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第四十話「Water in the Hand」

……夢。

……夢を見ている。

……白い世界。

……真っ白な世界。

……広い世界。

……何もない世界。

……僕はただ、そこに佇んでいる。

……何もない世界に、佇んでいる。

……声が聞こえる。

……遠くから、聞こえてくる。

……何を言っているのだろう。

……何を伝えたいのだろう。

……だんだんと消えていくその声は……

……その、声は……

 

「……ぴこ?」

目覚めた時、僕は夢を見ていたことに気付いた。佳乃ちゃんのベッドの上で丸くしていた身体をぴーんと伸ばして、僕ははっきりと目を覚ました。

「ぴこ……」

僕はさっきまで夢を見ていた。内容はとてもおぼろげで、思いだしても思い出さなくてもどちらでもそんなに変わらないような気がするものだった。けれども、何故か「夢を見ていた」ということははっきりと覚えていて、記憶違いや勘違いではないことは確かだった。でも、内容は覚えてない。全然、思い出せない。

それこそ……昨日佳乃ちゃんが言っていたこと、そのものだった。

「……………………」

そしてぱっちりと開いた目でじっくりと辺りを見回してみて、僕は今日の朝が普段とは少し違った朝であることに気付いた。

「おはようポテト。珍しくよく眠っていたようだな」

「ぴこ?」

目覚めた僕を迎えたのは佳乃ちゃんではなく、聖さんだった。佳乃ちゃんの部屋へ上がってきた聖さんは佳乃ちゃんのベッドを繕いなおしながら、僕に事情を説明してくれた。

「佳乃は少々用事があってな。今日飼育当番だった子が夏風邪を引いてしまって、その代理で学校へ行ったんだ」

「ぴっこり」

どうやら、そういうことらしい。僕が久しぶりにぐっすり眠っている間に、佳乃ちゃんは誰かの代わりに学校へ行って、ピョンタとモコモコのお世話をしに行ったみたいだ。僕はベッドからぴょんと降りて、下へ行くことにした。

「いつもの場所にあるからな」

聖さんの声を背にして、僕は階段を駆け下りた。

 

降りてきた聖さんは、付けっぱなしだったテレビのニュースを見ながら、ちょっと遅めの朝食を取った。

「次のニュースです。今日未明S県の月宮市において、通りを歩いていた一組の男女が、二十歳前後と思われる女に刃物で襲われるという事件が発生しました」

「ほう……」

「二人に怪我は無く、女はその場で取り押さえられました。女は『おにいちゃんどいて! そいつ殺せない』などと意味不明な言葉を口走っており、警察は女が落ち着くのを待って取調べを行う方針です……」

「物騒な世の中になったものだ。佳乃がこんな輩に襲われるようなことが無ければいいのだが……」

聖さんはコーヒーを啜りながら、やや沈んだ口調でつぶやいた。僕もニュースを聞きながら、あんな人が実際にいたら本当に怖いだろうなと思った。大体、「おにいちゃんどいて!」ってどういうことなんだろう。

人間って、複雑なんだなぁ。

 

「……さて。今日の朝は二人だな」

「ぴこっ」

僕は立ち上がった聖さんの隣へ寄り添った。こんなことは、意外と少ない。朝はいつも佳乃ちゃんと一緒にどこかへ出かけるか、あるいは二人一緒に家で過ごすかのどちらかだからだ。聖さんと二人になったのは、久しぶりの事だ。

「とりあえず、床にモップをかけるから、ソファの上で大人しくしておいてくれ」

「ぴっこり」

僕は聖さんに言われるまま、待合室のソファの上へ飛び乗った。程なくして、水を張ったバケツにモップを差し込んだ聖さんが現れて、バケツを床にそっと降ろした。

「……さて」

口癖になっている「さて」という言葉をつぶやくと、聖さんはおもむろに床をモップで拭き始めた。少し曇っていた床が、瞬く間に輝きを取り戻す。

「……………………」

聖さんは無言のまま、軽快な手つきと足取りでモップをかけて行くと、そのまま待合室を一周した。僕は聖さんを目で追いかけながら、珍しい診療所の朝の風景を見ることにした。

「ふむ。これぐらいでいいだろう」

待合室の掃除を終えると、聖さんはモップを片付けて、今度は診察室へ入った。診察室のドアが開いたのを見計らって、僕も中へ入る。聖さんは特に僕を追い返そうともせず、そのまま椅子へ深々と腰掛けた。僕はその隣について、聖さんの仕事振りを観察することにした。

