「あそこで休もっか」
「ぴこっ」
お姉さんは僕を抱きかかえたまま、駅の片隅に放置されていたベンチへと足を向けた。お姉さんがベンチに座ると、ぎぎぎ、とわずかに軋む音が聞こえ、このベンチがどれほどの間この場所にあり続けたのかを、雄弁に物語っているかのようだった。
「……ふぅ。こんな場所でも、蝉は元気に鳴いてるんだね」
そう呟いて、お姉さんは目線を近くの木々に向けた。蝉は木々に張り付いて、短い生涯をいっぱいに謳歌するかのごとく、休むことなく鳴き続けていた。普段は意識しない蝉の鳴き声を落ち着いてじっくりと聞いてみるとき、僕はしみじみと「ああ、今は夏なんだなぁ」と実感する。今年の夏は、まだまだ始まったばかりなのだ。
僕はしばらくお姉さんの膝の上で、途切れることのない蝉時雨に聞き入っていた。
「……あっ」
それに幾分飽きが来始めた頃のことだった。僕の頭上で、お姉さんが小さく声を上げた。僕は顔を上げ、お姉さんの顔をじっと見つめる。
「誰か……来たみたいだね」
「ぴこ……」
お姉さんはそう言うや否やすっくと立ち上がり、「誰かが来る」と告げたその先を見つめ始めた。その「誰か」が気になって、僕も一緒に目線をそちらへ動かす。
「……ぴこぴこ」
陽炎の中に溶けていた人影が、だんだんとその姿を鮮明にしていく。人影は二つ。手をつなぎ、こちらに向かって歩いてくる。この駅から先へはどこへもつながっていないから、恐らくここが目的地なのだろう。
それから間をおかず、彼らは僕たちの前にはっきりとした姿を現した。
「あーっ! みなぎぃ、なんか人がいるぞー」
「……貴方は……」
みちるちゃんが声を上げ、その場に立っていたお姉さんに声をかけた。お姉さんはにっこり微笑んで一歩前に出ると、その隣にいた遠野さんに目を向けた。
「こんにちはっ。この前は探し物手伝ってくれて、本当にありがとうだよっ」
「……いえいえ。お役に立てたのなら、光栄です……」
「んに……ひょっとして、みなぎが言ってたお姉さんって……」
「たぶん、その解釈であってると思うよ。えっと……」
「にゃはは。みちるは、みちるっていうんだぞー」
「みちるちゃんだねっ。うん。もう憶えたよっ。絶対に忘れないからねっ」
ずり落ちそうになった白い帽子をかぶり直して、お姉さんがみちるちゃんに笑って言った。
「遠野さんとみちるちゃんは、この駅に遊びに来たのかな?」
「んに。ここはみなぎとみちるのお気に入りの場所なんだぞー」
「……秘密の花園……ぽ」
「あははっ。遠野さんって、面白いことを言う人なんだねっ」
お姉さん的には、遠野さんの発言は「面白い」そうだ。
「でも、他にも楽しい場所はいっぱいあるのに、どうしてこの駅がお気に入りなのかな?」
「……そうですね……」
風になびく美しい髪を手で押さえながら、遠野さんが静かに答える。
「この場所に……思い出があるからです」
「思い出……?」
「はい」
頷く遠野さんを見つめるお姉さんの目は、いつにも増して輝いているように見えた。遠野さんの言葉に深い興味を持って、その続きを待ちわびている……僕には、そう映った。
「仕事を終えた父の帰りを待ちわび……」
「休みの日は母と共に、町の外へと出かけ……」
「今はこうして、みちると一緒に遊んで……」
目を閉じて呟く遠野さんの姿は、いつものつかみ所のない遠野さんとはまた違った、神秘的で不思議な感じのする、いい意味で現実離れしたものだった。お姉さんは遠野さんの言葉に一つ一つ頷きながら、その顔を綻ばせた。
「それから……ここで……」
遠野さんはそう口にして、さらに何かを言おうとした……
……けれども。
「……………………」
顔を少し背け、口にしようとした言葉を押し込んだ。その続きを口にするのは躊躇ったらしい。この流れで言うのなら、それは悲しいから言わないのではなく、むしろもっと別のところにその理由があるように、僕には思えた。
