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第八十七話「Work the Dial」

「たっだいまーっ!」

「お帰り佳乃。久しぶりの部活はどうだった?」

「楽しかったよぉ。みんな元気そうでよかったよぉ」

あの後、佳乃ちゃんはいつもより少し時間のかかる道を選んで、診療所まで戻ってきた。一瞬僕に垣間見せたあの悲しい姿は、それっきり影も形も伺えなくなってしまった。僕は心にぽっかりと丸い穴ぼこが開いたような気持ちのまま、佳乃ちゃんと一緒に歩いて帰ってきた。

「お昼はまだ食べてないか?」

「うぅん。佐祐理ちゃんと一緒にお弁当を食べたんだぁ。ごめんねぇ」

「構わないぞ。友達と一緒に食事をするのは楽しいことだからな」

聖さんはにっこり笑って、佳乃ちゃんの姿をまじまじと見つめた。佳乃ちゃんはバンダナの巻かれた右手を口元に当てて、はにかんだように笑って見せた。どこからどう見ても、いつも通りの佳乃ちゃんだった。

「そういえば、往人君はどうしたのぉ?」

「国崎君か? 彼ならたった今出かけたところだ。一稼ぎしてくると言っていたから、しばらくは戻らないだろう」

「そっかぁ。それじゃあ、仕方ないねぇ」

納得したように頷いて、佳乃ちゃんがぱたぱたとバンダナの巻かれた右腕を上下に振った。混じりけのない綺麗な青色の髪から、珠のような汗がぽたり、とこぼれ落ちる。袖口でごしごしとそれを擦ると、佳乃ちゃんはまた聖さんのことを見つめた。

「ところで佳乃。これから少し手伝ってもらいたいことがあるんだ。頼まれてくれるか?」

「了承ぉ! それで、ぼくは何をすればいいのかなぁ?」

「月一のカルテの整理だ。一人だとどうしても手が足りなくてな。佳乃の力を借りたいんだ」

「任せてよぉ! ぼくがいれば千人力だよぉ。ばっちり終わらせちゃうからねぇ!」

大きく胸を張って、佳乃ちゃんが得意げに請け合った。聖さんから仕事を手伝ってほしいと言われたことがうれしかったのか、その表情は晴れ晴れとしている。聖さんも満足げに頷いて、佳乃ちゃんに診察室に来るよう促した。

「ふふふ……頼もしい限りだ。佳乃がいてくれれば、どんなにたくさん仕事があってもすぐに終わりそうだな。よし。それでは早速、作戦を開始するぞ」

「了解っ! それじゃあポテト、ぼくはちょっとお姉ちゃんのお手伝いをしてくるから、終わったら一緒に遊ぼうねぇ」

「ぴこぴこっ」

診察室に入っていく佳乃ちゃんを見送って、僕はしばらくその場で立っていたけれども、

「……ぴこ~……」

一人きりになると急に退屈になって、欠伸をして大きく体を伸ばした。そのままお昼寝しちゃってもよかったかもしれないけど、それだとなんだかちょっと損した気分になりそうだ。さて、どうしたものかな……

(……………………)

……今から行けば、まだ間に合うかもしれない。そうでなくても、とりあえず姿を探して辺りを歩いているだけでも、結構な暇つぶしにはなるだろう。

「ぴこっ」

僕は立ち上がって、開け放たれたままになっていた診療所のドアを潜った。

 

「ぴこぴこ~」

一人で歩く商店街。隣には誰もいない。僕一人だけで歩く、いつもの商店街。それはいつもと同じ風景のはずだけれども、僕の心は何故だかいつもよりも楽しげに躍っていて、目に見えるものがことごとく新しいものに映って見える。道行く人の会話も、いつもよりもはっきり聞き取れる。

例えば、こんな。

「いやー……九ページ目の時点でヤバいとは思ってたんだけどな」

「まさかあんなことになっちまうとはなぁ」

「やっぱりあれで終わりなのかなぁ……」

「シグネットの第三話があんな終わり方だったんだ。多分、アレで終わりじゃないか?」

「分からないぞ。案外、あの後とんでもないどんでん返しが待ってるかもしれない」

「まあ、鳥じゃなくて兄貴の方が死んでたのには不意を突かれたがな……」

制服姿の男の子が二人、僕の隣を通り過ぎていく。漫画の話だろうか? 二人とも熱っぽくしゃべっていた。僕は文字も読めるしその意味も分かるし、絵の意味もだいたい分かる。だから、読もうと思えば漫画は読めるはず。でも、生憎僕の手は何もつかめないから、ページをめくることができない。それがちょっと残念だった。