「……さて。少し整理してみることにするか……」

聖さんはそう言うと、机の上に置かれていたカルテを取って、とんとんと机の上で並べなおした。

「……やはり、夏風邪の患者が増えているな。毎年夏になると必ず出てくるとは言え、今年は少々ペースが速いような……」

並んだカルテを手に手に、聖さんは一人ごちた。いつかも言っていたけれど、今年は夏風邪を引いてしまった人がたくさんいるらしい。夏風邪は普通の風邪と違ってちょっと治りにくいらしいから、僕や佳乃ちゃん、それも聖さんも気をつけなきゃ。特に佳乃ちゃん。昨日だって川にどっぼーん(佳乃ちゃん談)しちゃったわけだし、油断していると危ない。

「全員症状は軽いようだが……あまり、よい心地ではないな」

それほど深刻な表情はしていなかったけれども、聖さんの表情は真剣そのものだった。差し込む光をバックに、カルテを持って堅い表情を浮かべる聖さんの横顔は、僕から見ても「かっこいい」と思えたし、そこに聖さんの本当の姿があるような気がした。

「……ふむ。まあ、今後も柔軟に対応していけばいいだろう。そう気にするほどの事でもあるまい」

聖さんはカルテを片付けるとそのまま立ち上がり、診察室を後にした。

 

「そろそろ頃合だな」

「ぴこ?」

聖さんはそのまま歩いて行き、ドアを開けて診療所の外へ出た。叩きつけるような強い日差しが、僕と聖さんへ容赦なく襲い掛かる。

「冷夏はまずいことだが、こう矢鱈と暑いのも困り者だな」

「ぴっこり」

額に手を当てて日差しを防ぎながら、聖さんがつぶやいた。

聖さんはバケツに水を張って持ってくると、柄杓を使って水撒きを始めた。僕はその近くへ立って、時折飛んでくる水しぶきに束の間の涼を求めた。熱された道路に冷たい水がぶちまけられて、まるで湯気が立っているみたいだ。

「おや……?」

時間が時間だから、道行く人も多い。その中に、見知った顔が見えた。

「あっ、聖先生。おはようございます」

「神尾さんに遠野さんか。おはよう」

「……ちっす……」

観鈴ちゃんと遠野さんだ。二人揃って制服を着て、かばんを手に提げている。学校へ行く途中なのだろう。

「学校で講習があるのか?」

「えっと……」

この問いに、観鈴ちゃんが言葉を詰まらせた。すると、すっと横から遠野さんが現れて、

「……神尾さんは補習で、私は講習……一文字違いで、大違い……」

「が、がお……遠野さん、さりげなくひどいこと言ってる……」

という事らしい。確かに、一文字違いで大違いだ。観鈴ちゃんは強制で、遠野さんは任意。観鈴ちゃん、ちょっと勉強が足りなかったのかな。

「……神尾さんはお勉強が足りません。今度、私がばっちりこってり教えてあげます……びしばし」

「と、遠野さん……手つきがすっごく怪しい……」

「……神尾さんを、私の手でびしばし……ぽ」

遠野さんはいつものように顔を赤らめながら、観鈴ちゃんの前で手をわきわきとさせている。観鈴ちゃんは冗談ではなく本気で引いているように見えるけど、遠野さんは気にせず前進していく。どうでもいいけど、遠野さんは観鈴ちゃんにびしばしと何をするつもりなのだろう。

「ふふふ。相変わらずだな。二人とも、お母さんは元気にしているか?」

「……はい。おかげさまで、元気はつらつ……」

「にはは。お母さん、すっごく元気だよ。今日も朝からお仕事」

「うむ。それなら構わない。何かあったら、私のところへ来るといい」

「ありがとうございます……わ、もうこんな時間。遠野さん、そろそろ行こっか」

「……はい。では、学校へ参りましょう……」

二人は聖さんに一礼してから、学校へと駆けて行った。聖さんはそれを腕組みをして見送りながら、どことなく、複雑な表情を浮かべていた。何か思うところがあるらしい。

「……………………」

そのまましばらく沈黙を保ったまま、聖さんは考え事をしていたのだけれど、

「聖先生、おはようございますです」

「……ああ、美坂さんか。おはよう」

今度は栞ちゃんが現れた。今日は一人みたいだ。この調子だと、香里さんはまだ夏風邪をこじらせたままらしい。早く元気になってくれるといいんだけどなあ。

「聖先生、どうしたんですかー? 何か、考え事をしてらしたみたいですけど……」

「いや……大したことではない。ただ……少しな」

「そうですかー……」

栞ちゃんに言われて、聖さんが苦笑した。考え事をしていたのが見抜かれて、ちょっと気恥ずかしくなったのだろう。それを見た栞ちゃんが、口元に人差し指を当てながら、おずおずと切り出した。

