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第四十八話「Invisible Chopsticks」

「うーん。夏はやっぱり素麺だね」

「うんうん。ほっぺたがとろけそうだよぉ」

「……………………」

僕と往人さんは目の前で繰り広げられている光景を目にしながら、完全に硬直していた。往人さんはお箸を持ったまま、おいしそうに素麺を食べる佳乃ちゃんと川名さんを、気の抜けた目つきで眺めていた。往人さんのその表情に今の状況のすべてが集約されていると、僕は思った。

「いつもこうやって食べてるのかな?」

「そうだよぉ。お水をどどどどどーって流して、冷え冷えの流しそうめんにして食べてるんだよぉ」

「そうなんだ……風流で素敵だね」

僕らの前には、縦に切られた竹がずらり。その上を冷たい水が走って、そこを時折滑り降りるように、素麺の塊が流れていく。いわゆる「流しそうめん」というものだ。僕たちは今、お昼に流しそうめんを食べている。

「……まさか、こんなことになるとは……」

「……ぴこ」

どうしてこんな状況になったのか、そして、今ここで何が起きているのか……僕はこれから少し時間を遡って、そのことについて話そうと思う。

 

「お姉ちゃんっ、お昼は流しそうめんにしようよぉ!」

川名さんの定期健診が終わったその直後のことだった。診察室から出てきた聖さんに開口一番、佳乃ちゃんが大きな声で言った。

「流しそうめん?」

「そうっ! 普通に食べるよりも、当社比五倍のおいしさだよぉ」

佳乃ちゃんは期待をいっぱいに込めた表情で、聖さんを見やった。

言い忘れていたけれど、佳乃ちゃんは素麺が大好きだ。昨日のお昼も素麺だったし、今日のお昼も素麺だったけど、佳乃ちゃんは文句を言うどころかむしろうれしそうにしているくらいだ。僕は食べたことないから分からないけど、きっと冷たくてつるつるとしていて(音がつるつるしてるからね)、すごくおいしいんだろうなぁ。

そして佳乃ちゃんは素麺は素麺でも、切った竹にお水を張って素麺を流す、その名の通りの「流しそうめん」が一番のお気に入りだ。上流から流れてくる素麺を上手く掴んで、おつゆに浸して食べる。これがたまらなく大好きらしい。素麺を上手くつかまないといけないというハラハラ感がいいって、佳乃ちゃんが言っていた気がする。

「流しそうめんか……それは構わないが……」

佳乃ちゃんから提案を受けた聖さんが、ちらりと横を見る。聖さんの隣にいるのは、診察室から出てきたばかりの川名さんだ。

「いいね。すごく涼しくなれそうだよ」

「川名さんは流しそうめんでも構わないのか?」

「うん。素麺は冷たい方がおいしいからね」

ちょっと戸惑い気味の聖さんだったけれど、顔をほころばせてうれしそうに言う川名さんを見て、安心したように頷いた。どうやらこの調子だと、今日のお昼は流しそうめんになりそうだった。

「そう言えば、国崎君はまだ帰ってきていないのか?」

「まだだよぉ。往人君、どこ行っちゃったのかなぁ?」

二人の関心が往人さんへと向いた、ちょうどその時だった。

 

「戻ったぞ」

 

診療所の入り口の方から蝉時雨がなだれ込んできて、往人さんが戻ってきた事を知らせた。佳乃ちゃんはソファに座ったまま上半身をぐるんと入り口に向けて、往人さんの顔を見つめた。

「あーっ! 往人くぅん! どこ行ってたのぉ?」

「聖に頼まれてな。ちょっと買い物だ」

「ご苦労。今ちょうど川名さんの定期健診が終わったところだ。続けてで悪いが、昼食の準備を手伝ってくれ」

「分かった。俺は何をすればいい?」

買ってきた素麺の束――見た感じだと、少なくとも新しく五個は買ってきている――が詰まったビニール袋を聖さんに手渡しながら、往人さんが訊ねた。

「そうだな……奥の納屋に竹がある。綺麗に洗ってきてくれ」

「……はぁ?!」

聖さんからいきなり「竹を洗え」という指示をもらって、往人さんが口をぽかんと開けて答えた。聖さんはそのままつかつか歩いていくと、往人さんのまん前までやってきて、もう一度言った。

