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頒布物紹介 - 朽葉の風景

目次

朽葉の風景

概要

不思議な世界の不思議な街を舞台に、一風変わった亜人の少女たちが紡ぐ日々の有様と、彼女たちがそれぞれの形で相見える「懐かしさ」と「寂寥感」の入り混じった風景を描いた掌編集。「糸を紡ぐ」「泡を吹く」「茸を養う」の三本を収録。

糸を紡ぐ

あらすじ

輪醐(りんご)は工場で働く半人半蟲の少女。朝起きて風呂を浴びてから仕事場へ行き、朝から晩まで糸紡ぎに精を出して、帰りに一杯引っかけてから家へ辿り着く。今日もまた昨日と同じ一日を繰り返した後、黴臭い布団の中で懐かしい夢を見る――。

登場人物

ちょっと立ち読み

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ジリリリリリ…と目覚まし時計が鐘を叩く音が響き渡る。薄汚れてぐしゃぐしゃになった掛け布団の中から、あたかもサナギを破って成虫が外へ出てくるかの如く、一人の少女が姿を現した。

彼女の名は輪醐(りんご)という。輪醐の頭には、左右に分かれた長い触覚が二つ、垂れ下がるように生えている。半人半蟲の少女である。

下着姿の侭立ち上がって大きく伸びをした。枕には涎の跡がくっきり付いている。再び眠ってしまいそうな顔をしつつも起きる気はあるようで、の其のそ歩いて手洗いに向かった。用を済ませて出てくると、布団のすぐ側に脱ぎ捨てられていた寝間着を身に纏う。着るものを着たところで部屋を出て、其の侭外へ出て行った。

「身体を洗わにゃあいかん」

今日もまた、一日が始まるのである。

輪醐は五階建ての団地に住んでいる。部屋は三階に在った。この辺りには同じ形と色をした団地が幾つも幾つも並んでいて、終わりというものが見えない。冷たい風に輪醐が身を震わせつつ、一階にある共同浴場へ足を運ぶ。この団地には風呂が付いておらず、住民は共同浴場で体を洗う事になっていた。

服を脱いで浴室へ踏み込む。二度、三度と掛け湯をして体を温めてから、輪醐が濛々と湯気を立てる湯へ体を沈めた。ふぃー、と輪醐がため息とも感嘆とも付かない声を上げる。暫くもしないうちに額にじんわり汗が浮かんできて、手で湯を浴びせて汗を拭う。

「はぁ、朝風呂は好えなあ。おらが子供ん頃は有り得んかった」

風呂といえば夜に入るもので、朝に入るものではない、子供の時分はそう信じていた。こうして独り立ちしてみると、そういうものとは限らない事がよく分かった。

輪醐が湯船でくつろいでいたさなか、胸の辺りに何かが当たった感触がした。のっそい目を開けてみると、灰色の体に黒い斑点の浮いた大きな魚――箒鯉(ほうきごい)が輪醐の身体を突いていた。この箒鯉は湯船で飼われていて、風呂に浮いた垢をひたすら食っている。住民はいつでも綺麗な湯に浸かれるし、箒鯉は食うものに困らない。一石二鳥である。辺りの垢を食い尽くして、輪醐の身体から直に垢を食いに来たようだ。

「こりゃ、止めい。女子の胸に気安う触るんは好くないと言われとろうが」

箒鯉には歯が無いので痛くはないが、くすぐったくて仕方ない。輪醐が緩く叩いてやると、箒鯉はすぐに離れていった。

体が充分温まったところで湯船から上がり、最後に冷たい水で顔を洗う。寝ぼけ眼がぱっちり開いて、ようやく目覚めと相成ったようだ。身体を拭いて寝間着を着直すと、湯冷めしないうちにそそくさと部屋へ戻る。

「いかんいかん、そろそろ飯を炊いておかにゃあ」

釜から麦飯を椀へよそい、手で千切ったクチナシの葉を混ぜ、少しばかり醤油を垂らす。最後に熱したマテ茶を掛けて茶漬けを作った。輪醐の朝は茶漬けと決まっていた。ずるずると音を立てて啜ってしまうと、食器を軽く洗って元の場所へ戻しておいた。洗い物も手間が掛からないのが好い、というのが輪醐の意見だ。