「……えっと、聖先生にこんなこと言うのも、おかしいかなと思うんですけど……」

「どうした?」

「考え事に効く薬、いりませんか?」

「考え事に……効く薬?」

「はい。即効性ではありませんけど、じわじわと効く薬です」

そう言うと、栞ちゃんは空を見上げた。つられて、僕と聖さんも空を見上げる。

空はどこまでも青くて、その澄み切った青をバックに、雄大な雲がのんびりと流れていく。僕の大好きな、夏空の風景だ。さんさんと照りつける太陽が眩しいけれど、それでも、いつまでも見ていたくなるような風景だ。秋や冬になったら、こんな爽快な空は滅多にお目にかかれないからね。

「えっと……」

「……………………」

「空を見上げていると、ほんのちょっとですけど、考え事をするのが楽になるんです」

「……………………」

「少し前は、私もよく空を見上げていましたから」

「……なるほど。医者が実際に服用していた薬だ。効果のほどは間違いないな」

「……はい。効果は、抜群です」

聖さんはにやりと笑って返すと、気恥ずかしそうにして立っている栞ちゃんを見つめた。

「えっと……それでは、私はこれで……」

「美坂さん」

「はい?」

立ち去ろうとした栞ちゃんを、聖さんが呼び止めた。

「いつまでも、仲の良い姉妹でいてくれることを願っているぞ」

栞ちゃんは笑って一礼して、その場を立ち去った。

「……さて、まだ半分ぐらい残っていたな」

そうつぶやくと、聖さんはバケツを左手に、右手に柄杓を取った。柄杓をバケツの中へ浸して水を満たすと、それを思い切り道路へとぶちまけ――

 

(バシャッ)

 

「……………………」

――た時、タイミング良く……いや、タイミング悪く、そこへ人が通りがかった。水が思い切りその人へかかって、その人が着ていた黒い服がびしょ濡れになった。長い袖から水が滴り落ちて、かなりの量の水を被ってしまったことを暗に示していた。

「ああ……申し訳ない。大丈夫か?」

聖さんが柄杓とバケツを置いて、その人のそばへ駆け寄った。口調は落ち着いているが、一応、悪いことをしたという認識はあるようだ。

「いや、大丈夫」

その人は聖さんを制止すると、右手を開いて左の袖へ当てた。

「こうやって……」

おもむろに水に濡れた左の袖に右手を当ててゆっくりと滑らせるように移動させ、そのまま右手を肩の上までなぞるように上げていく。その過程で、服の色が心なしか少し薄くなったように見えた。

「……………………」

袖からぽたぽたと滴り落ちていた雫も、右手が触れた部分からは落ちなくなっていく。まるであの右手が、服の水分を吸い取ってしまったかのようだ。

「……………………?」

聖さんがその人の行動の意味するところを理解しかねていると、その人はぴたりと手を止めて、右手をぎゅっと握って握りこぶしを作った。そして右手を握ったままの状態で、それを自分の眼前まで移動させた。右手は堅く握られたままで、そこから水が滴り落ちていたりだとか、そういったことはまったくない。じゃんけんをするときの「グー」の形で、それを前に突き出している。

……そして。

 

(ばしゃん)

 

その人が握っていた右手を開くと、その中から、ちょうどその人がぶちまけられたのとほとんど同じぐらいの量の水が、ばしゃんと下へ落ちた。水は熱された道路の上へと落ちて、瞬く間に水蒸気となって空へと昇っていった。

そして見てみると、びしょ濡れになっていたはずの黒い服が、水がぶちまけられる前と同じように、からからに乾いているのが分かった。右手から落ちた水は、服が吸い込んだ水だということなのだろうか? どう考えても、そうとしか思えなかった。

「……これは……?」

聖さんが驚いた様子でその人を見やる。僕も気になって、首を上へ上げてその人の顔を見る。

僕がそこで見た顔は……

 

「また新品通り、かな」

……白い髪がわずかに顔を覗かせる、つばつきの黒い野球帽を目深に被った、あの人だった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。