「水魚の交わり」[立ち読み版]

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小高い丘の上に、一戸建ての家々がずらりと立ち並ぶ。郊外の都市ではお馴染みの光景が広がる街・山辺市は空五倍子区。

まだ真新しい学生カバンを肩に提げて、お隣の家のチャイムを鳴らす少女が一人。

「はーい」

「うちうち、さとみさとみ。あかねちゃーん、そろそろ行こやー」

インターフォン越しに友人の名前を呼び掛けたのは、さとみ、と言う。

さとみ。本名は土屋さとみという。すらっとした細身の体格だけれど、顔だけは丸っこくて、どこか幼さを残したままだ。髪はポニーテールにして簡単にまとめていて、赤いヘアバンドが黒々とした髪によく映えている。制服をキッチリと着ている姿は、真面目な性格の現れと言えるだろう。

呼び掛けられたあかねは「すぐ行くわー」と返事をして、ガチャリと受話器を置いた。そしてその言葉通り、あかねはまもなくさとみの前に姿を表した。

「ごめんごめん。ちょっと着替えるん時間掛かってもて」

栗色の髪を二つ結びにしたあかねは、快活そうな印象を周囲に振りまく風貌をしていた。おっとりした雰囲気のさとみとは対照的だ。細かいことながら、さとみに比べてまばたきの回数が多いのも、ちゃきちゃきしている、というイメージを与える一因になっている。

「ええってええって。うちもまだ制服慣れてへんし。それにあかねちゃん、車椅子乗っとるし」

ドアを開けて外に出てきたあかねは、車椅子に乗っていた。少しぎこちないところはあれど器用に操作して、さとみの前までやってくる。では、あかねは足が不自由なのかというと、実はそう単純なことでもなく。

「最近やっと慣れたけど、まだまだ思うようには行かへんなあ。人魚もラクちゃうわ、ホンマに」

ごくごく簡単に言うと、あかねは人魚だった。

制服は上の部分、ブラウスだけ身に着けていて、下は人魚の躰に合わせて作られた特製の水着を着ている。水着の裾から見える下半身は、濃い青の混じった銀色の鱗でもってびっしりと被われていた。人間で言うところの足に相当する部分は、もちろん尾鰭になっている。

車椅子にはその下半身がすっぽり収まるくらいの大きな水槽が取り付けられていて、中は清水で満たされている。地上で活動するために作られた、人魚専用のモデルだ。

「せやけど、綺麗やで。あかねちゃんの体」

「やめてやそんなん、聞いてて恥ずかしなってくるわ」

さとみの言葉に笑って応じながら、あかねは水槽の四隅に取り付けられた小さなカーテンを引っ張って、人魚の下半身を見えないようにした。すっかり準備を済ませてから、さとみとあかね、二人が並んで歩き始める。

車椅子をぐいぐい押していくあかねを見て、さとみが「うちが押そか?」と言う。あかねはぶんぶん首を振って「いけるいける」と答える。こうしてあかねが車椅子に乗るようになってから、ほとんど毎日同じやりとりが繰り返されている。

「出るん遅なったから、早よ行かなな!」

「あっ……あかねちゃん、ちょっと待ってや」

「よっしゃー! 兵は神速を尊ぶってやつや!」

さとみがうかうかしているうちにあかねは車椅子をぐいぐい押していって、さとみを置いてけぼりにせんばかりの勢いで前進していく。カバンを肩に掛け直して、さとみがあかねの後を走って追いかける。

あかねに追いついたところで走るのをやめて、ペースを合わせて歩いていく。

「せやけどさとみちゃん、うち地味に感謝してるねんで」

「えっ、何が?」

「だって、うちが人魚になってもうても、こうやって友達でいてくれてるねんから」

この言い方から察せられる通り、あかねは元から人魚というわけではなかった。以前はこれといった特徴を持たないただの人間で、家系のどこかに人魚がいたとか、そういうわけでもない。彼女が人魚になったのは、外からの要因によるものだ。

二ヶ月ほど前のこと、あかねは家で鯛のお刺身を食べた。近くのスーパーで買ってきた何の変哲もないお刺身で、一見したところ変わったところは何もなかった。ただ、「いつもと少し味が違う」――あかねは食べた直後にそう感じたらしいが、美味しいことに変わりはなかったので、そのままペロリと平らげてしまった。

