「ふぇ……知らない子だねー、舞」
「……二年生……?」
部室から走り去っていった女の子の背中を不思議そうに見送りながら、佐祐理さんたちはしばらくその場で足を止めた。すぐに走って行ったし背中しか見えなかったけど……僕が知ることのできた特徴を挙げるなら、背は少し低めで、佳乃ちゃんよりも少し暗めの青色の髪を短めに切りそろえていた。せいぜい、それくらいだ。
「とりあえず、中に入ろっかー」
「そうですね。タイム・イズ・マネー、略してTIMです」
「……風子、かっこいい」
それもほんの束の間。佐祐理さんたちは再び歩き出し、そのまま中へと足を踏み入れる……すると。
「戻ってきましたよー……あれ?」
「あ、倉田先輩に川澄先輩ー。おかえりなさーい」
まず最初に三人を出迎えたのは、川口さんだった。ひらひらと手を振りながら、体は机の方を向いたままだ。その机の上には、ノート型のパソコンのディスプレイが、鈍く白い光を煌々と放っている。家から部室へ持ち込んで、暇つぶしに使っていたのだろう。川口さんらしいな、と思った。
「……みんなは?」
「みんなまだご飯中みたいで、いるのはこれだけなんですよー。もー暇で暇で……このままじゃ、地球人から暇暇星人にクラスチェンジしちゃうぜ、私……」
そう呟き、ばっと手を広げた先にいたのは……
「あ、お帰り佐祐理ちゃん。舞ちゃんも一緒かな?」
「風子も一緒です」
「風子ちゃんも一緒だったんだね。三人とも食堂にはいなかったみたいだけど、どこかでご飯食べてきたのかな?」
「はい。佐祐理のお友達の宮沢さんという方のところで、一緒に頂いてきたんですよー」
「そうだったんだね。それだったら安心だよ。もしかしたら忙しくて食べ損ねたんじゃないかと思って、ちょっと心配してたんだ」
椅子に座って扇風機の風を浴びている、川名さんだった。いつものように優しい笑顔を向けて、佐祐理さんと親しげに話している。なんだか、この二人も気が合いそうだ。独特の穏やかな空気で相手を包み込んでしまうような、言葉にしがたい柔らかさに満ちている。二人の様子を見るたび、それがはっきりと分かって来る気がした。
「……みさき……雪見は?」
「うーん……あれからまだ戻ってこないんだよ。ひょっとして、もう寮に戻っちゃったのかな?」
部長さんはまだ戻らないらしい。朝のことでよっぽど何か頭にくることがあったのか、それとも単に体調でも崩しちゃったのか……いずれにせよこの調子なら、しばらくは戻って来そうに無い。
「おかえりなさい、なの」
『おかえりなさい、なの』
「あははーっ。ただいまですよー。お二人はここでお弁当を食べたんですか?」
「うん。勉強しながら、一緒に食べたの」
教室に残ってお弁当を食べていた一ノ瀬さんと上月さんの姿も、もちろんここにあった。勉強しながら、と言っていたけれども、それももう片付いたのか、机の上に教科書やノートは見当たらない。上月さんはいつもより幸せ度五割増しくらいのにこにこ笑顔で、一ノ瀬さんにくっついて離れようとしない。
「はぇー……なんだか、いつもよりもさらに幸せそうですねー」
「……(うんうんっ)」
幸せオーラ全開の上月さんの姿をしばし見ていると、
「戻ったわよー」
「たっだいまーっ!」
「今日の日替わり、カップゼリー付きだったな……」
「まさか、あんな物が付いてるなんて思わなかったぞ……」
食堂に食べに出ていたグループと、ここで食べていたはずの藤林さん姉妹がひとかたまりになって教室へ入ってきた。多分、ここでお昼を済ませた後、食堂に行ってみんなと一緒に時間を潰していたんだろう。藤林さんはパック入りのジュースを飲みながらこっちに歩いてくるし、まず間違いない。やっぱり、大勢でわいわいがやがや言ってるほうが楽しいし、退屈もしない。
「それにしても渚、ここに戻ってくるのが随分遅かったよな。何かあったのか?」
「えと……実は、どうしても分からないところがあって、その質問をしてたら、遅くなっちゃったんです」
「勉強熱心だねっ。浩平も少しは見習った方がいいよ」
「いや、俺は必要なことを必要な時に必要な分だけやるタイプだからな。無駄を極力省くようにしてるんだ」
「それ、ただの一夜漬けだよ……お兄ちゃんがそんなんだから、お母さんと瑞佳お姉ちゃんのため息が増えちゃうんだよ」
遅れて食堂に行くと言っていた岡崎君と古河さんの姿も見える。これで、お昼休み前に部室にいた面々はすべて揃った。
「……どうする? ゆきちゃんまだ戻ってきてないけど、とりあえず練習始める?」
「そうですね……午前中はほとんど練習できませんでしたから、午後からは練習しましょう」
