橙色の空の下。鳥居の向こうの石畳。佇む人影、ふたつあり。
「ぐ……ぐみちゃん。わたしの……話、聞いて、くれる……?」
「あずきったら、どうしちゃったのよ、そんなに畏まっちゃって。何か悪いものでも食べたんじゃない?」
「大事な、大事な話なの! だから……だからぐみちゃんにちゃんと聞いてほしいって、そう思って、それで……」
何度も言葉をつまらせる、眼鏡におさげの女の子。そんな彼女に付き合っている、ショートカットの女の子。朱いひかりに照らされて、心なしか、頬も紅みを帯びていて。
大事な話をしたいという眼鏡さんに、ショートカットさんは小首を傾げるばかり。ああでもない、こうでもない。とっ散らかったたくさんの言葉の中からいちばん上手いものを選ぼうとして、眼鏡さんは頭の中をあちこちひっくり返す。自分の気持ちを、しっかり相手に伝えたいから。
「わ、わ、わたし……わたしっ、ぐみちゃんのことが……!」
「私のことが?」
「ぐぐ、ぐみちゃんのことが……す……す、す……!」
最後の一言。その一言が、どうしても出てこなくて。言いたくて言いたくて仕方がないのに、前に一歩踏み出す。そのための勇気が持てずにいる。歯がゆくて、もどかしくて、何より悔しい。気持ちは前に思い切りつんのめって、転んでしまいそうになるほどなのに。
つっかえて、ひっかかって、ためらいながら、言いかけてはまた戻す。
「…………」
おとなしく聞いていたショートカットさん。けれど、そんな彼女の眉が、ぴくりぴくりと不穏に動いて。
「あ、あの……! ぐみちゃ、そのっ……!」
「……ああもうっ! 全っ然ダメっ! こーんなに待たされちゃったら、日が暮れちゃうよっ!」
「あぅ……ご、ごめんなさい……ぐみちゃんを見てると、やっぱり緊張しちゃうよぅ……」
ついに堪忍袋の緒が切れて、ショートカットさんが眼鏡さんをぴしゃりと叱る。眼鏡さんはすっかりシュンとしてしまって、おさげといっしょに頭をへなり。まったくもう、と腰に手を当てて、ショートカットさんがふんぞり返る。
せっかくのいいシチュエーションが台無しとか、もっとどーんとぶつかってかなきゃとか、教育熱心なお母さんがテストで赤点を取っただめだめな一人娘にあれこれお小言を言うような調子でもって、ショートカットさんは眼鏡さんにひとしきりお説教をして。
「はぁーあ。梓ったら、あたし相手にこんなに緊張してちゃダメだよ。本物の鶫ちゃんを相手にしたら、こんなんじゃ済まないんだから」
「うー……やっぱり、そうだよね……」
おさげ髪の眼鏡さん――もとい、梓が、ため息混じりにつぶやいて。同じくため息をついたショートカットさん――もとい、鶫が、踊るようにひらりとその身を翻す。すると、瞬く間に鶫の姿かたちがあいまいになって、しばらくもしない内に、もとの姿、あるべき姿、本当の姿が明らかになって。
「ま、これも梓のキャラクターだからね。そんなすぐには変えられないって、あたしも分かってるよ」
「はぁ……肆玖羅面さん、ごめんなさい……」
「いいんだよ、お節介はあたしの十八番だからね」
肆玖羅面。そう呼ばれた少女は、降りたての新雪のようにかがやく真っ白い小袖に、夕日の中でも映える真っ赤な緋袴。きりりとした顔立ちに、梓を見守るやさしい瞳を添えていて。
そして――。
「何より、壬生に住んでる人が困ってるんだもの。放っておいたら、稲荷神様に叱られちゃうでしょ?」
「あたしにだって、それくらいの自覚はあるんだから」
頭に見えるは、ぴょこんとはねた三角形の耳。背中に見えるは、ゆらゆら揺れる大きなしっぽ。
「梓にはまだまだ練習が必要だね。大丈夫、あたしがいくらでも付き合ったげるよ」
