鬼ごっこ
概要
あらすじ
山辺(やまのべ)市にある古びた社宅に住む鬼の少女・兎沙瑞鬼。晴れ渡った空の元、今日は絶好の花見日和だと意気込み、近くの公園まで足を運ぶ。その途中、道に迷った少女に出会って――。物の怪と人間の少女が織り成す、心温まる百合ストーリー。
登場人物
- 兎沙瑞鬼(とさみずき)
- 山辺市の社宅に住んでいる「鬼」の少女。頭に生えた小さな角を除けば、人間の少女そのものの風貌をしている。明朗快活で竹を割ったような性格の持ち主で、男子顔負けの俊足と怪力を誇る。普段はジャージ姿で駆け回っており、着る物にはあまり頓着しないタイプ。一人で花見をしようと公園へ向かっていた最中、道に迷っていた桃恵と邂逅を果たす。
- 桃恵
- 兎沙瑞鬼が出会った少女。活発な彼女とは対照的におっとりした穏やかな性格。のんびりした口調で話す。名前にちなんだ桃色のドレスを身にまとっていて、見るからに「お嬢様」といった風貌。兎沙瑞鬼に興味を持ち、互いに少しずつ心を通わせていく。
ちょっと立ち読み
灰色の空の下で、年端もいかぬ子供らが数人、声を上げて走り回っていた。
「ほらほら逃げてみなぁ、あたいがみんなとっ捕まえてやるかんね」
子供らの中でも一際目立つのが、臙脂色のジャージを身に着けたリーダー格とおぼしき少女だった。上にはゼッケンの付いていない体操着を着ていて、布地には深く染み込んで洗っても拭えぬほどの泥汚れがいくつもあった。ジャージの上着を腰に括り付けている辺りが、外観から受ける彼女に対するお転婆・腕白という印象をさらに強いものにしている。
しきりに八重歯を見せて笑いながら、他の子供らを追いかけ回して遊んでいる。捕まえては駐車場の隅にある植え込みに作った自分の「陣地」まで引っ張っていき、虜囚の数を増やしていく。ジャージの少女はそれだけでも十分に目立っていたが、彼女を目にした者ならもっと目を引かれるものが頭の天辺に付いていることを、今ここで記しておかなければなるまい。
「鬼さんこーちら、てのなーるほーうへ!」
「言われんでも行ってやるよ。なんつってもあたいは、鬼なんだから!」
「いけねえ、兎沙瑞鬼<とさみずき>に捕まったら喰われちまうぞ、逃げろ逃げろ!」
少女は――兎沙瑞鬼は、頭に二本の角を生やした<鬼>であった。
兎沙瑞鬼は正真正銘の、紛れもない、押しも押されぬ鬼であったが、頭に生えた角以外に、辺りをいっしょになって走り回る人間の子供との違いを見出すことは難しかった。出来なかったと言った方がより適切である。頭に角が在ることを除けば、兎沙瑞鬼は背丈も顔立ちも人間そのものであり、実際のところ彼女は煩わしがってまず被りたがらないだろうが、仮に帽子を被ってしまえば、常人に区別を付けることは不可能だった。
老朽化して方々に罅や錆の入ったアパートメント。林立するそれらの合間合間にある小路を遊び場にして、兎沙瑞鬼と子供らは縦横無尽に走り回っている。兎沙瑞鬼は女子ながら男子顔負けの速駆けを見せ、逃げ惑う子供らをみるみるうちに捕まえていく。子供らも外遊びを通して編み出した抜け道や物陰を駆使して兎沙瑞鬼から逃れようとするので、彼女が鬼となった鬼ごっこはいつも大変白熱した。鬼ごっこは追い掛ける方が強くなければ面白くならないものであり、俊足にして文字通りの鬼たる兎沙瑞鬼は、まさしく適役の敵役であった。
「ほーら捕まえたあ。あんたで最後だかんね」
「ちぇっ、逃げきれると思ったのになあ。やっぱ兎沙瑞鬼は速ぇや」
「そりゃそうよ。なんたって、あたいは鬼なんだ。人を攫って血を啜り、臓腑を抉って躰を骨まで喰らい尽くす。それが鬼の生き様ってやつだかんね」