残った麦飯を掻き集めて大きな握り飯を二つ作ると、庭の植木鉢から笹の葉を一枚切ってきて、握り飯を包み込む。紐で結わえて結んだ後、風呂敷に包んで完成だ。此れが今日の昼飯になる。

「行くかぁ」

くたびれた作業着に着替え、風呂敷包みを手に提げて、輪醐が重たい扉を開けて外へ出た。

 

※立ち読み版はここまでとなります。続きはイベントにて頒布します本編にてお楽しみください。

泡を吹く

あらすじ

商店街の一角にある「泡屋」という店。店主は撫頭(ぶどう)という少女である。泡屋では風変わりなシャボン玉を吹かせる商売をしていて、いつもたくさんの客が訪れている。泡屋のシャボン玉は楽しかった頃の記憶、すなわり「泡沫の夢」を見せてくれる。撫頭は今日もまた、日常に疲れた客に泡沫の夢を見せる――。

登場人物

ちょっと立ち読み

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ガラガラガラと鎧戸が開く。エプロン姿の店主が姿を現す。今日も仕事だと腕まくりをする。袖がめくられて露になった腕にはヒレが付いている。

彼女は半人半魚の娘・撫頭である。ここ朽葉の商店街で、ひとり店を営んでいる。

白色の日差しを浴びて伸びをしていた処で、隣の店の鎧戸も開いた。中から大欠伸をしながら出て来たのは、半人半兎の娘・斗的だ。撫頭が「おはようさん」と声を掛けると、斗的が間延びした声で「おはようぅ」と返す。雨でもなければ毎朝のように繰り広げられている光景である。

「撫頭ちゃん、今日もいぃトマトが採れたよぅ。ちょっといかが?」

「あらぁ、いつもおおきになぁ。もらうでもらうで」

斗的が籠に入れたトマトを持って店先までやってくる。お裾分けだ。斗的は気前の好い性格をしていて、こうしてちょくちょく隣の撫頭に採れたばかりの野菜を分けてくれるのだ。撫頭はありがたくトマトを頂戴すると、朝飯の代わりとばかりに早速其のうちの一つにかぶりついた。瑞々しさと甘酸っぱさが口一杯に拡がる。率直に言って実に旨かった。其の侭平らげて、手ぬぐいで口をさっと拭く。

満足げな撫頭が見上げた先には、「泡屋」の看板が掲げられている。

「ふぅーむ。今日も色々溜まったお客さぁん、来ぅるんじゃない?」

「ま、うちはそういう人のお相手するんが仕事やからな」

撫頭はここ「泡屋」を経営している。他に店子や売り子はいない。客寄せから算盤弾きまで、何もかも全て一人でこなしている。見た目は幼い小娘だが、中身はしっかりした商売人。其れが撫頭である。

さて、客待ちを兼ねて斗的と雑談に興じていた撫頭だったが、そこへふらりと見覚えのない娘が訪ねてきて。見たところ、半人半猫の女子のようである。ふらふらと覚束ない足取りで歩いて来て、ぬっと撫頭に顔を寄せる。

「どないしたん、そない顔近付けて」

「えっとねぇ、ここってぇ、泡屋さん?」

「せやけど」

泡屋、という言葉を口にした途端、娘がやけに声を上ずらせるようになった。撫頭は無表情の侭、娘が此れから何を言い出すのか待っている。娘は撫頭にしなだれ掛かると、というかもたれ掛かると、耳元に生温かい吐息を浴びせてくる。対する撫頭の方はと言うと、少々不愉快そうである。

