「ふぅ……今日もお留守番かぁ……。早めに寝ないと、明日の朝起きられないかも……」
両手でエコバッグをぶら下げながら、ともえはため息交じりに呟いた。赤い二つのヘアバンドが映える桜色の二つ結びが、ゆらゆらと揺れているのが見える。エコバッグには形が変わるほどの食料が詰め込まれていて、見るからに重そうであった。
「お父さんもお母さんもたくさん食べるから、毎回これくらい買わないと追いつかないんだよね~……」
とほほ、といった調子で肩を落としつつ、ともえは近所のスーパーを後にした。重量オーバー気味のエコバッグに振り回されそうになりつつ、けれども意外に慣れた調子で、ともえは家路を急いだ。
中原ともえ。漢字で書くと「中原巴」。日和田市立萌葱小学校に通う、小学四年生の少女だ。閑静な住宅街、という言葉のよく似合う日和田市の北東部にある一軒家で、両親と三人で暮らしている。兄弟・姉妹はいないが、親戚に従姉妹のお姉さんがいる。取り立てて変わったところの無い、ごく普通の家族構成だ。
「でも、いつも喜んでくれるし、頑張らなきゃっ」
エコバッグを持ち直すと共に、ともえは大きく胸を張って、しゃきしゃきと歩き出した。荷物は相変わらず重そうであったが、足取りは軽かった。心なしか、表情も快い。夕暮れ時の赤い空を背にして、ともえは家路を急いだ。
「後は、帰って冷蔵庫を整理して、宿題をして……」
これから家に帰ってしないといけないことを一つ一つ呟きながら、ともえが歩いていた時だった。
「……………………」
「……………………」
目の前の光景を見て、ともえは思わず足を止め、そして目を大きく見開いた。エコバッグを提げたまま、ともえは道の端で立ち止まってしまった。口元に手を当てたかったが、両手がエコバッグでふさがっていたのでそれはできなかった。ともえは目を真ん丸くして、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
彼女を立ち止まらせた光景が、どんなものだったかと言うと。
「え、えっと……」
「……………………」
「道端でしゃがみこんじゃって、どうしたんですか……?」
「ふぇ……あたし……?」
二十代前半くらいと思しき若々しい女性が、道端でへたり込んでいたのだ。唐突な光景に、ともえは思わず足を止め、へたり込んでいた女性に声をかけた。女性を心配しているようだ。急に声をかけられ、女性がのっそりと顔を上げる。まるで生気の無い、やつれた様子であった。
「あー……いやー……これまた恥ずかしい話なんだけれども……」
「えっと……もしかして……迷子、とかですか?」
「えーっと……それも、ある……あと……」
「あと……?」
ともえが一歩前に出て、女性の元へと近寄る。一方の女性は青い髪――より細かく言うと、セルリアンブルーの長い髪をかき上げて、自分に近づいてくるともえの様子を窺う。
「あと……」
「はい……」
女性はとても申し訳なさそうな表情で俯くと、ぽつり、とこう漏らした。
「……お腹がすきました」
「……はへ?」
かっくんと頭を垂れる女性に、ともえは気の抜けた声を上げ、あんぐりと口を開けた。女性から突然「お腹がすきました」と言われれば、ともえのような反応は当然のものと言えるだろう。
「いやー……実はいろいろあって、かれこれ二日ほど何も口に入れてなくて……」
「ええーっ?! 二日もなんですか?!」
「……うん。もうあと十分ちょっとで二日になる……」
ともえは大きな声を上げて、女性の置かれている境遇のまずさに驚いた。いくらなんでも、二日間も何も食べていなければ、生気の無い顔をしていて当然だ。ともえはますます心配して、女性のすぐ近くまで歩み寄った。
「だ、大丈夫ですか?」
「んー……このままだとあんまり大丈夫じゃない気がする……」
「えっと……お金とか、お財布とか、持って無いんですか?」
