
開き直ったように言って、往人さんが自分の喉に手をかけた。
「何をするつもりだ?」
「何って? あたしが男になるために必要なことよ」
往人さんが一瞬顔をしかめて、喉に当てていた手に力を込めると、
「……んっ!」
深呼吸を三回ほど繰り返して、ゆっくりと喉から手を離した。
……そして。
「……これでどうだ? 前よりも完璧なはずだが」
その直後に往人さんから発せられた声は、紛れも無く、若い男の声だった。それも少々低めの、黒服が似合う感じの声だった。
「……信じられない……君は、声色も変えられるのか?」
「ああ。それに、意識しなくても男の口調になるようにもしておいた。何なら、あんたにも試してやろうか?」
「いや、遠慮しておこう。私は自分で原理の分からないものは受け付けない性質だからな」
往人さんは野球帽をもう一度深く被りなおして、つばを前へと向けた。そして少し視線を下向きにして、下から覗き込むような鋭い視線を聖さんへと向けた。
「俺は国崎住人。流浪の人形遣いだ」
それは誰がどこからどんな風に見ても、聞いても、男の人そのものだった。さっきまでここにいたお姉さん的な口調で話す往人さんはもういなくなって、完全に若い「男」の往人さんへとなり替わっていた。僕は往人さんが見せた「変身」に、ただただ驚くしかなかった。
「素晴らしいな……どこからどう見ても、完璧な男だ。しかし今気付いたが、君は自分の事を『俺』と言うんだな」
「ああ。あんたに初めて会った時はこんな小細工なんかせずに、ただ単に男になりきってただけだったからな。さすがに素で『俺』と言えるほど、性格も男じゃないんだ」
「となると、君は今、性格も男になりきっているのか?」
「少し違う。俺は今、何も考えずに普通にしゃべってる。喉にかけた法術が作用して、『あたし』は『俺』に、『しておいたわ』は『しておいた』に、『するつもりよ』は『するつもりだ』……何もかも全部、男の口調に変わるようになってるだけだ」
往人さんは大きく息をついて、湯呑に残っていたお茶を一気に飲み干した。
「この黒いシャツを着ていれば、体型にもそうそう気付かれないだろ。手違いで帽子が吹き飛ぶようなことでもない限り、俺はずっと男のままだ」
「うむ。しかし、何故最初からそうしなかった? その方が君も楽だろう?」
この問いに、往人さんはふっと微かに表情を曇らせて、こう答えた。
「ずっとこうしていると、時折、俺は男なのか女なのか分からなくなることがあるんだ」
「……………………」
「何となく分かるだろ? 身も心も誰かになりきったままでいると、自分が誰なのか分からなくなるっていうのが」
「……ああ。とてもよく理解できるぞ」
聖さんは意味ありげに頷いて、再び椅子へと腰掛けた。
「君とは深い付き合いができそうな気がするぞ。国崎君」
「よしてくれ。こっちが一応女だってことを忘れられちゃ困る」
「……ふむ。しかし、本当に男にしか見えないな……」
帽子を目深に被った往人さんを、聖さんが興味津々といった面持ちで見つめる。往人さんを眺める時間が長くなればなるほど、聖さんの目はますます往人さんへと集中する。
と、その時。
「ところで国崎君。君は佳乃についてどう思っている?」
「佳乃についてって……例えば、どういうことだ?」
「そうだな……かっこいいとか、男らしいとか、そういった事は感じないか?」
「むしろ逆だ。俺はあいつが自分で言い出すまで、てっきり女だと思ってたぞ」
「……やはりそうか……」
聖さんが目を閉じて難しい顔をして、しばし考える体勢に入った。
「……………………」
そうしてしばらく聖さんは考えていたのだけれども、やがて意を決したように目を開き、往人さんを見据えた。
「国崎君。私は君にあらかじめ言っておきたい事がある」
「何だ?」
