「ハル。ちょっと寄り道してくから、先に帰っててくれる?」
「瑞穂さん?」
午後六時過ぎ。店を閉めてからいつも通り後片付けをしていた最中、瑞穂がハルに「先に帰っていてほしい」と言った。これまでそんなことは一度として無かっただけに、ハルが目をまん丸くして瑞穂に訊ね返した。瑞穂はハルを見ると、小さく頷いて応じる。
「沙絵が帰ってくるまでに、お風呂を洗って沸かしておいてほしいな。沙絵、帰ってきたらいつもすぐにお風呂に行くから」
「あ、うん。それはええけど……どっか行くん?」
「ちょっとね。シラセと二人で、行きたい場所があるんだ」
シラセと二人で。その言葉を耳にしたシラセが立ち上がって瑞穂の目を見る。察するところがあったのか、シラセが瑞穂の隣に寄り添う。
「よっしゃ、分かった。うち、先帰ってお風呂沸かしとくな」
「ありがとね。あんまり遅くならないようにするから、大丈夫だよ」
「うん。瑞穂さん、お先に。お疲れさまでした」
ハルも瑞穂の言葉を聞き入れて、一足先にペリドットを後にする。がらんとした店内に、瑞穂とシラセの二人だけが残った。瑞穂が最後のグラスを拭い終えて布巾を置くと、シラセの傍へそっと歩み寄る。
「シラセ。ちょっとだけ、付き合ってくれる?」
頷くシラセ。瑞穂の頼みを聞き入れるというサイン。口元を緩めた瑞穂がシラセを見つめる。
「じゃあ、行こうか」
「海へ」
灯りの落ちたペリドットの入口に、「CLOSED」の札が掛けられた。
家のある方角とは逆に向かって、瑞穂が歩いていく。のんびり歩く瑞穂のペースに合わせるようにして、シラセもまた歩いていく。寄せては返す波の音、そして時折吹き抜ける潮風の音。環境が作り出す以外の一切の音が聞こえない静寂の中で、瑞穂とシラセは海に沿って歩いていた。
階段を見つける。瑞穂が指差すと、シラセも付いていく。階段を降りた先には、人気のない砂浜があった。この辺りは観光地として開発されているわけでもなかったから、ただただ殺風景な海辺が広がるばかりで。風に髪を揺らしながら、瑞穂はなおも歩いていく。その表情に憂いを帯びているのを、シラセはすぐ側で見ていた。
弛緩も緊張もしていない、ありのままの、あるがままの空気が幾許か流れたのち、おもむろに瑞穂が口を開いた。
「ねえ、シラセ。ハルといつも一緒に居てくれて、ありがとうね」
瑞穂から述べられたのは、お礼の言葉だった。ハルと一緒に居てくれてありがとう、瑞穂は確かにそう言った。
「シラセのおかげで、ハルも気持ちが楽になってるはずだよ。いい話し相手になってくれてるんだね」
やはり何もかも分かっているのだなと、隣に立つシラセは感じずにはいられなかった。自分が意識してハルの側にいることも、ハルにとって自分が話し相手になっているということも、瑞穂はすべて理解しているようだった。
瑞穂にはつくづく頭が上がらない。シラセはただその思いでいっぱいになる。
「ハルのこと、他人事とは思えない。そうだよね?」
確かめるかのような問いかけ。何一つ誤りのない事実ゆえに、シラセは無言のまま頷く。シラセの仕草を見て、瑞穂もまたこくんと頷いた。
「分かるよ、シラセの気持ち。本当にね」
「シラセは……優しいからね」
ぐっと屈みこむと、瑞穂がシラセをぎゅっと抱きしめた。瑞穂に身を預けて、シラセがふっと目を閉じる。体を包み込んでいく瑞穂のぬくもり。遠い過去のどこかで、似た感触を覚えた記憶があった。
母親に抱かれた時と同じだと、シラセは思い出すことができた。
「ハルも、シラセも、それから沙絵も。みんな優しい、すごく優しいね」
沙絵の名前が、瑞穂の口から出てくる。
「シラセは知ってると思うけど、沙絵は自分の好きなことをしてるように見せるのがすごく上手いよね」
「ペリドットに滅多に顔を出さないのは、私に『沙絵に手伝いをさせてる』て思わせたくないから」
「毎日ジムへ通ってるのは、元気な体を作るために」
以前瑞穂から聞かされた話が、シラセの脳裏によみがえってくる。
