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9-1 声はまだとどかずにいる

朝のペリドット。ハルはテーブルとカウンターを行き来しつつ、トーストとスクランブルエッグの盛られた皿を客の元へ持っていく。その戻り際、空いた食器を見つけて素早く回収する。早朝からお昼前に掛けてのこのタイミングが、ペリドットでもっとも忙しい時間帯になる。瑞穂も厨房で途切れることなく調理を続けている。多忙な瑞穂のアシストをすべく、客が残していった食器を回収して一つずつ洗っていく。瑞穂から洗い物をしてほしいと言われたわけではない。ハルが自発的にしていることだった。

四つほぼ同時にオーダーされたモーニングセットを一通りさばいたハルが、額に浮かんだ汗をハンカチで拭って一息つく。人の流れがゆっくりになり始めていた。ハルが瑞穂に目くばせすると、瑞穂も同じことを考えていたようだ。腕をぐるりと回して、待ち状態になっているオーダーがないことを報せる。ハルはこくんと頷いてから、濡れ布巾を手にしてテーブルの掃除に入った。

「こんにちは」

ハルがテーブルの掃除を終えるか終えないかというタイミングで、新たなお客がペリドットを訪れた。白髪交じりの女性だ。ハルが反射的に「いらっしゃいませ」と挨拶したのに続いて、瑞穂が客人の顔を見て声を上げた。

「天野さん! おはようございます」

天野さん。そう呼ばれた女性は、瑞穂に深々と一礼して見せた。側にやってきたハルが、空いていたカウンター席へ案内しようとする。そのハルの顔を見た天野さんが、「新しい店員さん?」と口にした。

「ええ。最近入ってくれた、ペリドット期待の新人さんなんですよ」

「あの、ハルって言います。よろしくお願いします」

「ハルさん、ですね。こちらこそ」

丁寧に会釈をして、天野さんが席に着いた。

「すみません。この、アイスチョコレートミルクを、ひとつ」

「かしこまりました」

「今日はそちらになさるんですね。分かりました」

天野さんは常連客の一人で、例によっていつもオーダーしているものらしい。瑞穂が手慣れた様子で調理を開始する。

「そうねえ。今度来る機会があれば、またアップルフロートを頼もうかしら」

「今度と言わずに、今日でもいいんですよ」

おどけた調子で言う瑞穂に、天野さんはニコニコ笑って応じた。こういう冗談が通じるのも、常連客ならではといったところだろう。

ふと、パタパタという羽音が聞こえて、床に寝そべっていたシラセがすっと顔を上げる。シラセの目線の先には、見覚えのあるポケモンが一羽、天野さんのすぐ隣に留まっていた。

「この子、スバメですか」

「そうよ。ツィートちゃん、私はそう呼んでいるわ」

スバメ、もといツィートが口を開けて声を上げる。「さえずり」という名前通りの綺麗な声で鳴くスバメだと、シラセは感じていた。ツィートはハルの姿を見つけるとピョンピョン跳ねて近付いていき、何やら物珍しそうに見つめている。ペリドットにはよく訪れているようだが、ハルのことは初めて目にしたからだろう。

「天野さんが育ててるんですか?」

「そうなのよ。家にタマゴが落ちてて、それを孵してからずっとお世話をしているの」

ツィートが一声鳴いた。天野さんの言葉に誤りがないことを示すかのように。

「今はね、家に私しか居ないから。ツィートちゃんに側に居てもらってるのよ」

「独り暮らし、なんですか」

天野さんが寂しげな様子で頷く。こうしてペリドットを訪れるのは、寂しさを紛らせたいから。以前から天野さんと面識のあるシラセは、彼女がペリドットに通う理由をよく理解していた。もっとも、これは天野さんに限ったことでもない。ペリドットへ足を運べば、少なくとも瑞穂とは顔を合わせることができる。それが生きる気力になっている人間が少なからずいることを、シラセは知っていた。

瑞穂が作ったアイスチョコレートミルクをトレイへ載せて、ハルが天野さんの元まで運んでいく。ツィートは天野さんの隣の椅子にちょこんと座って行儀よくしていたけれど、ハルが来ると好奇心がくすぐられるようで、ぴょんとテーブルに飛び乗ってハルのことを見てくる。ハルが軽くツィートの翼を撫でてあげると、目を細めて気持ちよさそうにした。人によく馴れている様子が伝わってくる。