ところが後になって、とんでもないことが分かった。

「ほんま、ありえへんわな。お刺身に人魚の肉混ざってたって」

鯛の刺身の一部に、あろうことか「人魚の肉」が混入していたことが明らかになったのだ。人魚の肉はここ空五倍子区向けには一切供給されておらず、他の地区向けの製品に使われているものだった。言うまでもなく、食品加工業者のずさんな管理が原因である。そしてあかねの一家は、全員揃って人魚の肉を口にしてしまったのである。

あかねの両親と弟は数日軽い熱を出して寝込む程度で済み、身体に変調を来すことはなかった。けれどあかねは例外で、ひどい高熱が何日も続いた。十日ほどしてやっと熱が引いたものの、あかねの身体には大きな変化が起きていた。

そう。あかねは人魚に変身してしまったのだ。

「お医者さん言うとったわ。うちだけなんか体質違うかってんって」

詳しい原因は分からないが、あかねだけは他の家族と身体の何かが違っていたらしい。食べた人魚の肉に身体が激しい反応を起こして、上半身は今まで通り、下半身は魚の人魚という姿になってしまったのだ。医者によると、上半身がそのままだったのは、脳や心臓といった重要な器官を身体の変質から守るために、免疫機能がフルパワーで働いたから、とのことだった。

このような経緯があって、今のあかねは人魚として生活しているわけである。

「せやからな、うちホンマにおおきにな、って思てんねん。さとみちゃん側におってくれて」

「そんなん別に普通やん。あかねちゃんはあかねちゃんやし」

人魚にはなったものの、あかね自体は何も変わっていない。よく動きよくしゃべり、明るい声はいつも元気を与えてくれる、さとみはそう考えていた。人魚になったことそのものには驚いたけれど、それからもさとみはあかねとの付き合いを変わることなく続けている。さとみにとってあかねは、誰よりも大切な友達だったからだ。

だからさとみにとってあかねは「普通の子」で、特段何かおかしいところがあるとか、そういう風には思っていない。普通に学校へ通って、休みの日には一緒に遊んだりもする。自分と何も変わるところなど無い、さとみはそう考えている。

ただ、他のクラスメートは違っていて、人魚であるあかねを物珍しく思っているようだった。これは無理もないことだった。ここ空五倍子区は山辺市においても「妖怪」「物の怪」「モンスター」「神様」あるいは「人外」などと括られる住民が極端に少なく、これといった特徴を持たない人間が大部分を占めている地区だからだ。地域毎にカタチは違えど人間と人間以外の住民とが同じ空間に共生している他地区とは、少し事情が違っていた。

「前々から言うとるけど、うちあかねちゃんのこと好きやから」

「もう、さとみちゃんまたそない言うて。朝から小っ恥ずかしいわ」

朝っぱらから自分の目を見て堂々と「好きやから」――なんて言ってのけるさとみに、あかねは頬を朱に染めつつ軽くはたいて応じるのだった。

 

さて、丘を降りた先にある空五倍子第二中学校までやってきたところで、さとみとあかねが別々の道をゆく。

「エレベーター、ちょっと離れた場所にあるんよな。さとみちゃんと一緒に行けたらええねんけど……」

「せやけど、また教室ですぐ会えるやん。先行って待ってるな」

「よっしゃ! すぐ行くわー」

あかねは車椅子用のエレベーターに乗り、教室のある三階へ向かう。あかねに遅れまいとさとみも下足室を抜け、階段を登って教室へ移動した。

二人が教室で合流したところで再び挨拶を交わして、朝の会が始まるまでの時間をめいめい過ごすことにする。あかねは早速ノートと教科書を取り出して、真面目に復習に励んでいた。あかねはこう見えて勉強熱心で、空いた時間を見つけては予習復習を欠かさない。さとみも勉強はよくできる方だったが、あかねとは得意分野がお互いに異なっていた。ゆえに、二人は互いに教えたり教えられたり、持ちつ持たれつのよい関係ができていた。

