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第八十六話「Sadness and Sorrow」

「外で食べるお弁当はおいしいねぇ」

「そうですよねーっ。やっぱり、お弁当は外が一番です」

「……(ぱくぱく)」

麦畑の片隅に、ぽっかりと開いた小さな隙間。佳乃ちゃんたちはそこに(佐祐理さんが持参した)シートを敷いて、佐祐理さんお手製の弁当を食べていた。場所が場所だけに、僕たち以外に人影はない。三人だけの空間が、そこに形成されていた。

「こうやって食べるのは久しぶりだよぉ」

「ここに来るのも、久しぶりのことですからねー」

「……(もぐもぐ)」

佳乃ちゃんと佐祐理さんは、食べているときでもおしゃべりをやめない。それは見ていてとても楽しそうだったけれど、僕には一つ気がかりなことがあった。

「でも、いつ来てもいい場所だよねぇ」

「ですよねー。霧島さんと舞と佐祐理が出会った場所ですし」

「……(むぐむぐ)」

「そうだよねぇ。大切な思い出の場所だよぉ。思い出は人生の宝物だからねぇ」

「はいっ。思い出はいつまでも大切にしたいですよね」

「……(はぐはぐ)」

「今度は一弥君も一緒に来れるといいねぇ」

「もちろんです。一緒にお弁当を作って持ってきますから、楽しみにしててくださいねー」

「……(はむはむ)」

「……あれれぇ? 知らない間にお弁当が減っちゃってるよぉ?」

「はぇー……どうしてでしょうねー? 舞ー、他に誰か来たのー?」

「……(ふるふる)」

舞さんはふるふると首を振りながら、今度は厚焼き卵にお箸をのばした。ちなみにお弁当が減った原因は言うまでもなく、さっきから無言で食べることに集中しているあの人だ。僕はその人の足の上に陣取っているから、どんなことをしているかはすぐに分かる。

「……(もしゃもしゃもしゃもしゃ)」

掴んだ厚焼き卵をどんどん口の中へと押し込んで、手際よく咀嚼していく舞さん。けれどもその表情には心なしか、不満の色が現れているように見えた。それに気づいたのは僕だけでは無いようで、

「ふぇ……舞、ちょっと怒ってる?」

隣に座っていた佐祐理さんが、おもむろに舞さんの顔を覗き込んだ。舞さんは佐祐理さんの顔をじとーっと見つめてから、静かに口を開いた。

「……楽しそう……」

「えっ?」

「……二人だけで、楽しそうだったから……」

「あははーっ。舞ったら、やきもち妬いてたんだねー」

「……………………」

佐祐理さんは朗らかな笑みを浮かべると、舞さんの隣に身を寄せた。二人がぴったりとくっついて、揃って佳乃ちゃんの方へと目をやる形になる。佳乃ちゃんはおむすびをはぐはぐと食べながら、二人の様子を楽しげに見守っていた。

「じゃあ、佐祐理が舞にお弁当を食べさせてあげるよー」

「……………………」

お箸をのばして、弁当箱の右隅に配置されていたたこさんウィンナーを掴む。そのままつつつと流れるようにお箸を動かし、佐祐理さんが舞さんの口の前まで、真っ赤なたこさんウィンナーを持ってきてみせた。舞さんの目がきらきらと輝き始める。どうやら、よっぽどの好物みたいだ。

「はいっ。それじゃー舞、あーん、して」

「……(あーん)」

佐祐理さんが舞さんの口を「あーん」と開けさせて、ゆっくりとたこさんウィンナーを運んでいく。佐祐理さんの焦らすような緩慢な動作にも、舞さんは律儀に口を開けたまま待っている。

「あー……」

「……………………」

そして、お箸の先っぽが舞さんの口にひたり、と触れたとき。

「……んっ!」

「……?!」

佐祐理さんはお箸を引っ込めて、自分でたこさんウィンナーを食べてしまった。満面の笑みで舞さんを見やりながら、真夏の太陽のような爛々とした笑みでウィンナーを咀嚼する。