啖呵を切ってえっへん、と得意気に胸を反らす兎沙瑞鬼を、子供らは無邪気に笑って見つめていた。しばし間を置いてから、さあさあ、もういっぺんやるぞと兎沙瑞鬼が意気揚々と声を上げて、それを合図に子供らが蜘蛛の子を散らすようにわーっと走り去っていった。
「逃げろや逃げろお。どこまで行っても、あたいが必ずとっ捕まえてやるさあ」
余裕の面持ちで二度三度とその場で屈伸してから、鬼は逃げていった子供らを追って走り始めた。
たぶん、なぜ兎沙瑞鬼のような鬼が人のような暮らしをしていて、子供らが鬼たる兎沙瑞鬼を畏怖しないのかといった、しごく当然の疑問が浮かんでいると思料する。ゆえにここで少し、兎沙瑞鬼を取り巻く環境について述べることにする。
彼女が住んでいるのは、某県にある「山辺(やまのべ)市」という山あいの小さな都市である。ここ山辺市には、「鬼」である兎沙瑞鬼のような「物の怪」が多数暮らしている。それを除けば、山辺市はただの辺鄙な街に過ぎない。これといった特産もなく、観光資源が豊富なわけでもない。物の怪が住み、それに伴う文化や風習が形成されていることを除いてしまえば、山辺市に残るものはごく少ない。
物の怪の多くは人のそれと似た暮らしをしていて、兎沙瑞鬼と人間の子供らが遊んでいるのを見れば分かる通り、地域や人間社会にさも当たり前のように溶け込んでいることも少なくない。ただこれは地域によっていささか様相が異なっていて、例えば物の怪を恐れ敬うような処もあれば、逆に物の怪を牛馬のように用いているような処もある。或いはもっと複雑な間柄となっている処も少なくない。取り敢えず、物の怪と人との関係性は、地域の風習や考え方によって大きく左右されることだけは確かである。
先ほど兎沙瑞鬼は山辺市で暮らしていると書いたばかりだが、これは大雑把に過ぎる書き方であり、もう少しきちんとした形に書き直したい。兎沙瑞鬼がいるのは、正確には山辺市の町の一つである「群青(ぐんじょう)町」である。
群青町の最大の特徴は人の多さである。山辺市に数ある町の中でも抜きん出て人口密度が高く、高層住宅が文字通り林の如く所狭しと立ち並んでいる。人が多いということは子供の数もまた多く、とある小学校に至っては過疎地とは逆の理由、即ち収容すべき児童の数の多さ故に本校・分校に分けられている程だ。そうして尚、学年毎に一組から十組まで教室を用意せねばならぬほどの人数であり、過密という言葉がとてもよく似合っている。
山辺市は群青町、そこにある大きな団地の一室に、兎沙瑞鬼の住処は在った。これは通常の団地ではなく、兎沙瑞鬼の母親が働いている工場(こうば)を経営する会社が保有する社宅となっている。兎沙瑞鬼はここで母親と二人で慎ましく暮らしながら、同じく社宅住まいの子供らと肩を並べて遊んでいるわけである。
兎沙瑞鬼自身のことも記しておこう。先の通り母親と二人暮らしの子鬼であり、平時は上下ジャージで方々を元気に走り回っている、どちらかというと男子のような気質を持った女子である。怖いもの知らずにして好奇心旺盛な如何にも年頃の子供らしい性格であり、鬼らしい処と言えば角を生やしていることと、日頃から「鬼は人を喰う」という意味合いの言葉を口にしていることくらいしか挙げられない。鬼ごっこの最中に諳んじた「人を攫って血を啜り、臓腑を抉って躰を骨まで喰らい尽くす」という一節のようなものだ。字面だけ見れば鬼らしく、人にとっては物騒極まりないと言える。