「そうねー。んじゃ渚、私も手伝うから、みんなのまとめ役やってちょーだい」
「あ、はいっ」
こうして、部長代理の古河さん進行の下、演劇部の午後練習が始まった。
『このスイッチを入れれば、新たな生命が誕生するの』
「私を外に出さない方がいい……特に、月明かりが夜道を照らすような日はな」
あちこちで色々な台詞や打ち合わせの声が聞こえてくる。演劇の部分部分を切り取って、その部分ごとに練習をしているのだろう。練習に打ち込む部員の姿はみんな真面目そのもので、午前中のどこかだらけた雰囲気とは一味違っている。けれどもどちらも僕にしてみれば「楽しそう」という一点において、間違いなく共通していたけれど。
「んー……脚本に手を入れる部分はもう無さそうねー」
「そうねぇ……んじゃ、そろそろ舞台演出の詰めに入ろうかしらね」
その傍らで、川口さんと藤林さんが何やら相談しあっていた。川口さんは脚本を、藤林さんは舞台演出の練りこみをしているらしい。となると、この二人が舞台に上がることはないのだろう。その分、その舞台を盛り上げるために知恵を絞る……どちらにせよ、重要な役回りであることに変わりはない。
「……あ。茂美、なんかメール来てるわよ」
「あっ、これ? これさ、メールじゃなくてRSSなのよ」
「RSS? 何それ?」
「ニュースサイトとかを登録しておくと、新着の記事がないかどうか定期的に確認してくれるのよ。結構便利なのよー」
「へぇー……何となく便利そうな雰囲気ねぇ……」
「でしょ? んでさ、RSSっていうのはXMLで記述されたテキストファイルで、『RDF Site Summary』とか『Rich Site Summary』とか『Really Simple Syndication』とか、うんざりするくらいいろいろな正式名称があるんだけど、まあ一般的には『RDF Site Summery』ってのが正しいらしいのよね。で、RSSリーダー……いやまあ正確にはフィードリーダーっていうんだけどさ、リーダーがサーバに接続してRSSを取得して、内容の変化があればそれを通知、なかったら更新なしの報告をするの。こうしておくとさ、いちいちサイト全体を取得しなくても、更新されたかどうかだけをチェックできるのよね。まあ、普通は更新したか否かのチェックに使うくらいだけど、他にも使い道はあるのよ。例えばテレビ局なら番組情報を配信したりとか、そういうの。そんな感じで便利なんだけど、前々から使われてるせいで結構ややこしい事情があってさー。今使われてるRSSのバージョンは『1.0』が主流なんだけど、バージョン的には他にも『0.9』『0.91』『0.92』『2.0』ってのもあって、それぞれのバージョンが乱立してるのよねー。最初に『0.9』っていうのは、昔Webブラウザのトップシェアを占めてた『Netscape Navigator』の開発元会社の『Netscape Communications』がリリースしたバージョンで、今で言うところの『アンテナ』のような機能を実装するために作ったものなの。ちなみに、同じようなことはライバルのマイクロソフトもやってて、そっちでは『アクティブチャンネル』っていう名称で使われてたわね。んで、『0.9』の次にリリースされたのが『0.91』。『0.9』で指摘された拡張性の乏しさを打開するために、独自のXMLフォーマットを使って要素を拡張したバージョンよ。このバージョンはRSSが広まった初期に使われたバージョンで、使い勝手が向上したことからそれなりに普及したんだけど、それに伴って『もっと色々な情報を入れたい』っていう人がどんどん増えてきたのよね。RSSは元がXMLだからいくらでも拡張できちゃって、規格に無い独自の要素を追加しちゃうような人が出てきて混乱が始まったの。それじゃヤバいってことになって、もうちょっときっちりした規格を作ろうってことで生まれたのが『1.0』なのよ。あっ、ポイントはここよ。『0.91』の次は『0.92』じゃなくて……いやまあ実際には『0.92』は『0.91』ベースなんだけど、それはまた後で話すわ。とりあえず、『0.91』の次は『1.0』ってことで、まあここは納得してちょーだい。んで『1.0』なんだけど、まずフォーマットを厳格だった『0.9』時代に近いものまで戻して、そこに『モジュール』……『部品』って意味ね。モジュールを組み込むことで拡張性を確保しよう、って思ったのよ。言ってみればSusieとSusieプラグインみたいな関係ね。で、今使われてるのはこの『1.0』がメイン。