ノートに軽快にシャーペンを走らせていたあかねだったが、ちょっと腕を動かした拍子に、机の隅に置いていた消しゴムが縁から転げ落ちて。

「――あっ」

とあかねが気づく頃には、消しゴムは床へ落っこちてしまっていた。

あかねは人魚で、車椅子に乗っている。その姿勢の都合で、床に落ちてしまったものを拾うことができない。こうならないよう普段から気を配ってはいるものの、時折こうして床へシャーペンや消しゴムを落としてしまっていた。

周りの同級生たちは気付いていない。気付いていたのは、あかねから決して近いとは言えない席に座っていたさとみ、ただ一人だった。

「あ、さとみちゃん」

「あかねちゃん、ちょっと待ったって。消しゴム拾うわ」

さとみはすぐにあかねの近くまで駆け付けると、床に転がっていた消しゴムをひょいと拾い上げ、あかねの机の上へ置いてやった。あかねは申し訳なさそうな顔をして、消しゴムをペンケースの中へしまう。

「ありがとう、さとみちゃん。ホンマすまんなあ」

「そんなん、気にせんでええって。困ったときはお互いさまやん」

「せやけど……うち、さとみちゃんに迷惑掛けてばっかりやし」

「そんなことあらへんよ。うち、あかねちゃんとおるだけで楽しいし」

「さとみちゃんは優しいなあ。うちも頑張らなアカンな」

あかねはさとみが消しゴムを拾ってくれたことに感謝しつつ、申し訳なさそうな表情を見せる。そんなあかねにさとみはしきりに首を横に振って、気に病む必要はないと励ますのだった。最近のさとみとあかねは、こんな風にあかねが申し訳なさそうな顔をして、さとみがそれを否定する――という関係になることが多かった。

「せや、さとみちゃん。一時間目体育とちゃうかったっけ?」

「あ、せやせや。そろそろ着替えに行かな。一緒に行こか」

「よっしゃ、行こ行こ」

一時間目の授業は体育だ。さとみはあかねと連れ立って、更衣室まで向かうのだった。

 

「ちょっと先生ー! なんでうち見学せなあかんの!? 風邪も引いてへんし女の子の日とも違うねんで!?」

「そうは言ってもね、美空さん。怪我をしたりすると危ないから……」

体育のためにグラウンドへ出たさとみたちだったが、あかねは先生から「美空さんは見学で」と言われてしまった。あかねは納得が行かず、先生に対してしきりに食い下がっている。上だけとは言えしっかり体操服に着替えていて、授業に参加する気満々だ。

再三に渡って「参加したい」と訴えるも、先生から許可は下りなかった。あかねは憤懣やるかたない様子で、しぶしぶ校庭の隅へ移動する。さとみはそんなあかねの様子を、遠巻きながら心配そうに見つめていた。

「美空さん、よっぽど体育やりたいみたいだね」

「疲れるだけなのにねー……あたしも休みたいなぁ」

あかねが参加したがるのも無理はない、とさとみは思った。彼女は身体を動かすことが大好きで、授業であれなんであれ身体を動かせるなら大歓迎だったからだ。しかしながら人魚に変身してしまってからというもの、体育の授業はすべて見学させられてしまっている。他の子と同じように動けないし、車椅子で無理をするのは危険だから、というそれなりの理由はあったが、あかねを納得させ得るものではなかったようだ。

見学者は授業に参加しない代わりに、レポートを書かなければならない。先生から手渡されたクリップボードを右手にぶら下げたまま、あかねが頬杖をついて見学をしている。見るからに暇そうで、明らかにつまらなさそうで、あからさまに退屈そうな様子だった。大きくため息をつくあかねの姿を見て、さとみは密かに心を痛めた。

(どないかして、あかねちゃんも運動さしたりたいけど……どないしたらええんやろう)

さとみにもあかねと一緒に授業を受けたいという気持ちはあったが、彼女一人で先生を説得できるわけもなく、またそれに代わる妙案も浮かばない状態だった。

「……よしっ。うち、頑張るで」

そんなあかねの分まで自分が頑張らねばと、さとみが頬を叩いて気を引き締めるのだった。

※立ち読み版はここまでとなります。続きはイベントにて頒布します本編にてお楽しみください。