しかしながら実際のところ、兎沙瑞鬼は母親から聞かされたことを気に入って復唱しているに過ぎず、本気で人を取って喰おうなどとは毛ほども考えていないし、そもそも言っていることが惨たらしいということもよく分かっていない。砕けた言い方をするなら、何となく格好良いから使っているに過ぎない。だいたい兎沙瑞鬼にしてみれば、生臭い人なんぞよりも、月に一度母親が給料を貰う日に食べさせてもらう、駅前の古ぼけた喫茶店が供する甘いバニラアイスチョコレートパフェの方がよほど贅沢なごちそうだったのである。
普段からジャージばかりで着る者に頓着せず、月一のちょっとした甘味が最大のごちそうと聞いて察しが付いた方もいると思うが、兎沙瑞鬼の家はそれほど裕福ではない。蛇口を捻れば水は出るしコンロを回せば瓦斯も使える故に、絵に描いたような窮乏生活を強いられているというわけでは無かったが、さりとて無駄遣いができるほどの蓄えがあるわけでもなかった。社宅住まいなのも、家賃の安さが最大にして決定的な理由なのは論をまたない。
決して恵まれているとは言えない環境ではあったが、しかし兎沙瑞鬼はそうした境遇を微塵も苦にせず、今に至るまでまっすぐのびのびと育ってきた。人の子らに混じって遊びながら、兎沙瑞鬼は自身が「鬼」であることに、子供ながら誇りを持って生きてきたわけである。
とっぷり日も暮れて鬼ごっこもお開きとなり、兎沙瑞鬼は自分の家がある「G棟」まで帰ってきた。ポケットに突っ込んでいた巾着袋を引っ張り出すと、中に仕舞ってあった小さな鍵で家の扉を思い切り開いて中へ駆け込んだ。
気休め程度に洗い場で手を洗うと、電気も点けずに茶の間で寝転ぶ。投げ出してあった古い漫画本を掴むと、適当にページをめくって読み始めた。部屋は暗くろくに光源もなかったが、兎沙瑞鬼はまるで気にする様子は無かった。山辺市に住む鬼は総じて視力がずば抜けて高く、人では視界を確保できないほどの暗闇でも平時と変わらずものを視ることができた。それはまだまだ子供の兎沙瑞鬼とて、何ら変わりは無かったのである。
「お母ちゃんまだかなあ。あたいお腹空いちゃったあ」
両足を忙しなくパタパタさせながら、兎沙瑞鬼がぼそりと呟く。母親が戻ってくるのはいつも六時半頃。仕事を定時で終わって、それから職場の清掃と買い物をしてから帰宅するのが常だった。買い物に使うのは決まって社宅からは歩いて五分ほどのところにある小さな食品スーパーで、兎沙瑞鬼もしばしば母親に頼まれてお使いに行っている。今日も恐らくそこで食べ物を買ってくるのだろうと、兎沙瑞鬼は踏んでいた。
ふんふんふーん、と調子外れな鼻歌を歌いつつ、兎沙瑞鬼は何べんも読み返してとっくに展開を覚えた少女マンガを読んで時間を潰す。去年に社宅で催された夏祭りで、F棟の住人が文字通りの捨て値で売っていた古本を買い取ったものだ。続き物の三巻からで、登場人物の関係やここまでの流れはさっぱり分からなかったが、兎沙瑞鬼にしてみれば貴重な漫画であった故、内容は分からずとも絵を見て楽しんでいた。男女の惚れたはれたの話のようだが、男子など字面通りの遊び相手としか識らない今の兎沙瑞鬼にしてみれば、この姉ちゃんは何を悩んでるのやらといった心境だった。
もう少しで巻末に至るというところで、玄関の鉄扉に鍵を差し込むガチャリという音が聞こえた。あっ、お母ちゃんだ――兎沙瑞鬼はすぐさま漫画を放り出すと、玄関までドタドタと駆けて行った。
「お母ちゃん! おかえり!」
「ああ、ただいま、兎沙瑞鬼。遅くなっちゃってごめんね」
「ううん、いいのいいの。それよりあたいもうお腹ぺこぺこ。お腹と背中がくっついちゃいそうだよ」
帰ってきた母親を出迎えると、兎沙瑞鬼は八重歯を見せてぱあっと朗らかな笑みを浮かべた。