使い勝手とか拡張性とかで不満が無いわけじゃないけど、まあ概ね好評ってとこかしらね。でもこれで満足できない人もいてさ、その人たちが『0.91』ベースに新しいバージョンを作っちゃったのよ。それが『0.92』なのよねー。『0.92』は『1.0』と考え方自体は似てるんだけど、アプローチの手法が全然違って、完全な別物になっちゃったのよね。んで、『0.91』から始まる0.9x系はその後『0.93』『0.94』てな感じでバージョンアップを重ねていったんだけど、このままじゃ埒が明かないってことになって、『0.91』から『0.94』までを完全にカバーしたRSSである『2.0』ってバージョンを策定したのよね。これがまたややこしいんだけど、『1.0』と『2.0』じゃ中身はほとんど別物みたいなものなんだけど、見ての通り『2.0』の方がなんかバージョン上っぽいでしょ? だからよく『2.0は1.0の上位版』って誤解されるのよね。私も結構最近まで誤解しちゃっててさー。いやいや、聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥とはよくいったものよ、うむうむ。んで、これだけだったらいいんだけど、RSS自体に不満がある人がいないわけじゃなくてさ、その人たちが寄り集まって『Atom』っていう名前の新しい規格を……」
「……ごめん、茂美。言われたことの九割五分は頭に入ってないから」
「えぇーっ?! 私もう喉からっからだよーっ! ちゃんと聞いといてよねっ!」
「いや、聞いてたことは聞いてたけどね……」
不満げに口を尖らせながら、川口さんがタッチパッドを操作する。RSSリーダーで新着が伝えられた記事を見に行くつもりのようだ。藤林さんも横からディスプレイを覗き込み、記事の内容に目をやる。
「で、どんな記事?」
「えぇーっとぉ……お、開いた開いた。何々……?」
ディスプレイに映し出された記事に、川口さんと藤林さんが同時に顔を近づける。おかげで、僕からは何が書いてあるのか見えない。一体、そこには何が書いてあるんだろう……
……と、僕がやきもきしながら二人の背中を見つめていると。
「……あ、この事故……」
「確か……七月の……」
何やら気まずい声が聞こえてくる。声の調子から察するに、あまりよい記事ではなかったようだ。「事故」なんて物騒な言葉も聞こえてきたし、それは間違いないだろう。
「……調査が終わって、原因の本格的な追究に入るんだって……」
「そう……やっと……始まるみたいね……」
「うん……」
顔を見合わせあいながら、すっきりしない表情で頷きあう二人。僕には何のことだかさっぱり分からないけれど……
「時期も被ってたし……不吉だったわよね……確か……隣の県だったっけ」
「そうね……結局、あたし達の方は平穏無事に終わったわけだけど……」
……それでも、この二人にとってあまりよいものでなかったことくらいは分かる。普段の明るい表情とは打って変わった、どことなく憂いを滲ませた表情だった。
「……舞台演出の打ち合わせ、始めよっか」
「……それがいいわね。こんなことばっかりやって、時間を無駄にしちゃ悪いし」
川口さんは頷き、ブラウザのウィンドウを閉じた。それきり、この二人が「記事」や「事故」について口にすることはなかった。
結局、僕がそのことについて何か知ることはできなかった。
それからまた、暫くした後のこと。
「瑞佳さんって、吹奏楽部に所属してらっしゃるんですか?」
「うん、そうだよ。今日は練習が無いから、こうやって演劇部の見学ができるんだけどね」
意外な取り合わせを見ることができた。長森さんと栞ちゃんだ。今までこの二人が話してたところなんて見たことが無かったから、僕は物珍しさに近づいて話を聞くことにした。
「吹奏楽部に仁科さんっていう人がいると思うんですけど、元気にしてますか? 最近会う機会が無くて、ちょっと気になってるんです」
「仁科さん? うん、毎回きちんと顔を出してくれてるよ。練習熱心だし、私も見習わないといけないよ」
「はい。私もそう思います。勉強でも分からないところとかを教えてもらって、お世話になりっぱなしです」
「仲良しみたいだねっ。仁科さんもよく栞ちゃんのことを話してるから、お互い様だと思うよ」
話題は「仁科さん」という、多分一年生の子の事だった。長森さんは後輩として、栞ちゃんは同級生の友達としてそれぞれ関係があるらしい。こういう風に共通の話題があると、話のきっかけも作りやすいだろう。佳乃ちゃんみたいに、誰にでも物怖じせずに話しかけるような子もいるけど。
「でも、今仁科さんのお姉ちゃん、風邪引いちゃってるんだよね」