「鶫ちゃんに変化するのは、お手の物だからね」
肆玖羅面は、狐の女の子だったのだ。
ここは、山辺市黄蘗区壬生町。開けた平地にある、それほど大きくはないけれど、活気に満ちた町だ。朝になると学校や職場へ向かう人が往来を行き交って、鳥のさえずりのような明るい声があちこちから聞こえてくる。町の中心には大きな商店街があって、長く続く不景気にも負けじと、力強く商いをしている店がたくさん立ち並ぶ。お昼から夕暮れ時に掛けては、放課後を迎えた子どもたちがあちこちを走り回って、町を思い思いに遊び場にする。
壬生町――もう少しきちんと言うと、黄蘗区には、たくさんの「神様」が住んでいる。神様と言ってもそんな大それたものではなく、ただ「人とちょっと違う存在」といった程度のイメージで捉えられている。しょっちゅう姿を表す神様もいるし、なかなかお目にかかれない神様もいる。よその地区では「物の怪」なんて呼ばれ方をすることもあるけれど、黄蘗区ではほとんどの人が「神様」と呼んでいる。
肆玖羅面は、そんな壬生町の稲荷狐だ。
よく、稲荷狐は稲荷神様そのものだと思われているけれど、実態はすこし異なっている。ちょっとだけ、大したことのない薀蓄を挟むと、稲荷狐というのは、稲荷神様の眷属――砕けた言い方をするなら、動物の使い魔といったところだ。なので、肆玖羅面のような稲荷狐は、厳密に言うと神様ではない。神様ではないけれど、まあ似たようなものだし、町の人々からは一緒くたにして神様として見られている。
肆玖羅面は生まれも育ちもここ壬生町で、まさに壬生町といっしょに大きくなってきた稲荷狐だ。のんびりした気風の壬生町で、のびのびと育ってきた。住処である嘉山神社のマスコットとして、特に何をしているわけでもないけれど、この町に欠かすことのできない存在として見られている。
狐というと、よく頭が回って人を誑かす、そんな性格を思い浮かべる人も多いだろう。確かに肆玖羅面も悪戯好きで、ときどき人や獣に他愛ないちょっかいを出したりすることもある。けれど、困った人を見ると捨て置けず、ついついお節介を焼いてしまう。本質的にはお人好しと言うべきだろう。肆玖羅面が誰かに手を差し伸べるときは、いつも「頼れるお姉さん」のように振る舞うのが常だった。歳はやっと二十路が見えてきたくらいだというのに、もうすっかり壬生町の守り神気分である。
そんな肆玖羅面の暮らしぶりを、少しばかり、皆さんにもお見せしよう。
秋口の昼下がり。壬生第三小学校の校庭で、二年生から四年生くらいまでの子供たちが集まって、東西に分かれてドッジボールをしている。
「よっしゃぁっ! 食らえっ」
「あいたっ」
対戦は大いに盛り上がったが、体の大きな男子が揃った東軍が次第に西軍を押し始めた。西軍には気の強そうな女子が一人いて、男子から飛んでくるボールもなんのそのと受け止めて投げ返す活躍を見せていたけれど、不意を突かれて背中に被弾し敢えなく場外へ。残っているのは、運動が得意そうには見えない、小さな女の子が二人だけ。ここまでくれば、後はゆっくり料理してやるだけだ――と、東軍の男子が余裕の面持ちを見せていると。
「すけだちっ」
突然、どこからともなく少し背の高い女の子が現れて、窮地に陥っていた西軍のコートへ飛び込んできた。えっ、と驚く東軍の男子が次に目にしたのは、自分が投げたボールを謎の女の子が華麗にキャッチして、隣に立っていた別の男子に向かってものすごいスピードで投げ返す姿だった。不意を突かれた仲間は簡単にやられてしまって、場外へ退場する羽目になった。
