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第九十話「An Bizarre Couple」

「……あっ! どうもありがとうございますっ」

お姉さんは眼鏡を掛けた若い男の人から小銭を受け取ると、すでに山積みになっている小銭入れに、拾い上げた四枚の硬貨をそっと積み上げた。小高い山になっている小銭入れがかすかに揺れて、お姉さんはそれが完全に収まるまで手を退けようとはしなかった。

「ここに来るなんて、珍しいですねっ」

「そうかな? たまに来るにはいい場所だよ。人も多いしね」

ふと顔を上げて見てみると、僕はその若い男の人の顔に見覚えがあることに気がついた。曖昧になっている記憶をほじくり返して、その顔をどこで見かけたのかを思い出してみる。あの人だっただろうか? それとも、この人だっただろうか……

「そうですか……あっ。今日はもう、保育所には行かなくていいのかな?」

「うん。毎日顔を出すのも、なんだか気が引けるしね」

……ああ、そうだった。僕がどこでこの人の顔を見かけたのか、やっと思い出せた。確か、二日ほど前に保育所の前で立っていた、あの若い男の人だ。僕は目の前の男の人があのときと全く同じ格好をしていることに、今更になって気がついた。

「ところで……」

男の人はお姉さんから目線を外すと、隣で座り込んでいた往人さんへと体を向けた。

「君の業を、もっと近くで見せてもらえないかい?」

「人形劇のことか?」

往人さんは頷く男の人に呼応するかのように頷き返し、無言で人形を取り出す。人形をひたりと歩道に据えると、両手をかざして人形に向け、静かに念を込め始めた。微動だにせず歩道に突っ立っていた人形が動き出すまでには、さほどの時間も要さなかった。

「世にも不思議な人形劇……只今開演っ!」

 

往人さんは一通りの演目をやり終えると、人形の動きを止めて男の人を見やった。

「……こんなところだな。どうだった?」

「……素晴らしいね。いいものを見せてもらったよ」

男の人は驚きと満足で口元をほころばせて、手に掛けていた背広のポケットに手を差し入れた。取り出した財布から千円札を取り出すと、丁寧に二つに折りたたんで、往人さんの前へと差し出した。

「あいにく、今はこれくらいしか持ち合わせがなくてね。受け取ってくれるかな?」

「もちろんだ。無碍に断れる身分じゃないからな」

往人さんが手を伸ばすと、その指先が一瞬、若い男の人の手に触れた。

……ほんの一瞬のことだった。

「……?」

触れた指先に何かを感じたのだろうか。往人さんの表情が一瞬強張ったように見えた。お姉さんも男の人もそれに気づかなかったし、往人さんの表情もすぐに元通りに戻ったから、僕の目の錯覚だったのかもしれない。

