翌朝。
「よしっ、今日のワークはおしまい。塾の宿題もバッチリだね」
小夏は朝早くから一人で起きてきて、夏休みの課題と塾の宿題をしっかりこなしていた。早起きも勉強も得意な小夏にとっては、文字通り朝飯前だ。キッチンで朝食の準備をしているお母さんが、勉強している小夏を頼もしげに見つめる。
「なっちゃんは自分から勉強してくれるから、お母さんも助かるわ」
「勉強するの好きだもん。だから、もっといろんなことを見たり聞いたりしてみたいって思ってるよ」
目玉焼きトーストの載ったお皿をテーブルの上へ並べながら、お母さんが小夏の話に耳をかたむけている。小夏が「いろんなことを見たり聞いたりしたい」と言うと、お母さんは「そうね」と少し言葉を濁す。小夏はお母さんの様子を特に気にすることもなく、カウンターからサラダの盛られたお皿を取って、トーストのお皿の隣へすっと置いていった。
いつものようにお互い向かい合ってから、「いただきます」と言って朝食に手を付ける。トーストをかじりながらサラダを食べて、ときどきコップに注がれたミルクを飲む。小夏が自分のペースで食べていると、お母さんが口を開いた。
「全国学力テスト、あと一ヶ月もないのね」
「うん。テストの勉強もしっかりしなきゃね」
小夏の通っている学習塾では、年に一度全国学力テストが行われている。塾に通う生徒たちが一斉にテストを受けて、その順位を競うというものだ。小夏も毎年受けていて、いつも平均して八十点代後半の好成績を残している。上位百人のトップグループにも入るか入らないかという線にいて、レベルはかなり高かった。
「今年は絶対に落とせないもん。頑張って九十点超えなきゃね。お母さんと約束したし」
とは言え、当の本人は満足しているわけではなかった。いつも平均すると八十七点や八十八点というところで、すべての教科が九十点を超えたことは一度もなかった。国語が満点だった年は算数がちょっとふるわなかったり、理科が会心の出来だった時は社会で小さなミスが目立ったりで、押しなべて九十点というところにはなかなか手が届かない。小夏はそれを目標にして、今年は準備万端で挑戦したいと考えていた。
テストを前にやる気になっている小夏を見て、お母さんは穏やかな顔をしている。ただ、不思議なことにやっぱりどこか寂しそうな感じがして、心から喜ぶことができていないようにも見える。小夏が「約束した」という言葉を口にした時に、その色が一段と強くなった。トーストを目玉焼きと一緒に食べている小夏には、お母さんの顔は見えていないようだったけれど。
朝食を済ませた小夏が後片付けをして、部屋に置いてあったプールバッグをさげて玄関へ向かう。運動靴のひもを解いてから足を通すと、蝶結びにして結びなおす。
「なっちゃーん、お母さんもうすぐお仕事に行くから、家のカギ、忘れないようにね」
「ちゃんと持ってるー」
「お昼は流し台の上にあるから、それを食べててちょうだい」
「はぁーい」
靴ひもを結ぶのに夢中で、小夏はお母さんの言葉に生返事をするばかり。やってきたお母さんが、小夏のすぐ近くまで歩み寄る。
「海で泳ぐときは、十分気を付けるのよ。メノクラゲやクズモーがいたら、近付いちゃダメよ」
「大丈夫大丈夫、分かってるよ。じゃ、行ってきまーす!」
きっちり紐を結んだところで、プールバッグをつかんで小夏が家を飛び出していく。
「最近、海でよくポケモンを見かけるようになったって言うし……なっちゃん、大丈夫かしら」
元気よく走っていく小夏の背中を、お母さんが心配そうに見つめるのだった。
お母さんが心配しているとはつゆ知らず、小夏は悠々と歩いていく。目指すはもちろん近くの砂浜だったのだが、その途中でちょっと行きたいところがあった。道端の木に生っていたオボンの実をひとつもいで、小夏が道を左に曲がる。彼女が立ち寄ったのは、みんなから「タイヤ公園」と呼ばれている小さな公園で。
「あっ、いたいた!」
小夏が公園に入ってからすぐ、彼女の前に一体のポケモンが姿を現した。ひょろ長い体に、髭を生やした温厚そうな顔。ポケモンは小夏の姿を見つけると、ゆっくりながらも嬉しそうに彼女の側までにじり寄ってきた。すぐ側まで近付くと、小夏とずりずりとほおずりをして喜びをアピールして見せた。
「ロンちゃん、元気にしてた? ごめんね、しばらく会えなくて」
「ぐぅおぉう」
ジジーロン、分類はゆうゆうポケモン。普段は山で生活していて、時折こうして人里まで下りてくることがある。子供と遊ぶのが大好きで、しかも悪い人から子供を守ろうとする正義感も持ち合わせている頼もしいポケモンだ。その力は大変強く、怒りを露わにすると家を「たつまき」一発で吹き飛ばしてしまうほどだと言われている。小夏が「ロンちゃん」と呼んだこのジジーロンも、例にもれず優しさと強さを併せ持ったポケモンだった。
