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#04 ハートフル・ハートブレイク

「小夏! しっかりしろっ、小夏!」

優真が無我夢中で小夏を引っ張り続けて、海岸まで戻って来た。すぐさま砂浜に小夏を寝かせると、息をしているか確かめる。けれどいくら耳を澄ませてみても、それらしい音は聞こえてこない。小夏は不気味なくらい静かだった。

優真は回らない頭で懸命に過去の記憶を探し回る。溺れて息をしていない人に真っ先にすべきことは胸部の圧迫、いわゆる心臓マッサージだ。具体的な回数は思い出せないが、かなり速いペースで繰り返す必要があったはず。優真は無我夢中で小夏の胸に両手を当てると、繰り返し繰り返し力を込めて圧迫した。

だが、小夏はピクリとも動かない。心臓マッサージでは息を吹き返さない場合は、速やかに次のステップへ移行する必要があった。

(……人工呼吸、だ)

次のステップ――人工呼吸のことを思い出す。息をしていない人の口へ息を吹き込んで、外から呼吸をさせる。真面目にきちんと話を聞いていたおかげで、どういう手順で進めればいいのかしっかり記憶できていた。

瞼を下ろしたまま目覚めない小夏の顔を一目見て、優真が大きく息を吸い込む。小夏のことを普段はいけ好かないやつだと思っていて、顔を見ればちょっかいばかり出していたけれど、今の優真には小夏を助けたいという気持ちしかなかった。冷たくなりつつある小夏の頭を下げて顎を上げることで気道を確保し、優真がぐっと顔を寄せる。

「んっ……」

優真の口が小夏の唇を覆うようにして、やがてひとつに重なり合った。

肺にためた新鮮な空気を小夏の中へ送り込む。小夏の胸が緩やかに膨らみ、酸素が全身に行き渡る。もう一度目を覚ましてほしい、優真がその一心でもって、小夏に人工呼吸をつづける。

ふと、小夏の体がぴくんと震える。はっとした優真が顔を上げた、その直後だった。

「……げほっ! けほっ、けほっけほっ! はぁーっ、はぁあーっ……」

飲んでしまっていた海水を一気に吐き出して、小夏が文字通り息を吹き返した。一体何が起きたのか分かっていないみたいで、目を白黒させながら周囲をきょろきょろ見回している。そうしているとすぐに、隣にいたずぶ濡れの優真とバッタリ目が合う。

「こ、小夏……」

「優真、くん……?」

目をぱちぱちとしばたたかせる小夏を見て、優真が思わず目を逸らす。小夏の目を直に見ていると、気恥ずかしさでほっぺがかあっと熱くなってしまう。ちらちらと横目で彼女の様子をうかがいつつ、なるべくいつも通りを装って、だけどいつもとは明らかに調子が違う感じで、目覚めたばかりの小夏に言葉をかける。

「お、溺れてたから、ここまで連れてきてやったんだよ」

「溺れ……あっ、そうだわたし、海で……」

溺れていた、と優真から言われて、小夏が自分の身に起きたことを思い出し始めた。海で泳いでいたら急に足が攣ってしまい、そのまま溺れてしまったこと。どうやら優真が偶然近くを通りかかって、自分を助けてくれたようだった。確かに服を着たまま海へ入ったようだし、言われてみるとなんとなく優真に砂浜まで連れてきてもらったような、おぼろげな記憶も浮かびがってくる。

でも、どうして優真くんが? と小夏は困惑の色を隠せない。普段はイタズラばかりして、自分のことなんて大嫌いだとばかり思っていただけに、今の状況は小夏にとって不思議で仕方がなかった。

「それでお前、息してなかったら、人工呼吸して……あっ」

「人工……呼吸?」

目が点になる小夏。やばっ、と言いたげな顔をする優真。空気が変わったのを敏感に察して、優真がさっと立ち上がる。

「と、とにかく! 海をあんまり甘く見るんじゃねぇぞ。じゃあな!」

「あっ! ちょっと、優真くん! ……いたっ!」

砂浜にぽたぽたと水滴をこぼしながら、優真が早足でその場を立ち去る。小夏も立ち上がって後を追いかけようとするものの、攣っていた足はまだ回復していなくて、歩くこともままならない。優真はそのまま階段を上がって、道なりに沿って歩いて行ってしまった。

一人残された小夏は、とりあえず歩けるようになるまで座って休むことにして、今まで起きたことを頭の中で整理する。

「えーっと、わたしは海で泳いでて溺れて、優真くんに助けてもらって、それで……」

それで、の後に、小夏は固まってしまう。

(人工呼吸……だよね?)

優真がさらりと口に出したその言葉。どういう風に呼吸をさせるのか、小夏も実際にしたことはなかったものの、その様子がどんなものか見聞きはしていた。

(……わたし、優真くんにキスされたってこと!?)