誰だ誰だとざわめく東軍を尻目に、西軍はコート内外から歓声が上がった。敗色濃厚だった戦況をひっくり返す、頼れる助っ人が現れたからだ。これは負け戦だと場外で燻っていた女子も、思わぬ救援に士気高揚。大はりきりでボールを投げつけて、油断していた東軍の女子に当ててコートへ復帰。流れは一気に西軍へ傾いた。しかし元々西軍を押していた東軍、戸惑っていたのもつかの間のことで、あののっぽの女子をやっつけろと気勢を上げる。
白熱する戦いを見て、別の場所で遊んでいた子どもたちも何だ何だと集まってくる。西軍の気の強い女子が、見てないで手伝ってよ、と叫ぶと、面白そうだとばかりに何人かが西軍へ加わった。おかえしとばかりに、東軍のリーダー格がこっちへ来いと檄を飛ばす。俺はこっち、僕はあっち、あたしは西、わたしは東。両軍瞬く間にその軍勢を増して、ドッジボールは大乱戦の様相を呈してきた。
そんな中でも、助っ人の女子は一際活躍して見せた。俊足でボールをかわして、甘い投球は逃さずキャッチ。油断している敵に容赦なくばんばかボールをぶち当てる。東軍は真正面から戦いつつも時にボールを放り投げて、外野で待機する面子に攻撃の機会を与え、欠けた人員の補充に努める。
「ひろ美ちゃん! そっちボール行ったよ!」
「任せなさいって! かよちゃーんっ! そこにいる二年生の子に当てちゃえーっ! パスっ!」
そんなこんなで東西の合戦は、日が暮れるまで延々と続けられて。
校舎に取り付けられたくたびれたスピーカーから、いささか音の割れた「遠き山に日は落ちて」が流れてきて、熱気に満ちた戦いがようやく閉幕を迎える。楽しかった、あと少しだった、面白かった――あれだけ激しく競り合った東西両軍も、互いに健闘を讃え合う。こんなに盛り上がったドッジボールは久しぶりだと、校庭にいた生徒たちは揃って同じ感想をこぼす。そこでふと、ひとりの女子がこんなことを言う。
「そういえば、途中から入ってきた子、誰だっけ?」
負ける寸前だった西軍に突然加勢して、あれよあれよと言う間に互格以上の戦いを繰り広げられるようになるまで盛り返させた、あの助っ人の女子。戦いが終わって辺りを見回してみると、どういうわけか、忽然と姿を消していた。違うクラスの子だと思ってた、上級生じゃなかったの、別の学校の子だったのかな、あれこれ感想は出てくるけれど、どうにも釈然としない。
あれは一体誰だったんだろう。みんながあれこれ話し合っていると、西軍で奮闘していたおてんばな女子・ひろ美が、いつの間にかポケットに何か入っていることに気がついた。何かしらとポケットを探って出してみると、丁寧に折りたたまれた薄い紙が出てきたではないか。ますます不思議がりつつも、物は試しと紙を開いてみる。
そこには、こんなメッセージが。
「みんな、今日は楽しかったよ。また、こんな風に助太刀させてもらうね」
かく言う「狐につままれたような顔」をしている子どもたちを、物陰から見守る一つの影。
「ふふふっ。久しぶりに大暴れしちゃった」
くすくす笑っていたのは――あの女の子に化けていた、肆玖羅面だった。
別の日には、こんなことも。
壬生町の隅っこにある、小さな小さなたばこ屋さん。たばこ屋さんと言いつつも、冷たいジュースやアイスクリーム、それにお菓子やパンも売っていたりする。だから、ほとんど雑貨屋さんのようなものだ。お店番をしてるのは、シワの刻まれた顔をしたお婆ちゃんがひとり。いつもレジの向こうにある椅子に座って、店の中を眺めている。
そんなお婆ちゃんのたばこ屋さんに、お客さんが一人やってきた。
「お婆ちゃん、『わかば』ひとつ」
