空子と別れた後、ともえは自分の通う日和田市立萌葱小学校へと繋がる道をてくてく歩いていた。通学時間のちょうどピークにあるためか、萌葱小学校の生徒達が彼女の隣を次々に抜けていく。ともえはあくまでマイペースを保って、一人歩道を歩いていった。
ともえが歩き続けて、かれこれ五分ほど経った後のこと。
「巴ちゃんっ! おはよっ!」
「千尋ちゃん!」
彼女の後ろから、同級生の千尋が駆け寄ってきた。ともえは千尋の姿を見かけるとその場に立ち止まって、千尋が自分のすぐ側まで来たのを確認してから、一緒に並んで歩き始めた。
「ふー、危ない危ないっ。寝坊しちゃって焦っちゃったけど、巴ちゃんがいるならまだまだ大丈夫ね」
「千尋ちゃんったら、わたしは時計じゃないよ~。寝坊しないように、早く寝ないとダメだよ」
「そうなのよねぇ……でもほら、あたしって乙女だから、いろいろとしなきゃいけないことがあるのよ」
「えー? 夜遅くまで守くんとゲームをするのは、乙女とはあんまり関係ないと思うけど……」
困ったように言うともえに、千尋は「気にしない気にしない」と爽やかに笑ってやり過ごして見せた。ともえも千尋の性格をよく分かっているのか、それ以上深くは突っ込まなかった。
「でも、弟がいるのっていいよね。一緒に遊んだりできるし、退屈しないでしょ?」
「そうでもないわよ。守と一緒に遊ぶと、どうしてもテンポが悪くなっちゃうのよねー」
「それは多分、守くんがしっかりした性格だからじゃないかな?」
「しっかりしてるのもいいけど、男は度胸、ここ一番で突っ切る根性がなきゃ! そうでしょ?」
「あはは……そういう度胸は、千尋ちゃんのほうがありそうだね」
どーんと胸を張る千尋に、ともえは苦笑いを浮かべながら答えた。千尋は負けん気の強い、勝気な性格だった。弟の守は姉とは対照的に、穏やかで堅実な性格である。二人とも、幼い頃からのともえの友達だ。
「それにしてもさー、最近なんだか退屈なのよねー。乙女の憂鬱、ってやつかしら」
「確かに、わくわくするようなことは思い浮かばないよね。夏になれば、時祭りですごく盛り上がるんだけど」
「夏ねぇ……今は四月、それも桜も散った半ば。桜の花びらと一緒に、あたしの乙女心も散っちゃったみたいね……」
「千尋ちゃんって、乙女へのこだわりがすごいよね……」
乙女へのこだわりと言うか、ただ単に「乙女」という言葉を使いたいだけのような気がしないでもないが、ともえの言うとおり、千尋の「乙女」へのこだわりは並々ならぬものがあるようだった。
「こう、悪いやつが出てきて、可憐な巴ちゃんをさらおうとするんだけど、あたしが飛び蹴りを叩き込んで助け出す! みたいなドラマティックなイベントがあるといいんだけど……」
「わたし、さらわれちゃうのはやだよ……」
ごく当然の感想を述べて、ともえが若干嫌そうな顔を浮かべた。千尋の口にしたイベントの内容に乙女らしさが微塵も感じられないのは、ご愛嬌といったところだろう。
「後はね……そう、もっと乙女チックに……」
「乙女チックに?」
「魔法とか、使えるようになったら、面白そうじゃない?」
「千尋ちゃん、今のはちょっと乙女っぽかったよ」
「えっ?! ホント?! あたし、乙女っぽかった?!」
「うんうん。魔法なんて、女の子の夢そのものだもん」
ともえがそう評を述べると、千尋は飛び上がらんばかりに喜んだ。千尋の様子を見て、ともえがくすくすと笑う。
「千尋ちゃんを見てると、わたし、なんだか元気になるよ」
「あら、巴ちゃんっていいこと言うじゃない♪ これも乙女の為せる技ね!」
笑い合いながら歩く二人の後ろから、不意に声が飛んだ。
