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十.水底の記憶 - the last reunion -

ふっ、と目を開くと、目の前の風景が幾分田舎じみてきたことに気が付いた。どうやら、山道も終わりに差し掛かってきたようだ。ごしごしと顔をこすり、ぼやけた視界を明快にする。幾度か繰り返しているうちに体も温まり、意識をはっきり取り戻した。列車の座席に腰掛け直し、大きく息をつく。

夢を見ていたようだった。懐かしく甘美で、そして切ない夢。夢は記憶をバラバラに切り刻み、無秩序な形で投影して出来上がるものと言われている。だが、先程まで見ていた夢は完璧に秩序だっていて、記憶していた光景がありのままそのまま出てきていた。少なくとも、起きた直後はそう感じていた。

そっと胸に触れると、固い箱の感触がした。

時計を見ると、寝入る直前に見た時刻から三十分ほど進んでいた。随分長い夢かと思ったが、実際に眠っていた時間は思っていたよりもかなり短かった。夢の中では時間の流れが曖昧になると言うが、まさしくその通りである。

車窓には水滴が張り付いていた。予報で崩れる恐れがあるとの情報は仕入れていたが、本当に雨降りになるとやはりいい気持ちはしない。傘を持ってきているから、雨に濡らされる心配はせずともよいが、何にしろ面倒であることには一切の変わりはない。

今も、まだ泣いているのだろうか。

雨が降ると、つい「涙雨」という言葉を思い浮かべる。涙を流していたときは、いつでも雨が降っていた。瞳と空が鎖で繋がれているのか、などと他愛ない空想が働く程度に、涙と雨は互いに連想し合う関係にあった。

それから列車に揺られること、およそ二十分。雨の衣をまとった車両が駅のプラットフォームに滑り込み、定位置より気持ち後ろで停止した。荷棚からリュックを下ろし、人影のまばらな車両から下りる。胸ポケットに入った切符は少し折れていたが、人に手渡すのだから問題はないだろう。

切符を駅員に手渡し、改札をくぐる。ほとんど間を置かずに、呼び掛ける声が飛んできた。

「志郎くん! こっちこっち!」

「大叔母さん、ご無沙汰です」

白いミニバンを駆る登紀子の方へ、志郎が駆けていった。

 

──墓地。

「康夫ちゃん、兄さん。志郎くんが来てくれたわよ」

二つ並んだ墓石を前にして、志郎が膝を折って屈み込んだ。そのまま目を閉じ、一心に手を合わせる。隣の登紀子が、志郎が雨に濡れないようにと、そっと傘を差してやっていた。

志郎は、今の状況に至るまでの経緯を──そのほとんどは、登紀子から聞かされたものだ──、静かに思い返した。

怒りで我を忘れた健治は、まず自宅に戻ってきた志郎を工具で殴り飛ばして重傷を負わせた。止めにかかった康夫と義隆を振り切り、納屋に置いてあった猟銃を取って返すと、康夫と義隆を銃撃して致命傷を負わせた。そして、その足で地主の山科剛三の家まで出向き、剛三を撃ち殺して本懐を遂げた。

満足したのだろう、健治は最後に己の頭蓋に銃口を押し当て引き金を引き、熟れた柘榴のように血肉を弾け散らせた。惨劇に自ら終止符を打ったのである。この一連の狼藉──いや、復讐劇と言うべきか──の過程で、剛三の妾が下半身を不具にされ、制止しようとした警官が足に銃撃を食らう事となった。

義隆は惨いことに即死であったが、康夫はまだ辛うじて息があり、駆け寄ってきた登紀子に「志郎を頼む」とだけ言い残して息絶えた。登紀子は血まみれの志郎を医者へ担ぎ込み、医者は応急処置を済ませた後、直ちに小金大学病院に志郎を搬送した。

