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第百十七話「Tea party in the material room」

資料室にて。

「なるほど……一弥さんというんですか」

「そうですよー。佐祐理のかわいい弟です」

「是非一度お会いしてみたいですね」

先ほどまで僕がいた喧騒とはまさに鏡写しの穏やかで和やかな空気が、部屋全体を余すところ無く覆い尽くしていた。僕はこのまったりとした空間に意識を漂わせながら、向かい合わせに座って楽しそうにおしゃべりを続ける佐祐理さんと宮沢さんの声を交互に聞いていた。

「それでしたら、今度佐祐理の家に来ませんか?」

「倉田先輩の家にですか? それは素敵ですねっ」

「あははーっ。宮沢さんならいつでも歓迎ですよー」

それにしても、似たような声色に似たような調子だなぁと思う。佐祐理さんは三年生で、宮沢さんは二年生のはずなんだけど、その差をまったく感じさせない。なんというか……こう、姉妹や双子が話しているようにも思える。時々どっちが何を言っているのか、一瞬考えないと分からないこともある。

「確か、宮沢さんにはお兄さんがいるんですよね」

「はい。今は成人して社会人になっていますが、時々うちに帰ってきて話し相手になってくれるんです」

「そうですかー。佐祐理にもお兄さんが欲しかったです」

宮沢さんにはお兄さんがいて、佐祐理さんには弟さんがいる。つまり、宮沢さんは妹さんで、佐祐理さんはお姉さんということになる。なんとなくだけど、この二人の歯車がかっちりと噛み合っている理由が分かった気がする。どっちもそれぞれ「年上」と「年下」に接しなれているのだ……と、僕は特にすることも無いために、こんなどうでもいいことばかり考えているのであった。

「ぴこぉ~……」

大口を開けてあくびを一つしてから、僕はもう一つのグループの方の様子を窺ってみることにした。誰も使っていない椅子に飛び乗り、そこから体を伸ばしてテーブルの上を覗き込む。

さて、あの二人の様子はというと。

「……(ずずずずず)」

「……………………」

涼しい顔をしてコーヒーをすする舞さんと、ご飯時にも関わらず例のヒトデ(いつの間にか完成させている)を抱えたままそれを見つめている風子ちゃん。舞さんはコーヒーを少し飲むと、ソーサーの上へかたんとカップを置いた。

「おいしいですかっ」

「……ちょっと苦いけど……嫌いじゃない」

「そうですか。では、風子もいただきます」

風子ちゃんはヒトデを隣の席に置くと、コーヒーの注がれたカップを手に取り、そのままゆっくりカップを口へと近づけていく。

「……(ずずずずず)」

「……………………」

目を閉じて涼しい顔をして、舞さんと同じようにコーヒーをすする風子ちゃん。少し飲むとそれで満足したのか、ソーサーにかたんとカップを戻す。

「……ふぅ」

小さく息を吐き、一言。

「苦いです」

……ものすごく不満そうだった。

「……飲んだこと、無かった?」

「はい。初めて飲みました。あまりの苦さに涙が出てきそうです」

風子ちゃんは微妙に顔をしかめながら、コーヒーが苦かったと苦情を言った。いや、コーヒーは苦くて当然だと思うけど、初めて飲んだと言ってることだし、どんな味か分からなかったんだろう。風子ちゃんの味覚はまだまだ子供なのだ。

「涙が出てきそうです。しかし風子は大人の女性なので、人前で涙は見せないことにしています」

「……コーヒーは大人の飲み物だから、風子にはまだ早いかもしれない……」

「えっ?! そうなんですかっ?!」

「……(ずずずずず)」

コーヒーをすすりながら、舞さんがこくこくと頷く。舞さんは「苦いけど嫌いじゃない」と言っていたから、普通に飲めるのだろう。見ている限りじゃ、随分おいしそうに飲んでいる。あいにく僕は飲めないけれど、見ているだけでも楽しいから構わない。