「また『乙女』かよ。お前みたいな乱暴女のどこが乙女なんだよ」
「なんですってぇ?!」
途端険しい表情を浮かべて、千尋が後ろを振り向く。二人の後ろに立っていたのは、ともえ・千尋の同級生の少年だった。
「あ、猛(たける)くん。おはようっ」
「よっす中原。お前も、朝から大変だな」
「ちょっと、何が大変なのよ!」
「お前がそうやって『乙女』『乙女』って連呼するから、中原が困ってるだろうと思ったんだよ」
猛は呆れ顔で言いながら、ともえと千尋の間に割って入った。ともえは笑顔を浮かべて、猛に会釈をする。一方の千尋は憮然とした表情で、割り込んできた猛をにらみつけた。
「いきなり割り込んできたと思ったら、何が乱暴女よ! あんた、あたしにケンカ売ってんの?」
「だから、そういうのが乱暴女だって証拠なんだよ」
「また言ったわね! あんた、次言ったら許さないわよ!!」
「何度でも言ってやらあ、この乱暴女」
この猛の発言に、千尋の目つきが目に見えて変わった。有体に言うと、キレたようである。
「こんの分からず屋~!! 口で言って分からないなら、体で分からせてあげるわ!!」
「おう! やってやろうじゃねえか! どっからでもかかってきやがれ!」
「はいはい二人とも、朝から元気がいいのはいいけど、ケンカはダメだよ!」
今にも飛び掛らんとしている千尋と、迎え撃つ気満々の猛との間に割って入って、ともえが二人の距離を少しずつ離した。ともえは「やれやれ」といった表情で、小さくため息をついた。
「猛くん、千尋ちゃんの気持ちも考えてあげようよ。千尋ちゃんも、すぐにケンカしようとしちゃダメ」
「分かってるけどよ……千尋が突っかかってくるんだから、しょうがねぇじゃん」
「最初に突っかかってきたのは猛のほうでしょ! そっちが悪いんじゃないっ!」
「もう、千尋ちゃんったら……そんなに怒ったら、乙女の可愛い顔が台無しだよ?」
ともえが「乙女」という単語を出して千尋をなだめると、頬を膨れさせていたはずの千尋はぱっと表情を明るくして、ともえの方へと振り向いた。
「えっ?! うそ?! 可愛い?! あたし、乙女っぽい?!」
「うんうん。千尋ちゃんは、笑ってるのが一番だよ」
「そ、そうよね! 乙女たるもの、いつも笑顔でいなきゃね!」
ともえから「乙女」と言ってもらえて満足したのか、笑って大またでのしのし歩き出す千尋に、猛は呆れたように言う。
「まったく……あいつに、中原のしとやかさの四分の一でもありゃいいんだけどな」
「あはは……でも、千尋ちゃんは元気な姿が似合うと思うよ」
先を行く千尋の後を、ともえと猛が並んで付いていく。萌葱小学校までは、あともう少しだ。
「それに、千尋ちゃんと一緒にいると、わたしも楽しいからね」
「中原は千尋と一緒にいて楽しいのか?」
「うん。千尋ちゃん、よくわたしに『ありがとう』って言ってくれるから……それを聞くと、なんだかほっとするの。一緒にいて、千尋ちゃんが喜んでくれてるんだ、って思えてね」
「そんなもんか……」
猛はともえの答えに若干煮え切らないものを感じつつも、そこからさらに掘り下げようとはしなかった。
「おはよっ、麻衣ちゃん」
「あっ、巴ちゃん。おはよう」
教室に入ると、ともえは先に学校に来ていた友人の麻衣に挨拶をした。麻衣は読んでいた本をぱたりと閉じて、声を掛けてきたともえの方を向いた。
「麻衣ちゃん、今日も朝から勉強? がんばるね~」
「うん……今度、またテストがあるから」
麻衣は閉じていた本を再び開いて、一緒に開いていたノートに何かを書き込み始めた。ともえはその隣の机にランドセルを置いて、中から教科書を取り出した。一通り教科書を取り出し終わると、空になったランドセルを手に提げて、ともえは教室の後ろにあるロッカーへと向かう。
