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第三十八話「Mist Finer」

「魔物ぉ?」

「……そう」

「……………………?」

佳乃ちゃんはさして驚いた様子も無く、舞さんの言葉に耳を傾けていた。けれども傍で聞いている僕としては、舞さんの言う「魔物」の意味がちっとも分からなくて、首を傾げるしかなかった。

「……最近、見たことも無い魔物がうろついてる……」

「そうなんだぁ。おっかない話だよぉ」

「……佳乃も、気をつけて……」

舞さんは剣を握る手にぐっと力を込めると、川のように澄み切った穢れの無い瞳で、佳乃ちゃんをきりりと見据えた。佳乃ちゃんは、普通の人なら一瞬たじろいでしまうようなその力強い視線にもまったく臆することなく、いつも通り元気よく頷いて返した。

「……………………」

……と、舞さんの視線がつつつと動いて、

「……………………」

「ぴこ?」

「……ポテトさん?」

今度は僕に目が向いた。佳乃ちゃんの側にいる僕に気付いたみたいで、ちょっときょとんとしたような視線が投げかけられている。見た目は間違いなく佳乃ちゃんよりもずっと大人っぽいのに、その視線は何かほしいものを見つけた子供が投げかける視線のような、歳不相応な幼さがあった。

「そうだよぉ。抱いてみるかなぁ?」

「……(こくこく)」

即座に頷いて、とことこと僕の方へ歩いてくる舞さん。心なしか、足取りは軽く見える。

そしてそのまま、僕は舞さんの腕の中へとしっかり抱き込まれた。

「……ふわふわ」

「うん。ふわふわさんなんだよぉ」

「……もこもこ」

「うん。もこもこくんなんだよぉ」

どこかで聞いたことがあるような気がするやり取りを交わして、舞さんが、今度は心なしかとかそういうはっきりしないレベルじゃなくて、はっきりとうれしそうに僕を撫でた。僕はその手触りを感じながら、ああ、この人は動物が好きな人なんだろうと、直感的に感じていた。自慢じゃないけど、僕は誰かが僕を触るときの手つきで、その人がどれだけ動物と親しんでいるかが分かる。舞さんはその中でもかなり手つきが良くて、本当に動物が好きな人特有の感触があった。

「……かわいい」

「ぴっこり」

「……おいしい」

「……ぴこ?!」

「……冗談」

「舞ちゃん、冗談がうまいよぉ」

僕的には(僕のこの「ポテト」という名前もひっくるめて)まったく冗談になっていない。というか一瞬、あからさまに冗談じゃ無いような目つきになった気がするのはあくまでも気のせいなんだろうか。お願いだから、僕の気のせいであってほしい。もし気のせいじゃなかったら、本当の意味で僕に明日は無いから。

「ポテトぉ。この人は舞ちゃん、川澄舞ちゃんっていうんだぁ」

「ぴこぴこ」

……「川澄舞」。なんて綺麗な名前なんだろうと、僕はため息が出るような気がした。その瞳は……偶然にも、さっき僕が喩えて言ったように、川の水のように澄み切っていて、一転の穢れや汚れさえ感じさせない、神聖なものに思えた。

「……………………」

「……………………」

こうして僕を抱き上げて撫でている間も、舞さんは剣を手にしたままだ。きっと片時も手放すことのできないような、よほど大切なものなんだろう。

そう、それこそ……

「ポテトも喜んでるみたいだねぇ」

佳乃ちゃんの右手に巻き付けられた、黄色いバンダナと同じくらい。

 

「それじゃあ舞ちゃん、気をつけてねぇ」

「……(こくこく)」

少し軽いおしゃべりをしてから、佳乃ちゃんは舞さんと別れた。佳乃ちゃんの向かってきた方へと歩いていく舞さんと、舞さんが向かってきた方へと歩いていく佳乃ちゃんが一瞬だけ交差して、また、お互いの距離が遠くなった。