やってきたのは、背広にネクタイのサラリーマンといった具合の男の人だ。ハンカチで額をゴシゴシやって、浮かんだ汗を拭っている。この辺りは住宅地だから、飛び込み営業の途中でちょっと一息といったところだろか。見たところ、怪しいところはどこにも見当たらない。だから、普通にお金をもらって「わかば」を渡して、それでおしまいになるはずだった。
ところが、お婆ちゃんはまるで聞こえない風で、男の人からそっぽを向いたままだ。耳が遠いのだろうか、いやいやそんなことはない。こう見えても耳は良くて、普段なら買い物に来た人が声を掛ければ、しゅっとそちらを振り向いて見せる。
「おーい、聞こえてる? お婆ちゃん、『わかば』ひとつだって」
もう一度呼びかけてみると、今度はちらりと目をやって、けれどやっぱり振り向かない。もちろん、商品を渡す素振りも見せない。困ったなあ、と頭をかきむしりつつ、男の人が諦めたようにつぶやく。
「仕方ないなあ……じゃあ、代わりにこれで」
男の人がお婆ちゃんに渡したのは、近くの冷蔵ショーケースでキンキンに冷やされていた、ビン入りの三ツ矢サイダーで。
「はい、七十円ね。それと、子供が煙草なんか買っちゃダメだよ」
「んもう、いつまでも子供扱いするんだから。あたしはもう大人だよ?」
「なら、人に化けて悪戯するなんて、行儀の悪いことはするもんじゃないよ」
小銭を手渡したのは、先ほどまでいたちょっと冴えない風体の男の人――ではなく、小袖に緋袴、尖った耳に大きな尻尾の女の子。
何を隠そう、肆玖羅面だった。
「今日も買えなかったかあ。うまく化けたつもりだったんだけどなあ」
「見てくれは騙せても、気配はそうそう繕えないもんだよ。その点、肆玖羅面はまだまだ子供だね」
「何よう。こんな大きな子供がいてたまりますか」
受け取ったサイダーをごくごく飲みつつ、肆玖羅面は不満そうにぷうと頬を膨らませた。実は肆玖羅面、まだ一桁の子供の頃からこのお婆ちゃんから煙草を買おうとしていて、その都度見破られて別の品物を買うということを繰り返していた。今日もまた、いかにも煙草を買いそうな人間に化けてみたものの、あっさり看破されてしまった次第だ。
断っておくと、肆玖羅面は煙草が吸いたいわけではない。味も分からないし、味覚が子供その物の肆玖羅面にとっては、たぶん煙草は「おいしくないもの」に分類されるだろう。それでも、肆玖羅面はお婆ちゃんから煙草を買おうとするのをやめようとしない。肆玖羅面にとって、煙草は大人の象徴、そのものだからだ。
肆玖羅面から渡された小銭を手の中でちゃりちゃり鳴らしてから、お婆ちゃんがレジスターへと放り込む。お金でいんちきはしないよ、そう言う肆玖羅面に、狐からもらったお金はちゃんと検分しないと安心できないからね、と返す。これもまた、何度も繰り返されてきた光景。肆玖羅面もとっくに分かっていて、敢えてお婆ちゃんに突っ込みを入れている。
「まあ、大分ましにはなったねえ。お昼に背広着てくるなんて、なかなか上手いじゃない」
「そりゃそうよ。あたしはいつも人様の側にいて、人様の暮らしを見守ってるんだから」
「見守ってるのか見守られてるのか、分かったもんじゃないよ。昔から、化けるのだけは達者なんだから」
お婆ちゃんが珍しく褒めたとおり、肆玖羅面は他人に変化することにかけてはかなり上手だった。人間なら子供から大人まで老若男女を問わず、獣なら犬でも猫でも鳥でも、それこそ何でも来い。生物だけでなく、電柱や郵便ポストのような無生物にだって化けられるから、その能力はかなりのものだ。ただし狐だけあって、狸にだけは「プライドが許さない」とかで化けたがらないとか。
