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第六十話「Girl May Cry」

(キィィン!)

その時だった。

僕の眼前で、無数の火花が飛び散った。

「……………………」

「……………………」

僕と、僕に襲い掛かった人影の間に、月明かりに照らされて輝く銀の刃が割り込んでいた。

「……………………」

銀の刃は人影の手にしていた漆黒の鋏を受け止めて、まるで僕を守るようにしてそこに在った。銀の刃がかたかたと揺れて、その度毎に、二つの金属のこすれ合う音が空気を揺らす。

「……ぴ、ぴこ……」

僕は腰を抜かしてしまった状態で、呆けたように声を上げた。僕に何が起きて、そしてこれから何が起きようとしているのか、僕にはちっとも分からなかった。何も分からない暗闇に包まれたこの状況で唯一つ言える事は、僕は限りなく無力に近くて、僕の力ではこの事態をどうすることもできないということだけだった。

僕がそうやって、その場にしゃがみこんでいた時だった。

「……大丈夫?」

僕の横から、優しい声が聞こえてきた。それは抑揚の少ない穏やかな声で、子供をあやす時のような、何とも言えない安心感を感じさせる声色だった。

「……………………」

その途端、漆黒の鋏を手にした人影から、ぞっとするほどの殺気が発せられるのを感じ取った。僕を仕留められなかったこと、もしく僕を仕留めようとした時に邪魔をされたこと。あるいはそのどちらもが、鋏を手にした人影を怒らせているのだと、僕は直感的に感じ取った。

(……カチッ……カチカチッ……)

銀の刃と漆黒の鋏が触れ合い、不吉な金属音を断続的に奏でる。お互いの武器を持つ手に力がこもっているのが、傍から見ているだけの僕にさえ嫌というほどに伝わってくる。お互いがお互いに敵意を向け合っているのが、場の雰囲気だけで手に取るように分かる。

「……もう、やめた方がいい」

僕に声を掛けた銀の刃の持ち主の声が、静まり返っていた場にゆっくりと響く。

「……そのまま力を込めるなら、白銀の刃がステンレス製の鋏を切り裂く」

その声色は少しずつ、強い調子のものへと変わっていく。場の緊張の度合いが加速度的に増していくのが、全身の感覚に直接叩き込まれるように伝わってくる。

「……………………」

鋏を手にした人影はそれでもなお、一歩たりとも引こうとはしない。空気を揺らすカタカタ、カチカチという金属音が、次第次第に細かくなっていく。一触即発とはきっとこの事を言うのだろうと、僕は体で感じ取っていた。

……と、その時だった。

「……ポテトさん」

「……ぴこ?」

「……危ないから……ここを下がって」

「……………………」

「……後は……私が片付ける」

僕は銀の刃を持つ人の呼び方に、聞き覚えがあることを思い出した。何故あの人がここにいるのかは分からなかったけれども、間違いなく言える事は、今僕がここにいたら、あの人が満足に動くこともできないということだった。僕には僕なりの形で、あの人に協力する方法があるはずだ。

「……ぴこっ!」

全身から気合いをかき集めてきて勇気を奮い立たせると、僕は地面を蹴って駆け出した。後ろを振り返ることもせず、脇目を振ることもせず、僕はただ前を向いて、一心に走り続けた。

(キィン!)

僕の背中から一際高い金属音が響き渡ったころには、僕はもう、二人の姿を見ることさえできないところまで走っていた。

 

「……ぴ、ぴこぴこ……」

僕はどうにかあの場から逃げ果せて、乱れに乱れた呼吸を整えながら、僕の身に起きたことを必死に整理していた。整理できないとは分かっていても、何が起きたのかを考えずにはいられなかった。

「……………………」

僕は夜の路地裏で、鋏を持った人影に襲われた。まず最初に、これだけは疑う余地も無かった。地面に突き立てられた鋏は殺気に満ち満ちていて、僕以外の何者を狙ったものでもなかった。そして地面に投げつけられた鋏には、躊躇いも戸惑いも、欠片も感じられなかった。

僕は、殺されかけたのだ。

「……………………」

そこまで思い返して、僕はあの時どれほど危ない状況にいたのか思い知った。もしあの時あの人が割りこみを掛けてくれなかったら、僕は今頃どうなっていただろう。想像も付かないし、最初から想像なんてしたくない。想像の先に待ち構えているのは……悪夢以外の、何者でもなかったから。

けれども僕は今、とりあえずは安全な処にいる。鋏を持った人が追いかけてくることもないし、漆黒に包まれた街並みも、心なしか明るく見える。そう遠くない同じ場所にいるはずなのに、安心感は天と地ほどに違った。押し寄せる荒波に怯えていた僕の心が、少しずつ静けさを取り戻していく。

……すると。

「……?」

闇に包まれた商店街の表通りの先に、ぼんやりと光る何かが見えた。それはあの人影が垣間見せた鋭い光とはまったく違う、温かみのある優しい光に思えた。

「……………………」

その光に、僕はまるで吸い寄せられるようにして近づいていく。その先に何があるのか、確かめずにはいられなかった。ゆっくりゆっくり、僕は前へと進んでいく。

………………

…………

……

 