ロンちゃんはだいたい一年ほど前からこのタイヤ公園に姿を現すようになった。榁ではとても珍しいポケモンだったから、公園で遊ぶ子供たちには大人気。お母さんたちも穏やかな気質のロンちゃんを信頼して、いい遊び相手になってくれていると評判だ。しばらくもしないうちに街にすっかり溶け込んで、元の住民たちとも仲良くやっている。人間だけでなく、ポケモンたちとも総じて仲が良かった。
ただ、ロンちゃんは気ままに暮らしてはいるが、どうやら野生のポケモンではないらしい。他所から来たトレーナーが捕まえようとしたけれど、モンスターボールが弾かれてしまったのだ。つまりロンちゃんには親に当たるトレーナーがいて、普段はボールから出して放し飼いにしている、ということらしい。トレーナーがどの人なのかは誰も知らなかったし、またあえて気に掛けるような人もいなかった。
「はいこれ、オボンの実だよ。遠慮しないで食べてね」
「おぉおん」
小夏がロンちゃんにもいできたばかりのオボンの実をあげる。ロンちゃんの大好物だ。小夏はこうしてしばしばロンちゃんに会うためにタイヤ公園を訪れていて、今ではすっかり仲良しになっている。オボンの実をもしゃもしゃと食べるロンちゃんをなでてあげながら、小夏が屈み込んで語り掛ける。
「昨日ね、また優真くんにイタズラされたんだよ。それも行きと帰りで二回も! 信じらんないよね」
「ぐぉおぉ」
「ねー。ロンちゃんだって悪い子はキライだもんねー。ホント、いつまで経っても子供のままなんだから」
昨日は登校中と下校中、両方で優真からちょっかいを出されてしまって、小夏はすっかりご立腹だ。ロンちゃんも小夏に同調して、ちょっと怒ったように唸ってみせた。こうしてロンちゃんに優真にされたイタズラのことを話すのが、小夏にとってのストレス解消法の一つだったりするのだ。
「ま、優真くんのことはもういいや。わたし、ちょっと海で泳いでくるからね。また今度ね!」
「ぐぅぅうおぅ」
ロンちゃんがオボンの実を食べるのを見届けてから、小夏はくるりと振り向いて出口へ向かうのだった。
さて、ジジーロンのロンちゃんと別れた小夏はタイヤ公園を出て、そのまままっすぐ目的地の砂浜まで歩いてきた。この通りは人通りの少ない場所だったし、着替えにぴったりの岩場もある絶好のスイミングスポットだった。もちろん、にっくき優真と鉢合わせするようなこともないはず。海で泳ぐ練習をして、体力をしっかりつけよう、小夏はそう考えた。
小夏が岩陰でワンピースを脱いで学校で使っている水着に着替えると、砂浜をペタペタ走って海まで駆けていく。いっちに、さんしっ、と形ばかりだけれど準備運動を済ませてから、小夏が海へ足を踏み入れた。海水は夏の日差しとはうって変わってとても冷たくて、ちょっとばかり尻込みしてしまう。けれど水を手ですくって体にかけると、少しずつ冷たさにも慣れてきた。
そろそろ泳げそうだ――そう考えて、小夏が思い切って海へ身を任せた。
「うわっ! やっぱりしょっぱいよ、海の水」
当たり前ではあるが、プールと違って海の水は塩辛い。波があってゆらゆら揺れるし、穏やかなプールで泳ぐのとはちょっと勝手が違う。小夏は口の中に海水が入ってこないように気を付けながら、少しずつ沖を目指す。
運動が苦手な小夏がこうやって自分から練習をしているのは、もちろん水泳の授業でちゃんと泳げるようになりたいということもあった。だけどそれだけではなく、もう少し未来のことを小夏は考えていた。
(どんな事があるか分からないし、やっぱり体力つけとかないとね)
そう、これからどんな事があるか分からない。子供の小夏なりに考えて、不得意なことにも自分から取り組んでいこうと考えていた。がんばるぞ、と小夏が気合いを入れ直して、体にぐっと力を込める。
足が付くかつかないかという深さの沖合まで、休むことなく一息でやってくると、小夏が体勢を変えた。体を浮かせて海の上へうつ伏せになると、腕を前へ伸ばしてバタ足を始める。まずは右手を使って――と、小夏がクロールの練習を始めようとした――
その時、だった。
「……いっ!」
突然、足にひきつるような痛みが走る。足が攣ってしまったのだ。不意に顔をしかめた小夏が、激しく痛む足に気を取られて体勢を崩してしまう。浮かせていた体がみるみるうちに海へ沈んでいき、慌てた小夏がジタバタとその場でもがき始める。
「あっ……! だ、誰か、助、けっ……がぼっ……!」
助けを求めて声を上げる小夏、だが近くを泳ぐ人はいない。この辺りの人通りが少ないことは、他ならぬ小夏自身がよく知っていた。泳げずにもがいたせいで海水を飲んでしまい、息をすることも困難になる。やがて小夏の体が海へ沈んでいき、海面には泡が上がるばかりで。