「大人の……飲み物……」

風子ちゃんは舞さんの口にした「大人の飲み物」という言葉が引っかかっているのか、目の前で白い湯気を立てるコーヒーをじーっと見つめたまま、心の中でひたすら葛藤を繰り返しているようだった。

「……………………」

コーヒーと風子ちゃんのにらめっこが続く。舞さんはそんな風子ちゃんの様子を不思議そうに眺めながら、カップを大きく傾けて、残っていたコーヒーを飲み干した。

「……ごちそうさま」

「お味はどうでしたか?」

「……かなり嫌いじゃない」

「それはよかったですっ。おかわりはいかがですか?」

「……(こくこく)」

宮沢さんは舞さんの感想に笑顔で応じ、空になった舞さんのカップにコーヒーのおかわりを注いだ。ソーサーを手にとって舞さんに渡すと、舞さんはそれを丁寧に受け取り、自分の手元へと寄せる。カップから立ち上る白い湯気を見つめて、舞さんは満足げな様子だった。

「……………………」

一連のやり取りを見た風子ちゃんは、それでもしばらくカップとにらめっこをしていたけれども、

「……風子は大人の女性です。今ここでそれを証明してみせます」

どうやら決心が固まったらしい。風子ちゃんはカップを手に取り、再びそれを口につけた。

「……(ずずずずず)」

例によって目を閉じた涼しい表情で、カップに注がれたコーヒーを流し込んでいく。さっきよりもちょっと多いかな? というくらい飲んでから、また同じように静かにカップをソーサーへと戻す。

「……ふぅ」

そして、一言。

「……すごく苦いです」

今度は涙目になっていた。さっきよりも量を増やしたのがまずかったらしい。

「苦かったですか?」

「はい。苦かったです」

「そうでしたか。気がつかなくてすみません。それでは、お砂糖と牛乳を入れて、飲みやすくしましょう」

宮沢さんはどこからともなく砂糖と牛乳(パック入り)を取り出し、風子ちゃんのカップへと入れていく。ある程度目処がついたところで、細い金色のスプーンを取り出し、かしゃかしゃとカップの中身をかき混ぜる。

「……はい。これで、大分飲みやすくなったと思いますよ。飲んでみてください」

「ありがとうございます。では、改めていただきます」

風子ちゃんは三度カップを手に取り、コーヒーを口につける。

「……(ずずずずず)」

少し飲んで三度口からカップを離し、三度ソーサーにかたんと置いて戻す。

「……ふぅ」

そして三度、一言。

「……やっぱり苦いです」

「そうですか……では、もう少しお砂糖を足しますね」

「……でも、おいしさが分かった気がしました」

「それはよかったですっ。どうもありがとうございます」

風子ちゃんはまだまだ「苦い」と言っていたけど、さっきよりは幾分緩んだ表情を見せていた。何だかんだで元のコーヒーがおいしいみたいだから、少し味を風子ちゃん向けにしてあげれば、自然に飲むこともできるだろう。

「……………………」

春の陽気を思わせる穏やかな空気に包まれて、時間はゆっくりと過ぎていく……。

 

「皆さんは演劇部に所属してらっしゃるんですよね」

「そうですよー。舞も伊吹さんも、この夏休みに新しく入ったんです」

話題は演劇部のことになっていた。確かにメンバーを見てみると、宮沢さん以外は三人とも演劇部に所属、しかも今年の夏休みに加入したばかりのメンバーだ。部屋の暖かな空気に包まれてしまっていて、そんな基本的なことさえもすっかり忘れていた。