「そうみたいです。夏風邪みたいで、少し前からこじらせて、まだ治らないっていうんです」
「今年はすごく夏風邪が流行ってるみたいだよ。実はね、私のお母さんも風邪気味なんだよ」
「えっ?! 瑞佳さんのお母さんもなんですか?!」
「うん。少し前からこじらせちゃって……今は大分ましになってきたみたいだけど、家のことは私がやってるんだよ」
「そうなんですか……実は、私のお姉ちゃんも風邪気味なんです」
「えっ? 美坂さん、風邪引いちゃってたの?」
目を真ん丸くして、長森さんが聞きかえす。栞ちゃんはこくりと頷いて、さらにこう続けた。
「一週間くらい前から風邪を引いちゃって、それがずっと続いてるんです」
「一週間も?! なんだか大変そうだよ~……」
「はい。でも、症状は軽くて、家のこととかもちゃんとできるんです。ただ、なかなかしっかり治らなくて……」
「う~ん……それは困ったね。病院には行ってみたかな?」
「一応、行って診てもらったそうなんですけど……でも、ただの風邪みたいなんです」
「そっか……」
心配そうに呟く栞ちゃんの肩に、長森さんがぽんと手を載せる。
「大丈夫だよ。心配しなくても、すぐに治るからね」
「はい……そうだといいんですが……」
「もし心配だったら、霧島君のお姉さんに診てもらうといいよ。聖先生、腕は確かだからね」
「……はいっ。何かあったら、霧島さんにお願いしてみることにします」
「うん。お姉さんも霧島君も、頼りになる人だからね」
佳乃ちゃんと聖さんの名前を出されて、栞ちゃんが元気を取り戻したようだ。不安になったところに、あの二人の顔を思い浮かべたのだろう。栞ちゃんの表情は晴れ晴れとしている。佳乃ちゃんと聖さんへの信頼は、よっぽどのもののようだ。
「霧島さん……」
……栞ちゃんの頬がほんのり赤みを帯びていたことには、長森さんも気がつかなかったみたいだ。
――夕方。
「……よし。それじゃ、これくらいで終わるとするか」
「そうだねぇ。みんな部室にいるかなぁ?」
「瑞佳にみさおちゃんに留美に……全員いるわね」
佳乃ちゃんたちが外に出る準備を始めた。他の人たちは先に帰ったか、まだ残って練習を続けているかのどちらかだ。残っていたメンバーに挨拶をし、部室を後にする。
「七瀬さん、校門で待ってるって言ってたよね」
「そうだな。時間も時間だし、もう待ってるだろ。合流しに行くぞ」
残るは七瀬さんだけだ。僕は一行の後ろについて、夕暮れ時の廊下を歩いていく。
「確か……あの、真琴という子も来るはずだったな」
「そーそー。さっき携帯で連絡して、保育所で落ち合うことになったから」
ぽつぽつと言葉を交わしあいながら、階段を降り、下足室を抜ける。
「……………………」
橙色の空を流れる入道雲を横目に見ながら、校門へと進んでいく。これといって目を引くようなものは何も無い。僕もそうだけど、皆これから華穂さんから話を聞くことで、頭がいっぱいになっているのだろう。気がつくと、随分ややこしいことになってしまった気がする。
「……………………」
……なるようになるだろうと、僕はあまり深く考えないことにした。
「……あっ。あれ、七瀬さんじゃない?」
「そうね。思いっきり分かりやすい髪形してるし」
校門近くまでやってきてみると、そこにはすでに七瀬さんが立っていた。その姿を認め、一行が駆け足で近づいていく。七瀬さんはまだ気づいていないみたいで、微妙に頭を落としている。
「七瀬さんっ! ごめんねっ! 待たせちゃったかな?」
先頭を走っていた長森さんが通りのいい声で七瀬さんに呼びかける。
すると……
「……あ、瑞佳……」
……よく分からないけど、妙にローテンションに返された。残りのメンバーも追いついて、七瀬さんの様子を確認する。
「……どーしたのよ留美。なんか妙に元気が無いわね」
「どうかしたのぉ? 何か辛いことでもあったのかなぁ?」
「どうした七瀬。私を失望させるような顔をするんじゃない」
一目見て、今の七瀬さんに元気が無いことが伝わったようだ。七夜さんだけちょっと様子がおかしかったけど、七瀬さんに絡んだときの七夜さんはいつもの七夜さんじゃないことはよく分かっているので、特に気に留めないことにした。
「どうかしたんですか? 七瀬先輩……」
「いや、大したことじゃないんだけど……」
七瀬さんは右のおさげをくいくいと弄りながら、こんなことを呟いた。
「……誰か、アタシと斉藤の関係を捏造して、勝手に噂したりしてない?」
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。