山辺市・鉛丹区。木々の生い茂る山間の道。微かに聞こえるさらさらという清流の音。
そんな静かな山奥に、一人の少女が姿を表した。
「さあ来ましたよ来ましたよー! やってきましたー!」
「ココがウワサの幽霊旅館『細雪』! 『細雪』ですねー!」
丸くて大きなメガネをくいくいやりながら、温子が眼前にそびえ立つ……いや、そびえ立つってほどの高さは無いが、とりあえず二階建てくらいのフツーの温泉旅館っぽい建物の前で、目を文字通りキラキラ光らせていた。
丁寧に編み込まれた三つ編みのおさげに、ちょっと丸みのある小さな顔、ほっぺはつやつやして健康的だ。顔が子供っぽい割には結構背丈があって、小学生に間違えられるようなことはない。最寄りの駅からここまで結構歩く必要があったから、服装はショートパンツに薄手のシャツ。特に着飾る気は無いらしい。あれこれ述べたが、温子はそんな風貌をしていた。来年に高校受験を控えた中学三年生さんで、今は中学最後の夏休みを満喫している真っ最中だ。
「ふー、しかし結構歩きましたね。ざっと一時間くらいでしょうか。汗びっしょりです。喉もカラッカラ」
「鉄人ランナーの陽菜お姉ちゃんならこのくらいどーってこと無いんでしょうけど、あっちゃんは普段あんまり運動してませんからね。ま、こんなもんですよ。こんなもん」
温子はここ山辺市鉛丹区から少々離れた山辺市黄蘗区に、姉・陽菜と父親の三人家族で暮らしている。しかしながら、父親は仕事がら長期出張で家を空けていることがとても多く、年に数回しか家へ帰らないほどだった。ゆえに、普段はもっぱら姉妹二人で生活していた。陽菜は温子のことをよく可愛がってくれていて、今は近くの高校に通って部活に勤しんでいる。温子は温子で中学校に通いながら、平日は姉といっしょに家事全般をこなして、休みになると勉強にかこつけて図書館に入り浸るという生活だった。
足元にはくたびれた大きなスポーツバッグ。陸上をやっている姉のお下がりをそのまま使っているから、温子は滅多に使わないのにやたら年季が入っているのはご愛嬌。中には二日分の下着と上着、それからお気に入りの本数冊と、この間お小遣いをはたいて買ったSurface Proが詰め込まれている。もっともっと有名な白いアレではなくSurface Proだ。温子のこだわりの一端が窺い知れることだろう。
「あれこれはウワサは聞きますけれども、何がホントで何がウソか、この目で確かめなくてはっ!」
ところで、温子は何のためにこの古びた温泉旅館「細雪」まで足を運んだのだろうか。その答えは、温子の趣味にあった。
「さてさて、この細雪さんは一体どんな怪奇現象を見せてくれるんでしょうかねー?」
「自他ともに認めるオカルトマニアの血が騒ぎますよー! これは!」
オカルト――怪奇現象や超常現象、ついでに幽霊や亡霊の類も含む、科学だけでは説明の付かない物事をまとめて指したものだ。温子はそれが大好きだった。彼女の場合はもう少し手を広げて、いわゆる都市伝説もずいぶん詳しく知っていた。つまるところ、日常の中の非日常とでも言うべき、ちょっと怪しげなもの全般に興味津々だったというわけだ。家には怪談や都市伝説を特集した本がたくさんあったし、夏休みの自由研究にはいつもご町内の不思議現象を採り上げていた。探求心と好奇心のカタマリであったから、いかにもおとなしそうな見た目の割に、意外なほどアウトドア派なところがあった。
温子の住んでいる黄蘗区には神様や神様の仲間が大勢居て、不思議なものには事欠かなかった。簡単には説明の付かないこともちょくちょく起きていたし、黄蘗でしか聞かないような奇怪な都市伝説も唸るほどあった。物心付いたころからおかしなものに囲まれて育ってきたものだから、温子がオカルトに目覚めても何も不思議なことではなかったのだ。もっとも、周りの子は大きくなるにつれて、そういうものを「よくあること・いつものこと」と捉えて深く考えることをしなくなっていった。思春期を迎えてなお不思議なものに興味を持ちつづける子は、それこそ温子くらいのものだった。
そんな彼女がここ「細雪」を訪れたのは、つい先日ご町内でこんなウワサを耳にしたからだ。