娘が一際撫頭に顔を寄せて、こう呟く。

「石鹸、泡立ててくれたりするの?」

撫頭は大きく肩を落として、ハァ、と大きなため息を吐くと、絡みついてくる娘の手をパッと取り上げた。

「まーたこういう奴かいな。ちょっとこっち来て」

娘の手をぐいぐい引っ張り、撫頭が店から離れていく。急に手を引かれてよろめく娘を無視して、撫頭は路地裏に入った。

「ええか、うちは泡風呂屋とちゃう。泡屋、や」

「うちの店来るんやったら、酒抜いてから来いや」

泡屋とは泡屋であって、泡風呂屋ではない。撫頭は口で娘にキッパリ言いつつ、足の方は路地裏を進んでどんどん怪しげな界隈へ入り込んでいく。三分ほど歩いた先で撫頭が立ち止まると、娘の背中をバシッと叩いて其の場に立たせた。

「ほら、ここやここ。おおい、逸舳ぅ!」

「はいはいー、いらっしゃいいらっしゃ……あらぁ、撫頭チャンじゃない。どうしたのん?」

店先から姿を現したは、半人半鼠の娘・逸舳だ。朝から、否、昨日の夜から出来上がっているようで、蛇のようにうねる声で撫頭を出迎える。

「まーた勘違いした客が来よったわ。引っ張って連れてきたで」

「あらぁん、カワイイ子猫チャンねぇ。沢山可愛がってあげるわん」

「えっ、此処って」

「此処も何処もあるかい、石鹸泡立てて欲しいんやろ? せやから泡風呂屋まで引っ張って来たっただけや」

娘を逸舳へ引き渡すと、ひらひらと手を振って一応の見送りをする。逸舳は娘の腕をがっちり掴んで、目をギラギラと光らせている。

「撫頭チャン、いつもどうもねん。また遊びに来てねん」

「次の休みにいかしてもらうわ。ちょっと疲れ溜まってきとるし」

「ふふん。溜まったものはぁ、ちゃぁんと出さなきゃダメよん」

今度は逸舳に引っ張られて、娘が泡風呂屋の中へ消えて行った。撫頭は首筋をポキポキ鳴らして、やれやれ、と言わんばかりにため息をついた。暫くもしない内に、店の奥から悩ましいよがり声が響いてくる。あの娘が早速逸舳に可愛がられているのだろう。

「逸舳、ああ見えてだいぶえげつないからなぁ……ま、此れで好えやろ」

此れであの娘も浮かばれるだろう、骨抜きにされるかも知れないが。

店先へ戻ってくると、ちょうど客を見送った斗的が立っていて、撫頭を苦笑いで出迎えた。

「撫頭ちゃん、大変ねぇ。ああやってぇ、勘違いしたお客さんが来ちゃうから」

「ほんま其れやわ。泡屋言うたら、どうしても泡風呂想像しよるけったいな奴多いからなぁ」

撫頭が営むのは泡屋。泡風呂屋ではない。酷いときなどは、ここを床屋の類と間違えた客が有無を云わさず撫頭と床を共にしようとする始末である。撫頭は慌てず騒がず、祖母仕込みの柔道で音を上げるまで締め上げるのが常である。さっきの猫娘は穏便にカタを付けられた方なのだ。

「此処はうち独りやし、素っ裸になったりもせんよ。まあ、逸舳んとこはたまに世話になっとるけど。気持ちええし」

「ふふん。撫頭ちゃんも撫頭ちゃんで、いぃ気持ちになれるもの、売ってくれてるけどねぇ」

「ええ気持ち云うか、そういうもんではあるな。うちの『泡沫』は」

そう云いつつ撫頭が手に取ったのは、小さな器と細い竹筒だった。撫頭が彫刻刀を手に取って作り上げたものだ。器の中には、光を微かに歪めて虹色に輝く、透明な石鹸水が入っている。そう。撫頭が売っているのは、シャボン玉である。撫頭はシャボン玉を売って銭を稼いでいた。

もっとも、只のシャボン玉がそうそう売れるはずもない。撫頭の其れは尋常なシャボン玉とは趣を異にしていた。

「そうそう、撫頭ちゃん、まぁたちょっとお邪魔しちゃうんだけどもぉ」

「どないしたん、此れ。井森の黒焼きやん」

「さっきお客さんがお土産にってくれたんだけどもぉ、あたしコレちょっと苦手でねぇ。もらってくれる?」

「お客さんってあれやろ、向こうの筋で惣菜屋やっとるやつやろ」

斗的が撫頭に手渡したのは、串刺しにされて真っ黒になるまで焼き上げられた井森であった。此れを持ってくる客と云ったら大体相場は決まっている。斗的は貰ったものの扱いに困って、撫頭に手渡した。そんなところである。