「……二日前までは持ってたんだけど、今は……」
「……………………」
「くぅ~っ……バスの中にカバンを忘れるなんて、あたしとしたことが……」
「そういうことだったんですか……」
女性の断片的な話から推測すると、恐らく女性は財布や諸々の入ったカバンを忘れてしまい、無一文でこの辺りを彷徨っていたようだ。結果二日も飲まず食わずで過ごすハメになり、ついに行き倒れてしまったと言うわけだ。不運というほか無い状況だった。
「……………………」
女性の様子を見て、ともえが表情を硬くする。しばし考えた後、おもむろに口を開いた。
「……分かりました」
「……え?」
ともえは大きく頷くと、突然「分かりました」と言った。流れの読めない女性が、困惑したような顔付きになる。
「それなら……」
ともえは女性の様子に構わず、更に続けた。
「ここから五分くらい歩いた先に、わたしの家があります。わたしが、何か作りますね」
「……えぇっ?!」
ともえの申し出に、今度は女性が素っ頓狂な声を上げた。ともえは女性を家に招いて、女性に何か食べさせてあげようというのだ。
「こんなに弱ってる人を、このまま放っておくわけには行きません! すみません、立てますか?」
「え、ええ……立って歩くくらいなら……」
荷物の詰まったエコバッグを片手で持ち、ともえが女性に手を差し伸べた。女性は戸惑いながらともえの手を取り、少しふらつきながらも立ち上がることができた。
「ここから歩いてすぐですから、もう少し頑張ってくださいね」
「は、はぁ……」
ともえの申し出に、女性は惚けたように口を開けつつ、ともえに手を引かれて歩き始めた。
「ちょうど食べるものを買ってきたところですし、すぐに何か作れると思います」
「い、いいの……? ホントに……」
「はい。困っている人がいたら手を差し伸べなさいって、お母さんに言われてるんです」
ハッキリと答えると、ともえは女性の手を引いて、自分の家へと導いていく。女性はともえの行動力に些か驚きつつも、ともえに手を引かれるまま、歩調をあわせて進んでいった。
「気持ちはすっごくありがたい、いやもうこれ以上無いくらいありがたいんだけど、あなたの家にいきなりこんな不審人物が上がり込んで、大丈夫なの?」
「大丈夫です。今日はお父さんもお母さんも出張で、家にいませんから」
「なるほど……そういうことだったのね。んじゃ、お邪魔させてもらおうかしら、ね……」
女性は納得したように頷くと、ともえに遅れる事が無いよう、てきぱきと歩いていった。
「すぐに何か作りますから、ちょっとだけ待っててくださいねー」
「んー。了解了解」
ともえは女性を家に上げると、とりあえずリビングへと彼女を通し、ガラスのコップに麦茶を並々と注いで出した。そのまま踵を返して、奥にあるキッチンへと引っ込む。女性はともえの手際のよさに感心しながら、出された麦茶に口をつけた。
「……ふぅ。ちょっと落ち着いたかしらね」
麦茶を半分ほど飲み干して、女性は一人呟いた。飲まず食わずで二日経ち、久しぶりに喉へものを通す事ができた。幾分生気を取り戻し、女性が大きく伸びをする。大きく息をついて、自分が休息を取れる場所にいることを改めて実感した。
「いやー……あたしとしたことが、バスの中にみーんな忘れちゃうなんてね。あれがなきゃ、『こっち』じゃただの人以下なのにね……」
苦笑いを浮かべながら、ソファに深く腰掛ける。再び大きなため息をつくと、女性はゆっくりと辺りを見回した。
「とりあえず、あの子に感謝しなきゃね。あのまま行き倒れてても、仕方なかったもの」
あの子、とは、もちろんともえのことである。ともえにここへ連れてきてもらわなければ、本当に行き倒れていた可能性もあった。その後どうなっていたかは、想像するだに恐ろしい。
