「ともえちゃん」
「はい。どうしました?」
ともえが作った焼き魚と野菜炒めとご飯を代わる代わるひっきりなしに口へと運びながら、空子が突然ともえの名前を呼んだ。ともえはご飯を食べる手を止めて、空子の目を見つめる。
「ともえちゃんって、今幾つだったっけ?」
「えっと……あ、今年で十歳です」
「ほー。十歳ね、十歳」
「はい。小学四年生なんです」
「ふむ。四年生四年生」
繰り返し呟きながら、空子は味噌汁をずずいとすする。
「……………………」
「……………………」
ともえをしばし見つめた後、空子は麦茶を一口飲んで一言。
「ともえちゃん、嘘はよくないわよ」
「えぇっ?! ど、どの辺りがウソだと思ったんですか?!」
「やー、十歳でこの質実剛健で隙の無い料理はおかしい。多分追加で十歳くらい上乗せしてやっと説得力が」
「そ、そんなにですか?!」
「本音を言うと、あとさらに十歳くらい上乗せしたいんだけど」
「さ、三十歳ですか?!」
空子は自分で勝手に納得したようにうんうんと頷くと、最後のひとかけらになっていた冷奴を口へと運んだ。ともえの作った料理によほど満足がいったのか、箸を動かす手が休まる事はひと時も無い。ともえは空子の突拍子も無い発言に驚きながらも、心なしかうれしそうな表情をみせていた。
「空子さんに喜んでもらえて、わたしもうれしいです」
「んむ。ともえちゃんは絶対いいお嫁さんになれるわ。むしろあたしが嫁にもらいたいくらいね」
「あははっ。空子さんって、なんだか面白い人ですね」
ともえと空子はすっかり打ち解けて、気の知れた友人同士のような会話ぶりを見せていた。
「しっかし、お父さんもお母さんも居ない間に勝手に上がりこんじゃって、なんだか悪いわねぇ……」
「気にしないでください。わたしも、一人でご飯食べるの、ちょっと寂しかったんです」
「確かにね……一人ってのは、何をするにも侘しいものよね」
ほぐしたサバを口に運びながら、空子がしみじみと呟く。空子の言葉に、ともえはこくこくと頷いていた。
「お父さんもお母さんも、仕事が忙しくて……こんな風に、よく家を空けちゃうんです」
「そう……じゃあともえちゃんは、よく一人で留守番をしてるのね」
「はい。あ、でも、帰って来た時は、お父さんもお母さんも、わたしにすごく優しくしてくれるんですよ」
両親の事を話すともえの瞳は、空子から見てもハッキリ分かるくらいに、輝いていた。
「ご飯を作って待ってると、どんなに遅くなっても必ず一緒に食べてくれて、『おいしい』って言ってくれるんです」
「なるほどね。ともえちゃんが料理上手なのは、お父さんやお母さんのためにご飯を作ってるからなのね」
「はい。それで、一緒にご飯を食べた後、私が真ん中になって、川の字になって寝るんです」
「あ、なんか懐かしい感じ。にんげ……こほん。こ、こんな時代でも、そういう古きよき文化があるなんてね」
空子は一瞬何かを言いかけたと思うと、軽く咳払いをして言葉を切り、取り立てて変わったところの無い感想を述べるに留めた。ともえは空子の不審な様子に気付かなかったのか、明るい表情で頷くばかりだった。
「お父さんもお母さんも……こんなわたしのことを、すごく大切にしてくれて……だから、頑張らなきゃ、って思えるんです」
「……いい子だ。今時珍しい、最っ高にいい子だ……うし。ともえちゃん、やっぱりあたしのお嫁さんになりなさい」
「えぇっ?! そ、それはちょっと……」
照れ隠しの苦笑いを浮かべつつも、ともえは満足した様子だった。空子は何度も大きく頷いて、得意げに腕組みをしてみせた。
「空子さん、おかわりいります?」
「あ、ください」
空子から手渡されたからっぽの茶碗を、ともえは満面の笑みで受け取った。
「空子さんは、日和田へ何をしに来られたんですか?」
夕食後。麦茶をコップに注いでくつろいでいたところへ、ともえから空子へ質問が飛んだ。
「んー。ちょっとね、調べ物をしに来たのよ。日和田って、確か真ん中にでっかい図書館があるじゃない」
「はい。わたしも、よく勉強しに行きます」
「お、いい心がけね。感心感心。で、あたしはその図書館に行って、調べたい事があったのよ」
空子は何の目的があって、ここ日和田市へやってきたのだろうか。空子曰くその答えは「調べ物」であった。日和田市の中央にある図書館――日和田市立中央図書館――に、空子は用事があったらしい。
「その為に、バスや電車を乗り継いで、ここまで来たんですね」
「そうそう。その図書館に、ずっと探してた本があるって聞いたからね」
麦茶を一口すすって、空子が答えた。