母親の名前を刃那瑞鬼(はなみずき)という。兎沙瑞鬼と同じく鬼であり、やはり頭の天辺に二本の角を生やしていることくらいしか、外見で鬼と解るものはない。おまけに刃那瑞鬼は髪をよく伸ばしていて、それが角をほとんど覆ってしまうために尚更人と見分けが付け辛かった。兎沙瑞鬼共々並んでいても、遠目に見ればただの親子連れにしか見えなかった。
この家にあって刃那瑞鬼は兎沙瑞鬼との二人暮らしであり、連れ合い、即ち兎沙瑞鬼の父親の姿は見当たらない。彼女が物心ついた頃からこうであったために、兎沙瑞鬼は父親の顔も名前も知らずにいる。友達である人の子らから、やれお父ちゃんに遊園地へ連れて行ってもらっただの、やれパパといっしょに野球をしただのと聞く度に少しばかり羨ましくは思ったが、それは父親への思慕というより、単純に皆が楽しそうにしているのを羨ましく思っただけに過ぎなかった。そもそも父親とはどんなものなのか、兎沙瑞鬼にはそれが根本的によく解っていなかった。
「すぐご飯にしましょうね。台所の電気点けてちょうだい」
「はぁーい。お母ちゃん、今日のお献立なぁに?」
「チキン南蛮とれんこんのピリ辛炒めにしたわ。出る前にご飯も仕掛けたから、もうすぐ炊けるはずね。それとね、ちょっと奮発して、お酒とおつまみも買ってきたのよ」
「本当!? 今日は何買ってきたの?」
「兎沙瑞鬼にはトリスを、お母さんはいいちこにしたわ。おつまみはいつもの牛鬼ジャーキーよ。ご飯の後に、いっしょに飲みましょうね」
兎沙瑞鬼は子供であるが、鬼でもある。古今東西鬼は酒好きなものだとされているが、兎沙瑞鬼もそれに違わず大の酒好きだった。鬼は根本的には人と異なる生き物であるため、躰が未成熟な彼女が飲酒してもなんら問題は無かったし、法条の類で罰せられることもなかった。乳離れする頃には刃那瑞鬼から酒の味を教わり、今ではすっかり母親顔負けの酒飲みへ成長した次第である。たいがいの酒は喜んで飲むが、特にウィスキーを、殊にトリスウィスキーを一際好んでいる。肴として買ってきた「牛鬼ジャーキー」は山辺市内でのみ売られている珍味であり、その名の通り牛鬼の肉を燻製したものである。ここ群青町ではなく別の町で生産され、山辺市内の小売店で普通に売られている。
炊き上がったばかりの米飯を小ぶりなお茶椀にそれぞれよそい、買ってきた惣菜の封をラップを剥がしてちゃぶ台に並べる。冷蔵庫から水代わりの冷えた麦茶の入ったプラスティックのボトルを取り出して隅へ置けば、すっかり準備は完了と相成る。兎沙瑞鬼と刃那瑞鬼、母娘ふたり身を寄せ合って、共に手を合わせていただきます。
「ごめんね、兎沙瑞鬼。早く帰ってこれたらお母さんが料理したげるんだけど、今日は出来合いので我慢してちょうだい」
「いいよ別に、お母ちゃん忙しいし。それにあたい、この鶏のおかず好き」
「兎沙瑞鬼は何でもよく食べてくれて、お母さんはうれしいわ。好き嫌いしない子は、立派な鬼になれるのよ」
「えっ! あたい、立派な鬼になれるの!?」
口元にご飯粒をくっつけながら、兎沙瑞鬼が大きな声で言う。お声が大きいわよ、お隣さんに聞こえちゃうわ。刃那瑞鬼に優しくそう諭されて、兎沙瑞鬼はちょっとだけ声量を落とした。
「兎沙瑞鬼はね、お母さんが子供だった頃にそっくりよ。あちこち走り回って、元気のいい子だってよく言われたわ」
「じゃあ、あたいもお母ちゃんみたいになれるってこと?」
「きっとなれるわ。兎沙瑞鬼なら、お母さんよりも出世して、人様に怖がられる鬼になれるかも知れないわね」