僕はそこでまたしても、現実離れした光景を見ることになった。

「……………………」

ぼんやりとした光の先にいたのは、昨日僕と佳乃ちゃんが散歩をしているときに見かけた、あの小さな女の子だった。

「……………………」

女の子は光の中に一人佇んでいて、どことなく悲しげな表情で、その場に立ち尽くす僕のことをじーっと見つめていた。僕は自然と、女の子に向かって歩いていく。

「……………………」

僕と女の子はしばらくの間黙ったまま、お互いの目を見つめあう。どちらも口を開こうとはしないけど、少なくとも、女の子は僕のことを怖がったりしていないし、僕も女の子のことを怖いとは思わなかった。敵意の無い二つの視線が、何故だかぼんやりと光るこの場所で交錯する。

僕はそっと目線を動かして、改めて女の子の事を見てみることにした。

女の子は茜色の髪を流して、白いワンピースを身に纏っていた。風に流した茜色の髪には右側にだけ黄色いリボンが巻かれていて、どこかおぼつかない、不安定な印象を僕に与えた。昨日古河さんが拾ったといっていたリボンは、やっぱりこの女の子のリボンだったのだろうか。

僕がそんな事を考えていると、不意に女の子の口が開いた。

「……ねえ」

「……ぴこ?」

「なにか、こわいことがあった?」

女の子の、静かでどことなく悲しさを帯びた優しい口調に、僕は無意識のうちに頷いていた。事実として、僕はさっき怖い目にあったし、間違っているわけじゃない。

僕が頷くのを見て、女の子も頷く。そして少し身を屈め、短い手をゆっくりと伸ばす。僕はまた吸い寄せられるかのように、女の子の手の中に納まる。僕が手の中に来るのを確認すると、女の子は静かに僕を抱き上げた。

「ぴこ……」

僕の顔と女の子の顔が、もうちょっと頑張ればぶつかりそうになるくらい近づく。僕はただ、僕が置かれているこの状況に身を任せておくことにした。

「こわいことがあったの?」

「……ぴこぴこ」

「……そう」

「……………………」

頷く僕に、女の子がため息交じりで返す。その表情からは捉えようの無い悲しみが滲み出ていて、僕はどうすればいいのか分からなくなった。ただ、何か悲しいものが否応にもこみ上げてきて、胸の中がいっぱいになるようだった。

「……でも、もうだいじょうぶだよ」

「ぴこ」

「ここならね、こわいひとはこないから」

「……………………」

「こわい……ひとは、ここにはこないから」

女の子が僕をぎゅっと抱きしめて、頬と頬が触れ合った。女の子の温かさが直に伝わってきて、鼓動が高鳴るのが分かった。

「ふわふわしてるね」

「ぴっこり」

「もこもこしてるね」

「ぴこぴこ」

この女の子にも同じことを言われた。やっぱり僕を抱きしめた人はみんな、こんな感想を持つのかなあ。僕みたいにふわふわでもこもこの毛をした犬は、そんなにたくさんはいないのかなあ。女の子の言葉を聞きながら、僕はそんなことを考えていた。

「……………………」

「……………………」

それからはしばらく黙ったまま、僕は女の子の腕の中にいた。

 

「……ねぇ」

「……ぴこ?」

どれくらい時間が経っただろう。僕が女の子の腕の中で少しうとうとし始めた時、女の子が僕に声を掛けてきた。僕は半分くらい眠ったままの目で、女の子の目を見つめる。

「……わたしのはなし、きいてくれる?」

「ぴこ……」

女の子は何か話があるみたいだ。僕は意識を何とか集中させて、女の子の話に耳を傾ける。

「……あのね……」

「……………………」

 

「……おんなのこがひとり、ないてるの」

 

女の子の口調は、さっき僕とおしゃべりをしていたときよりもさらに悲しげで、僕の心に直接訴えかけてくるような、言いようも無い切実さがあった。

「……………………」

「……ずっとひとりぼっちで、さみしいおもいをして……」

「……………………」

「……でもだれも、それにきづいてあげられなくて……」

「……………………」

「……いまもずっと、ひとりぼっち……」

女の子の話を聞きながら、僕はだんだん意識が空へと昇っていくような、不思議な感覚にとらわれた。

 

一人ぼっちの女の子?

誰もそれに気付いてない?

今もずっと……一人ぼっち?

「……………………」

女の子は僕に何を伝えようとしているのだろう?

僕は女の子の言葉から、何を読み取ればいいんだろう?

僕には何一つとして、分かることではなかった。

 

「あのね……」

「……………………」

女の子の声が、だんだんと遠のいていく。僕の体から少しずつ、感覚が失われていく。

「……もうすぐだから……」

「……………………?」

「……もうすぐ、はじまるから……」

何が始まるんだろう?

何が……起きるんだろう?

「……おんなのこが、たいせつなひとにであうまで……」

「……………………」

「……たいせつな……ずっとさがしてた、たいせつなひとにであうまで……」

「……………………」

 

「もうすぐだから……」

 

もうすぐ……

もうすぐ……

もうすぐ……

女の子の言葉を、頭の中で何度も何度も繰り返しながら……

 

……僕の意識は、そこで途切れた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。