結論を言えば、あの出来事で、志郎は額に一生消せぬ傷跡が残るほどの大怪我を負い、さらに慕っていた父と祖父を一挙に失ってしまった。病院で目覚めた後、志郎は登紀子から事の次第を聞かされ、衝撃のあまり三日ほど口が利けなくなった。志郎が泣いたのは、それより後、ようやく気持ちの整理が付いたあとのことだった。

身寄りをなくした志郎を不憫に思った登紀子が大叔父と共に小金へ引越し、志郎の面倒を見てやった。元々利発な志郎は大叔母・大叔父との生活にも直ちに馴染み、不自由することなく暮らすことができたが、心にできたわずかな闇は埋めようもなく、時折悪夢となって志郎を苛んだ。

志郎は幾度か「日和田へ行きたい」とせがんだ。父と祖父の事もあったが、それ以上に、心を結んだあの少女の姿が、志郎の脳裏に焼き付いて離れなかったのである。だが、登紀子は志郎に色よい返事をせず、その都度その都度有耶無耶になっていた。

そして、中学に上がる頃。志郎は、日和田がどうなってしまったかを、大筋で把握した。それ以降、志郎が日和田へ行かせてくれとせがむことはなくなった。頼んだところでどうにもならぬと悟ったためである。

やがて高校に上がる頃になると、志郎は小金を離れ、一人桔梗市の全寮制の高校へと進学した。それからはほとんど小金に帰ることもなく、一人での生活を続けた。

「大叔母さん、お墓の面倒を見てくれて、ありがとうございます」

「いいのよ。志郎くんは、私がここに入ってから、面倒をみてちょうだい」

「悪い冗談は、よしてくださいよ」

順当に大学の四年に上がった志郎は、関東地方で働き口を見つけ、あと半年もすれば上京するという境遇にあった。当分静都には戻らぬと聞いた登紀子が、志郎に墓参りをするよう勧め、それに応じた志郎が小金まで──正確には、小金と日和田の間にある所まで──帰って来たというところである。

「あれから、もう十年も経つんだねえ」

「時間が経つのは、早いものですね」

「志郎くんも立派になって、康夫ちゃんも喜んでるわ、きっと」

「そうだと、いいんですが……」

志郎は、登紀子から「健治ちゃんは急に気が変になって、あんなことをしでかした」とだけ聞かされ、背景に何があったのかということについて、詳しい話を聞いていない。だが、意識を失う直前、健治が志郎に投げつけていた言葉の数々をつなぎ合わせれば、何が健治をあのような凶行に走らせたのかは、大筋で理解できた。

そうであるから、志郎は健治をそれほど恨んではいなかった。無理もない、同情に値する、とさえ思った。引いては──自分の責任であると、そのように考えてすらいた。

自分がいなければ、健治は狂わずに済んだ。そうとも言えたのではないだろうか。志郎は、そんな思いを抱いた。抜き難い罪悪感が、志郎を度々責め苛んだ。

「……僕は、何故ここにいるんだろう」

石の下で眠る康夫と義隆は、志郎の問いになんと答えただろうか。

それを知る術を、志郎は持たなかった。

 

墓参りを終えたあとのこと、志郎が登紀子に声を掛けた。

「すみません、大叔母さん。先に帰っていてもらえませんか」

「えっ? 志郎くん、どうしたの?」

「ちょっと、行きたいところがあるんです。夜までには、家に戻りますから」

登紀子に二言三言言付け、一応の了解を取ると、志郎は彼女と別れて一人歩き始める。駅をすり抜け、細い路地へ入る。目指す先は、それほど遠くはないはずだ。小康状態になった雨の様子を見て、志郎が傘を折りたたむ。

道はよく整備されていた。かつてはもっと険しい道だったと思うが、今は歩道がつき、コンクリートで塗り固められ、勾配も緩くなっている。自分自身があれから成長した、という点も加えていいだろう。殺風景な道だ、道草を食うこともない。

あれから随分といろいろなものが変わってしまった。人、環境、住居、精神。何一つとして変わらぬものはない。だから、あの少女もきっと大きく変わってしまっただろう。別の男と共にいたとて不思議でも何でもない。むしろ、そうであってほしかった。そうであれば、あの少女は新しい生き方を見つけたと言える筈だからだ。