「ふう、ごちそうさま。今度こそ、煙草買って見せるからね。年貢の収め時だよっ」
「税金はちゃんと払ってるよ。青色申告も、面倒だけどしっかりやってるんだから。二重にむしり取られちゃ、商売上がったりだよ」
今度は買いもの帰りの主婦に化けると、肆玖羅面は颯爽と走って、たばこ屋を後にする。
肆玖羅面の日常は、概ねこんな塩梅だ。
話がだいぶ横道に逸れてしまったので、そろそろ本筋に戻ろう。
夕方。いつものように日がな一日気ままにご町内を遊び歩いて、肆玖羅面は住処である嘉山神社で一休みしていた。別の姿に変化した時は堂々と姿を現して、これといって憚ることをしない肆玖羅面だったけれど、必要の無いときは姿を消して、あまり人目に付かないようにしていた。人を恐れているとかでは全然なくて、彼女の親であり主でもある稲荷神様から、普段はこうして隠れていなさいと教えられていたからだ。あまりみだりに姿を現していると、神様の眷属としての威厳というか性質というか、そういうものが失われてしまうらしい。なので、休んでいるときや変化していない時は、人に姿を見せないようにしていたわけだ。
お夕飯はどうしよう。肆玖羅面がほほに手を当てながら考える。神様とその眷属と言えど、お腹は空くし喉は乾く。肆玖羅面と稲荷神様も同じで、炊事は肆玖羅面の仕事に割り当てられていた。人に変化して買い物をし、人と同じように調理していただくという寸法だ。神様らしさはほとんど感じられないけれど、それがここ、壬生町の神様の性質でもあった。
「稲荷様はお魚食べたいって言ってたけど、あたしはお肉が食べたいなー。今日もお肉にしちゃおっかな」
一応、主従の関係にある稲荷神様と肆玖羅面だったが、何分ここ嘉山神社の稲荷神様はとてもゆるい性格の持ち主だった。なので、肆玖羅面はきちんと尊敬こそしているものの、何が何でも言うことを聞くというわけではなかった。お夕飯の献立も、基本的には肆玖羅面の食べたいものが優先される。肆玖羅面は大の肉好きで、中でも塩で焼いた焼き鳥の「み」と、柚子胡椒をまぶしたサイコロステーキが特段の好物だった。
鳥肝の煮込みもいいなあ、牛タンのシチューもいいなあ、と、うっとりしながら献立を練っていた肆玖羅面が、ざり……という砂利を踏む音を耳にして、はっと我に返る。
お社のちょうど正面でくつろいでいた肆玖羅面は、前方からやってきた一人の女の子の姿を目にする。昨今はちょっと珍しくなった白と紺のセーラー服に、控えめだけれど確かな存在感を示すワインレッドのリボン。あれは間違いない、ここから十分ほど歩いたところにある、山辺市立羽山高校の制服だ。生まれた頃からずっとデザインが変わっていないから、肆玖羅面はすっかり覚えてしまっていた。
女の子を観察しつつ、肆玖羅面が頭を働かせる。ここに来たということは、きっとお参りをしにきたに違いない。ここは稲荷神様が奉られている地。産業振興や豊作祈願などを司る社だ。人々から寄せられた願いを聞いて、力を貸すべきかどうかを判断し、できることなら自ら行い、手に余るようならさらに上位の神様へ話を持っていく。そうやって、神様としての神通力を人様に分け与えるわけだ。
して、この子は誰ぞと、歩いてきた女の子に目を凝らす。
(あっ。この子、梓じゃない)
すると、すぐにこの辺りの住宅地に住んでいる「梓」という少女だということに思い至った。生まれも育ちもここ壬生町で、肆玖羅面とはほとんどいっしょに大きくなったような仲だ。もちろん、梓の方は肆玖羅面と面識があるわけではなかったけれど、肆玖羅面の方はというと、この間子供に変化してドッジボールを楽しんだときのように、同じく子供に変化して何度か梓と遊んだことがあった。