それが結果的にどういう形になるのかも、またよく知っていた。

 

 

全身ずぶ濡れになった優真が、ちょっと歩きづらそうにしながら階段を上る。うつむき加減で歩く優真の顔は、ほんの少し赤く染まっていた。

(仕方ないじゃないか。ああでもしなきゃ、小夏は今頃……)

人工呼吸をするその瞬間のことは、正直に言ってよく覚えていない。恥ずかしいとかドキドキするとか、そういう気持ちは一切なくて、ただ死に瀕した小夏を助けたいという強い思いだけがあった。小夏が無事に息を吹き返して、自分の力で呼吸をして、はっきり喋るようになってからだ、いろいろな感情が湧いてきたのは。どんな形であっても、自分が小夏と唇を重ね合わせた、つまるところキスをしたというのは間違いなかった。

優真は今まで他の誰かとキスをしたことはない。初めての経験だった。そしてどうやらあの様子を見ると、小夏もまた同じだったらしい。落ち着いてからどんな気持ちになるかなんて、いくら恋愛に詳しくない優真でも簡単に想像が付く。

(……やっぱ、嫌だよな。俺となんてさ)

残念だったが、そう思うほかなかった。普段から小夏にどんな態度で接して、その結果小夏からどう思われているかを考えれば、快く思うなんてとても想像できない。今は夏休みだからまだしも、学校が始まったらどんな顔をして小夏に会えばいいのか分からなかった。小夏の方だって、優真とこれからどう接すればいいのか分からないだろう。

自分のしたことに悔いはないし、それが間違っていたとも思わない。海で溺れていた小夏の命を救えたのだから。だけどそれとは別のところで、抜きがたい複雑な思いを抱かずにはいられない。髪からこぼれる海水を拭うことも忘れて、優真は複雑な面持ちで黙々と歩き続ける。

「ちぇっ、びしょ濡れになっちまった」

気持ちを切り替えるために、あえて声に出してみた。帰ったら今着ている服を全部洗濯して、シャワーも浴びないといけない。それが終わる頃にはポケモンセンターの催し物が終わるから、今度は優美を迎えに行かなきゃいけない。休んでいる暇はなさそうだった。

幸い、今家には自分一人しかいないから、こんなひどい格好で帰っても何か言われることはない。

「よーっす、川村」

「げっ、椎名……!?」

帰り道で誰かに遭遇しなければ、だけれども。

「何よう。『げっ』なんて、ずいぶんな言い草じゃない。失礼しちゃう」

「こんなとこでお前に会うだなんて思ってなかったからだよ」

階段を上りきって、道を歩こうとした途端のことだ。真正面に立っていた椎名――小夏の友人の綾乃と出くわしてしまった。綾乃は潮風に揺れる髪を手で押さえながら、全身ずぶ濡れの優真をちょっとにやにやしながら見つめている。何が可笑しいのか分からなくて、優真の方は不満そうだ。

「うわっ、服びっしょびしょじゃない。ねぇねぇ川村、もしかして、キャモメを追っかけてて堤防から落っこちたとか?」

「ちげーよ! 服のまま海に飛び込んで、それで……」

「落っこちたんじゃなくて、自分から服着たまま海に入った、ってことかぁ。なるほどなるほど。それで?」

「えっ? あっ、いや、その……」

「よっぽど泳ぎたかったのか、それとも――服を着たまま海に飛び込むくらい急いでたのか。ま、そんなとこよね」

優真はこの綾乃という女子が大の苦手だった。ひとたび口を開くとあっという間にペースをつかまれて、いとも簡単に手玉に取られてしまう。それでいて隙あらば自分をからかってくるものだから、もうたまったものではない。

「おっ、お前には関係ないだろっ」

「ふーん。私に言いたくないようなこと、何かしてたの?」

「そ……そういう、わけじゃ……」

見ての通り、あっという間に核心を話さざるを得ない状況に持ち込まれてしまう。こういうことがどんな時でもしばしば起きてしまうから、優真は綾乃を敬遠していた。

「別に隠さなくたっていいじゃなーい。みんなにわーっと言いふらしたりするつもりなんてないよ、ホントホント」

「椎名っ、お前……」

「川村と私だけが知ってるって、案外悪くないと思うんだけどなぁ」

小夏とお喋りをしているときの綾乃はいたって素直でまともそうな感じなのに、自分が相手の時に限ってはなぜだかずーっとこんな調子だ。早く帰ってシャワーを浴びたい優真にしてみれば、こんなことで延々と時間を食われるのはたまったものではない。

思い切って一歩前に出ると、道端に立っている綾乃の横をすり抜けて、自分の家のある方角に足を向ける。

「悪いけど、俺急ぐから。じゃあな」

「えーっ、行っちゃうの?」

「帰ってシャワー浴びるんだよ」

「私の家のシャワー貸したげるけど」

「い……いやいやいや! なんでお前の家に行かなきゃいけないんだよっ」

「私の家はこっから歩いて五分、川村の家は十五分」

「遠い近いは関係ないっ」

最後の最後までからかい続ける綾乃を振り切って、優真はいつも以上に早足でその場を後にした。

一人残された綾乃が、防波堤から軽く身を乗り出して、海の方を見ながら呟く。

「――聞かせてほしかったなぁ。川村の武勇伝」

 