「貰う貰う。うちはコレ好きやし」

「助かるわぁ。捨てるのも好くないし、困ってたのよねぇ」

「代わり云うたらアレやけど、シャボン玉吹く?」

「いいの? なんだか悪いけどぉ、撫頭ちゃんが好ぃなら吹かせて欲しぃわ」

「好えんよ好えんよ。店先で誰か吹いとった方が、お客さんも寄り付いて来るし」

シャボン玉の用具一式、と云っても竹筒と石鹸水の入った椀だけだが、其れを斗的へ手渡す。斗的が竹筒をシャカシャカ揺らして石鹸水を軽く泡立ててから、先っぽへ口を付けて吐息を吹き込む。すると見る見るうちに反対側から無数のシャボン玉が姿を現して、斗的と撫頭を取り囲んだ。

ただのシャボン玉なら此れでお終いだ。だが撫頭のシャボン玉は一味違う。斗的がシャボン玉の一つに目を凝らすと、そこには辺りの風景ではない、まったく別のものが映し出されていた。

「はぁ……好ぃなぁ、海。また行きたいねぇ」

海、砂浜、青空。シャボン玉には夏の海沿いの風景が映し出されている。泡沫ごとに少しずつ違う時間・場所が浮かび上がって、すべてが斗的を魅了する。どれも此れも彼女にとっては懐かしく楽しい記憶、見ているだけで時間を忘れてしまうほどに甘美な光景であった。

波打ち際の昆布を拾ったり、買ったばかりの西瓜を友人と取り囲んで西瓜割に興じたり。もちろん海で泳いだりもした。普通の水と違ってとても塩辛かったのも忘れた事はない。懐かしい記憶に浸った斗的が、思わず頬を緩めた。

椀の石鹸水が尽きるまでシャボン玉を吹いて、斗的はすっかり満足したようだ。撫頭に竹筒と椀を返却すると、スッキリした顔つきで撫頭を見つめた。撫頭は客が泡沫の夢を楽しんだ後に見せるこの顔が好きだった。

「ありがとねぇ、撫頭ちゃん。今度はお銭を持ってくるよぉ」

「気にせんでええよ。またよろしく頼むわ」

店番へ戻っていく斗的を見送り、撫頭もまた店先へ戻る。切り株を模した椅子に腰掛けて一息つくと、遠くの空を眺めた。

此処「泡屋」とは、シャボン玉を売る店である。其れも只のシャボン玉ではない。昔の愉しい記憶を蘇らせてくれる、実に風変わりなシャボン玉を売っている店だ。泡沫の夢を見せてくれる泡沫、撫頭は其のように呼んでいた。

撫頭に代金として五百銭――子供が両手一杯に駄菓子を買える程度の端金だ――を払うと、先程斗的に渡したようなシャボン玉の道具一式を貸し出してくれる。後はシャボン玉を吹いて心ゆくまで過去を懐かしめば好い。石鹸水のお代りは二百銭だ。何れにしろ大した金額ではないが、手軽に好い気分になれると評判が広まり、毎日のように客が店を訪れるようになった。外でシャボン玉を吹いていると近くを歩く者にも様々な風景が見えるわけで、客が来れば来るほど宣伝になると云う上手い仕組みでもあった。

今しがた泡を吹いていた斗的は、海の記憶を見て愉しんでいた。撫頭は其の理由に思い当たる節があった。

(山育ち云うとったからなあ、斗的は)

斗的は山で育ったと聞いた記憶がある。どこの山かは定かではないが、此処から遠く離れている事だけは間違いなかった。山ではひもじい思いをしながら毎日薪割りだの鹿追いだのに明け暮れていたとの事で、随分と苦労が多かったらしい。山の食い物である井森の黒焼きを敬遠して撫頭に譲ったのも、其れが理由だろう。