「でも、気になるねぇ」

「ぴこ?」

「見たことも無い魔物って、どんな魔物なんだろうねぇ」

そう言えば舞さんはさっき、「見たことも無い魔物がうろついている」なんて言ってたっけ。僕にはそれの意味するところが全然分からなくて、ただ右から左へ左から右へ話を流すだけだったんだけど、今にして思えばちょっと気になる言葉だ。

「ぐぬぬ~。この街に見えない危険が迫りつつあるよぉ」

「ぴっこり」

「ひょっとしたら、もう町外れに屍生人(ゾンビ)がはびこりつつあるのかも知れないよぉ」

佳乃ちゃんの中で、魔物はゾンビだと確定しているらしい。

「もしそうだったら一大事のジャンプ大ぴんちだよぉ。ライターと掃除機とロケットランチャーの用意は欠かせないねぇ」

実用的なのは、最後の一つだけな気がする。

「むむむー。こうなったらぼくの魔法で一網打尽だよぉ! 天まで届く五千億度の炎で丸焼けだぁ!」

丸焼けになる前に、一瞬で蒸発しちゃう温度だ。

「よぉーし! そうなったらまず図書館の主さんに……あれれぇ?」

「ぴこ?」

「向こうに誰かいるよぉ」

ノリノリだった佳乃ちゃんが急に立ち止まって、自分の目線の先に誰かがいることに気付いた。佳乃ちゃんはよーく目を凝らして、そこにいるのか誰か調べようとしている。ちなみに、佳乃ちゃんの視力は両目とも1.0以上らしい。遠くにある垂れ幕の文字やお店の看板も、まったく詰まらずにすべて一発で読んじゃう。すごいなあと思う。

「小さい子だねぇ」

「ぴこっ」

「ワンピースを着てるよぉ」

僕も目を凝らしてみて、佳乃ちゃんが見ているであろう人影を見つけることができた。

 

それは白いワンピースに袖を通していて(だから、間違いなく女の子だ)、後ろで手を組んで――ということが分かるから、僕たちには背を向けている――川べりで佇んでいる。小さい子にしては、存在感が強くはっきりと出ているような気がした。

そして――その傍目から見ても綺麗な髪の両端に、細く長く黄色いリボンが、蝶結びにして巻き付けられていた。

 

「こんな時間にどうしたんだろうねぇ?」

「ぴっこぴこ」

「うんうん。ひょっとしたら、お家の人も心配してるかも知れないねぇ」

「ぴっこり」

「そうだよねぇ。ちょっと、行ってみよっかぁ」

佳乃ちゃんはぽんぽんと話を決めてしまうと、その女の子のいる方に向かって歩き始めた――

――ちょうど、その時。

(ちらり)

女の子がこちらを向いた。こっちの方に顔を向けたとかそういうのではなくて、明確に明確に、僕と佳乃ちゃんに対して視線を向けてきた。

「気付いたみたいだねぇ」

「……………………」

佳乃ちゃんの声は届いていないみたいだったけれど、女の子が僕らに気付いてこちらを向いたことは間違いなかった。その目線は、明らかに僕と佳乃ちゃんに向けられていたからだ。

「……………………」

その視線は……

 

その視線はどこか悲しげで、儚げで、物憂げで、とてもあの背丈から想像できるような年齢の子供が向けてくるような視線ではなかった。どちらかというと……もっと上の年齢になって初めて、自分が向けている視線の意味するところの感情がおぼろげながら理解できるようになる程度だろう。

 

僕らは女の子に接触するために、一歩前へと踏み出した。

――ところが、その時。

(ふっ)

心なしか、女の子の姿が薄くなったように見えた。「姿が薄くなる」という表現でしか、僕らが目にした光景は表現できそうになかった。それは本来、人相手にはありえないことだからだ。

