今からもう五年ほど前、大阪市営地下鉄御堂筋線で職員として勤務していた時の話です。
当時、私は駅構内の見回りなどを担当していました。特に深夜は駅から人払いをしなければならず、泥酔客の応対に苦慮していたのを覚えています。
その日も眠り込んでいた客や乗り過ごした客がおり、ひと悶着の末どうにか駅を出て行ったもらったりと大変でしたね。
これを読んでいる方は、できればこのようなことがないようにしていただければと思うばかりです。
それはさておき、終電もとうに過ぎた深夜、私は構内を見回って居残っている客がいないかを確認していました。
持ち場を一通り見回り終えて待機場所へ戻ろうとしたとき、ふとあるものが目に飛び込んできました。
すぐに違和感を感じたのは、ただその近辺を見慣れていたからだけではないと今は思います。
通路の右手側に、その場所にあった記憶のない扉がありました。
いつからそこにあったのかは分かりません。私が目を向ける瞬間に出現したのか、それより前からあったのかは定かではないです。
ひとつ確かなのは、今までそこに扉が存在した記憶はなかった……ということだけです。
……なんだこれは、私はそう思いました。辺りに誰もいなかったので、もしかすると口に出して言っていたかも知れないです。
こんなところに扉を設置するというような話は聞いていませんでしたし、仮に取り付けるとしても何らかの工事は必須でしょう。
一日二日で終わるものとも思えません。ましてや誰かが悪戯をして、ということは尚更考えられません。
扉は若干開いていました。鍵が掛かっておらず、誰でも開け閉めできる状態です。
何のために取り付けたのだろう、私は職務上確かめなければという義務感と、それ以上にどこへ繋がっているのかという好奇心を覚えました。
扉の前まで歩いていき、ノブを手に取ってそっと開けてみます。
中は少し弱い照明に照らされた長い通路がありました。駅の構造は頭に入れていたつもりですが、こんな通路があることは認識していませんでした。
扉を閉めずにそのままにして通路を歩いていきます。何か掲示物があるわけでもなく、床も壁も天井も不自然なくらい汚れていません。
途中で下へ降りる階段があり、先へ進むと入口と同じような扉を見つけました。ここが出口だろう、私はそう考えてすぐに扉を開けました。
扉を抜けて出た先の光景に、私は思わず言葉を失いました。
そこは――東京メトロ有楽町線、豊洲駅でした。
なぜ出た先が豊洲駅だとすぐに分かったのか。理由は二つあります。
ひとつは掲示物が目に入ってそこに駅名が書かれていたこと。もう一つは、先日東京在住の友人を訪ねるためにこの駅を利用したからです。
豊洲駅には通勤客をさばくための広い廊下があり、その風景を覚えていたことが大きいです。
もちろん目を疑いました。私はさっきまで大阪市営地下鉄の西中島南方駅にいたのに、扉を出た先が何故か豊洲駅だったのですから。
普通に考えて繋がっているはずがありませんし、ここがまだ西中島南方駅だったととしても、建物の構造上あり得ないことです。
掲示物も少し奇妙でした。東京メトロでは以前「家でやろう」のようなフレーズのコミカルなポスターを掲示していましたが、当時から見ても10年近く前のことです。
ところが、私が出た豊洲駅のような場所ではそのポスターが掲示されたままでした。古びた様子もなく、貼り出されたばかりのようでした。
通常一枚だけ掲示するところを三枚並べて掲示していたのも、あり得なくはないですが不自然ではあります。
そこで私は、左手に見える通路から誰かが歩いてくるのを見ました。正確には姿を捉えられず、影だけが伸びている恰好です。
シルエットは背丈が異様に高く、また足音がカツーン、カツーンといやに大きくペースが遅かったのを覚えています。
この場所のことは気になりましたが、場所の異様さもあってここに居続けることが怖くなり、扉を閉めて元来た道を戻りました。
すぐに元の西中島南方駅へ戻ってきたのですが、後日扉があった場所へ向かってみると元通り扉はなくなっていました。
何か取り外したような形跡も無く、そもそも扉など付いていなかったようにしか見えないただの壁があるのみでした。
以後、そこを含めて駅構内に見覚えのない扉が出現する……ということは起こりませんでした。
私としてはただの見間違えや夢のたぐいだと思いたいのですが、妙なくらい鮮明に覚えていて現実感が拭い去れません。
なぜ豊洲駅だったのか、西中島南方駅の構造と矛盾していたのはなぜなのか、奥から歩いてきた人影は何だったのか。
論理的に考えれば考えるほど何もかもがおかしくて、今はもう、あまり深く考えない方がいいのかも知れないと思い始めています。