「奥の納屋に竹がある。綺麗に洗ってきてくれ」

「竹なんか一体何に使うんだ?」

「決まっているだろう。お昼に使うんだ」

「……分かった」

大見得を切って言い張る聖さんに気圧されたのか、往人さんはしばらく瞳をぱちくりさせていたけれども、やがて諦めたように診療所を出て、納屋にあるらしい竹を洗いに行った。

「……さて、佳乃。私は素麺をゆでるから、佳乃は薬味を準備してくれ」

「了承だよぉ! みさき先輩、今から準備するから、そこで待っててねぇ」

「うん。楽しみに待ってるよ」

佳乃ちゃんに連れられてソファに腰掛けた川名さんの隣に僕も座り込んで、三人がお昼の支度を済ませるのを一緒に待った。

「お姉ちゃぁん、これみんな開けちゃうのぉ?」

「もちろんだ。佳乃は男の子だから、たくさん食べるだろう?」

「もっちろぉん! じゃあ、みーんな開けちゃうねぇ」

台所からは、佳乃ちゃんと聖さんの楽しそうな声が聞こえてくる。僕は二人の声に耳を傾けてみて、きっと佳乃ちゃんと聖さんは二人一緒ならどんなことでも楽しくできちゃうんだろう、ああ、やっぱり僕にも兄弟か姉妹がいたら良かったなぁ、なんてことを考えていた。

「楽しそうだね」

「ぴこぴこっ」

「うん。やっぱり、ポテトもそう思うかな」

「ぴっこり」

僕は川名さんの膝の上に乗って、一緒におしゃべりをした。川名さんの手が僕の頭の上に乗っかって、柔らかい感触がじんわりと伝わってくる。

「聖先生って優しいね。佳乃ちゃんがちょっぴり羨ましいよ」

「ぴこ?」

「ううん。こっちの話」

「ぴこー……」

川名さんにぎゅっと抱きしめられながら、僕は川名さんの言った「聖さんって優しいね」という言葉の意味が、ちょっとだけ気になっていた。川名さんは聖さんの何を見て「優しい」って言ったのだろう? 何か理由があるから、川名さんは「優しい」と言ったのは間違いない。けれども、僕にはその理由がどうしても分からなかった。

「……………………」

「……………………」

僕を見ているのか、それともまた何か別のものを見ているのかはっきりしない瞳で、川名さんが僕に目を向けていた。

 

「お姉ちゃん、どんどん流しちゃってねぇ」

「ああ。言われなくてもどんどん行くぞ」

その後、竹の組み立てとか素麺の準備とかをみんな済ませて、佳乃ちゃんたちは流しそうめんを始めた。素麺を流すのは聖さんの役割で、最上流に佳乃ちゃん、次に川名さん、それから最下流に往人さんが座っている。

「……いや、待ってくれ……」

と、往人さんが立ち上がって、つかつかと佳乃ちゃんのところまで歩いていった。

「佳乃。一つ聞かせてくれないか?」

「いいよぉ。何かなぁ?」

「お前は流しそうめんを家の中でやるのか?」

……ああ、言い忘れてたけど、僕らがいるのは外じゃなくて、霧島診療所の中だ。台所を貫くような形で竹が五本接がれ、その上を水道からダイレクトに注がれる水が走っている。水道水とは言っても聖さんはきっちり浄水器を取り付けているから、そのまま飲んでも全然問題ない安心仕様だ……って、そういう問題じゃないような気がするんだけど。