日和田へは何度も行こうとした。だが、それが叶うことはなかった。一日たりとて忘れたことなどなかったが、足を運ぶことはできなかった。そうしている間に、こんなにも時間が過ぎてしまった。どう言い訳しても繕えぬほどの、長すぎる時間だ。

もうここには居まい。居たとて、受け入れてくれることなどあるまい。それでも、どれだけ変わってしまおうとも、約束は、約束だけは変わらぬと言い聞かせる。胸の中の箱は、過去の残滓にすがる惨めな自分の投影であると共に、最後の一線だけは絶対に踏みとどまって見せるという不屈の念の現れでもあった。

せめて約束を果たし、けじめをつけたい。志郎は、ただそれだけを胸に秘めて歩き続けた。

無心で歩き続けていたからだろうか、一時間ほどの行程は、ほどなく終わりを告げた。そこからさらに数歩歩み出て、志郎は眼下に広がる風景を、その瞳に映し出した。

「ああ、これが──」

 

「これが、『日和田ダム』か……」

 

並々と水を湛え、静都南部、特に小金市の貴重な水源となっているダム、それが日和田ダムであった。

かつてここに小さな村落があったが、高齢化と過疎化が深刻化し、村が消えるのは時間の問題であった。そこで、村の有力者の手によりダム工事が誘致された。新しいダムの建造と引き換えに、多額の立ち退き料を支払ってもらう、という構図を生み出したわけである。

多くの村民は粛々と決定に従い、続々と村を離れていったが、一人だけこの計画に反対する者がいた。家族の者が説得に当たったがどうしても応じず、決して意見を曲げなかった。挙句の果てに、計画を力づくで止めようと家族と村の有力者を殺害、最後は自殺するという最悪の結末を迎えた。

皮肉な事に、これで反対するものが誰一人としていなくなったために、ダムの建造は駆け足で進められた。家が取り壊され、周辺施設が整備され、水源が確保され、そして──

間もなく──日和田村は、地図上から姿を消した。

かつて存在した日和田村はもはやどこにも存在せず、知る者すら少なくなってきているのが実状である。今やその「日和田」という名前は、村を水底に沈めた張本人であるはずのこのダムに冠され、まるで何事もなかったような様子で今日に至っている。

「そうか、もう、日和田はないんだ」

改めて呟くと、空虚さがより一層強く感じられた。

中学の時分には既に工事があらかた終わっており、既に日和田は影も形もなかったという。登紀子が志郎を日和田へ連れて行こうとしなかったのは、そもそも日和田がその形を失っていたためであった。志郎はそのことを知り、登紀子にせがむことを止めた。

志郎の眼下には、ただ水ばかりが広がっていた。ここから見えた家も、神社も、小さな川面、何もかもが水に飲み込まれてしまった。取り返しなど、付きようもない。

呆然と水溜まりを眺める。これは現実の、現世の出来事なのだろうか。自分はまだ電車に乗っていて、長い夢の続きを見ているのではないか。いや、そうではない。義隆の家で、額に汗を浮かべながら畳で横になって、蒸し暑さがもたらす不快な夢を見ているだけではないのか。そうであれば──そうであれば、目覚めれば、またあの日々が戻ってくる。

目覚めたかった。これは夢であり、現実はそれとは程遠いものであると、そう思いたかった。分かっていても、喪失を丸ごと受け容れることなどできなかった。失ったものがあまりに大きすぎる。もう、何も残っていない。

頭が痛くなった。現実と願望と空想と記憶とがぐちゃぐちゃに入り混じり、まともにものを考えられない。頭痛と耳鳴りがしきりに起こる。頭が痛い、頭が痛い、頭が──

──頭が、痛い……? 

「……!」

まさか。そんな、まさか。

体を捻る。振り返る。目を向ける。目を見開く。

目の前の光景、それは──

 

「──チエ……!」

 

──チエが、すぐ側に立っていた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。