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第五十九話「FREAKS CHANNEL」

「……………………」

足音を立てないように一段一段、ゆっくりと階段を下りていく。僕の体は軽いから、音を立てずに降りることができた。階段を一つ一つ下りていくたび、僕を包む夜闇が深く沈んだものに変わっていくような気がした。

「……ぴこっ」

最後は三段飛ばしで階段を降りてしまうと、僕は一呼吸置いてから、辺りに人の気配がないか探ってみた。佳乃ちゃんがいるなら、物音や気配でそれを感じ取ることができるはずだ。

いつもの数倍は感覚と神経を研ぎ澄ませて、僕は前へと進んでいく。

「……………………」

静かに歩を進めていくと、診療所の待合室に出た。辺りを見回してみても、誰かが立っている様子は見受けられない。ここには佳乃ちゃんはいない。直感的に、僕はそう思った。

「……………………」

待合室のソファの上に、往人さんが横になっているのが見えた。静かに眠り込んでいるから、佳乃ちゃんが下へ降りてきたことにも気づかなかったんだろう。僕も往人さんを起こしちゃわないように、そっと横をすり抜けた。

……すると。

「……ぴこ?」

往人さんの横をすり抜けてみて、僕はあることに気づいた。

「……………………」

聖さんがきちんと鍵をかけてしっかりと閉めたはずの診療所のドアが、静かに揺れて開いているのが見えた。かけたはずの鍵は開けられていて、誰でもいつでも自由に出入りできるような状態になっていた。

一体誰が、診療所のドアを開けたのだろう?

聖さんは眠っているはずだ。診察室の明かりは消えているし、まだ起きているとは考えにくい。往人さんも同じだ。待合室のソファの上でぐっすり眠り込んでいるのに、そこからこのドアの鍵を開けられるはずがない。気配を研ぎ澄ませてみても、診療所に誰かが入った様子は全くない。だから、泥棒か誰かが勝手に入ったとも思えない。

じゃあ、誰が診療所のドアを開けられる?

このドアが開けられたのは、誰かが中に入るため? それとも、誰かが外へ出て行くため?

「……………………」

僕はそこまで考えて、ほんの少しだけ開いていたドアに前足を差し込んだ。

 

「……………………」

夜の帳が降りきった商店街。時折遠くから聞こえてくる虫の鳴く声だけが、僕の耳を時折揺らす。

僕は昼間の熱気がまだ残る道路を歩きながら、佳乃ちゃんの姿を探した。きっと夜に目が覚めて眠れなくなっちゃって、気を紛らわせるために黙って散歩に出かけた。佳乃ちゃんは散歩が大好きだから、きっとそうに違いないと僕は考えた。

お昼の穏やかな雰囲気に包まれた商店街とはうってかわって、夜の商店街はまるでそこだけ切り取られて真っ黒な絵の具で塗りつぶされてしまったような、言いしれぬ暗さと深さに覆われているように感じられた。夜空に瞬く無数の星の光も、この漆黒の地までは届かない気がした。

正確な時間は分からないけれど、この夜闇の深さから考えても、夜明けまではまだかなり時間があるように思えた。恐らく世間一般でいうところの「深夜」の商店街に、僕はいるのだろう。夜の世界をまともに知らない僕には、何もかもが未知の領域だった。

時間が時間だけに、人通りはほとんどどころかまったくない。商店街を照らす街灯がぽつぽつと見えるほかは、ろくな光源すら見あたらないくらいだ。こんな時間に外を出歩く人の方が少ないから、当然といえば当然のことなのかも知れないけれど。

時折海の方から吹いてくる潮風だけは、お昼や夕方の時とまったく変わらなかった。長い距離を流れてすっかり弱くなった潮風を感じるたび、この闇に包まれた世界の中でも、時間だけはきちんと流れていることを実感する。

佳乃ちゃんがこの道を歩いていったことは間違いない。僕は佳乃ちゃんのにおいを頼りに、佳乃ちゃんが辿っただろう道のりを歩いているからだ。開いていたドアを見つけた時点で、佳乃ちゃんが外に出たことは間違いないと、僕は考えていた。

「……………………」

そうやって歩き続けて、どれくらい経っただろうか。

(ざっ)

僕からそう遠くない場所で、何かが砂を踏みしめるような音が聞こえてきた。僕はすぐに立ち止まって、その音がどこから聞こえてきたのかを探る。小さな耳を精一杯広げて、わずかな音も落とさない心構えでその場に立つ。停滞していた生ぬるい夏の空気が、ほんの少し揺れた気がした。

「……ぴこっ」

音は路地裏から聞こえてきたみたいだと、僕の中の僕が告げた。何かが砂を踏みしめるような音。その音が一体何を意味しているのかは、僕にも分かった。静かに砂を踏みしめて音を出すことができるのは、車でも自転車でもない。ただ一つ、人間の足だけだ。僕は意を決し、表通りを左に曲がって路地裏に入った。

路地裏は表通り以上の暗さで、まさに漆黒の闇と言うに相応しい空間が広がっていた。僕はいつも以上に神経が過敏になるのをひしひしと感じながら、一歩一歩確かめるようにして、前へ前へと進んでいく。時折夜空に瞬く星を見上げて、僕は僕のよく知っている世界にいるんだということを心の支えにしながら。

……すると。

 

「……………………」

 

路地裏の先に、ゆらり、と一つの人影が姿を見せた。

僕は暗闇の中で必死に目を凝らして、その人影が僕の探している人の影なのかどうかを確認しようとする。けれども、全身に夜の闇を纏わせたそれは、僕の目では誰かをはっきりと突き止めることはできそうになかった。僕から見ると、それはまるでシルエットだけがそこにあって、本体はここには無いようにさえ見えた。