「あははーっ。やっぱりたこさんウィンナーはおいしいですねーっ」

「……………………」

口をあんぐり開けたまま呆然とする舞さんと、いかにもうれしそうな佐祐理さんの表情との明確なコントラストが、僕にはとても可笑しかった。

「~~~~~っ!」

目の前でたこさんウィンナーを食べられてしまった舞さんが、佐祐理さんの体をぽかぽかと叩きはじめた。よっぽど悔しかったのか、その目はきゅっと閉じられている。

「わ、ごめんごめんっ。今度はちゃんとあげるから、ね?」

「……佐祐理、ひどい」

「あははっ。二人とも仲良しさんだねぇ。新婚ほやほやの夫婦みたいだよぉ」

「……………………」

舞さんは口をへの字に曲げて、不満な気持ちをはっきりと表して見せた。

麦畑の昼食会は、穏やかに和やかに、そして賑やかに過ぎていく――

 

「ごちそうさまでしたぁ」

「はい。今日も綺麗に食べてくれて、本当にありがとうございましたー」

「……ごちそうさま」

三人はすっかりお弁当を片づけてしまうと、一息ついてから帰る支度を始めた。佐祐理さんが食器を片づけて、佳乃ちゃんがシートをくるくると丸める。舞さんは僕を抱いて、二人が片づけを終えるのを待っている。

「舞ちゃん、ポテトのことがよっぽど気に入ったみたいだねぇ」

「……(こくこく)」

「ポテトはどうかなぁ? 舞ちゃんのこと、気に入ってるのかなぁ?」

「ぴっこり」

「うんうん。よかったねぇ。ポテトも舞ちゃんのこと、すっごく気に入ってるみたいだよぉ」

「……(ひしっ)」

佳乃ちゃんに言われて、舞さんは照れ隠しのつもりなのか、僕のことをぎゅっと抱きしめて、顔をほんの少し僕の体にうずめた。抱きしめている腕の力が伝わってきて、何ともいえない安心感でいっぱいになった。体をそのまま預けてしまいそうな、毛布のように優しい感触と感覚だった。

「それじゃあ、そろそろ帰りましょうかー」

「そうだねぇ。それじゃ、で……」

「……でっぱつ、しんこうー……」

「あーっ! それ、ぼくの台詞なのにぃ……」

「……………………」

舞さんは佳乃ちゃんの台詞を先に言うと、口元にほんの少しだけ笑みを浮かべて、しゃきしゃきと歩き出した。佳乃ちゃんと佐祐理さんがその後ろについて、麦畑の狭い道を縦に並んで歩いていく。

「今度はものみの丘の近くにある向日葵畑に行ってみよっかぁ」

「いいですねーっ。今はちょうど見頃だと思いますし」

「……(こくこく)」

そんなところに向日葵畑があったなんて、僕は初めて聞いた。今度僕も行ってみる事にしよう。

「……………………」

僕がそんなことを考えている間も、佳乃ちゃんたちのおしゃべりが止まることはない。ふと気が逸れてしまっているうちに、一体何のことを話しているのか分からなくなっちゃった。

「はぇー……あの向日葵畑で、そんなことがあったんですかー。初耳です」

「そうなんだよぉ。もうちょっと遅れてちゃってたら、大変なことになっちゃってたねぇ」

「……熱射病も日射病も、初期の処置が肝心」

「うんうん。舞ちゃんの言うとおりだよぉ。二人も気をつけてねぇ」

「あははーっ。大丈夫ですよー」

「……私は、大丈夫」

佳乃ちゃんたちが織りなす楽しげな話し声は紛れも無く、三人の固い絆を表していた。僕がそこへ入り込むには……まだもう少し、時間が必要みたいだ。

「……………………」

それにしても、広い麦畑だなぁ。こんなに広い場所を遊ばせておくなんて、普通じゃ考えられない。ひょっとすると、この町は僕が思っているよりも、案外広くて余裕のある場所なのかもしれない。

……誰かにここを潰して何かを作るって言われたら、僕は――それが例え無意味と分かっていても――全力で反対するだろうけども……

 

「霧島さん。また今度、必ず会いましょうね」

「もちろんだよぉ。必ずだからねぇ」

「……できれば、ポテトさんも一緒に……」

「あははっ。ちゃんと連れてきてあげるから、心配しなくても大丈夫だよぉ」

分かれ道までやってきて、佳乃ちゃんは二人とお別れをした。舞さんは最後の最後まで、僕のことを名残惜しげに抱いていてくれた。また一緒になる機会があったら、きっとそのときも抱きしめてくれるだろう。今から、ちょっと楽しみだ。