海へ沈み始めた小夏は、足の痛みがひどく鈍く感じられていた。足の痛みだけではなく、体の感覚そのものがぼんやりして、よく分からなくなりつつあった。目の前の光景が水で濡らした絵の具のように滲んでいって、頭が少しずつ空っぽになっていく感じがする。頭の中から言葉が消えていく、記憶が思い出せなくなっていく。体はまだ海面のすぐ近くにあったはずなのに、心はまるで冷たい海の底へ沈んでいくかのよう。
そう――心が、冷たい海の底へ沈んでいくかのようだった。
*
「ったく、俺の家からポケモンセンターまで遠いんだよなあ」
優真は海沿いを歩いていた。妹の優美をポケモンセンターまで連れて行った帰りだ。ポケモンセンターでは夏休みになるとポケモンとのふれあい交流会を開催していて、優美が参加したいとせがんだのだ。母親に頼まれてポケモンセンターまで優美に付き添い、交流会が終わるお昼頃にもう一度迎えに行くことになっている。優真の家からポケモンセンターまでは歩いて三十分ほどと結構遠い。優真はそのことをぼやいていたのだ。
ポケモンセンターからの帰り際に、優美がデデンネをなでているのが見えた。家に入り込んで電気を盗み食いしようとしたあのデデンネだ。優美が迎えに来てくれるのを待っているらしい。優美もデデンネのことを気に入っているようだ。自分が旅に出るならこの子と一緒がいい、そんな風なことも言っていた。優美はまだ小学二年生、ずいぶん気の早い話だと思う反面、旅に出ることを当然だと思っている優美のことが気にかからないわけでもなく。
宮沢くんと話していた時にも考えていた通り、優真はポケモントレーナーになることにこれと言って興味がない。もちろん榁の外へ出ていくつもりもなかった。それよりも得意な水泳をもっと練習して、いつかプロの選手になりたいと思っていた。なんでも泳ぎがとてもうまいポケモンがいるらしく、それには優真も興味津々だった。プロはそうしたポケモンがトレーニング相手になってくれるとか、そういう話を聞いていた。
海沿いの街道をひとり歩く。今日は日差しがとても強い。この辺りは日陰らしい日陰もないから、日光をもろに浴びることになる。じりじりと肌が焼ける感覚が伝わってくるが、優真はこれも悪くないと思っていた。なんといっても夏はプールでも海でも泳ぎ放題で、自分の得意技を思う存分披露できる。長い夏休みで学校へ行く必要がないのも、勉強の苦手な優真にとってはありがたかった。
それとなく海を見る。海では時々遠くの沖合で人が泳いでいることがあった。もっと詳しく言うと、人に似た生き物だ。優美の友達が家に遊びに来ていた時にその生き物について話していたことがあって、名前は何でも「ミサキ」というらしい。人の名前に聞こえるけれどそうではなく、あくまで生き物の名前だそうだ。その友達はミサキにについてやけに詳しかったが、その理由は分からなかった。ああ見えて怪奇現象に詳しいオカルトマニアだとか、そういうのなのかも知れない。
「これからどうすっかなー……ん?」
海に目を向けていた優真が何かに気付いて足を止める。人影を見つけた。あれは誰だ、と目を凝らしてみると、みるみるうちに優真の表情が強張った。
「お、おい……あいつ、溺れてるんじゃ!?」
誰かが溺れている、しかもその誰かは自分のよく知っている人じゃないのか。思わず目を見開く。優真がすぐさま走り出すと、階段を駆け下りて砂浜へ向かった。
「小夏っ……! 小夏っ!!」
服も脱がずにまっすぐ海へ駆けこんでいくと、平泳ぎで沖まで泳いでいく。服を着ているときはクロールよりも平泳ぎの方がいい、以前スイミングスクールの先生から言われたことを、優真はちゃんと覚えていた。塩水が口に入るのも構わずに、優真がどんどん泳いでいく。普段からは想像もつかないような必死の形相で、ひたすら前へ進んでいく。
無我夢中で腕をかきながら、今にも海へ消えそうな彼女の名前を叫んだ。
「小夏!」
溺れているのは間違いなく小夏だ。道端で目にした瞬間から直感的にあれは小夏だと感じていて、近くまで来てやっぱり間違いなかったと確信した。どうして小夏が海で溺れているのかは分からない、けれど彼女を助けなければならないことは明らかだった。頭で考えるよりも先に体が動いて、優真が小夏との距離を一気に詰めていく。
優真があと少しで小夏に手が届くというところまで辿り着く。けれど小夏はそこで力尽きて、海の底へ沈みこもうとしてしまっていた。優真が伸ばした手は小夏に届かず、むなしく空を切るばかりで。
「おいっ! 小夏! 小夏っ!!」
ひときわ大きな声を上げて優真が小夏の名前を呼ぶが、海に呑まれた小夏から返事はなく。海へもぐって小夏を捜そうとした矢先、突然水面が揺れる。ざばあ、と大きな水しぶきを上げて、それは姿を現した。
背中まで伸びた黒い髪、冬に降る雪のような真っ白な肌。幽玄で感情を読み取れない微笑を浮かべて、驚きの表情を浮かべた優真をじっと見つめている。全身に浮かんだ珠のような滴がキラキラと光を反射させて、その体を輝かせているかのよう。
(ミサキ……?)
