「チエ……チエなの!?」
「志郎……かえ?」
チエは、あまりにも、チエのままであった。
黄色い雨合羽に黒いおかっぱ髪。そして、あの日手渡した麦藁帽子を、頭の上に載せている。だが、それらより、それ以上に、チエが、チエであった理由があった。
「チエ……」
チエは……あの日から、まったく成長した跡がなかった。
あの、幼い時分に見たままのチエが、志郎の目の前に立っている。思わず、志郎は自分の姿を確認した。手で触れ目で見て、志郎は自分が成長している事を改めて認識した。その上でチエを見ると、あまりに「変わっていない」チエの様子に、少なからず戸惑いを覚えた。
志郎は十年間で背丈も伸び、体つきもがっしりし、声色も幾分低くなった。だが、チエは何も変わっていない。背丈も体つきも声色も、何一つとして変わったところが見受けられない。チエの姿は、志郎が記憶の中に止めていた「チエ」そのものであったが、だからこそ、志郎は眼前のチエが異様に見えてならなかった。
まるで、チエが時の流れから取り残されてしまったような──そのように感じられた。
「志郎……志郎、なんじゃな……」
「チエ……どうして……」
チエに、変わったところがあるとすれば。身に付けている雨合羽が、酷く痛んでみすぼらしくなっていること。被っている麦藁帽子が、薄汚れて方々に穴が開いていること。この二点だった。つまるところチエ本人ではなく、チエが身に付けているものは、正しく時間が経過していると言えた。
言葉を失う志郎に、チエが語りかける。
「志郎……おら、もう一遍……志郎に会えると思っとらんかった」
「本当に、志郎なのかえ……?」
弱々しい声。志郎は消え入りそうなチエの声を懸命に聞き取りながら、何度も首を縦に振って応じた。
「そうだよ、チエ。僕は、僕は志郎だよ」
「背も伸びて、顔つきも変わって、声も低くなったけど……僕は、志郎だ」
志郎の頬に、冷たい雫が一滴、ぽたりと零れ落ちてきた。落ち着き掛けていた空模様が、再び崩れ出していた。
チエを前にした志郎が、深々と頭を下げる。
「ごめん……チエ、本当にごめん……」
「僕は、チエの側にいるって約束したのに……! 僕は、よりにもよって、その日のうちに、約束を破った!」
「何もかも投げ捨てれば、すぐにでもここに来られたはずなのに! 僕には、それができなかった……!」
「側にいられなくて、ごめん……本当に、ごめん……!」
何度も謝罪する志郎を見つめながら、チエが涙を浮かべて顔を歪めた。泣きたいのを懸命に堪えて、何とか取り繕おうとしているのが分かる顔つきだった。鼻をすすり上げ、チエが涙を拭う。
「謝らんでくれえ、志郎」
「チエっ……!」
「おら、志郎にもう一遍会えただけで、もうええんじゃあ」
胸が熱くなった。これは夢ではないのか。あの日と変わらぬ様子のチエが、今自分の目の前にいる。そしてそのチエは、約束を破った、馬鹿で愚かな自分の言葉を受け容れてくれた。本当に夢ではないのか。これが現実だと言うのか。信じられない。本当に信じられない。
ならば。ならば今こそ、あの時の約束を果たすべきではないか。今ここで動かなくてどうする! これが、自分に与えられた最初で最後の贖罪の機会だ。多くの人を不仕合わせにしてきた自分が、大切な人を、チエを仕合せにしてやれる二度とない機会ではないのか!