肆玖羅面から見た梓は、一言で言うと「おとなしい子」といった塩梅だった。地味で目立たず引っ込みがち、そんな意味ももちろんあったけれど、決してとげとげしい言葉を使わず、友達を思いやる心を持つ気立てのやさしい子、というニュアンスも込められていた。おっとりしているけれど、繊細で細やかな気配りのできる性格だったのだ。ゆえに、肆玖羅面も裏でいろいろと目を掛けてあげていた。
梓は社の前まで歩いてくると、通学カバンから小さな小銭入れを出して、さらにそこから……なんとまあ、五百円玉を一枚取り出したではないか。それも、今は鋳造されていない旧五百円玉、にぶい銀色を放つあの硬貨だ。やったー! 臨時のお小遣い! ……と喜ぶ肆玖羅面だったけれど、いけないいけないと慌てて気を取り直す。五百円玉をお賽銭箱に投げ込もうなんてことは、よっぽど真剣な願いに違いない。本気で叶えてほしい願いとしか思えない。
(あー……これもしかして、あのパターンかも……)
しかしながら、神様にだって得手不得手はある。言われてもできないことは少なくないのだ。肆玖羅面はこう見えても稲荷神様と長くいる――肆玖羅面が生み出されるまでは、ここは稲荷神様ひとりで守っていたそうな――から、何ができて何ができないかは手に取るように分かる。嘉山神社へ持ち込まれても困るような願い事、それは確かに存在するのだ。
で、だ。思春期まっさかりの女の子が夕暮れ時に一人で神社にやってきて、あまつさえ五百円という大金をお賽銭にしようとしていると来たら、もうあのパターンしか考えられないではないか。半ば予想がつきつつも、肆玖羅面が大きな耳をぴんと立たせる。こうやって神経を研ぎ澄ませることで、肆玖羅面は人の声なき声を聞くことができるのだ。と言っても、よっぽど集中していないと少しも聞こえてこないし、その人が強く考えていることがかろうじて聞き取れるくらいなので、肆玖羅面は滅多にこの力を使うことは無かった。人の心の声を聞くなんて野暮だよ、ともっともな言い訳をしていたが、実際のところは集中するとお腹が減るからという、まあ案の定な理由だった。
ちゃりりりーん、とお賽銭箱に五百円玉が投じられる。ぱん・ぱん、と二回柏を打って、梓が祈願をはじめた。そのすぐ隣で、肆玖羅面も息を潜めて耳を澄ませる。
肆玖羅面の大きな耳に入り込んできた声、それは……。
(『――ぐみちゃんともっと仲良くなれますように、もっと近付けますように……』)
(……って、やっぱりこの手のお願いだったよーっ! 恋愛成就祈願ーっ!)
ど直球という言葉がふさわしい、恋愛成就のお願いだった。まあ、予想通りといえば予想通りだけれども、肆玖羅面としては大いに困ってしまった。このお願いは、ここ嘉山神社へ持ち込まれても対応できない。だけど、梓はカケラも気づかずに、目を閉じて一心に手を合わせるばかり。
ええい、こうなりゃ直接言うっきゃない。肆玖羅面は素早く腹を括ると、梓の前に姿を表して、おもむろに肩をとんとんと叩いた。
「ちょっとちょっと梓ったら、ここでそんなお願いされても、稲荷神様が困っちゃうよ!」
「えっ……えぇっ!?」
いきなり肩を叩かれて振り向いてみると、何の前触れもなく狐の耳と尻尾のついた巫女さんがいて、しかも自分のお願いごとをしっかり把握しているかのような口ぶりで話しかけられた。いきなりわけの分からないことが三点セットで起きて、目の色をくるくる変えるばかりだった。
「縁結びのお願いは、結君辻町の明袋神社へ行かなきゃ。ここは商売繁盛と豊作祈願が本職だよっ」
「あ、あ、あの……あなたは……?」