「……んでも、その乗ってたバスに荷物をみーんな置き忘れちゃって……」
「忘れ物をしちゃったんですか……」
「そうなのよ。電話が無いからバス会社に連絡はできないし、お金が無いから何も食べられないしで……」
「それで、さっきの場所にいたんですね」
「そーそー。空腹+無一文=お迎え寸前、の方程式が成り立ったと言うわけよ」
謎の方程式を組み立てて、空子が繰り返し頷いた。とりあえず、空子があの場で死に掛けていたのは事実だったようだ。ともえが声をかけていなければ、一体どうなっていた事か。
「でも、いまは元気になってくれたみたいで、良かったです」
「うむっ。これもみんな、ともえちゃんのおかげよ」
「えへへっ。ありがとうございます」
ともえが笑うと、空子も笑う。二人の間には気づかぬ間に、信頼関係ができあがっていたようだった。
(こんな子と……ともえちゃんと一緒に遊んで、まったり『こっち』で暮らすのも悪くない、かしらね……)
空子はともえの様子を眺めながら、ふと、そんなことを考えるのだった。
「ふぃ~……身も心も超すっきりだわ~……」
「湯加減、どうでしたか?」
「見ての通り、千点満点よ。ともえちゃん」
さっぱりした表情で髪を拭きながら、空子が姿を現した。ともえは進めていた算数の宿題の手を止めて、空子の様子を窺う。
「パジャマ、お母さんのお古ですけど、サイズは大丈夫ですか?」
「おっけーおっけー。あつらえたみたいにぴったりだわ」
空子は満足げに息をつくと、十分に髪を拭ってから、ソファに深く腰掛けた。
「あ、空子さん」
「ん? どったのともえちゃん」
「空子さんの乗ってたバスを運行してるバス会社さんに連絡したら、荷物を預かってくれてるみたいです」
「……えぇっ?! それ、マジで?!」
ともえは空子がお風呂に入っている間に、バス会社に連絡して遺失物を預かっていないかを確認していたようだった。空子が大きく眼を見開いて、やや上ずり気味の声を上げた。
「はい。空子さんのかばんの特徴を伝えたら、それとそっくりなものを、空子さんがかばんを忘れた日から預かってくれてるそうです」
「ホントに……?」
「はい。間違いないと思います」
「見つかったんだ……ともえちゃん、なんて言ったらいいのかよく分かんないけど、とにかくありがとっ」
空子が目を潤ませ、ともえの手を取った。ともえは頷きつつ、さらに続けた。
「それで……一つ気になることを聞きました」
「気になること?」
「はい。中に、ちょっと大き目のビー玉がたくさん入ってたそうです」
その言葉を聞いて、空子は一瞬身を固くした。ともえはそれに気付かず、話を続ける。
「空子さん、ビー玉なんて持ち歩いてたんですか? もしかすると、誰かの悪戯かもしれないって、バス会社の人が言ってましたけど……」
「……あー、えーっとぉ……そ、そうなのよっ。ほら、あたし綺麗なものとか好きだから、その流れで……」
「そうだったんですか。悪戯じゃなくて、よかったです」
空子の話をあっさり信じると、ともえは朗らかな笑みを浮かべて、空子の手を握り返した。
(いやー……あれ、袋の中に入れてたはずなんだけども……揺れてばら撒いちゃったみたいね)
心中で冷や汗を拭いつつ、空子はとりあえず怪しまれずに済んだ事を察知し、ほっと息をついた。
(昔と違ってバレようがどうしようがリスクは無いんだけども、今いきなりともえちゃんに本当のことを言うと、いろいろマズそうな気がするしね……)
空子が穏やかで無い心中を懸命に抑えているとも知らず、ともえは無邪気に笑うのだった。
夜も更けて、二人の髪もすっかり乾いた頃。
「それじゃあ空子さん、そろそろ寝ましょうか」
「ん。分かったわ。あたしはどこで寝ればいいかしら?」
そう言うと、ともえは布団をぽんぽんと叩いて、
「お母さんのお布団を使ってください。これもお古ですけど、ちゃんと使えると思います」
「おぉ……久々のお布団……今すぐダイビングしたいところね」
「枕が合わないと、眠れないかもしれないですけど、大丈夫ですか?」
「平気平気。あたし、こう見えてもどこでも寝られちゃうんだから」
空子はいそいそと布団の元までやってくると、さっと中に潜り込んで掛け布団を被った。
「うぉぉ……お布団がこんなに素晴らしいものだったなんて……」
「気持ちいいですか? それなら良かったですっ」
二日ぶりに布団の中で眠れる事に、空子は感動のあまりトリップしてしまっていた。その表情を見て、ともえがくすくすと笑う。空子はともえの様子も気にせず、しばし布団の中でうねうねと体をよじっていた。