「ふむー。この旅館は見た目営業してないっぽく見えますけど、きっちり荷物とお金を持っていくと、幽霊だったか物の怪だったか、とにかく何かがお出迎えアンドおもてなしをしてくれる――なんて話を聞いちゃいましたからねー!」
まるで人気の感じられない古びた旅館だが、ちゃんと泊まるつもりで行ってみると、幽霊か何かが丁重にもてなしてくれるらしい。こんな話を聞いてじっとしていられる温子ではない。留守番をお願いした姉に快く送り出されて、荷物をまとめてはるばる鉛丹区までやってきたわけだ。もちろん、宿泊するために十分なお金を銀行から下ろしておくことも忘れない。何もかも準備万端、あとは進入するだけだ。
地べたに置いていたスポーツバッグを持ち上げて、今一度「細雪」の全景を見やる。見た感じはいかにも「温泉旅館」といった風情で、廃墟のように寂れているわけではない。庭もきちんと手入れされているし、建物の状態は綺麗だ。しかしながら、人の居る気配というものがまるで感じられない。幽霊が管理していると言われても信じてしまいそうなほどだ。
「案外、中に入ってみると廃墟になってるパターンもあるんですよねー。あっちゃんは廃墟も大好きですから、それならそれで大歓迎ってやつですよー!」
「写真もバシバシ撮って、宇宙オカルト連盟(※ブログのタイトル)に資料としてアップしちゃいますよー! アップー!」
無駄に大それたブログの名前はさておき、「細雪」の謎を解き明かしてやろうと意気込む温子。よいしょ、とバッグを持ち直すと、いよいよ旅館の敷地内へ進入した。
と、まさしくその時だった。一歩前に踏み出した温子の視界に、前方から歩いてくる小さな人影が入り込んできたのだ。新雪のように真っ白い着物を身に纏い、ゆったりとしたペースで歩く、おそらくは女性、そして背丈的に大人ではなさそうな姿。同い年か少し上くらいだろうか。未成年、つまり子供なのは間違いなさそうだった。これはあれだ、仲居さんに違いない。
もしや、あれがウワサの幽霊か何かでは――いきなりやってきた「細雪」の謎を解き明かす大チャンスに、温子は胸の高鳴りを抑えられなかった。居ても立ってもいられず、庭を歩く少女目がけて走り出した。何事にも当たって砕けろ、が温子のモットーだ。幽霊に物理的に当たれるかは置いといて、ともかく直撃あるのみである。
「あのっ、すみません!」
「……えっ?」
縁付きメガネを揺らしながら、温子が少女へ呼び掛けた。不意にお声の掛かった白い着物の女の子はきょとんとした表情を浮かべて、駆け寄ってきた温子の目をまじまじと見つめた。
目を向けられた温子が、真っ先に気付いたこと。
(おー……マンガやアニメに出てきそうな、明るいブルーの瞳ですね。ブルーの瞳)
それは温子の言葉通り、着物の少女が蒼い瞳をしていたことだった。着物と合わせたかのような真っ白い肌に、宝石のような明るいブルーの瞳。
率直に――温子は率直に、少女のことを「可愛らしい」と感じた。これはますます、詳しく調査せねばなるまい。この日本人形と西洋人形のいいとこ取りをしたような素敵な女の子が、ここ「細雪」と一体どんな関係にあるというのか。目の前に広がる謎に飛び掛らんと、温子がまずは素性を訊ねてみよう、なんて画策していたところへ。
「お客様……! ようこそいらっしゃいました!」
「は……はぇ?」
深々とお辞儀をしつつ「ようこそいらっしゃいました」の先制攻撃。温子は何か言おうとしていきなり蹴躓いてしまい、思いっきり間抜けた声を上げてしまう。あまりの間抜けっぷりに自分でビックリしてしまうくらいだ。「はぇ?」って。「はぇ?」って。思わず二回確認するレベルである。
「温泉旅館『細雪』へようこそ。遠路はるばるお越しいただき、誠にありがとうございます」
「本日はお泊まりでしょうか、それともお立ち寄りでしょうか」
温子はもしここ「細雪」がちゃんと営業している、あるいは幽霊が営業らしきことをしているようなら泊まりがけで利用する腹づもりだったが、どうやら「細雪」は立ち寄り湯のサービスもしているようだ。温泉旅館によっては、宿泊しない代わりに割安で温泉にだけ浸からせてくれるサービスもあると聞く。間違いなくそれのことだろう。
とは言え今日は温泉に入ることが最終目的ではなく(あればもちろん入るつもりだったが)、あくまで「細雪」の謎に迫るのがミッションだ。差し当たってこの子に付いていけば泊まれるだろう、と算段を立て、何食わぬ顔でこう答える。