「あたし? ここ嘉山神社の稲荷狐・肆玖羅面よ。梓がとんちんかんなお願いしてるもんだから、違うよって突っ込みにきたんだから」
「わ……わたしの名前、知ってるんですか!?」
梓からすれば肆玖羅面とは当然初対面なわけで、驚くのも無理はない。
「もちろん知ってるわよ。幼稚園に通ってた頃に、ここの階段で昼寝してたことあるでしょ? 悪い人に連れ去られたりしないように、あたしが隣で見張っててあげたんだから」
「うそ!? あの時、誰かに見られてる気がしたのって、もしかして……」
「間違いなくあたしね。そうそう、中学生の頃に夕立に降られて、ここで雨宿りしたこともあったわよね。雨に濡れたブラウスをぱたぱたやってる姿、なかなか色っぽかったよ。あ、結構胸おっきいんだ、って思ったし」
「ち、ちょっと、何見てるんですかっ! はわわわ……あの時のこと、はっきり思い出しちゃったよ……」
「いいじゃない。別に減るもんじゃないし」
「確実に減りますっ」
顔を真っ赤にして突っ込む梓に、肆玖羅面は破顔一笑して応じる。肆玖羅面はこんな具合で、細かいことを気にしないおおらかな性格である。大らかなのはよいが、料理の味付けもちょっと大味だぞ、と稲荷神様に突っ込まれたのは、まあここだけのお話。
「まあそれはいいわ。梓、あなたここに縁結びのお願いに来たんでしょ?」
「えっ!? そ、それは……」
「隠さなくたっていいわよ。あたしにはなんでもお見通し、千里眼なんだから」
「……うぅ……はい、そうです。その通りです……」
「やっぱりね。お相手は?」
肆玖羅面は会話のペースをしっかり握ったまま、梓の願い事を明らかにしてゆく。成就させたい恋愛のお相手は誰か、梓にそう尋ねると、梓はまたもや耳の先まで顔を真っ赤にしてしまって、なかなか口に出そうとしない。悪戯っぽい表情を見せて肆玖羅面が梓の顔を覗き込むと、梓はきゅっと目を閉じて顔をそらしてしまう。梓の仕草に初々しさを感じて、肆玖羅面は「かわいい」と笑う。
しばしそうしたやりとりを続けたのち、意を決したように、あるいは諦めたように、梓が目を開いて大きなため息を付き、おずおずと想い人の名前を口にした。
「わたしが、好きなのは……ぐみちゃん、です」
「ぐみちゃんって……梓の幼なじみの、鶫ちゃんのこと?」
ぐみちゃん。この名前には聞き覚えがあった。肆玖羅面は素早く記憶を掘り起こして、それが梓と小さい頃からいつもいっしょにいる快活な少女・鶫だということに思い至った。
「はい、そうです。肆玖羅面さんは、ぐみちゃんのこと、知ってますか?」
「もちろんよ。稲荷狐の姿は見せてないけど、子供の頃からちょくちょくいっしょに遊んでたからね。梓とも仲良かったの、あたしちゃあんと知ってるよ」
「そうです、そうなんです。ぐみちゃんにはいつもやさしくしてもらってて、子供の頃からずっと遊んでくれてて、わたし、それで……」
なるほど、なるほどと、肆玖羅面がしきりに頷いて見せる。幼少の頃から一緒にいる幼なじみのことを好きになる、よくある王道話ではないか。ちょっと地味で控えめな感じのする梓にはぴったりだろう――ただ。
「ふうん、そういうことね。あたしは別にいいと思うけど……ひとつ訊いてもいい?」
「あの……わたしもぐみちゃんも、女の子じゃないか、ってことですか?」
「……あー、やっぱり気にしてるんだ。あたしが訊くより先に言ってくるなんて、よっぽどみたいね」
「はい。やっぱり、おかしいかなって思って……」