そうして、或る時山を降りて友人と海へ遊びに行ったのだが、其れが余程楽しかったようだ。斗的が吹く泡沫は何度も見ているが、いつ見ても海の風景であった。泡沫は愉しいと感じる記憶を選り抜いて、序でに少し磨きを掛けて映し出す。大まかには楽しかったが細かな不満があったなどと云う場合、好い気分になれる箇所だけを映し出すのだ。都合が好いと云えば都合が好い。然し人の記憶は不完全な物だ。元々嫌な事は積極的に忘れたりするように作られているのだから。

「……さて、と。今日も一日、ぼちぼちやろか」

さっと立ち上がった撫頭の前には、既に数人の客らしき人集りが出来ている。

今日もまた、泡沫の夢を売る仕事の始まりである。

 

※立ち読み版はここまでとなります。続きはイベントにて頒布します本編にてお楽しみください。

茸を養う

あらすじ

この道七年の茸売り・深貫(みかん)は、ふとした拍子に長らく帰っていない故郷へ帰る事を思い立つ。懐かしい場所への再訪に胸躍らせつつ、電車を乗り継いで故郷までやってくる。そんな深貫を出迎えたのは、ずいぶん小綺麗になったかつての最寄り駅だった。

登場人物

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「寄ってらっしゃい見てらっしゃい、其の気になったら買ってらっしゃい」

「煮て好し焼いて好し炊いて好し、深貫の新鮮な茸でぇこざい」

気持ちばかり上に反り返った橋の上、一人の娘が風呂敷を広げて茸を売っている。名を深貫(みかん)という。ずらりと並んだ茸はどれも肉付きの好い旨そうなものばかりで、呼び込みの言葉が嘘偽りでない事を顕している。

露天を出しているのは深貫だけではない。野菜を売る者、果物を売る者、惣菜を売る者、薬を売る者、木彫り細工を売る者、書籍を売る者、茹でたてのかけ蕎麦を売る者、卜占をする者。多種多様な露天がずらりと並んでいる様は、さながら市場の其れであった。故にこの橋は「市場橋」と呼ばれている。本来別の然るべき橋としての名前があるのだが、誰も其の名で呼ぶ事はなかった。

「見てって頂戴見てって頂戴、今朝狩ったばかりの茸でござい」

「苗から手塩に掛けて育てた茸、皆様の舌と胃袋を満足させる事請け合い!」

深貫は自宅に苗床を、其れもかなり大きな苗床を持っていて、そこで茸を育てている。狩ったばかりと云うのは文字通りで、今しがた小一時間ほど前まで苗床に生えていたものだ。毎朝売る分だけ茸を狩っては、こうして人の往来の絶えない市場橋で売り捌いている次第である。

売り物は椎茸に榎茸にシメジに舞茸と、食用茸は大方取り揃えている。隅には見慣れない青だの赤だの緑だのの派手な色をした茸も並べているが、見た目に反して普通に食べる事が出来、かつ中々美味である。この様に表に並べている茸は真っ当なものばかりで、誰でも気軽に買えるよう取り計らっている。

無論、売り物は此れだけではない。深貫と顔馴染みになれば、只旨いだけではない変わった茸、端的に言えば薬効成分のある茸も売ってくれるようになる。中には腹を緩くさせたり発情させたりするような少々如何わしい物もあり、決まった客がそうした茸を纏めて買っていく。深貫にとっては纏まった金を得られる有難い客なのだ。但し深貫には、毒茸だけは売らないという信念がある。毒茸も平然と売っている茸屋も多い中、此れだけは譲れぬと決して商う事はしないのである。

「明日は市場に持ってくかなぁ。丁度、姫茸がいい塩梅に育ってたし」

茸はこうしてお天道様の元露天でちまちま売るのが基本だったが、時折収穫した茸を市場へ持ち込んで、ご贔屓にしてもらっている店の主に纏めて売る事もしばしばあった。料理屋や惣菜屋に卸しているわけである。深貫の茸は旨いと評判で売れ行きがよく、欲しがる者は少なくなかった。