「あっ、泊まりっす! 一泊二日でお願いしまっす! 一泊二日で!」
「かしこまりました。ご利用いただきありがとうございます」
女の子から笑顔で「諾」の返事をもらった。ひとまず潜入成功だ。出だしは上々と言えよう。中にさえ侵入してしまえば、後は持ち前の好奇心でもってどうにでもなるだろう。まずは旅館内部へ入るのが重要なのだ。
喜び勇んで進もうとした温子――だったのだが。
「お客様」
「ん? どうかしました?」
「お荷物、お持ちいたします。私に預けてくださいますか」
呼び止められて何ぞやと振り向いてみれば、女の子が手荷物を持ってくれるという。ここまでずっと両手が塞がっていたので気付かなかったが、確かに客室まで持っていってもらってもおかしなことはあるまい。ただ、あれこれ持っていきたいものを詰め込みすぎたために、ちょっと重量オーバー気味になっているのが気掛かりだったが。
「えっ……けっこー重たいっすけど、大丈夫っすか?」
「はい、お任せください」
「それじゃあ、お願いしますっ」
スポーツバッグを両手で差し出して、温子が女の子に荷物を託す。女の子は軽く一礼しつつ、これまた同じく両手を伸ばして荷物を受け取る。お互いの手が、ほんの一瞬触れ合った。
ぼんやりしていた温子の目が一気に冴えたのは、この時だった。
(つ……冷たっ! この子、手冷たすぎじゃないですかね……!?)
女の子の手は冷たかった。本当に冷たかった。それも、手に水を晒したあとのような涼やかな冷たさではない。手袋も付けずに雪遊びに夢中になった後のような、ビックリするタイプのヤツだ。
それこそ彼女の肌の色――雪を思わせる、刺すような冷たさに包まれていた。
「ありがとうございます。これからお部屋へお連れいたしますので、こちらへ……」
「……あ、はいっ」
手の冷たさに気を撮られていた温子だったが、これから彼女が客室へ案内してくれると聞き、遅れないようしっかり付いていく。幽霊旅館(一応、まだそうと決まったわけではないが)で案内人とはぐれるようなことがあったら、自分が心霊現象や都市伝説の仲間入りをしかねない。ここはきっちり女の子に付いていくとしよう。温子はそう考えた。
ふっ、と女の子がスポーツバッグを持ち直しているのが見えた。一泊二日にしてはやっぱり持ってきすぎたかな、とちょっと反省しつつ、でも一人旅だしいいじゃないですか、と開き直る温子だった。
(んんー。それにしても、こう……可愛い女の子ですねー。お人形さんみたいです。お人形さん)
前を歩く仲居の女の子の横顔をチラチラ伺いながら、温子がうんうんと小さく頷く。お人形、という温子の言葉には二つの意味があった。子供ながらに和服を着こなす可愛らしい日本人形としての意味、そして、蒼い瞳に銀の髪を併せ持つ西洋人形としての意味。和洋折衷とはこのことに違いないと、温子は一人で納得していた。
ところで、温子が通っている中学校では、男の子と女の子の清く正しい――少なくとも、温子が見聞きする限りでは――お付き合いも多かったけれど、それに負けず劣らず、女の子同士のお付き合いもたくさんあった。友達にも「彼女」の居る子が多かったし、特別でもなんでもなかった。
今のところ、温子には彼氏も彼女もいない。けれどそれは別に独りにこだわりがあるとかじゃなくて、可愛い子……素敵な女の子がいるなら、ぜひ、お付き合いをしてみたいとも思っていた。オカルト好きで変わったものにばかり興味を示す温子だったけれど、惚れた腫れたの話には年相応に興味があったわけだ。
そんな温子から見て、この白い肌と髪の女の子は、掛け値なしに可愛く見えた。
(仲居さん、それも見習いさんでしょうか。こう、住み込みで働いてるとか、一生懸命な感じでいいですなぁー)
勝手にあれこれ想像して好き放題言っているが、まあこれは温子のいつものクセみたいなものだ。健気な女の子も温子のタイプだったのである。
余談。これの身近な例が、実は温子の姉である陽菜だった。今は陸上をやっていて元気はつらつアスリートの姉だが、小さい頃はとても病弱で、しょっちゅう熱を出して寝込んでしまうほどだった。温子は姉が寝込む度につきっきりで看病して、早く元気になってほしいとお願いしたものだった。温子はしばしば学校を休んだが、自分が倒れて休んだことは一度も無かった。休む理由はいつも、姉の面倒を見てあげるためだった。