 

攣ってしまった足の痛みがある程度取れるまで砂浜で休んでから、小夏がちょっとよろめきながら立ち上がる。さすがに今日はもう泳ぐ気になれなかった。岩陰に置いてあったタオルで身体を拭いて、元の服に着替える。そのまま荷物をまとめると、そそくさと砂浜を後にした。

ぼんやりしながら家に帰って、水着やタオルを洗濯機に放り込んでから、家の中でぼーっと過ごす。自分でもびっくりしてしまうくらい早く時間が過ぎて、気が付くと外が夕暮れ時になっていた。やがてお母さんが帰宅して、小夏がぎこちないながらもそれを出迎える。上の空のまま夕飯の支度を手伝って、例によって帰りが遅いお父さんの分を残して食べてしまう。お父さんが明日から長期の出張に出かけるとか、そんな話も聞いた気がするが、右から左へ流れて行ってしまう。味がよくわからないまま夕食を済ませて、ぼんやりした頭のままシャワーを浴び、お母さんに髪を乾かしてもらってから自分の部屋へ戻った。

いつもの癖で自分の部屋にある学習机の椅子に座る。何かしようと思うけれどやっぱり気が散ってしまって、ざわついた気持ちがちっとも落ち着かない。塾のノートを開いて勉強しようとしてみるものの、ノートの内容がちっとも頭に入ってこなくて、頭をよぎるのは「あいつ」のことばかり。右手に目を向けると鏡が見えて、戸惑う自分の顔がはっきりと映し出されている。

知らない間に口づけを交わした、幼なじみの優真の顔。

(人工呼吸、人工呼吸だから、しょうがない、しょうがない……)

まず、優真に悪い気持ちは抱いていなかった。もちろん普段からちょっかいばかり出して来るのは嫌だった。でもそれはそれ、海で溺れていた自分を体を張って助けてくれたのは間違いない。その事自体は恩を感じていたし、人工呼吸だってやむを得なかったのは分かる。もし優真が息を吹き返させてくれなかったら、そのまま二度と目を覚まさなかったかも知れないのだ。だから、小夏は決して怒っているわけではなかった。まかり間違っても、ひどいことをされたとは思っていない。

けれども、ざわつく心を抑えることはできなくて。

(でも、でもでもでも! 唇と唇が触れたってことは、やっぱりキス……)

あれは仕方なかった、人工呼吸だった――繰り返し自分に言い聞かせてみるけど、優真と唇が触れあったという事実は揺るがない。おぼろげな記憶の中に、思っていたよりもずっと柔らかい優真の感触が確かに残っている。どんな形であれ自分と優真は口づけを交わして、それはすなわちキス以外の何者でもない。小夏は顔を真っ赤にして、ぶんぶんと頭を振るばかりだった。目覚めた時すぐ隣にいた優真も顔を紅く染めていた。同じ気持ちだったに違いない。

海で溺れて怖かったという気持ちはすっかり脇へ押しのけられて、今の小夏は「優真にキスされた」ことで頭がいっぱいだった。他には何も考えられなかったと言っていいだろう。そして浮かんできたのが、この口づけの持つ意味で。

(初キスが優真くんなんて、信じらんないよぉ……)

小夏は今まで誰かと付き合ったことなんてないし、恋人とキス、なんてシチュエーションはもちろん経験したことがない。今まで両想いの恋愛には縁がなかったとは言え、小夏だって年頃の乙女だ。ファーストキスは本当に好きな人のために取っておきたい、なんて気持ちを密かに抱いていた。それが自分の意思とは無関係に奪われて、しかも相手が自分にイタズラばかりしてくる腕白坊主の優真と来たら、小夏だってショックだ。一番あり得ない相手だった、そう言ったっていい。

初めてのキスを、どうしようもなかったとは言え優真にゲットされた。心が頭についていけなくて、考えていると頭がオーバーヒートしてしまいそう。もんもんとした思いを抱え込んで、やがてぷはっ、と息を吐いて机に突っ伏す。もう考えるのもおっくうだった。

「……もう寝よっと」

かくんと頭を垂れて、小夏が椅子を立つ。お母さんを心配させるといけないから、海で溺れたことは黙っておこう。小夏はそれだけ頭の中で整理を付けると、ベッドの上に掛かった薄手の布団をめくってもぞもぞと中へもぐりこんだ。短い間にいろいろなことを考えすぎたせいで、頭の中が霧でもかかったみたいにぼんやりしていた。

頭は働かなかったけれど、心は――ハートはまだ、ひどくざわついたままで。

それでも小夏は目をギュッと閉じて、どうにかこうにか、眠りにつくのだった。

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※作中で描写された医療行為・救命行為は必ずしも正確な手順または方法を提示するものではなく、医学の専門家による助言の代用とはなり得ません。また、その安全性並びに確実性を担保するものではありません。ご自身の健康問題に関しては、必ず医師等の専門家に相談してください。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。