刃那瑞鬼は、一人娘の兎沙瑞鬼を心から愛していた。鬼は冷酷で酷薄で残虐で粗暴、かようなイメージを持って捉えられることが殆どであったが、子を愛し育むところなどは人間と何ら変わりは無かった。これは群青町に住まう鬼が人の暮らしにすっかり染まっていることももちろん一つの要因として在ったが、刃那瑞鬼はそうしたこととはほとんど関係なく、只々純粋に娘の兎沙瑞鬼を愛していたのだった。
「あたい、いつかすっごい鬼になって、お母ちゃんにお酒うんと飲ませてあげるんだかんね」
「まあ、楽しみだわ。お母さんも、それまでしっかり長生きしなきゃね」
忙しい合間を縫って自分に惜しみなく愛情を注いでくれることをしっかり実感できていたので、兎沙瑞鬼も刃那瑞鬼のことをよく慕っていた。裕福でなくとも、留守番をする機会が多くとも、顔を合わせる時間になればこうしてたっぷり可愛がってくれると解っていたから、兎沙瑞鬼は拗ねることなくまっすぐ育つことができたのである。
夕飯を早々に食べ終えると、兎沙瑞鬼は待ちかねたように牛鬼ジャーキーの封を切る。ついでに自分のトリスウィスキーの蓋を勢いよくこじ開け、ちゃぶ台の上にどんと置く。刃那瑞鬼は娘の様子を微笑ましげに眺めながら、氷を詰めた小さなグラスにいいちこを静かに注ぐ。兎沙瑞鬼が無邪気に「かんぱーい」と音頭をとると、母娘二人のささやかな酒盛りが始まった。
ぐいぐいと二口ほどウィスキーを胃の腑へ送って、兎沙瑞鬼はぷはっ、と爽快な表情を見せた。口元を腕でごしごし拭って、頬をにんまり緩めている。これはもう、見るからに幸せそうな顔つきである。ジャーキーを齧りながら、母は娘が酒を飲む姿に目を細めている。
「お母ちゃん、今日もお勤めお疲れさま。あたい一日いい子にしてたよ」
「ありがとうね、兎沙瑞鬼。本当は、もうちょっと家にいてあげたいんだけど」
「いいのいいの! みんなあたいと目いっぱい遊んでくれるから、全然退屈じゃないしね」
「本当によかったわ。最近忙しくなって残業が増えたから、どうしても遅くなっちゃって」
「ふうん、そうなんだあ。そういやお母ちゃん、あの工場で何してんの?」
刃那瑞鬼は、この社宅のすぐ裏手に在る幾つかの施設から成る大きな大きな「工場」で働いている。いつも紅白の煙突から白い煙をもうもうと上げて、日がな一日機械の稼働音を鳴らし続けている工場は、社宅とは切っても切り離せない存在だった。というのも、社宅住まいの社員ほぼ全員が、あの工場で何らかの職に就いているからである。
兎沙瑞鬼が思うに――工場というからには何かを生産していることは間違いなかろうが、何を作っているのかはよく分からなかった。刃那瑞鬼が仕事の話をしたので、そう言えばとばかりに訊ねた次第である。娘から工場について訊かれた刃那瑞鬼はグラスを手にしたまましばし考えて、それからこう答えた。
「お母さんは、製造ラインに入ってお仕事してるけど、何を作ってるのかは分からないの」
「あれ、そうなんだあ。えらい人は教えてくんないの?」
「訊けば教えてくれるかもしれないわ。けれど、いろいろなものを作ってるみたいで、ちょくちょく仕事が変わるの」
「へえ、そんな塩梅なんだ。お母ちゃん大変だねえ」
あの工場で何を作っているか、正直なところ兎沙瑞鬼はそれについてさして興味があったわけではないので、刃那瑞鬼の答えも特に思うところはなく、言葉通りいろいろなものを生産しているのだろう、程度にしか考えなかった。思い返してみると、前に一度社宅に住んでいる人の子らに同じように訊いてみたのだが、皆一様に「分からん」「知らん」としか言わず、誰も工場で作っているものを知らなかった、ということがあった。やはり誰も知らぬようだ。