鶫は名前からなんとなく想像できる通り、れっきとした女の子だ。梓とは対照的な男勝りで頼り甲斐のある性格はしていたけれど、実は正体が男の子だとか、女の子だけど男の子として育てられたとか、あるいは男の子の心を持っているとか、そんなことはこれっぽっちもない。正真正銘、普通の女の子である。
女の子が女の子に恋愛をする。男の子ではなく、女の子。もちろん恋愛感情は誰に対しても抱きうるものだけれど、普通は異性に対して持つんじゃないかというイメージはある。梓にしてみれば、自分はおかしいんじゃないか、肆玖羅面に不審に思われたんじゃないか、そんな不安を持っていたのだ。
で、肝心の肆玖羅面はというと。
「いいじゃない、女の子が女の子を好きになったって! あたし、そういうの素敵だって思うよ」
驚くほどあっさり、ビックリするくらいすんなり、梓が鶫に恋愛感情を抱いていることを受け入れてしまった。
「あ……ありがとうございますっ。もしダメだって言われたら、どうしよう、って……」
「あたしは縁結びの神様じゃないから、いけないよなんて言ったってどうもしないよ。それに、あたしは梓と鶫ちゃん、いいと思うな。梓は鶫ちゃんと今よりもっと仲良くなって、いっしょにいろんなことしたい、そうだよね?」
「はい。わたしの『好き』って気持ち、ぐみちゃんに伝えたいんです」
鶫と結ばれたいという、梓の切なる願い。肆玖羅面は間近にそれを見て、心の底からむくむくと、熱い感情が沸き起こってくるのを感じていて。
「いいわ、あたしが一肌脱いだげる! 梓と鶫ちゃんがお近づきになれるように、いろいろがんばっちゃうよ」
「本当ですか!? 肆玖羅面さん、わたしのために……!」
「小さい頃から遊んだ仲じゃない、お安い御用よ。じゃあ早速、ここに鶫ちゃんを……」
呼んでこよう、肆玖羅面が腕まくりしてそう口にした途端、梓がぶんぶんと首を振る。
「ままま、待ってくださいっ! まだ、その、心の準備が……」
「えぇー? ひょっとして……というかひょっとしなくてもだけど、梓ったら、うまく告白できる自信無かったりする?」
「……はい。ぐみちゃんに『好きです』って言おうと思って、何度か挑戦してみたんですけど、やっぱりダメで……」
梓は極度のあがり症にして、かなりの恥ずかしがり屋だった。今ここで肆玖羅面が鶫をうまく連れてきてくれたとしても、その機会を生かす自信が持てなかったわけだ。梓の話を聞きながら、肆玖羅面はどうしてくれようかと思案する。押してダメなら引いてみろの精神で、鶫より梓を何とかせねばと考えた。
「しょうがない子ねえ。なら、あたしが付き合ったげるよ」
「肆玖羅面さんが……ですか?」
「そう。こうやって……どろん!」
くるりと身を翻すと、肆玖羅面の姿があっという間に変化して。
「わ、わ……ぐ、ぐみちゃん……!」
「あははっ。中身はあたしだよ。けど、姿形も声色も、鶫ちゃんそっくりでしょ?」
「本当だ……肆玖羅面さんが、ぐみちゃんに変身しちゃったんですね」
「そう、変化はあたしの十八番だからね」
驚いた様子の梓に、肆玖羅面がウインクして見せる。
「さて。これから梓がやらなきゃいけないことは、ひとつ」
鶫の姿のまま、肆玖羅面は梓にぐいっと顔を寄せる。梓は目の前にいるのが変化した肆玖羅面だと分かっていても、どこからどう見ても鶫そのものなせいで、思わずたじたじになってしまう。
口元ににいっと笑みを浮かべて、肆玖羅面が梓に告げる。
「こうやって変化したあたしをホンモノの鶫ちゃんだと思って、告白の練習をするんだよ」
どんぐり眼をさらに大きく見開いた梓を見て、肆玖羅面は朗らかな声をあげて笑うのだった。
※立ち読み版はここまでとなります。続きはイベントにて頒布します本編にてお楽しみください。