「ぴこぴこ」

僕はマイペースを貫いて、一人散歩を続けていく。今日はよく晴れていて、絶好の散歩日和だ。往人さんもきっと、たくさんのお客さんを集められるだろう。そうすれば、僕が往人さんを探すのも簡単になる。この町でそんなにたくさん人を集められるのは、往人さんくらいしかいないはずだ。

そんなことを考えながら、僕が歩いていたときのこと。

「おねーちゃんっ。絵の具選んでくれて、どうもありがとーっ」

「はいっ。お姉さん、喜んでくれるといいですね」

「うんっ。絶対よろこんでくれるよーっ」

聞き覚えのある声が、耳に入り込んできた。僕が隣に目をやってみると、そこには見覚えのある人が立っていた。そしてその傍らには、どこかで見た覚えのある小さな女の子。

「お姉ちゃんが絵を描いたら、しおりお姉ちゃんにも見せてあげるからねっ」

「はい。今から楽しみに待ってます。気をつけて帰ってくださいね」

「うんっ。ばいばーいっ!」

栞ちゃんは紙袋を抱えて走っていく女の子を見送ってから、僕の歩いてきた方角に向かって歩いていった。どうやら、僕の姿には気づかなかったようだ。しばらくその場に立ち止まり、歩いていく栞ちゃんの姿を見つめる。

「……………………」

その姿が見えなくなってから、僕はまた歩き出した。

 

「ぴこぴこっ」

往人さんの姿を探して、僕は一人道を歩いていく。商店街を抜け、いつも佳乃ちゃんと一緒に散歩をする川沿いの道に入る。いつもは途中の公園で引き返すけど、もしそれまでに往人さんが見つからなかったら、もっともっと先まで進んでみることにしよう。僕はそう決めて、脇を流れる川のせせらぎに束の間の涼を感じながら、ゆっくりと歩を進めていく。

「ねぇしおちゃん。しおちゃんって、最近ここに引っ越してきたの?」

「ううん。ずっと、ここに住んでる」

前から小さな女の子が二人、おしゃべりをしながら歩いてくる。のどかな風景だと思った。何の波風も無い、平坦で平凡で、平穏な日常。退屈だとごねる人もいるだろうけど、僕はそうは思わない。こんな何も無い日がずっと続いてくれればいい。僕が土に還る日まで、それが続いてくれれば一番いい。本当は誰だって、そう思っているはずだ。

「そうなんだ……でも、お祭りには行ったこと無いんだよね?」

「うん。行ってみたい」

「行ってみたいよね……じゃあ、私と行こっか」

「観雪ちゃんと?」

「そう。きっと、すっごく楽しいと思うよ」

「……うん。一緒に行きたい」

そう言えば、夏祭りがあることをすっかり忘れていた。確か、八月の終わりごろだったっけ。佳乃ちゃんも楽しみにしていたはずだ。今年もまた、たくさんの人が神社に詰め掛けるのだろう。あの神社がほんの一瞬垣間見せる、大輪の華のような賑わい。それは……そう。夏に大きな花を開かせる、向日葵のようだ。

「……………………」

そんなことを考えているうちに、僕はいつの間にか公園を通り過ぎ、あまり足を踏み入れたことのない場所へと差し掛かっていた。それほど見知った場所ではなかったけど、僕の足取りは軽い。来た道を元通り引き返せば、僕はいつもの道へ還れることを知っている。それに、この町はそんなに広い場所でもない。きっと僕の行く先も、僕の知っているどこかへと繋がっているのだろう。

「ぴこぴこ……」

照りつける太陽に体を晒しながら、僕は一人静かに歩いていった。

 

「ぴこー……」

歩き続けた先に、僕はこの散歩の一つの到着点とでも言うべき、僕の興味を大きくそそる場所を見つけた。そこで立ち止まり、静かにその佇まいを見つめる。お尻をつけて座り込んだ地面は太陽の光を一杯に浴びていて、一際熱くなっている気がした。

「……………………」

僕の視線の先にあったのは、古びた駅舎だった。木造の二階建てで、もう長らく手が入っていないのか、あちこちに過ぎた時間を感じさせる綻びが見え隠れしていた。それでも建物そのものはまだしっかりと建っていて、もうしばらくの間はこの場所に存在し続けるに違いない。これだけ古びてもまだ取り壊されないところを見ると、この駅舎を壊すのは人ではなく、時間の流れと季節の移ろいだろう。僕はそう思った。