さてさて、順調に茸を売っていった深貫。昼下がりにもなると風呂敷の上から売り物が無くなり、代わりに銭の詰まった小袋が出来上がった。今日の商いは終いである。周りの娘に「お先に」と声を掛けて露天を引き払うと、橋を渡って人の多い側へと向かう。目指すのは商店街だ。

「ふぅむ。今日はよく売れて稼げたし、何を買うかなぁ。鍋は入れるものを考えてる時が一番楽しいんだよねぇ」

茸売りが済んだ後は、商店街へ繰り出して茸鍋の具材を買うのが日課だった。自宅で栽培した茸と食材を纏めて煮込んで鍋を作り、一人鍋をつつくのが毎日の楽しみというわけである。日がな一日茸と共に過ごす、其れが深貫の生活であった。

先ず向かったのは八百屋で、綺麗でシュッとした白ネギを一本もらう。次は豆腐屋に顔を出して、作りたてだと云う厚揚げを丸々一つ買った。白ネギと厚揚げは欠かせないのが深貫なりの拘りだ。肉屋に顔を出すと、いい色をした鳥の胸肉が叩き売られている。今日は此れも入れよう、即決した深貫は銭を差し出して肉を包んでもらう。焼いてから煮込むと旨いんだよね、深貫の顔に笑みが浮かぶ。

後はどうしようかと商店街をぶらついていると、商売仲間である山菜売りの芽論の姿が見えた。

「ゼンマイ、ゼンマイ! 遠く離れた甲谷の山で採れたゼンマイだよ! 買ってってちょうだい!」

深貫が芽論に近づくと、全力で声を張り上げていた芽論がぴたりと客引きを止めて、深貫の顔をまじまじと見つめる。

「わわっ、深貫ちゃん。ね、ね、ちょっと聞いてよーぅ」

「芽論ちゃん、どうしたの。こんなにゼンマイばっかり並べて」

「其れがねーぇ、此れ、ウチの旦那が仕入れたんだけどーぉ、間違って思ってたのの十掛けで仕入れちゃってねーぇ」

「うわぁ、十掛け。溌索ちゃんも派手にやっちゃったねぇ。其れで芽論ちゃんが頑張ってさばいてるんだ」

「そうだよそうだよーぅ。此の侭だと腐っちゃうしねーぇ。旦那は悪い娘じゃないんだけど数字に弱いからさーぁ、仕入れる前に一声掛けてって言ったんだけどねーぇ」

山菜売りの芽論は半人半狸の娘で、仕入れを担当している半人半兎の娘・溌索と共に暮らしている。芽論と溌索はどちらも娘なのだが、同じ屋根の下で暮らすという事もあって、芽論が嫁で溌索が旦那という立て付けで縁結びをしている。深貫は二人の結納にも付き添った仲で、こうして気安く話の出来る間柄であった。

「だからね、ちょっと買ってってくれない? 安くしとくからさーぁ」

「ふぅむ。ゼンマイも煮ると旨いし、貰ってこうかなぁ。一山頂戴」

「有難や有難や! 恩に着ちゃうよーぅ」

同業者の誼という事もあったし、好物のゼンマイが安く買えるというなら悪くない話だ。芽論からゼンマイを一山貰うと、代わりに銭を渡す。芽論は何度も頭を下げて礼を言いながら、去っていく深貫を見送った。

白ネギ・厚揚げ・鶏肉・ゼンマイ。後は家で生えている舞茸やら榎茸やらを煮込めば、立派な茸鍋の完成だ。よく煮えた茸鍋の味を想像して、深貫が思わず頬を緩める。家路を急ぎたくなるというものだ。調味料が残っていたかを思い出して、問題なさそうだと思い至る。さあ帰ろう、そう思って一歩足を踏み出した直後の事であった。

(おや)

大きな風呂敷包を背負った娘が見える。見慣れぬ顔で名は知らない。時刻はもうすぐ夕刻、此れから商いをするには向かない時間だ。其れに着ている服も余所行きの確りしたものだ。そして手にはこの辺の名物焼き菓子である「楓焼き」の入った包を提げている。言うまでもなく、土産物だろう。