さてさて、そんな瑣末なことは酒を呷っているうちにさっぱり忘れて、兎沙瑞鬼は一時間もしないうちにボトルを空けてしまった。いい飲みっぷりだと褒めた刃那瑞鬼からいいちこも分けてもらって、さらにぐいぐい押し込む。母娘揃って買ってきた酒を飲み干す頃には、兎沙瑞鬼はすっかり出来上がってしまっていた。
「あたいここで寝ゆう、お母ちゃんといっしょに寝ゆう」
「はいはい、こっちへいらっしゃい。今日はお母さんといっしょに寝ましょうね」
「お母ちゃん、お母ちゃん。ねんねして、ねんね」
甘えた声を上げてすり寄る兎沙瑞鬼を抱いて、刃那瑞鬼は膝枕をしてやった。兎沙瑞鬼の方はすっかり夢見心地で、お母ちゃん、お母ちゃん、と繰り返すばかり。兎沙瑞鬼は刃那瑞鬼と共にいることのできない時間が長い分、こうして同じ場所にいるときは目一杯甘えるのが常だった。そして刃那瑞鬼の方はというと、娘を遠慮なく思い切り甘えさせてやり、好きなようにさせてやることで応えていたのである。
「あのね、あのね、お母ちゃん、あのね」
「うん、うん。どうしたの、兎沙瑞鬼」
「あたいね、立派な鬼になゆの。お母ちゃんみたいな、すっごい鬼になゆの」
「ええ。兎沙瑞鬼なら、きっと立派な鬼になれるわ。お母さんは信じてるもの」
「お母ちゃんお母ちゃん、あれ聞かして、かっこいいの聞かして」
「いいわよ。『人を攫って血を啜り、臓腑を抉って躰を骨まで喰らい尽くす。これが鬼の生き様だ』。これでしょ?」
「それ、それ。あたいなゆ、じぇったい、お母ちゃんみたいな、立派な鬼になゆかんね」
「うふふ。お母さん、今から楽しみだわ」
しばし刃那瑞鬼の膝の上でよじよじと身をよじっていた兎沙瑞鬼だったが、やがて眠気に誘われたのか、刃那瑞鬼に抱かれたままくうくうと安らかな寝息を立て始めた。幸せそうに眠る娘の顔を、刃那瑞鬼は満足げに見つめている。
「ああ、兎沙瑞鬼。あなたは、あなたはお母さんの一番の宝よ」
「立派な鬼に――お母さんよりも、うんと立派な鬼になって」
「いつか、お母さんたちに、鬼ヶ原を見せてちょうだい」
刃那瑞鬼はそう呟くと、押入れから布団を出してきてサッと敷き、兎沙瑞鬼といっしょに横になって眠り始めたのだった。
それから数日経って迎えた、ある晴れの日のこと。
「今日はお花見だい。公園でお花見するんだい」
いつも通り上下共にジャージ姿の兎沙瑞鬼が、歩道を文字通り大手を振って悠々と歩いている。口にした独り言に違わず、彼女はこれから花見に出掛ける腹づもりであった。住処である社宅から十分ほど歩いたところにとても大きな公園があり、春になると辺りに植えられたソメイヨシノが一斉に花を咲かせるのだ。お転婆で腕白な兎沙瑞鬼でも、桜の美しさくらいはちゃんと理解できた。ゆえに、見頃を過ぎて散ってしまう前に見物に出掛けようと思った次第である。
本日は晴天なり。うららかな春の陽気に包まれて、体まで軽くなったような心地である。兎沙瑞鬼は上機嫌だった。雨の日よりも晴れの日の方が断然好きで、家に篭もることを良しとしない彼女にとっては、この天候はまさしく僥倖であった。
「お母ちゃんがお勤めお休みだったら、いっしょにお花見できたのになあ」
ひとつ残念なところがあるとすると、刃那瑞鬼は仕事で花見に来られないということだった。できるなら刃那瑞鬼にお弁当を作ってもらって、外で花見をしながら食べたかった。去年はこの時期うまい具合に休みが入って、刃那瑞鬼とふたりで楽しい時間を過ごせただけに、兎沙瑞鬼にとっては残念この上なかった。もう少し自由にお休みが取れればいいのにと、残念に思わずにはいられない。
目的地まではまだいささか距離があった。兎沙瑞鬼が暇つぶしがてらあれこれ考えを巡らせていると、この間刃那瑞鬼が夕飯の席で口にしたちょっとした嘆きを思い出すに至った。