「……そんな、たくさんの思い出が詰まった場所だからです」
「……そっかぁ。いいことだよ。思い出は……人生の宝物だからね」
お姉さんは両手をあわせて、満足そうな表情で遠野さんを見つめていた。遠野さんが言葉を切ったことには気づかなかったのか、あるいは気に留めなかったのか。そのことを、お姉さんが口にすることはなかった。
「……貴方も、ここがお気に入りの場所なのですか?」
今度は遠野さんが問いかける。お姉さんはまったく慌てることなく、合わせていた手をすっと元の位置へと戻して、おもむろに口を開いた。
「うん。ここは大好きな場所だよ。ここはね……思い出の場所なんだ」
「思い出……?」
「そう。大切な、思い出の場所なんだよ」
目を閉じ、笑みを浮かべて頷くお姉さん。遠野さんはその様子をいつもの姿勢で見やりながら、じっくりとお姉さんを観察しているように見えた。
「ここに来るとね、思い出すんだ……」
「思い出を……ですか?」
大きく頷くお姉さんの表情は、満面の笑みだった。
「一緒に遊んだ友達、沈んでいく夕陽」
「みんなで食べたお菓子の味、声を上げて歌った歌」
「泣いても笑っても、怒っても驚いても……何をやっても、ただ楽しかった」
「また明日って約束して……ずっとずっと、そんな日が続いていく」
「そう、思っていたんだよ」
ふっと息を吐いて、お姉さんが空を見上げた。
「思い出は人生の宝物」
「楽しい記憶は、素晴らしい時間を過ごした何よりの証」
「いつまでもいつまでも……ずっと、大切にしたいものだから……」
「かけがえのない、心の中にしか存在できないものだから……」
「だからね、それを失くしちゃうことは、とっても悲しいことだと思うんだ」
一人語りを終えたお姉さんが目を開けて、遠野さんをその深紅の瞳で見つめた。
「あははっ……ごめんね。ちょっと、昔のことを思い出しちゃったんだ」
「いえ……それは、私も正しいことだと思います」
「んにー……難しかったけど、なんか、みちるもそう思う」
遠野さんとみちるちゃんは揃って神妙な面持ちをして、お姉さんの言葉に同意した。本当は僕も賛意を示したかったんだけど、あいにく僕はしゃべることができなかったから、うまくこの気持ちを伝えられそうになかった。残念。
それから、少しして。
「あっ! みなぎー、しゃぼん玉遊びしようよー」
「しゃぼん玉遊び?」
「……はい。これをこうしてこうやって……はい」
遠野さんはさっと懐に手をやって、「しゅっ」っと何かを取り出した。僕とお姉さんが遠野さんの手に視線を投げかけると、そこにはしゃぼん玉セット(ストローとシャボン液がパッケージされた、シンプルなしゃぼん玉セットだ)が二つ挟み込まれていた。
「いつもそれで遊んでるのかな?」
「にゃはは。みちるはこう見えてもしゃぼん玉三級なんだぞー。えっへんっ」
「わぁ……すごいねっ。三級ってことは、すっごく上手なのかな?」
「にゅふふ。みちるの手さばきを見て腰を抜かすがよいわー」
みちるちゃんは得意げな顔をして遠野さんからしゃぼん玉セットを受け取ると、パッケージをちょっと乱暴に引っぺがし、中にあったシャボン液とストローを手に取った。
(しゃかしゃかしゃか……)
ストローをシャボン液の中に差し込み、軽快にかき回す。そうして十分にシャボン液を馴染ませてから、それをおもむろに口につけた。
「ふーっ……」
みちるちゃんは目を真ん丸くして、しゃぼん玉に息を吹き込んでいく。それはだんだん大きくなっていって、今にもそこから離れて飛んでいきそうだったのだけど……
(ぱちんっ)
「わぷっ」
その目の前でしゃぼん玉は景気よく割れて、みちるちゃんは思わず目をつむった。シャボン液が飛び散って、みちるちゃんの顔に小さな小さな水滴を作った。