そんな陽菜があることをきっかけに陸上を始めて、時に苦しみながら強くなっていくのを、温子はすぐ近くで見守っていた。温子はこれにひどく心を打たれて、「尊敬する人は?」と訊ねられたら「お姉ちゃん!」と即答するくらいのお姉ちゃん大好きっ子になった。陽菜も自分を信じてくれる温子のことが大好きだったから、姉妹仲はすこぶる良好だった。
それはともかく、この女の子だ。見た感じは同い年か一つ上くらい、お姉ちゃんよりは確実に年下っぽく見えるけれど、こうやって身を粉にして働いている。これを健気と言わずして何と言うのか。しみじみ頷く温子であった。
「こちらです。どうぞお入りください」
とか何とかやってるうちに、いよいよ本館へ到着だ。仲居さんの後ろにぴったり付いて、温子がいそいそと中へ侵入する。
内部は小綺麗な感じで、派手さこそ無いけれど、きちんと整えられたつくりをしていた。正面には小さな受付が一つ見える。ただ、他の従業員の姿は見当たらない。先客もここにはいないようだ。皆別の場所にいるのだろうか、ずいぶんと静かだ。
仲居の少女が荷物を床へそっと置いて、いそいそと受付へ向かう。これからチェックインをさせてくれるのだろう。温子も同じく小走りに受付まで急ぐ。女の子が宿帳を開いて、温子に目を向けるよう促した。
「お手数ですが、お名前をお願いいたします」
「はいはーい。まーじーきーな……あーつーこ、っと」
さらさらと慣れた手つきで名前を書いていく。宿帳のページは真新しく、しばらく使われていた形跡が無い。少なくとも、自分以外に宿泊している客は見当たらない。ひょっとするとこの旅館は立ち寄り湯の方が人気で、そちらには人がいるのかも知れない。
(せっかくの夏休みですから、家族連れでゆっくり温泉に入りに来てもよいと思うのですが。家族連れ。んー、そういうわけにもいかないんでしょーかねぇ)
自分も独り客であることを棚の上へすぽーんと上げて、温子はお得意の言いたい放題である。
「真境名さまですね。改めまして、ようこそお越しくださいました。それでは、お部屋へご案内いたします」
手短にチェックインを済ませたところで、いよいよ客室へ突入だ。受付から右手へ進んでしばし歩き、ガラス戸越しに入念に手入れされた見事な日本庭園をさらっと鑑賞しながらさらに進むと、無事に温子が宿泊する105号室まで到着した。荷物を提げた仲居さんに続いて、温子が中へ入っていく。
お荷物はこちらでよろしいでしょうか、と部屋の隅に進んだ女の子に、そこで大丈夫っす、と応える。ここまで重い荷物を運んでもらってずいぶんと楽ができたので、温子は思わずお礼を言いたくなった。ぺこりと頭を下げて、元気に声を上げる。
「ありがとうございまっす! 助かりましたっす!」
「とんでもございません。ここまで長旅をされてきて、お疲れでしょうから」
お礼を言われて嬉しかったのか、仲居さんの方もにっこり微笑む。笑った顔も可愛らしい――と、温子は思わずほっこりした気持ちになった。こんな素敵な仲居さんがいてくれるなら、ここが幽霊旅館だろうがなんだろうが楽しく過ごせそうだ。見たところ、この子は幽霊ではなさそうだったし。
ひと段落付いたところで、白い髪の女の子が畳へ正座する。すると温子もなんだかかしこまった気持ちになって、ちょっと慌てながら女の子の正面に同じく正座する。
「申し遅れました。私、氷那鞠(ひなぎく)と申します」
「ひなぎく、さん……まさか」
氷那鞠、という独特な響きを持つ名前を耳にして、温子は「あっ」と言うように口へ手を当てる。花の名前を持つ少女や女性は、温子の周囲にも少なからずいたのを思い出した。そして彼女たちは例外なく、少し変わった特徴を持っているということも。
例えば、そう。隣町の神社で巫女をしているという、あの狐のお姉さんのような――などと、温子が思いを巡らせていると。
「雪女の身分で恐縮ですが――どうか、何卒よろしくお願いいたします」
※立ち読み版はここまでとなります。続きはイベントにて頒布します本編にてお楽しみください。