となると、地元へ里帰りするところだろうか。深貫は不思議と娘の事が気になって目が離せなくなった。娘が視界に入る限り追い続けて、其の姿が完全に見えなくなるまで、深貫の瞳は娘を捉えつづけていた。

 

家に帰ってきて、とりあえず食材を台所に並べて適当な大きさに切り、鍋に水を張ってから火に掛けて沸かして、醤油と砂糖を適当に入れ、鍋から食欲をそそる甘辛い匂いが漂って来たのを合図に切った具材を放り込む、というところまで流れ作業で進めた深貫だったが、どうにも気が散ってしまう。

幾度となく彼女の脳裏を掠めるのは、家路を辿る途中に見かけたあの娘である。

(地元かぁ、里帰りかぁ)

娘其のものというよりも、娘がしようとしていた事、と云うべきか。娘が何処へ帰ろうとしていたのかは定かではないが、何処かへ帰ろうとしていたのは間違いない。帰省する事、里帰りする事。深貫の頭は其の事ですっかり一杯になっていた。

そう言えば、もうずいぶん長い事故郷へ帰っていない。今住んでいる朽葉の中心地からは、電車を幾つか乗り継いでおよそ四時間ほどで帰る事ができる。家族は皆既に別の場所に移り住み、家も空き家になっていると聞く。家に帰る、という事は出来なさそうだが、久しぶりに訪れたい場所は幾つも在った。

「ふぅむ。里帰りねぇ」

出来上がった茸鍋をつつきながらも、考える事は郷里の風景ばかり。初めの内は只昔の事をぽつぽつ思い出す程度だったのだが、何時の間にかどんどん深入りしていって、やがて鍋を食べる手が止まってしまった。

よく冷やかしに訪れた書店、珈琲の味を覚えた喫茶店、友達と中身のない話を延々した公園。目を閉じると、瞼の裏に光景が甦って来るかのよう。

「……よし」

最早居ても立っても居られなくなった。深貫は鍋を半分程残したまま蓋をして毛布に包んで台所の隅へ置いておき、机の上に放り出していた電言板を手に取った。

電言板とは下敷きのような薄っぺらい透明な板であり、帳面の代わりに使ったり、電卓として使ったり、あるいは写し絵を撮ったり見たりできる便利な道具である。深貫は電言板を使って家計簿を付けていた。家計簿を呼び出して、今手持ちの銭がどの位あるかを確かめ始める。

普段から食べる物以外に殆ど銭を使っていないためか、蓄えは十分過ぎるほどあった。一日二日商いを休んだところで何の問題も無さそうだ。台所の下に隠している小銭を貯めた壷ももう三つか四つにはなる。使わずに腐らせておくのも勿体無かろう。

「よし、里帰りだ。里帰りをしよう」

深貫の心は決まった。今こそ里帰り、帰郷である。

二日ほど茸売りの仕事を休んで故郷を見に行く、大方そういう段取りで進めよう。いざやると決めると後は早かった。押入れの奥に仕舞い込んでいたくたびれた旅行カバンを引っ張り出して来ると、着替えやら洗面用具やらを素早く詰め込んでいく。今から準備を始めるのは、其れだけ気が逸っているという事であった。朝一番の電車に乗って、出来るだけ早く向こうへ行きたかった次第である。

何せ凡そ十年ぶりの帰郷である。見たい物は沢山在った、行きたい場所は一杯在った。懐かしい記憶に思いを馳せつつ、あっという間に持ち物の準備を済ませた。

「電車の時間は何時だっけ」

放り出していた電言板で時刻表を調べる。始発は五時四分とある。此れに乗ろう、深貫の決断は早かった。

「里帰りかぁ、楽しみだなぁ」

早々に何もかも準備を済ませた深貫が、明日の里帰りに向けて思いを膨らませるのであった。

 

※立ち読み版はここまでとなります。続きはイベントにて頒布します本編にてお楽しみください。

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