男の人は千円札を渡すと、穏やかな表情を往人さんに向けて、静かに口を開いた。

「楽しいものを見せてもらってありがとう。旅の人なのかい?」

「ああ。あちこちでこんな風に人形劇を見せて回ってる。この町には、最近入ったばかりだ」

「そうか……寝るところはどうしてる? もし無いのなら、雨露をしのげる場所を紹介するよ」

「気持ちはありがたいが、心配は無用だ。今はちゃんとした寝床がある」

そう告げると、男の人はいささか驚いた様子で、大仰に頷いて見せた。

「そうなのかい? それはよかった。君に風邪でも引かれちゃったら、その素晴らしい人形劇を見られなくなるからね」

「こう見えても、今まで風邪一つ引いたことがないのが取り柄なんだ」

「それはそれは……頑丈な体の持ち主みたいだね。一人旅を始めて、もう長いのかい?」

「ああ。一桁の頃から……一人だ」

ぽつりと呟いた往人さんの表情に一瞬だけ陰が差したように見えたのは……どうやら、気のせいではなかったみたいだ。

「ずいぶんと苦労してきたみたいだね。僕にはできない生き方だよ」

「誇ることでもないと思うがな……あんたの方が、よっぽど真っ当な生き方をしてる」

「真っ当な生き方か……案外、そうでもないんだけどね」

男の人は笑って言うと、手に掛けていた背広を持ち上げなおした。

「ところで……聞きそびれちゃったけど、君の名前を教えてくれないか?」

「往人。国崎住人。『往く人』と書いて、『ゆきと』だ」

「ゆきと、か……いい響きだね。気に入ったよ」

ふっと顔に笑みを浮かべて、男の人が呟いた。

「この町に入ってまだ日は浅いみたいだけど、気に入ってくれたかい?」

「まあ、悪くはないな。人柄もいいし、暑さが厳しいのを除けば、住みよい町だ」

「あはは……それはよかったよ。それなら、もう少しここにいてくれるかな?」

「ああ。まだ旅費を稼がなきゃいけないからな」

往人さんの言葉に、男の人も満足したのだろう。大きく頷いて見せてから、赤らみ始めた空を見上げた。

「……ところで、国崎君」

ワンテンポおいてから、さらにこう続けて問いかけた。

 

「……『みすず』という名前の女の子に、聞き覚えはないかな?」

 

往人さんは少し訝しげな表情を浮かべながらも、その質問に素直に答えた。

「みすず……ひょっとして、神尾観鈴のことか?」

「その通りだよ。知っていたんだね」

「二、三回会って話をしただけだが……それがどうかしたのか?」

「……いや、ちょっと聞いてみただけだよ。知り合いの子供だから、元気にしてるかなと思ってね」

「それなら心配は無用だ。友達に囲まれて、いつも楽しそうにしてる」

「友達ができたのかい? それはよかったよ。どうもありがとう」

「いや、俺が友達を作ってやった訳じゃないんだがな……」

男の人は往人さんにお礼を言うと、すっきりとした笑顔を見せた。知り合いの子供が元気にしていると知っただけで、こうも嬉しそうな表情ができるのだろうか……と、僕は珍しく、その男の人の表情に疑問を覚えた。けれども、僕がそれをどうこうできるわけでもなかったから……とりあえずは、脇へ置いておくことに決めた。

「そろそろ夕暮れ時だね。僕は行くとするよ」

「ああ。また機会があったら、是非見ていってくれ」

「言われずともそうするつもりさ。今日は楽しかったよ。久しぶりに、人と話ができたしね」

男の人は最後にそう言い残して、歩道から延びている階段を一人下りていった。

「楽しんでくれたみたいで、よかったねっ」

今の今まで横で座って話を聞いていたお姉さんがすっと立ち上がって、往人さんの隣に付いた。

「まぁな……そろそろ、俺たちも帰るとするか」

「そうだねっ」

短く言葉を交わしあい、往人さんとお姉さんは並んで階段を下りていく。

「……ぴこぴこ」

僕も行くことにしよう。

 

「なあ、一つ聞きたいんだが」

「ん? どーしたのかなっ」

帰り道、不意に往人さんが口を開いた。問いかけられたお姉さんがくるりと顔を横に向けて、往人さんからの質問を待った。

「さっきの男とお前は知り合い同士なのか?」

「さっきの人? うんっ。知り合いの人だよ」

お姉さんは質問にはっきり答えると、目線を前方へと向けて、続きの言葉を口にした。

「少し前に知り合った人なんだよ」

「……お前、見た目に反してきわどいことに手を出してるんじゃないのか?」

「あははっ。違う違うっ。そういうのじゃないよ~」

困ったようなおもしろがっているような、そんな表情を浮かべて、お姉さんは手のひらを往人さんに向けてひらひらと左右に振った。

「えっと、保育所の前でずーっと立ってたから、気になって話しかけてみたんだよ」

「保育所の前で?」

「そうだよ。話してみたら結構いい人でね、たまに一緒に散歩したりするんだよ」

「……端から見たら、はっきり言って怪しい者同士が歩いてるようにしか見えないぞ」

確かに、お姉さんとあの若い男の人の組み合わせなら……往人さんの言うとおり、ちょっと関係を想像しづらい、思いきって言っちゃうと、怪しい人同士に見えるかもしれない。お姉さんは往人さんと同い年くらいだから、あの男の人とわかりやすい関係を作るのは……ちょっと難しい話になるだろう。