「もちろんだよぉ。外だとあっついからねぇ」

「わざわざそのためにテーブルまでどけたのか……?」

「決まっているだろう。君はテーブルをどけずにこれだけ大掛かりな仕掛けができるとでも思っていたのか」

「そもそも、こんなことをするとはまったく思ってなかったんだがな」

往人さんは呆れたようにため息を一つついて、おとなしく椅子へと腰掛けた。

「私、真ん中でいいのかな?」

「ああ。悪いが、最上流は佳乃の特等席なんだ。真ん中で食べてくれ」

「うん。真ん中なら十分だよ」

川名さんは早くもお箸を右手に、お椀を左手に携えて、上流から素麺が流れてくるのを今か今かと待ち構えている。

僕は往人さんの隣に座って、その様子を見ていることにした。

「最下流か……ま、あの二人で食べきれるとは到底思えんな。取り逃がしたのをきっちりいただいてやるとするか」

お箸をかちゃかちゃ言わせながら、往人さんはにやりと不敵な笑みを浮かべて見せた。僕も、佳乃ちゃんと川名さんの二人で、流した素麺をみんな食べちゃうことなんてできないと思っていたから、なんだかんだで得をするのは往人さんだとばかり思っていた。

「よし。では第一陣、行くぞ!」

聖さんが元気よく声を上げて、一番てっぺんから素麺の塊を流し始めた。流しそうめんの開幕だ。

「まずはぼくからぁ!」

流れてきた素麺にタイミングよくお箸を突っ込んで、佳乃ちゃんがまず素麺を取った。ずいぶん多めに掴んではいるけれど、まだまだたくさん流れている。

「この分なら余裕だな」

「ぴこっ」

往人さんの笑みが、確信に満ちたものへと変わった。川名さんのところを経由しても、多分まだ半分以上残るだろう。結果的に一番たくさん食べられるのは、自分だ……往人さんの笑みは、まるでこう言っているかのように見えた。

「先輩っ! そろそろ流れてくるよぉ!」

「……うん。音が変わったね」

川名さんは力を抜いた構えで、水の流れる竹を見つめている。お箸とお椀はしっかり持っていて、準備万端といった感じだ。

「……………………」

「……………………」

往人さんと川名さんが、二人揃って素麺を見つめる。

……そして。

(しゅっ)

風を切るような音が聞こえて、竹の上に張られた水の表面が微かに揺れた。波紋の中心点からはしばらく小さな波紋が連続的に発生していたけれども、しばらくすると、それも跡形も無く消えてしまった。

……その後に残されたのは……

「……こ、これは……?!」

「ぴ、ぴこ……?!」

……ただ、勢いよく流れる、冷たい水だけだった。素麺は欠片も残さず、流れからその姿を消してしまっていた。本当に、跡形もなく。完全に消えてしまっていた。

「冷たくておいしいね。ほっぺたがひんやりするよ」

「おいしいねぇ」

「ふふふ。二人とも満足そうで何よりだ。さぁ、次の分を流すぞ」

「ちょ、聖っ! 俺のがないぞ!」

往人さんの抗議は捨て置かれたまま、聖さんはうれしそうに素麺をもっさりつかみ取ると、それを最上流からさらさらと竹の中へと流していった。

「今度もぼくからぁ!」

佳乃ちゃんが素麺をすくう。佳乃ちゃんはそんなにたくさんは掴んでいない。全体の二十パーセントくらいだ。

「今度は私かな」

「……おのれ、今度こそ……」

川名さんと往人さんが同時に構える。二人の目は真剣そのものだ。特に往人さんはすごい。まさに「鬼気迫る」という言葉がぴったりの、ものすごい表情だ。ちなみに、それでも女の子だということを付け加えておく。

川名さんの前を、素麺が流れてきた……その時。

(しゃっ)

空を切るような音が聞こえて、竹の上の流れが一瞬乱れた。まるで水が戸惑ったかのように刹那の間動きを止め、その後何事も無かったかのように流れ出す。そして、そこにはやはり……

「……!!!」

「ぴこ……!」

……水の流れの中には、もはや何一つとして残されていなかった。

この光景が意味することは、つまり……

「あ、あのみさきって女の子……回収率百パーセントじゃねぇか……!」

「……ぴこぴっこ」

川名さんは佳乃ちゃんが大量に取り損ねた素麺をたった一度の入水できっちりすべて回収し、その後続には欠片も残さないという恐るべきそうめん回収率を誇っているということだった。

「お姉ちゃぁん。次行っちゃってよぉ」

「待て待て。すぐに流してやる。めんつゆは大丈夫か?」

「先生、ちょっとつゆが薄くなっちゃったから、注ぎ足してくれないかな?」

「ああ。すぐに行く」

「聖ぃ! 佳乃ぉ! これ何かの嫌がらせだろぉ!」

往人さんの絶叫も虚しく、流しそうめんは続けられた……

 