……今しか、あるまい。
志郎は、震える手で胸ポケットに手を差し込み──そこから、小さな箱を取り出した。
「チエ、受け取ってほしいものがあるんだ」
一人暮らしの間、自分に使う金を切り詰め切り詰め、やっとの思いで買うことができたもの。随分高くついたが、今となってはその苦労さえも美しい思い出にしか感じられぬ。
志郎が箱の包を解いて、閉じていた蓋を開ける。
「見てよ、ほら」
「志郎……」
箱の中で鎮座していたもの。それは……
「指輪、だよ。婚約指輪……」
「僕が、チエに渡したいって言った……」
「チエに渡すって、約束した……婚約指輪だ」
小さな宝石のついた、婚約指輪だった。
(ぼく、大人になったら……チエに『指輪』を渡したいんだ)
二人の脳裏に、同時に昔の光景が蘇った。幼い日の他愛ない約束、けれども志郎にとっては、それがただ一つの「生きる支え」だった。この約束は、この約束だけは違えてはならぬ。絶対に破りはしない。必ず守って見せる──どんな辛い時もそのように言い聞かせ、歯を食いしばって生きてきた。
チエに今一度合間見えることができた今こそ、この約束を果たすときに他ならないと、志郎は信じて疑わなかった。
「志郎……指輪っ……!」
震える声で、チエが指輪を見つめながら言う。志郎は優しい口調で、チエに促した。
「受け取って、チエ。これが、僕からチエに伝えたい、思いだから」
その言葉を聞き取った、チエは──。
「志郎……」
──チエは。
「……だめじゃあ。おら、受け取れねぇ……」
──志郎の前に両手を差し出しながら、チエは……志郎の申し出に、悲しげに首を横に振って答えた。
「ち、チエ……! その、手……」
チエが志郎の指輪を受け取らなかったのには、理由があった。一目見ただけで、志郎はその理由を把握し、理解し、そして愕然とした。
「手に……水かきが、張ってる……!?」
チエは何も変わっていない、そう考えていた志郎だったが、十年という時間は、やはりチエを変えてしまっていた。チエの指の間には、カエルか亀のような水かきがピンと張っていた。指先を広げると、指と指の間に幕のような水かきができているのが明確に分かった。
「分かるかえ? おらの手では──指輪は、はめられねぇだ……」
その通り、チエの言う通りだ。こんな手では……指輪など、はめられまい。
あまりのことに事態が飲み込めないとばかりに、口元に手を当てる志郎を見やりながら、チエが、何が起きたのかを話し始めた。
「おら、おらのこと、普通の人の子だと思っとった」
「志郎と同じ、人の子だとばかり思っとった」
「でも、違ったんじゃあ。おらは、おらは──」
チエが口にしたのは、俄には信じがたい言葉だった。
「おらは──人と、物の怪の、相の子じゃあ」
人と、物の怪の、相の子。チエは、自分が人間とポケモンの間に生まれた子供だと、そのように言った。普通の人の子ではない、あってはならぬ禁忌の子だと──静かに口にした。
かつてチエが見せた様々な力。それらはすべて、物の怪、つまりポケモンが持つ力を使ったものであったという。説明できぬ超常現象も、人並み外れた馬鹿力も、魚のように水の中を舞う様子も、すべてはそこに行き着く。
チエは、人の子ではなかった。
「志郎がおらんようになったあと、おらの躰が、段々変わってきて……」
「手に、水かきが生えよった」
水かきの生えた手を悲しげに眺めながら、チエが呟く。
「その後、頭が敵わんくらい痛くなって……」
「こんなもんが、額に浮かんできよった」
麦藁帽子をずらし、志郎に額を見せる。チエの額には、紅い宝石のような小さな突起が表れていた。不気味な光を放つそれは、かつてチエと共に水底で見たあの「紅い光」と、寸分違わぬものであった。
あたかも、チエが人ならぬ存在であると、力強く主張するかのごとく。
「それから、最後に」
チエが両手を志郎に見せ、魂の抜けた瞳で言葉を繰る。
「おっ母と約束した、おらの親指と」
「志郎と約束した、おらの小指とが」
力なくつぶやき続ける、チエの手には。
「ぽろりと、零れよった」
薬指・中指・人差し指の、三本の指しか生えていなかった。
母親と約束を交わしたという親指も、志郎と幾度となく約束を交わした小指も、チエの手には残っていなかった。右手左手、その両方から、親指と小指が、抜け落ちていた。
「そんな……指が……」
影も形も、そこにはなかった。
「おら、志郎と赤い糸で結ばれとるって……そう言ったはずじゃあ」
「運命の人、おらの運命の人が、志郎じゃって」
「でも……その、糸が結ばれた小指が、おらから無くなっちまった」
「おらはもう、志郎と一緒にいることはできねぇだ……」
志郎が無意識のうちにチエの手を取る。チエの手の形は、すっかり変わってしまっていた。指切りをした小指は、今はもう痕跡すら残っていない。水かきの生えた武骨な指が三本、そこに残っているだけだった。
赤い糸は、解けて、消えてしまった。
「どうしてだろうなぁ」
「おら、何も嘘もついてないし、悪いこともした覚えがねぇのに」