「大丈夫だよ。きっと、見えてないはずだから」

「楽天的な性格してるな、お前って……」

「あははっ。それが取り柄だからね」

取り柄なのかどうかは分からなかったけど、お姉さんの分かりやすくて思い切りのいい性格は、人付き合いをしていく上ではやりやすいだろうなぁ、と思った。

 

二人と僕とで歩き続けて、商店街の入り口近くまでさしかかった頃のこと。

「あっ……こっちだから、ここでお別れだね」

「分かった。じゃあな」

「うんっ。また会える日を楽しみにしてるよっ」

お姉さんは分かれ道で反対側の道を選んで、そっちの方に向かって歩いていった。ぶんぶんと大きく手を振りながら、徐々にその姿を小さくしていく。往人さんは暫時それを見送ってから、診療所のある商店街の中へと入っていった。

「……………………」

無言で歩いていく往人さんの隣では、楽しそうな話し声がぽつりぽつりと聞こえてくる。

「……うおっ?! 知らない間に女の子蘇生してるし!?」

「マジか?! マジなのかそれは!?」

「見てみろって、ほら! この男が鞄を拾ったみたいだぞ」

「すげぇ……こんな展開、予想もしてなかったぜ……」

佳乃ちゃんと同い年くらいの男の子二人が、携帯電話の画面をのぞき込みながら、興奮した様子で話をしていた。どこかで聞いたような声色だったけど……どこだったかまでは、思い出せなかった。

「川沿いの一軒家、九月に取り壊されるんですって。お聞きになりました?」

「聞きましたよ。何でも、七年前からずっと空き家になってるって……」

「そうなんですよ。周りでも『幽霊が出る』とか言われて、誰も近づかないそうで」

「出る……そうですね。あの家に住んでいた、小学生くらいの女の子の霊だとか……」

次に横を通り過ぎていったのは、買い物帰りの二人の主婦だった。川沿いの一軒家の取り壊しが決まって、そのことを話題にしているみたいだ。七年前……僕はまだきっと、生まれてすらいなかったに違いない。

「ねえ、鈴菜ちゃん。この前言ってた空き地に立ってる女の人、今日もいた?」

「いたいた。一人でずっと空き地に立っててね、誰かを待ってるみたいだったよ」

「誰を待ってるんだろうね……? 鈴菜ちゃんがここに引っ越してきてから、毎日見かけてるんだよね?」

「うん。ひょっとしたら、わたしが引っ越してくる前からずっとかも知れないって、あかりちゃんが言ってたよ」

プール帰りの小学生くらいの女の子が二人、おしゃべりをしながら横を通り過ぎていく。この町に空き地はたくさんあったはずだけど、人が誰かを待っている空き地なんて見たことも聞いたこともない。一体その人は誰を待っているんだろう? 気にし出すと止まらないけど、気にしたところで分かるものでもない。

「……………………」

僕が道行く人のうわさ話を肴にして、一人で考え事を楽しんでいると、

「……しかし」

「ぴこ?」

不意に往人さんが口を開いた。僕は顔を上げて、歩いていく往人さんの顔を見つめる。

「俺も、ずいぶんと口数が増えた気がする」

「……………………」

「今までいた町じゃ、誰かに話しかけられることさえ珍しかったってのにな……」

往人さんはすっかり紅くなった空を見上げたまま、ぽつりぽつりと呟き続けた

「出会っていきなり相撲を仕掛けたり、そうかと思えば女の子っぽいやつがいたり……」

「……………………」

「奇妙なパンの試食会を開くのもいれば、それを旨そうに食うやつもいる……」

「……………………」

「挙句、誰もいないのが当然の廃駅に人が三人もいたり、新しい駅で見知らぬ男に話しかけられたり……」

「……………………」

「つくづく、飽きない町だな」

そう呟く往人さんの顔はどこか楽しげで、口元には微かに笑みがこぼれているように見えた。

「なあポテト、お前はどう思う?」

「お前も、この町にいて面白いか?」

……その問いかけに、僕は。

 

「……そうか。ずっとこの町に住んでるお前でも、やっぱそう思うのか」

「ぴっこり!」

絶対の自信を持って、首を縦に振ったのだった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。