「楽しそうですねっ。どうして入部されたんですか?」

「えっとですねー、舞がやってみたいって言いだして、佐祐理も一緒に入部することに決めたんです」

「そうなんですか。川澄先輩は、どうして入部したいと思ったんですか?」

「……えっと……」

話を振られた舞さんが、やや困ったように俯く。手をもじもじさせながら、次の言葉を言いあぐねている様子だった。

「……えっと……」

暫時それが続いた後、舞さんはふっと顔をあげ、ようやく質問への答えを返した。

「……見てたら、楽しそうだったから……」

「楽しそうだったよねー。佐祐理も入ってみてよく分かったよー」

「……(こくこく)」

随分と間を置いた割には、ごく普通の答えだなあと思った。僕も演劇部の様子を見ていると楽しそうだと思うし、もし僕が人間で、この学校に通う生徒だったとしたら、確かに入ってみたいと思わせる独特の空気がある。だから、舞さんの言葉は間違っていない。舞さんの親友の佐祐理さんも、舞さんの言葉を疑っていない様子だ。

「……………………」

でも、本当にそうだろうか? ただそれだけの理由で、三年生の夏休みという忙しい時期に部活に入ろうなんて、本当に考えるものなのだろうか? 僕にはどうもしっくり来ない。舞さんは本当に「見ていて楽しそうだったから」演劇部に入ったのだろうか?

……それじゃあ、もしそうだとして……

 

あの恐ろしい目は、何を見ていたんだろう?

舞さんはあんな恐ろしい目をして、一体何を見ていたというのだろう?

 

僕の知る限り、演劇部の中で舞さんといがみ合っている人はいない。それどころか、入ってしばらくも経たないというのに、もうあの空気の中に馴染んでいる。そんな中にあって舞さんにあそこまで敵意を持った視線を向けられるほどいがみ合っている人がいたら、すぐに話題に上ってくるだろう。

けれども、そんな話はまったく聞かない。みんな本当に楽しそうにしている。舞さんは無口であまりしゃべらない人だけど、それでも部員の人と話しているところは見かけるし、その時の舞さんは何だかんだで楽しそうだ。あの部室の中に、舞さんととげとげしい関係を作るような人は誰もいない。想像してみても、誰も思いつかないのだ。

 

……じゃあ、あの目線は一体何?

 

分からない。僕は何も分からない。あの目線が舞さんから誰かに向けられていることは疑いようも無い事実で、その目線に慈悲や情けが欠片も含まれていないのは、僕が感じた薄ら寒さで証明済みだ。けれども、舞さんが敵意を抱くような人はいない。誰もいないのだ。

「……………………」

……あの時の光景を思い返し、僕は時折背筋をすり抜ける寒気に怯えながら、残りの時間を過ごした。

 

「それでは、またいらしてくださいね」

「はい。その時はまた、コーヒーを淹れてくれるとうれしいです」

「もちろんですっ。おいしいコーヒーを用意して待ってますから、是非いらしてください」

昼食とおしゃべりが済んで、資料室を出て行く一行。この調子だと、多分またここに来ることになるだろう。あの何ともいえない空気はここでしか味わえそうに無いから、その時はまた僕もくっついていくこととしよう。

「では、部室へ戻りましょう」

「そうですねー。伊吹さんも、お昼からは参加するんですか?」

「はい。今日の午前中は『ヒトデ・クリエイション・タイム』、略してHCTです」

「はぇー……えっち・しー・てぃー……ですかー。なんだかかっこいいですねっ」

「……風子、かっこいい……」

単に頭文字をとっただけの上に、「ヒトデ」は英語じゃないだろう……しかも、別にかっこよくはないだろう……という僕のダブル突っ込みは当然の如く無視され、来た道を戻って部室へと向かう。

………………

…………

……

「見えてきたねー」

「……(こくこく)」

舞さんに抱いてもらって、楽々部室へと到着する。そろそろお昼休みも終わる頃だし、ちょうどいい按配だろう。佐祐理さんが後ろの戸に手をかけ、ずずずずずと静かに戸を開く。

……ちょうど、その時だった。

 

「相談に乗ってもらってありがとっ。じゃ、また何かあったらね」

 

前の戸から、見知らぬ女の子が一人、部室から走って出て行くのが見えた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。