(思い出した。芝川っておっちゃんが来て、お母ちゃんたちにもっと働けとか言ったんだっけ)
刃那瑞鬼の嘆きとは、こんな具合である。
数日前のことだ。工場で働いていた最中にいきなり本社から重役がやってきて、製造ラインの見学をしていったそうな。その後に社員を集めて、やれもっと生産性を上げろだの、やれもっとカイゼンを重ねろだのと、あれこれ注文を付けて帰っていったらしい。社員にしてみれば突然やってきて聞きたくもない的外れなお小言を長々と聞かされるわけで、厄介なことこの上ないものだった。刃那瑞鬼も例に漏れず辟易していて、どうにかして欲しいとこぼしていたのである。こうした会社の重役は人間がほとんどを占めていて、本社機構には鬼はほとんどいないらしい。
刃那瑞鬼からこの話を聞いた兎沙瑞鬼は、大いに憤慨して見せた。
「なんだい、いっつもエアコン効いたとこでぐうたらしてるだけのくせに。あたいのお母ちゃんは鬼だぞ、馬鹿にしてたらとって食ってやるんだかんね」
大好きな母親に難癖を付けるとは、人の分際で何様のつもりか。兎沙瑞鬼は腕をぶんぶん振るって、有り余る力を持て余していた。
兎沙瑞鬼には仲のいい人の友達が大勢いたし、ご近所は皆気のいい人ばかり。そのため兎沙瑞鬼の人に対する感情は総じて好いものだったが、同時に鬼として人には腕っ節や脚力で負ける気はしなかった。ゆえに、大した力も持たぬ人に顎で使われるのは、鬼としての矜持が許さなかったのである。繰り返すが、兎沙瑞鬼は別に人を軽んじていたり蔑んでいたりするわけではない。ただ、これといった理屈もなく偉そうにされるのが、たまらなく厭なのだ。
「もう。あたいが大の大人だったら、とっ捕まえてぶん殴ってやるのに」
ぷんすかと肩をいからせながらも公園へ向かってのしのし歩き続け、さあもうすぐ到着――兎沙瑞鬼が立ち止まったのは、そのようなことを考えていた折のことだった。
自分と同じくらいの年頃に見える女子が、きょろきょろと頻りに周囲を見回しているではないか。
彼女の仕草を窺えば、行きたい場所が有るが向かうべき方向が分からず迷っているのは一目瞭然だった。刃那瑞鬼からは、道に迷っていそうな人がいたら遠慮せずに声を掛けなさいとたびたび教えられていた。兎沙瑞鬼はすぐさま走り出すと、少女の元まで駆けつけた。
「おおい、道に迷ったかあ」
「えっ……?」
兎沙瑞鬼が声を張り上げると、少女はいささかのんびりした調子で振り向いた。少し丸みのある、よく熟れたりんごのようなほほをしているのが窺える。円らな瞳を大きく広げて、駆け寄ってきた兎沙瑞鬼をまじまじと見つめていた。
「えっと、そうみたい」
「そっかそっかあ。そりゃ難儀だ。じゃ、あたいが連れてってやるかんね。どこ行くの?」
「うーんと……あっ」
「なんだい目ぇ開けて、あたいの顔に何か付いてるかい」
ぽややんとした、あたかも白昼夢でも見ているかのような目つきで、少女は兎沙瑞鬼にこんな言葉を差し出した。
「あの、もしかして……」
「……あなた、鬼さん?」
※立ち読み版はここまでとなります。続きはイベントにて頒布します本編にてお楽しみください。
頒布物情報
- 配布形式
- 書籍(紙媒体)/電子書籍(ダウンロードカード形式)
- 配布物概要
- 一次創作/短編小説/26P
- レーティング
- 全年齢対象(制限なし)
- ファイル形式(電子書籍版)
- Adobe Portable Document Format (.pdf) / Hyper Text Markup Language (.html) / Plain Text (.txt)
- 頒布価格
- ¥200(書籍版+電子書籍版のセット価格)