「僕たちだけになっちゃったねぇ」

「ぴこぴこ」

「ポテトとゆっくりおしゃべりができるの、久しぶりだねぇ。ちょっと寄り道して帰ろっかぁ」

「ぴっこり」

軽快に歩く佳乃ちゃんの隣に寄り添って、僕は日差しの照りつける夏の道をゆく。佳乃ちゃんの言うとおり、僕と佳乃ちゃんがこんな風に二人きりになるのは久しぶりのことだと思った。いつもは僕と佳乃ちゃん以外に誰かがいて、佳乃ちゃんはその人とお喋りをしている。それは往人さんだったり、観鈴ちゃんだったり、遠野さんだったり、舞さんと佐祐理さんだったりするけれど……誰が一緒でも、佳乃ちゃんはいつも楽しそうだった。

「みんな元気そうで良かったよぉ」

「ぴっこぴこ」

「でも、舞ちゃんと佐祐理ちゃんも入っちゃうなんてねぇ。驚き桃の木伝説の樹だよぉ」

「ぴこー」

「ポテトも人間だったら、ぼく達と一緒に演劇ができたのかなぁ? もしそうだったら、一緒にやってみたいかなぁ?」

「ぴこぴこっ」

佳乃ちゃんに問われて、僕は迷わず頷いた。それが現実になったらどれほどいいだろうかと考えて、僕の胸は躍った。あんなに楽しそうで、それでいて真面目に活動している部活動は滅多に無いだろう。所属している人みんなが一丸となって、演劇という一つの作品を作り上げていく。躍動的で感情を一杯に込めたその創作活動のすぐ側にいながら、僕はどうやってもそれに参加することが出来ない。とてももどかしいことだった。僕がそれに参加することが出来たなら、一体どれくらい素晴らしいことなのだろう。僕には想像も付かなかった。

「そっかぁ。そうだよねぇ。ポテトが入るって言ったら、きっとみんなも喜んでくれるよぉ」

「ぴこー……」

「もしぼくが魔法を使えたら、ポテトを人間にしてあげるのにねぇ」

「……………………」

ぽつりと呟いて、佳乃ちゃんが僕を抱きしめる。僕のふわふわの毛がぎゅっと縮こまって、小さくなっていくのが分かった。

「ポテトを人間にしてあげて……いっぱい、ポテトとおしゃべりができたらいいのにね……」

「……………………」

佳乃ちゃんが密やかな声で、ささやく様に言う。

……その時だった。

「……………………?」

僕を抱く、佳乃ちゃんの腕が……

 

……信じられないくらい、悲しいものだったことに気づいたのは。

 

どうしてだろう。

どうして、佳乃ちゃんは。

楽しそうな顔をしているというのに。

こんなに悲しい腕で、僕を抱くのだろう。

 

どうしてだろう。

どうして、僕は。

佳乃ちゃんに抱かれているというのに。

こんなに悲しい気持ちで、その中にいるのだろう。

 

分からなかった。

さっきまで、あんなに楽しそうに振舞っていたのに。

いや、振舞っていたんじゃない。

佳乃ちゃんは、本当に楽しそうだった。

たくさんの友達に囲まれた部室で、佳乃ちゃんは確かに楽しそうだった。

舞さんと佐祐理さんとで囲んだ昼食で、佳乃ちゃんは間違いなく楽しそうだった。

 

それなのに。

僕を抱く、佳乃ちゃんの腕は。

それを、きっぱり否定するかのように。

悲しかった。

ただ、悲しかった。

 

その悲しさがどこから来ているものなのか、僕には分からなかった。

佳乃ちゃんが何を悲しんでいるのか、僕には分からなかった。

唐突にあふれ出た悲しさの意味も理由も、僕には分からなかった。

 

「ねぇ、ポテト……」

「……ぴこ?」

囁く声に、僕は顔を上げる。

「ポテトのおねがい、一つも叶えてあげられないぼくだけど……」

「なんにもできない、どうしようもないぼくだけど……」

「誰も助けられない、足手まといのぼくだけど……」

「もう少し……ポテトの側に、いさせてくれるかなぁ……?」

その問いかけに、僕は。

「……ありがとぉ。ポテトは優しいんだねぇ」

「……………………」

沈黙したまま、小さく、けれども確かに頷いた。

 

……大切な人の腕から伝わるの悲しさの意味を、僕はどうしても、知らずにはいられなかったから……

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。