「う、うにゅにゅにゅ……しっぱいしっぱい。今度はすごいのを見せてやるぞー」
みちるちゃんは再びしゃかしゃかとシャボン液をかき回すと、さっとそれを引き上げ、先端を口へ含ませる。そしてさっきとまったく同じように、しゃぼん玉に息を吹き込む。
「ふ〜っ……」
一同、固唾を呑んで見守る。僕もお姉さんも遠野さんも、みちるちゃんがしゃぼん玉を飛ばすのをただ待ち続けている。みちるちゃんはその期待に応えるかのごとく、しゃぼん玉を順調に大きく
(ぱちんっ)
「わぷっ」
……しすぎて、さっきとまったく同じタイミングで、しゃぼん玉は割れてしまった。
「……ひょっとしてみちるちゃん、しゃぼん玉が苦手なのかな?」
「んに〜……ちょ、ちょっと調子が悪かっただけだもんっ!」
「遠野さん。みちるちゃん、しゃぼん玉作るのは得意なのかな?」
「……………………」
話を振られた遠野さんは静かに横を向いて、お姉さんからさりげなくそれとなく視線を外して見せた。それを見たお姉さんは、遠野さんのその動作が一体何を意味しているのかばっちり理解したようで、こくりと大きく頷いた。
「み、みなぎぃ〜……みちる、しゃぼん玉上手だよね?」
「……進呈。もっとがんばりま賞……」
「にょわーっ! ひ、ひどいぞみなぎーっ!!!」
お米券進呈でうまくごまかそうとする遠野さん……いや、ごまかしているんじゃなくて、みちるちゃんに厳しい現実を突きつけているだけなのかもしれないけど……
「あははっ……楽しそうだねっ。一緒にやらせてくれないかな?」
「……了承」
遠野さんは微笑みを浮かべて頷くと、懐に手をやって中をごそごそやり、「しゃっ」っとさらに一つ、しゃぼん玉セットを取り出した。お姉さんは嬉々としてそれを受け取ると、丁寧にパッケージを剥がして、中のストローとシャボン液を手に取った。
「わぁ……久しぶりだよ。小学生の時以来かな……懐かしいなっ」
手にしたストローをしげしげと眺めながら、お姉さんが瞳を輝かせる。本当に懐かしそうだ。僕は(当然といえば当然だけど)遊んだことが無いけど、多分、それはとても楽しいことなんだろう。見ると遠野さんもストローを構えて、今にもしゃぼん玉を飛ばそうとしている。ああ、僕もやってみたい。そう思わずにはいられなかった。
「それじゃ、そろそろ行くよ……」
「……では、私も……」
「んににに、みちるだってー!」
三人が一斉にストローに口を付けて、それから……
『ふーっ……』
夏の空に、無数のしゃぼん玉が浮かんだ。
照り付ける太陽の光を跳ね返し、七色に輝く小さなしゃぼん玉。とても数え切れないほどのしゃぼん玉が、遠い遠い空を目指して力強く飛んでいく。それは駅の屋根を越え、取り囲む木々を越え、どこまでもどこまでも飛んでいく。
綺麗な光景だった。幻想的な風景だった。
「……………………」
空を目指し、飛んでいくしゃぼん玉。それはあたかも、風に吹かれて飛んでいくわたほうしのよう。彼らは何を思って空を目指すのか。目指す先に、何があるというのか。空の向こう側にたどり着いた時、彼らは何を見るのだろう?
「すごいよ……こんなにたくさんのしゃぼん玉を見たの、初めてだよ……」
「にょわ〜……みなぎぃ、今日はなんだかすごいねぇ」
「……そうですね……いつもよりもずっと……たくさん……それも、遠くまで……」
しゃぼん玉を生み出した三人は、感慨深げにそれを眺めていた。その美しい風景に、その夢のような光景に、すっかりその目を奪われてしまっていて……
「……こんなところに人がいるとはな……」
……そこにふらりと現れた人影には、まるで気づいていないようだった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
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