海に住まう人ならざる存在・ミサキ。噂話でしか聞いたことのなかったそのミサキが、今この瞬間自分の目の前にいる。ミサキは人前には決して姿を現さないと言うが、子供だけは別だと聞いたことがある。なぜ子供だけは別なのか、現れて何をするつもりなのかまでは知らなかったけれど、こうして自分の前に立っているのは夢でも何でもない事実だった。
「助ケル? コノ子」
眼前のミサキが人とは少し違う声を発する。その声に誘われるように水面に目を向けると、ミサキが溺れた小夏を抱いているのが見えた。優真が目を見開き、無意識のうちに頷く。
「海ノ子、大事」
ミサキから小夏の体を預けられた優真だったが、その小夏が息をしていないことに気付く。
「小夏っ! しっかりしろ! おい!」
体を強く揺すっても反応がない。すぐに連れて行かなければ、そう判断した優真が小夏を片腕で力いっぱい抱いて、岸に向かって泳ぎ始めた。
泳いでいく優真の姿を見送ってから、ミサキはさっと身を翻して、海の底へと消えていった。
*
――冷たい水が、自分をすっぽりと包み込んでいる。
小夏が意識を取り戻してから最初に感じたのは、冷たい水の中でたゆたう感触だった。暗い闇の中をゆっくりと沈んでゆき、下へ下へと降りていく。真っ暗な見知らぬ場所、けれど小夏は怖いとも恐ろしいとも思わなかった。まるで、そんな感情はどこか遠くへ置いてきてしまったかのように。
やがて一番下まで辿り着いて、小夏が暗く平べったい床の上に立つ。水の中にいるはずなのに、歩くこともできるし息も苦しくない。ただ、いつもより少し体が軽く感じるだけだ。眠りながら夢を見ているみたいで、けれど現実に起きていることのようでもあって。不思議な気持ちになりながら、小夏は見知らぬ場所に立っている。他には誰もいない一人ぽっちの空間で、ただぼんやり立ち尽くしている。
ここはどこだろう。小夏には分からなかった。辺りを見回してみても、まったく見当がつかない。ただ暗いだけかと思ったら、何やら建物のようなものが見える。神殿だろうか、小夏はふとそんなことを考える。図書館で読んだ本の中に、今自分の目の前にある神殿のような建物にそっくりな場所があった。カロス地方の文化遺産として登録されているその古代の神殿は、かつて強大な力を持ったポケモンが神として祀られ崇められていたという。それが今どうしてここにあるのか、小夏にはさっぱり分からなかった。
とりあえず前へ歩いてみる。ふわふわした感覚は強くなるばかりだ。自分の意思で歩いているようでもあって、誰かに歩かされているようでもあって。小夏が神殿の前まで辿り着くと、意識しないまま上を見上げる。
(なんだろう?)
上から何かが降りて来る。ゆっくりゆっくり降りて来る。光を放って輝く水色のしずくが、空の彼方からからふわりと落ちて来る。何かは分からなかった、けれど受け止めなきゃ、と小夏は思った。地面に落ちれば、形を失って壊れてしまう。それは見たくなかった。見たくないと思った。小夏が両手を前へ差し出した。
しずくを手のひらで受け止める。微かな冷たさを帯びたそれは、同時にこれから何かが始まる予感を小夏にもたらした。
――そこで不意に、小夏の意識は途切れた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。