「……………………」

この駅が使われなくなった直接の理由は知らないけれど、何となく想像は付いていた。思い浮かぶのは、商店街を抜けた先から少し歩いたところにある、この町にはちょっと不似合いなくらい大きな駅。廃駅の屋根には、その大きな駅と同じ名の看板が掲げられていた。三十度ほど下へ傾いたそれは、まるでここがもう無用の長物であることを知らしめているようで、僕は少し寂しくなった。ここが「駅」だった頃は、今のあの大きな駅と同じ賑わいがここにもあったはずだ。

そう。ここにも……

 

「こんなトコで何してるのかなっ」

 

僕が駅舎を見つめて物思いに耽っていた時、後ろからだろうか。誰かの声が耳へと飛び込んできた。くるりと顔を向けてみると、そこに立っている人影が一人。

「ぴこぴこっ」

「あっ、昨日会ったコだね。憶えてるかな?」

「ぴっこり」

「うんっ。そうだよ。キミの飼い主さんに探し物を手伝ってもらった、おっちょこちょいなお姉さん」

「ぴこー」

お姉さんは昨日とまったく同じ恰好で、手を後ろに回して楽しげにこちらへ歩み寄ってきた。僕もお姉さんの方に向かって歩いて、自然、すぐ近くまで寄り添い合う形になる。

「わぁ……驚いたよ。知らない人、怖くないの?」

「ぴっこぴこ」

「そっかぁ……それじゃあ、信頼されてるって思っていいのかな? それだったらうれしいよ」

僕をそっと抱き上げ、お姉さんが嬉しそうな表情を浮かべて見せた。優しい手つきだ。抱かれているこっちの方が心配になるくらい、優しくて軽い手つき。お姉さんは腕にぎゅっと力を込めると、僕の体に顔をうずめた。

「ぴこー……」

「あははっ……ごめんね。くすぐったかったかな?」

「ぴこぴこ」

「うんうん。キミの体、ふわふわのもこもこですっごく気持ちいいよ。かわいいね」

僕のことを気に入ってくれたみたいだ。お姉さんはしきりに頬擦りをして、嬉しそうに目を細めていた。僕はそれがくすぐったくて気持ちよかったから、お姉さんのしたいようにさせてあげることにした。

「キミの飼い主さんがうらやましいよ。いつでもキミを抱っこできるんだからねっ」

「ぴこー」

「あははっ。でも、キミはやっぱり、あの男の子と一緒にいるのが一番似合ってるかな」

そう言い、お姉さんは満足した様子で頬擦りを止めた。

「キミはよくここに来るの?」

「ぴこぴこ」

「そうなんだぁ……今日が初めてかな?」

「ぴっこり」

「へぇー……一人でこんなところまで来ちゃうんだ。キミってすごいね」

頭を撫でられた。これも……優しい手つきだ。

「ここはね、昔電車が通ってたんだよ。ほら。向こうに錆びたレールが見えるよね?」

「ぴこっ」

お姉さんの指差す先には、赤茶けたレールが延々と延びていた。どれくらい使われていないのだろうか。錆び具合を見るに、思ったほど年月は経過していないように思えた。

「それでね……」

続けて、お姉さんが口を開く。

「あそこを電車が駆け抜けて、プラットフォームにゆっくりと滑り込む」

「電車のドアが開いて、仕事帰りや学校帰りの人がいっぱい降りてくる」

「窓口の駅員さんがそれを見送って、みんなが駅舎を抜けていくんだよ」

お姉さんは……レールを見ているのか、それともまた別の何かを見ているのか……どこか遠くのほうへと視線を向けながら、静かに言葉を重ねて言った。

「にぎやかな風景だよ。たくさんの人が、自分の家へと帰っていく」

「帰る場所があるから、自然と足取りも速くなる。表情だって、活き活きとしてる」

「昔はここに、そんな風景があったんだよ。にぎやかで活き活きとした、活気ある風景が……ね」

少し目線を上に持っていって、お姉さんが空を見上げた。それに呼応するかのように、僕の視線も空を向く。

「……………………」

真っ青なキャンバスに、白い絵の具で思い思いに好きなものを描いたような、変わり映えのしない、けれども今まで一度も見たことの無い、悠久の青空が広がっていた。

「キミも、すぐに分かるよ」

「ぴこ?」

儚げな笑顔を向けて、お姉さんが言葉を向ける。

「そう……」

 

「この町の風景」

「この町の人々」

「この町の過去」

「この町の記憶」

 

立て続けに並べてから……最後に、こう呟いた。

「キミも、すぐに分かるよ」

僕はその言葉の意味するところを、よくつかめなかった。

「……………………」

 

あの空を流れる白い雲に似ているなと、僕は思った。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。