「聞いたか? 厳島のヤツ、今度は六年の男子をやっちまったらしいぜ」
「マジかよ?! 二つも年上だぞ?!」
机の間をすり抜けるともえの隣で、登校して来た男子生徒が二人、興奮気味に話をしていた。
「厳島の弟に絡んできたところを見つけて、怒ってボコボコにしたんだってさ」
「うっわー……そんであいつ、やり返されなかったの? そん時にはほかの六年もいたんだろ? 三人くらい」
「ああ、いたぜ。けどよ、まとめてぶん殴られて、怖気づいて退散したとか」
「嘘だろ?! 怖えぇ……」
「結局、あいつは軽いのを二、三発しかもらわなかったらしいぜ……怪我にすらなって無いレベルだとか」
「うげっ、どんだけ化け物なんだよ……あいつには逆らわないほうがいいな。ヘタすりゃ殺されちまう」
その話を聞きながら、ともえはそこに出てきた「厳島」という名前の同級生の顔を思い浮かべた。
(あの子のことかな……話した事は無いけど、そんなにすごい子だったなんて……)
ほんの一瞬「厳島」のことを考えたともえの横……つまり廊下側から、ふと、こんな会話が聞こえてきた。
「厳島、今日隣のクラスのヤツとバスケやるんだ。助っ人に入ってくれねーか?」
「またか? それくらい、お前らで何とかしろよ。俺がいねえと勝てねえのかよ」
「そこを頼む! 負けたら全員ジュースをおごらされることになってんだ」
「はぁ……ったく、仕方ねえな。時間と場所を教えな。気が向いたら行ってやるぜ」
噂をすれば何とやら、というところか。廊下の外を、厳島と同級生の男子が話をしていた。
「ところでさ、ちょっと聞いたんだけどさ……」
「あぁ? 昨日六年のバカをぶっ飛ばしたって話か?」
「そうそう! なあ厳島、あの話ってマジか?」
「ああ、大体事実だぜ。数箇所間違ってるがな」
「数箇所?」
「一つ。俺がぶっ飛ばしたのは三人じゃなくて四人だ」
「一人多いの?!」
「二つ。俺は一発ももらってねえ」
「む、無傷かよ!」
「三つ。語られて無いが、俺の弟も無傷だ。噂を広めるときはこれも入れとけ」
「は、はいぃ……」
だんだん遠ざかっていく噂話を聞きながら、ともえは口を半開きにしていた。
「……すごい人もいるんだなぁ」
「……わたしも、何かすごいことを身につけてみたいなぁ……」
若干驚きどころがずれているような気がするが、これがともえの性格だった。
「どーしたのよ、巴ちゃんっ。こんなところでぽかーんと口をあけたりして」
「えっ? あっ、ううん。何でもないよ。千尋ちゃん、もう準備できたの?」
「もっちろん! 乙女たるもの、迅速な行動は基本中の基本だからね!」
ふんぞりかえって言う千尋に、ともえは笑って応える。千尋は昔から、とにかくことあるごとに「乙女」「乙女」と連呼している。ともえは千尋と長い付き合いであるから、千尋があまり乙女っぽくない事柄にも「乙女」という言葉を使いたがるのを、よく理解していた。
「乙女、かぁ……」
「麻衣ちゃん、急にどうしたのよ?」
「……………………」
千尋が「乙女」と口にしたことに、すぐ近くに立っていた麻衣が反応した。麻衣はそのまま口元に手を当てて、しばし押し黙る。
「麻衣ちゃん……?」
「……甲女(こうめ)、って、無いのかな……?」
「こ、こう……め?」
突如として「甲女」なる謎の造語を口にした麻衣に、ともえと千尋が同時に目を点にした。麻衣がこくりと小さく頷いてから、こんな説明を始めた。
「うん。乙女の『乙』って、『甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸』の『乙』なの」