「ともあれ、こっちに変なものを持ってきてなくて良かったわ。あの中に入ってるもので、怪しまれるようなものは一つも無いはずだし」
一つ一つ思い出して、女性がほっと息をつく。長い長いセルリアンブルーの髪が、ゆらりと小さく揺れた。
「すみませーん。ちょっと時間が掛かりそうなので、とりあえず、これを食べててください」
「おぉ、ありがとありがと」
エプロンをつけたともえが、チョコレートや煎餅の詰まったバスケットを持ってやってきた。夕飯ができるまで時間が掛かりそうなので、とりあえずお菓子で間をつないでおいて欲しい、との配慮だった。女性は目を輝かせ、バスケットを覗き込む。
「大したものじゃありませんけど、一時しのぎにはなると思います」
「いやー、ホントにありがと。あたしったら、あなたにお世話になりっぱなしね」
「どういたしましてっ。……あっ。ところで、一つ大事な事を聞き忘れてました」
「大事な事?」
封を切った煎餅をくわえた女性が、首をかしげながらともえに問いかける。
「お名前、なんていうんですか?」
「……あー、名前ね、名前……」
名前を聞かれて、女性が少し言葉を濁す。
(どーしたもんかねぇ……そのまま言うとびっくりするだろうし、そもそも今の状況じゃ証明する手立てが無いから、怪しまれる可能性が高すぎだし……)
煎餅を食べる振りをして(実際に食べていたのだが)、女性はしばし考えを練ると、
(……今はまだ早いわね。準備を整えてから、きちんと話す事にしましょ)
残っていた煎餅を一気にバリバリと食べ、コップに残っていた麦茶を飲み干して口の中を潤してから、こう答えた。
「……空子。空子ちゃん、って呼んでくれていいわよ」
「わ、さすがにそれは失礼になっちゃいます。空子さん、でいいですか?」
「んー。そっちの方がしっくりくるわね。了解っ」
女性は「空子」と名乗った。あまり無い名前であるが、取り立てておかしなところも見当たらない名前に見えた。
「じゃあ、せっかくだから、あなたの名前も教えてくれる?」
「はい。ともえ、中原ともえっていいます。呼び方は、空子さんの好きなようにしてください」
「よしきた。じゃあ、ともえ様、ってことで」
「ええっ?! さ、様付けはちょっと……」
「冗談冗談。それじゃ、ともえちゃん、でいいかしら?」
「あ、はいっ。空子さん、よろしくお願いしますっ」
「こちらこそ。よろしくね、ともえちゃん」
二人は互いの名前を交換すると、お互いの顔をまじまじと見つめた。空子はともえを上から下まで一通り眺めて、ともえの特徴を大筋で把握した。
「そのエプロン、よく似合ってるわね」
「ありがとうございますっ。お母さんと一緒に、わたしが作ったんです」
「ほー。ともえちゃんが作ったんだ」
「はい。自分で使うものですから、自分で作りたかったんです」
ともえの言葉に空子は感心したのか、うんうんと繰り返し頷いている。
「今時珍しいわね。ともえちゃんって、しっかりした子なのね」
「そうですか? わたしは、これが普通だと思ってますけど……」
エプロンをパタパタとはたいて、ともえが身なりを整える。頭に三角巾を巻いた姿が、どことなく愛らしさを感じさせた。
「それじゃ、ご飯を作ってきますね。何かあったら向こうにいるので、声をかけに来てください」
「ん、分かったわ。ありがとね、ともえちゃん」
「はいっ」
ともえは笑顔で空子に返事をすると、キッチンに向かってとてとてと駆けていった。空子はバスケットからチョコレートを一つ取ると、おもむろに口へと放り込んだ。
「……自分で作る、それが当たり前、ね……うん。いい心構えだわ」
「……考えておかなきゃね。この後、どうするか……」
口の中一杯に広がる甘味と苦味をかみ締めながら、空子が呟いた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。