「沙絵、昔はすごく体が弱かったんだ。風邪を引いたら酷い熱が出て、死んじゃうんじゃないかってくらいうなされて」
「沙絵ね、自分から『体を丈夫にする』って言って、ジムに通い始めたんだ」
「きっと、私が辛そうな顔をしてたからだね」
沙絵は生まれつき体が弱く、しばしば体調を崩しては瑞穂に看病してもらっていた。瑞穂自身、それを迷惑だとか思ったことは一度もなかったけれど、沙絵自身に負い目があったのだろう。自分の身体を丈夫にすると言って、ジムに通って鍛えはじめたのだ。沙絵は自分が好きだからやっているように見せているけれど、その根柢の動機に瑞穂への想いがあったことは想像に難くない。
ペリドットの手伝いをしていないのも同じだった。沙絵は姉がペリドットで忙しく働いていることをよく知っていて、自分が手伝えば楽をさせられることを知っている。けれど、瑞穂はそれを望んでいない。沙絵には自分の好きなことをしてほしいと思っている、沙絵はそこまで理解していて、あえてペリドットには関わらないようにしている。どちらもお互いの本心を知っている、それゆえの行動だった。
「……ダメだね。ちょっと目に砂が入っちゃった」
目元に浮かんだ涙を拭ってから、瑞穂がシラセの目を改めて見つめる。
「ねえ、シラセ。ハルのことだけどね」
シラセを抱いたまま、瑞穂が耳元でそっと語り掛ける。
「口に出しては言わないけど、ハルはたぶん、責任とか、そういうのを感じてるんだと思う」
「自分が私と沙絵からお母さんを盗った、そんな風に考えてる。お母さんも、そう取られるような言い方をしたんじゃないかな」
「もし、私とハルの立場が逆だったら、きっとそう受け止めちゃうよ」
ハルがここを訪れてからずっと抱いている思い。隣にいるシラセは、瑞穂の推察がピタリと当たっていることを理解する。瑞穂のハルに対する接し方や態度は、すべてそれを踏まえた上で、ハルと心を通わせたいという思いからきているもの。シラセにはそれが、痛いほど伝わってきていた。
ペリドットで働くように薦めたことも、ハルに此処にいる理由を与えたかったから。ただ家にいるだけではない、ペリドットのウェイターであるという役割を与えることで、ハルに「ここには自分が必要なんだ」と感じてもらいたい。瑞穂はそう考えていた。
「ハルはそう思ってるかもしれない。だけど、私も沙絵もそうは思ってないよって、伝えてあげたいんだ」
「確かに、ハルはお母さんの子供。それは変えられないってみんな分かってる」
「だけどさ、その前にね、ハルはハルなんだよ。他の誰でもない、一人の人間だから」
「口を開けば賑やかで、頭がよく回って、テキパキ動けて、笑うと愛嬌があって。ほんとにね、素敵な女の子なんだよ」
少し掠れた声で、瑞穂がハルへの思いを口にする。その一つ一つを、シラセは唯噛み締める。
「ハルが榁に来るきっかけになったが、お母さんが死んだからってだけ。それだけだよ」
「お母さんが死んだこととハルがここに来たことは、繋がってるけど……繋がってないんだよ」
「私も沙絵も、ハルのこと、妹だって思ってるから」
シラセを抱く瑞穂の腕に、強く力が籠るのを感じて。
瑞穂の言葉を幾度もリフレインさせながら、シラセは自分がここを、榁を訪れた時のことを思い出していた。
今からもう三年半近く前になる。榁を訪れた……いや、流れ着いたのは、その年の暮れだった。以前はずっと離れた山で暮らしていて、海とは無縁の環境に生きていた。榁へ来たのは、偶然に偶然が重なった結果だった。
そしてシラセの時も、ハルの時と同じことが起こった。シラセが榁を訪れた日は、瑞穂と沙絵にとって近しい人物との別れの日でもあって。
(海から来た私と、海に消えたあの人)
シラセが榁へやってきたその日。
瑞穂と沙絵の父親が、二人の前から姿を消した。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。