「……?」

「……………………」

佳乃ちゃんもそれに気付いたみたいで、無言のまま疑問に顔を染めている。女の子はまるで夜闇へと溶け込んでいくかのように、少しずつ少しずつ、姿を消していく。

「……………………」

消えつつある女の子はまた後ろを向いて、僕らに背を向けて歩き始めた。手を後ろに回したまま少し早足で、僕らからまるで逃げるようにして遠ざかっていく。その後姿にすら、僕は悲しみや儚さを溢れるほど感じ取ることができた。その全身から、とても言葉にできない思いが放たれているように思えた。

「あっ、ちょっと……」

佳乃ちゃんが声をかけても、女の子は立ち止まらない。佳乃ちゃんの声には気付いているようで、ちらちらとこちらを窺ってはいるようだけれど、速めた足取りを遅める気配はまったくなかった。

そして、そのまま――

(すっ)

霧が晴れていくようにして、女の子の姿は完全に夜闇へと掻き消えた。

「いなくなっちゃったよぉ……」

佳乃ちゃんが走ってその場まで駆けつけてみたところで、女の子が再び現れる気配はなかった。佳乃ちゃんはきょろきょろと周囲を見回していたけれど、僕はこのとき恐らく、彼女はもう目に見える形ではここに存在していないだろうと思った。

「……………………」

言ってしまえば、あの子は蜃気楼だとか幻だとか、そういう類の言葉でくくれるような「何か」だったというわけだ。僕と佳乃ちゃんが同時に同じ幻を見たのはちょっと不思議な事だけれども、僕と佳乃ちゃんは結構同じことを考えている。だから、まったく同じ幻を見ても――

 

「あれれぇ? こんなところにリボンが落ちちゃってるよぉ」

 

――と、僕が結論付けようとした時、佳乃ちゃんがそれを思いっきり覆すようなことを口にした。

「さっきの子が落しちゃったのかなぁ」

見てみると確かに、さっきの子が髪にくくりつけていたような、細く長く黄色いリボンが一つ、道端にほどけて落ちていた。佳乃ちゃんの言葉が正しいなら、女の子が早足で歩いて「消える」時に、うっかり髪からほどけて落ちてしまったとしか考えられない。

「うんうん。きっと、そうだよねぇ」

佳乃ちゃんは納得したようにリボンを拾い上げて、ポケットへとしまいこんだ。

「また見かけたら、ちゃんと返して上げようねぇ」

さして驚いた様子も戸惑った様子も無くて、佳乃ちゃんは再び歩き始めた。

「……………………」

僕はあの女の子が「幻ではない」という事実を突きつけられて、ただ呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。

そして、それ以上に……

 

佳乃ちゃんがあの女の子が「消えた」ことに、何の疑問も抱いていないこと。

 

それが、無性に気になった。

 

「そろそろ折り返し地点だよぉ」

「ぴっこり」

その後はいつも通りの散歩が続いた。僕もあのことはあまり深く考えないようにして、今は佳乃ちゃんと一緒に歩くことに集中することにした。そうしているとだんだん気が紛れて、深く考えようとする気は起きなくなってきた。

「今日は公園を折り返し地点にしようねぇ」

「ぴっこぴこ」

公園というのは、川沿いの道を少し折れたところにある、小さな児童公園だ。佳乃ちゃんが「川沿いコース」を選んで歩いた時は、十中八九、そこが折り返し地点になる。

「一本松をくるっと回って帰ろうねぇ」

「ぴっこぴこぴこ」

僕はそう返事をして、佳乃ちゃんの後ろへ付いて歩いた。

公園に入ると、佳乃ちゃんが三度立ち止まった。

「また誰かいるよぉ」

「……………………」

すっかり暗がりに包まれた公園の片隅に、誰かが佇んでいた。そこに佇んで、何かをしているみたいだった。

「ぴこぴこ……」

「……………………」

そして……僕らが耳を傾けてみると……

……こんなフレーズが、傾けた耳へ流れ込んできた――

 

「……お連れしましょう。この街の、願いがかなう場所に……」

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。