「そ……そもそも、その『こーおつへーてー……なんとかかんとか』って、何かな……?」
「むかし、学校で成績をつけるときに使われてた順位だよ。乙は二番目に出てくるから、二位になるの」
「へぇー……麻衣ちゃんって、すごい物知りなのね~」
腕組みをした千尋がしきりに頷く。麻衣は隣で、更に説明を続けた。
「だから、できれば『甲女』がほしいな、って思って……」
「それだと……つまり、一番できる女の子、みたいな意味かな?」
「うん……だいたい、そんな意味になるかな……」
「あら、一番できる女の子を目指すなんて……麻衣ちゃんったら、意外に上昇志向が強いのね☆」
「そ、そんなんじゃないけど……でもわたし、一番を取らなきゃ……」
豪快に笑ってバシバシと背中を叩く千尋に、麻衣はちょっとだけ申し訳なさそうに俯くのだった。
「んじゃ、あたしと巴ちゃんは乙女、麻衣ちゃんは『甲女』を目指すってことで!」
「う、うん……わたし、がんばってみるよ……」
「なんか、知らない間に自分も乙女志望にされちゃってるよ……」
少々強引な千尋のペースに、ともえはついていくのがやっとのようであった。
「さぁ! 乙女の道も一歩から! 今日も張り切って頑張るわよ~!」
「千尋ちゃん、いつも元気だね……わたしも、あれくらい元気になれたらいいんだけど……」
「元気なのは千尋ちゃんの取り柄だからね。元気をもらった事だし、そろそろ席に戻りましょ」
「うん、そうだね」
ともえと麻衣は千尋の後を追って、それぞれ自分の座席についた。
「よーしみんなー、朝の会を始めるぞー。全員、席に着けー」
タイミングを合わせたかのように、担任の教師が教室へと入ってきた。散らばっていた生徒達が席に着いた。
「……よし。じゃあ関口、号令頼む」
「……はい」
関口、と呼ばれた長い髪の女子生徒が、担任の声に小さく頷いた。
「……起立」
静かな、けれども毅然とした声で、関口が一同に号令をかける。関口が号令と同時にすっくと立ち上がると、それに合わせて生徒達がいっせいに立ち上がった。
「……礼」
関口の動きにあわせ、皆が揃って頭を下げる。
「……着席」
椅子を引くごごごごご、という音が続けざまに聞こえて、始業前の基本動作が終わった。
「委員長って、なんか乙女っぽいわね~。立ち振る舞いとか、髪型とかっ」
「関口さんのこと? そうだね。なんだか、ちょっとお姉さんっぽいよね」
担任に聞こえない程度の声で、千尋とともえが言葉を交し合った。関口は真面目な表情で、担任にじっと目を向けている。長い水色の髪の毛が、関口をことさら落ち着いた「お姉さん」の風に見せていた。
(わたしも髪、もう少し伸ばしてみようかな……)
いかにも子供らしい、可愛い二つ結びをずっと続けているともえも、関口の髪型には憧れているようだった。
「今日の連絡事項は……んー……」
担任は間延びした口調で、持ってきた閻魔帳を眺める。
「そうだな。取り立てて連絡する事は無いが、先生たちの会議で一つ気になることがあったから、みんなにも伝えておこう」
そう前置きした上で、担任は皆に視線を向けた。
「最近、日和田で刃物を持った不審な人が外を出歩いてるらしい」
「刃物……?」
「刃物だって……」
担任の言葉に、クラスが少しざわついた。担任はそれが収まるのを待って、更に続けた。
「先生達も巡回して気をつけているが、皆も暗い時間に出歩いたり、人気の無いところへ行ったりしないようにするんだぞー。先生との約束だからなー」
それからしばし、担任の話が続いた――
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。