「いやー、あまりの気持ちよさにうっかり昇天しちゃうところだったわ。ともえちゃん、この恩は一生忘れないわよ」
「そんな、たいしたことないです。空子さんがいてくれて、わたしも寂しくないですから」
「そっか……ともえちゃん、寝るときも一人が多いのね」
空子の言葉に、ともえは静かに頷いた。ともえも隣の布団に入って、空子と顔を見合わせる形になる。
「本当は、もっとお父さんやお母さんのお手伝いとかをしてみたいんですけど……」
「なるほどね……本人達がいないんじゃ、それもかなわない、か……」
「はい……」
ともえが少しだけ寂しそうな表情を見せる。その様子を、空子はじっと見つめていた。
「でも、今日は空子さんのために、いっぱいお手伝いができました。とっても楽しかったです」
「もうね……何から何までお世話になっちゃって、ホントにごめんなさいね。何か持ってれば、お礼ができたんだけれども……」
今の状況をかんがみて、空子は改めて、自分はともえに救われたのだということを実感した。ともえは屈託の無い笑顔を見せて、空子に言った。
「わたしは、誰かが喜んでくれているところを見るのが、すごく好きなんです」
「誰かが笑ってくれていると、わたしが役に立てている事が分かって……とても、落ち着くんです」
「いつか、もっとたくさんの人を幸せにしたい……なんだかちょっと恥ずかしいですけど、でも、そんな風に思ってるんです」
ともえの言葉を受けて、空子は繰り返し頷いた。頷くたびに、ともえの発言に納得しているようだった。
「……まっすぐなのね、ともえちゃんって」
「あうぅ……言っちゃった後ですけど、やっぱりちょっと恥ずかしいです……」
「いいのよ、それで。まっすぐなことは、とても素晴らしい事だから、ね」
ほんのり顔を赤らめてはにかむともえを、空子は口元に笑みを浮かべて眺めていた。
「さ、そろそろ寝ましょ」
「はい。空子さん、おやすみなさい」
「ん。おやすみ、ともえちゃん」
ともえが蛍光灯の紐を引っ張って電気を消すと、間もなく、二人は深い眠りに付いた。
(……『向こう』のややこしいことに関わらないようにする。それさえ守れば、ともえちゃんもあたしも幸せになれる……そうよね、きっと)
意識が闇に解ける間際、空子がそんなことを思い浮かべた。
「ともえちゃん、一から十までホントに……ホントにお世話になったわ」
「えへへ……どういたしましてっ。バス会社さんの場所、大丈夫ですか?」
「ええ。ともえちゃんのおかげでバッチリだわ」
次の日の朝。ともえが学校へ向かうのに合わせて、空子が一緒に家を出た。ともえの家ですっかり回復した空子は、ともえに作ってもらったおむすびが入ったビニール袋を提げて、意気揚々と歩いていく。
「ともえちゃんがいなかったら、一体どうなってたことやら……このお礼、必ずさせてもらうわね」
「そんな、お礼なんて……空子さんが元気になってくれたなら、それだけで十分です」
給食袋をぶら下げた赤いランドセルを背負いなおして、ともえが空子に笑顔を向けた。ともえの方は、これから学校へ行くようだ。
「忘れ物も見つかって、本当に良かったです」
「そうそう。あれが無かったら、また別の手段を考えなきゃいけなかったからねぇ……」
人通りの少ない路地を抜けて、ともえと空子が表通りに出た。どうやらここで、二人の行き先が変わるようだ。
「んー……バス会社はこっちで、萌葱小学校はそっち、みたいね」
「そうですね。わたしも、一緒に行ければよかったんですけど……」
「いいのいいの。ともえちゃんは生徒だから、ちゃんと学校に行かなきゃね」
二人はそれぞれの目的地につながる道に立つと、互いに向かい合った。
「それじゃ、ともえちゃん。この恩、絶対に忘れないからね」
「わたしも、空子さんと会えて、とっても楽しかったです。また、いつでも遊びに来てください」
「ええ。また、必ず連絡するわ。またね、ともえちゃん」
「はい。さようなら、空子さん」
ともえと空子は別れの挨拶を済ませると、左右に分かれた道を別々に歩いてゆく。
「……………………」
直後、ともえがその場に立ち止まり、後ろへくるりと振り返る。
セルリアンブルーの長い髪を風に晒し、白いシャツとジーンズという軽装で飄々と歩く若い女性。ともえの家に一日泊まりこんだ彼女のことを、今更になって思い返してみると、とても風変わりな人だった。
(……空子さんって、なんだか不思議な人だったなぁ……)
ともえは、徐々に徐々に小さくなっていく空子の姿を見つめながら、そんなことを考えるのだった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。