「どうだ佳乃。流しそうめんは最高か?」

「最高だよぉ! やっぱり素麺は流しそうめんが一番だねぇ」

「佳乃ちゃんの言うとおりだね。百点満点の涼しさだよ」

聖さんと佳乃ちゃんと川名さんは、和気藹々とおしゃべりをしながら、とても楽しそうに素麺を食べている。特に、川名さんは満足そうだ。

「……………………」

一方往人さんはと言うと、なんというか、今にも死んじゃいそうな目つきでぐでんとしながら、ただひたすら何かの間違いで素麺がこちらへ流れてくるのを待ち続けている。これまでに聖さんは十回ほど素麺を流したけれど、往人さんはまだただの一本も食べていない。

「さて、また次を……おや?」

「どうしたのぉ?」

「弾切れだ。悪いが、これから追加をゆでてくる」

「それならぼくもお手伝いするよぉ」

どうやら流すそうめんが無くなったみたいだ。聖さんと佳乃ちゃんが連れ立って席を立って、台所へと入っていった。

「まだ追加があるみたいだね」

「……………………」

後に残されたのは、往人さんと川名さんの二人だけ。

「うーん……やっぱり素麺はおいしいね」

川名さんはめんつゆにたっぷり浸けられた素麺を啜りながら、幸せそうな表情を浮かべていたのだけれど、

「……あっ」

ふとした拍子に手が滑って、川名さんの手からお箸が転げ落ちた。からんからんと乾いた音が床に響いて、お箸がころころと転がっていくのが見えた。

「いけないいけない。落としちゃったよ」

川名さんは椅子を後ろへ引いて、床へ落ちたお箸を探し始めた。床に這い蹲るようにして、あちこちへ手を伸ばす。

「……………………」

「……………………」

僕と往人さんはしばらく椅子の上でその様子を見ていたのだけれど、僕は川名さんがお箸を探すのを見ているうちに、ちょっと奇妙な光景に出くわした。

「どこかな……?」

川名さんは懸命にお箸を探しているのだけれど、お箸はそんなに遠くには転がっていなくて、手を伸ばせばぎりぎり届くくらいのところに落ちている。

「……………………」

「あれれ……?」

けれども、川名さんはさっきからまるで見当違いのところばかり探していて、お箸には手も触れられずにいる。ただまっすぐ手を伸ばせば届くところに落ちているのに、川名さんにはまるで、目の前のお箸が見えていないかのようだった。

「……そういうことか」

すると、往人さんが一言つぶやいて、椅子を後ろへ引いて立ち上がった。そしてそのまましゃがみこむと、

「うーん……」

「箸だ。もう落とすなよ」

「えっ?」

床にいた川名さんに、落ちていたお箸を拾って手渡した。川名さんはいきなりお箸を手渡されて、しばらくびっくりした顔を浮かべていたけれども、往人さんが拾って自分に手渡してくれたことに気付くと、それをしっかりと握り締めて立ち上がった。

「ありがとう。助かったよ」

「それはいいんだが、よくそれで素麺を完璧に掴めたもんだな」

「うん。何となくね、分かるんだよ。流れてくる時の音とか、微妙な空気の変化とかでね」

「……そうか」

往人さんは納得したような表情を浮かべると、再び椅子へと腰掛けた。

「……………………」

「……そう言えば、往人ちゃん、私の下流だったんだよね」

「そうだ」

「……………………」

「……………………」

「……ちょっとだけ、手加減してみるね」

「ちょっとじゃなくて全力で手加減してくれ」

お互いに少し笑って、往人さんと川名さんがお互いを見やった。

……それからの流しそうめんは……

 

「ごめんね。やっぱりおいしいものには手が出ちゃうんだよ」

「お前……回収率が百パーセントから九十五パーセントに落ちただけじゃねぇかぁぁぁぁっ!」

「回収率? 何の事だ?」

「お姉ちゃん、往人君、どうかしちゃったのかなぁ」

……これだけで、一体どうなってしまったのか、きっとみんな分かると思うんだ。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。