「よう人に懐いてますね、ツィートちゃん」

「もうね、どこへ行くにも一緒だから」

ハルの言葉が嬉しくて、笑みを浮かべていた天野さんだったが、不意にその表情が歪む。

「っ……ごほっ、こほっ、けほっ……」

「天野さん? 大丈夫ですか?」

苦しげに咳き込む天野さんの様子を見たハルがすかさず側へ寄って介抱する。隣のツィートも不安そうな様子を見せている。天野さんは乱れた呼吸を整えながら、ハルに「大丈夫だから」と身振りで伝える。

「はぁ、はぁー……ごめんなさいね、心配かけちゃって」

「ほんま、大丈夫です?」

「ええ、もう大丈夫よ。これもきっと、報いかしらね」

天野さんから出た「報い」という言葉に少し面食らってハルが言葉を失っていた最中に、瑞穂の方から声が掛けられて。

「身体の具合、好くないみたいですね」

「悲しいけれども、そうみたいね。この間も、病院に居るところを見られてしまったし」

「病院……? 瑞穂さん、病院行ってたん?」

ハルの知らないところで、瑞穂は病院へ行く機会があったらしい。私がどこか具合を悪くしたわけじゃないよ、と瑞穂が苦笑いしながら応じる。

「この間、ペリドットをお休みにした日があったよね。その時にね、お見舞いに行ってたんだ」

「お見舞い?」

「出崎さんっていう女の人だよ。ずっと前からペリドットをひいきにしてくれてる、常連さんだから」

「あれからもう、十年になるのね」

「本当にね。出崎さん、時間が止まってしまったみたいだから。もし、私がペリドットをやってるって知ったら、きっとビックリしちゃうよ」

「七海ちゃんも可哀想ね。今はどうしてるのかしら」

「時々、お父さんと一緒にラピスラズリに顔を出してるようだけれど……私も、話くらい聞いてあげられたらって思ってるんだけどね」

瑞穂と天野さんの会話を、ハルもシラセもただ聞いているばかりだった。何せ、誰の話をしているのかさっぱり分からない。地元の人に詳しいシラセも、何やら十年以上入院しているらしい「出崎さん」のことは皆目見当がつかない。正確には以前もこの人物に関する話をしているのを見たことはあったが、詳しいことは何も知らなかったのだ。互いに顔を合わせて、首をかしげるのが関の山だった。

アイスチョコレートミルクをゆっくり飲みながら小一時間ほどペリドットに滞在して、天野さんは瑞穂とハルにお礼を言って去って行った。天野さんが退店したことで、ペリドットに静寂が戻る。またいつ次のお客が来るかもわからない。ハルはほとんど間を置くことなく、水飲み用のコップを拭いていた瑞穂に訊ねた。

「なあ瑞穂さん。さっきまでおった天野さんって、独り暮らしなん?」

「そうだよ。昔に旦那さんと別れて、娘さんが二人いたみたいだけど、今はどっちも榁を出てっちゃったみたい」

「娘さんおったんや」

「双子の姉妹だったとか。見かけはそっくりだけど、性格は似ても似つかないって、天野さん前に言ってたっけ」

いずれにせよ、今はどちらも天野さんの元にはいないことは間違いなかった。せめて外で達者に暮らしていてくれればいいが、ハルにはそう考えることしかできなくて。

「多分、だからかな。天野さん、寂しそうで。体の具合を悪くすることも多いから、私、気になってるんだ」

「せやな。独り暮らししとったら、何かあっても助けてもらえやんし」

天野さんについて語る瑞穂は――端的に言うと、思いつめたような顔をしていた。

他人とは思えない。そう言いたげな顔をしていると、シラセは感じ取っていた。天野さんは娘に去られて、瑞穂は母に去られた。子のいない親と、親のいない子。立場の違いはあれど、血のつながりのある人間が今は手の届かないところへ行ってしまったという境遇に変わりはない。瑞穂が天野さんを気に掛けるのも、無理からぬことで。

そしてそれは……ハルもまた、同じだった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。