「『指切り』、されちまった」
指切り・拳万・嘘吐いたら・針千本・飲ます。嘘を吐くと、これだけの罰が待っているということを意味する童歌。その筆頭には「指切り」が来ている。嘘を吐く者の指は、切り落とされてしまうと、この童歌は明示している。
では一体、チエが何の嘘を吐いたというのか。約束を破ったのは、自分ではないか。何故、チエがこんな目に遭わなければならないのか。
どうして、チエが。
「おら、分かったんだ」
「おらは人と物の怪の相の子で……人にも、物の怪にもなれんかった」
「じゃから、おらはずっと子供のままで、大人にも、物の怪にもなれん。今までも、これからも、永劫、ずっと」
人としても物の怪としても中途半端で、そのどちらにもなれなかった。死ぬときが来るまで、この姿のまま変わることなく、人としても物の怪としても生きられぬ、ちぐはぐな存在であり続けなければならない。チエは、自分の運命を誰よりも正しく理解していた。
チエは、永遠にチエのままで、チエ以外にはなれなかった。
「チエ……」
「泣かんどくれぇ、志郎。皆、おらが中途半端じゃったからいかんかったんじゃあ」
「でも……でも、チエは! チエはっ!!」
「志郎、仕方ないんじゃあ。おらみたいな人はいねぇし、おらみたいな物の怪もいねぇ」
人にも、物の怪にもなれない。それが、チエのさだめだった。
「おらはもう、おっ母とも志郎とも、約束を破っちまっただぁ」
「そんなの……そんなの関係ないよ! チエ、僕と一緒に……!」
「だめじゃあ、志郎。おら、もう決めたんだぁ。一人で生きて、一人で土に還る……そう決めたんじゃあ」
「どうしても、一緒にはいられないの……?」
「おらがおったら、志郎が人として生きられんようになる。志郎は人の子じゃあ。人として、生きなきゃいけねぇ」
チエの言葉を、志郎はただ受け容れるしかなかった。チエが、志郎とともに歩むことはできないと……そう言うのであれば、志郎はチエの思いを飲むしか、道は残されていなかった。
「おらは志郎が今来てくれて、良かったと思っとる」
「志郎が……変わっていくおらを見たら、志郎は、きっと悲しむじゃろうから」
「おら、志郎の悲しむ顔は……見たくないんじゃあ」
志郎のいない間、チエはあらゆる悲しみを背負い、それでもなお、「志郎の悲しむ顔を見ずに済んでよかった」と言っている。いなくなった志郎を恨むこともできたろうに、チエは、ただ一心に、志郎の幸せのみを考えていた。
「ありがとなぁ、志郎。おら……志郎に会えてよかった。志郎のおかげで、『人』の気持ちってもんが理解できた」
「チエ……」
「お別れじゃあ、志郎。いつまでもここにいたら、風邪引いちまうぞぉ。早く、『人』のところへ帰ったほうがええ」
目に涙をいっぱいに浮かべながら、チエが、志郎から離れて、森の奥へと歩んでいく。
「志郎……」
最後に一度だけ振り返って、チエが──。
「おらのことは……早く、忘れて……」
「幸せに……なってくれぇ……」
「志郎が、幸せなら……」
「おらは、それでええんじゃあ……」
そう言い残して、森の奥深くへと、消えていった。
──河童の伝承には、続きがあった。
河童は大人になると「水神様」と呼ばれ、池や沼、川を守る守護神となる。大人になった河童は、もはや河童ではなく「水神様」なのである。
だが──「水神様」になれなかった河童は、どうか。「水神様」になれなかった河童は、ずっと「河童」のままで、永遠に子供の姿のまま、朽ち果てる時を待つという。
河童。河の童。河と共にある童。その言葉を当て嵌めるのなら、チエはまさしく河童であった。いつまでも大人になれぬまま、子供の時の姿を留め、童のまま、死んでゆく。
──チエは、河童であった。
「チエ……」
後に残されたのは、ただ、志郎一人だけ。もうどこを見回しても、チエの姿は無い。黄色い雨合羽も、麦藁帽子も、黒いおかっぱ髪も、欠片もその姿を認めることはできなかった。
チエは、志郎の前から、姿を消した。
その手に、渡すことのできなかった指輪が入った箱を握り締めたまま、志郎は両膝と両手を付いて、ただただ涙を流しつづけた。
さめざめと泣く志郎の脳裏には、チエと過ごした掛け替えのない日々と、悲しさを押し殺して一人森へと消えていったチエの姿とが、激しく入り混じって幾度となく蘇り、その度に、志郎は涙をこぼした。
チエは、自分に幸せになってくれと言った。志郎が幸せであれば、自分はそれで良いと。自分のことなど早く忘れて、もっと幸せな時間を過ごして欲しいと。
その幸せな場所に、自分は居なくて構わない──チエは、そう言った。
「僕が、一番幸せだったのは……チエ。君と、君と一緒にいたときだったのに……!」
あの日々は、もう帰ってこない。どれほど願っても、叫んでも、思いが通じることはない。
「チエ……チエっ……チエぇっ!!」
すべては──深い水の底に、沈んでしまった。
──降りしきる雨が、一際、激しくなった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。