それでも、僕は諦めずに目を凝らす。

「……………………」

すると、夜の闇に紛れたその人影が、くるりと振り向いたような気がした。元々はどちらを向いていて、今はどっちを向いているのかは分からない。僕のほうを向いているのかもしれないし、向こうに振り向いたのかも知れない。どちらにせよ、目の前にいる人影が誰なのかを知りたければ、もっとあの人影に近づくしかないみたいだ。

僕がそう考えて、一歩前に踏み出した時だった。

(きらり)

黒一色にすら見えたその人影が一瞬、眩いばかりの光を放った。それはほんの一瞬光っただけだけれども、夜空の星や商店街の街灯とは明らかに違う、鋭い光だった。触れた者、あるいは触れた物すべてを刺し貫くような、眩く眩しい、刹那の光。

「……………………」

そう。

体を突き刺すような、眩い光。

すべてを貫くような、強い光。

夜闇の中に光を携えて、人影は立っていた。

……そして。

「……………………」

路地の奥で佇んでいた人影がぐらりと動いて、少しずつその大きさを増していく。少しずつ少しずつ、けれども確実に確実に、それは大きくなっていく。じゃりっ、じゃりっ、と砂を踏みしめる音が徐々に徐々に大きくなっていくのを、僕の耳は敏感に感じ取っていた。

「……………………」

僕はそれでも目を凝らす。僕の網膜に焼き付いた光の正体を、僕は知りたかった。その人影が手にしていた光が何なのか、僕は確かめたくて仕方が無かった。もっと正確に言うのなら、確かめなければならなかった。確かめなければならないと、僕は考えていた。だから僕は、ひたすらに前を見続けた。

少しずつ大きくなってくる人影に、僕の目が釘付けになる。人影が纏っていた漆黒の闇がほんの少しだけ剥がれ落ちて、その姿を僅かに微かに静かに、僕の目に晒した。

「……………………!」

僕は、僕の目を疑った。僕の目に飛び込んでくる情報が、偽りの虚像であると思いたかった。実像はそこにはない、もっと別の場所にあるんだと、僕は思い込みたかった。

僕の目が、僕の頭にしきりに伝える情報は。

 

きらりと光る鉄の鋏を握り締めて立っている、背の高い人がいる。

 

「……!」

そこまで確認すると、僕は全身を寒気が襲うのを感じた。体が冷たくなって、意識が遠くへ飛んじゃいそうになる。足がかたかたと揺れて震えて、僕の体を覆っていたはずの夏の暑気がいっぺんに霧散していくのが、目に見えるほどによく分かった。その代わりに、僕の体を冷たさが包み込んでいく。

「…………!」

脱兎の如くというのは、この時のようなことを指すのだろう。僕は自分でも信じられないくらいの加速をつけて、一気にその場から逃げようとした。

危ない、危ない、逃げろ、逃げろ。僕の中の僕が、何度も何度も僕に告げる。その声に衝き動かされるままに、僕は足を動かす。僕の頭の中で、おぞましくて恐ろしい光景が、繰り返し繰り返し繰り広げられた。真っ赤な世界の中でもがく僕の姿が不意に脳裏を掠めて、気が狂いそうになった。

僕はその恐ろしい想像をただの恐ろしい想像にしてしまうために、無我夢中で走った。走ってしまえば、僕の想像はただの想像に過ぎなくなると、僕は思っていた。

……けれども。

 

僕の見た現実は

(ふらり)

僕の前に横たわる現実は

(ゆらり)

僕の想像なんかよりも

(ぐらり)

ずっと

(ひらり)

ずっとずっと

(ぐおん)

ずっとずっとずっとずっとずっとずっと

(ひゅんっ)

恐ろしくて――

 

(がぎんっ)

 

――氷のように 冷たいモノだった

 

「……! ……! ……!」

僕は再び、僕の見た光景を疑うことを躊躇わなかった。それほどまでに、僕の目の前で展開している光景は、僕が直接信じるのにはあまりにも酷なものに思えた。僕は僕の目が狂っていてくれれば、どれほど気が休まるだろうと思った。

僕の、目の前には。

 

鉄の鋏が半分以上、深々と道路に突き刺さっていた。

 

僕はその光景をまじまじと見せ付けられながら、真っ白になった頭を抱え込んで震えていた。後ろから近づいてくる人影に、ただ怯えていた。

「……………………」

人影が僕の後ろに立つ。かたかた震える僕の頭越しに手を伸ばすと、

(ずあっ)

地面に突き刺さっていた鋏を、指二本で軽々と引き抜くのが見えた。定まらない視線で地面に目をやると、そこには紛れも無く今空いたばかりの細い穴が、しっかりと見えていた。鋏は間違いなく、道路に突き刺さったのだ。どうやっても動かしようの無い、圧倒的なまでの事実だった。

(ふらり)

僕の後ろの影が蠢く。僕は身を固くして動くことも出来ずに、ただその場で、その瞬間が訪れるのを待つしかなかった。

(ゆらり)

僕の後ろの影が動く。その手に光る刃を携えて、ゆっくりと腕を空へと掲げる。

(ぐらり)

僕の後ろの影が傾く。静かに静かに、けれども確実に確実に、僕に狙いを定めている。

……そして。

 

(ぐおんっ)

 

動くこともできない僕に、無慈悲な刃が振り下ろされた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。