聖さんは往人さんを人差し指で指さし、こう言い放った。
「いくら佳乃が可愛いなどと思っても、まかり間違っても決して手を出すんじゃないぞ」
「はぁぁぁ?!」
往人さんは口をぽかんと開けて、聖さんの爆弾発言に呆然とした表情を浮かべるしかないみたいだった。
「もし手を出してみろ……その時は貴様を八つ裂きに……」
「誰が出すか! というかあんた絶対俺と佳乃の性別取り違えてるだろ!」
「いや、君と佳乃を並べてみると、逆の方がしっくりきたんでな」
「頼むからしっくり来ないでくれ……」
往人さんが頭を抱え込んで、「勘弁してくれ」と言わんばかりの表情を浮かべた。
「しかし、面白いじゃないか」
「何がだよ……」
「本来男の子であるはずの佳乃の方が女の子らしくて、逆に女であるはずの君の方が男らしい」
「……………………」
「まるで……そう。水たまりに映った空のようだよ。すべてがさかさまで、何もかも空へと落ちていくようだ」
「なかなか奇妙な例えをするんだな。あんたは……」
苦笑いを浮かべた往人さんが、褒めているのか貶しているのか分からない言葉を聖さんに向けて、もう一度椅子に座りなおした。
……と、その時だった。
「たっだいまーっ!」
勢いよくドアが開く音が聞こえて、佳乃ちゃんが帰ってきた事を僕らに教えた。聖さんと往人さんがほとんど同時に立ち上がり、診察室を出て待合室へと歩き出す。
「お帰り佳乃。鰹節は見つかったか?」
「ばっちりだよぉ。今からがりがり削って削りたてのおろしたてだよぉ」
佳乃ちゃんが新聞紙にくるんだ鰹節を、聖さんに見せるように高々と掲げた。聖さんは満足げに頷いて、佳乃ちゃんから鰹節を受け取った。これから削って出汁を取るつもりなんだろう。
「お帰り……って、何だそれは?」
聖さんの後ろからひょっこりと往人さんが現れて、聖さんが手にしている新聞紙を指差して言った。
「これか? 鰹節だ。知らないのか?」
「いや……鰹節って、パック入りのものじゃなかったのか?」
「今はそれが主流だが、こうやって干した鰹をこちらで削ることもあるんだ。風味が断然違うぞ」
「そうなのか……」
鰹節について話す往人さんと聖さん。心なしか、聖さんの表情が楽しそうだ。
……しかし。
「ふ、ふぇぇ……」
「ん? どうした佳乃? 何かあったのか?」
「なんだ? 何か悪いものでも見えたか?」
「ゆ、往人さんの声……なんだかおかしくなってるよぉ……」
そう言えば、佳乃ちゃんはまだ往人さんが男の人になるってこと、知らないんだった。驚くのも無理はない。さっきまで普通のお姉さんの声だったのに、いきなりちょっと怖いくらい低い声で話しかけられたら、びっくりもするだろう。
「ああ、佳乃。実はな、これには訳があって……」
「た、大変だよぉ……! 往人さんに悪霊が取り付いちゃったよぉ……!」
「お、おいちょっと待て佳乃。聖の話を……」
「ぐぬぬーっ! 往人さんから出て行けーっ! 悪霊退散キーックっ!」
「ぐあは!」
ほとんど釈明する暇も与えられないまま、意味不明な理由でもって、往人さんは足払いを食らってその場に倒された。ごづん、といい音が響き渡り、往人さんがカエルのひしゃげたような声を上げた。
「やったねぇ! これで悪霊退散無病息災天上天下唯我独尊だぁ!」
「……だ、大丈夫か?」
聖さんは倒れ付してうめき声を上げている往人さんに近寄って、手を貸しながら声をかけた。
「……………………」
倒れた往人さんの答えは……
「……大丈夫だったら……今ここで倒れたりなんかしてないぞ……」
しごくもっともな言葉だった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
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