八月三十一日。
「明日からまた学校かぁ。登校日無かったし、みんなどんな風になってるかな」
「これが最後の夏休みになるやつも多いだろうからな。きっと、結構変わった子も多いと思うぞ」
「そうだね。けど……ここまで、本当にあっという間だったね」
「ああ。短い間にいろんなことがありすぎて、時間の感覚がよく分かんなくなってたよな」
シズクを連れた小夏、彼女に寄り添う優真。この夏に何度も繰り返された光景、それも今日が最後になる。まだまだ気温は高いけれど、空が暗くなるのが少しばかり早くなったりと、夏の終わりを感じる瞬間はたくさんあって。終わりゆく夏に、自分たちの境遇を重ねている。
昨日のうちに家族と話をして、シズクを海へ還すことにみんなが賛成してくれた。もう心配することなんて何もない。小夏も優真も覚悟ができていたし、シズクも皆と共に海へ漕ぎ出す決意ができていた。もう後ろへ振り返らない。今はただ前へ進むだけ。二人きりでシズクを送り出したいという願いを、優美も小夏の両親も受け入れてくれた。
小夏と優真は他でもないシズクの父と母で、そして母と父でもあったから。
「入れ替わったまま学校に通うのって、きっと大変だよね」
「だろうな。けど、ここまでなんとかやってきたんだ。小夏と俺なら、うまく切り抜けられるさ」
「うん。わたしもそう思うよ。だから、優真くん……」
そう言い掛けて、小夏が不意に言葉を止める。
「……ううん。そうじゃない」
隣にいた優真は彼女の意図を理解して、こくりと小さくうなずく。
「小夏」
「これからも――よろしくな」
ゆっくりと顔を上げて、自分に「小夏」と呼びかけてきた少年の姿を、少女が片時も目を逸らすことなく見つめる。
「こちらこそ、よろしくね」
「優真くん」
小夏は優真として、優真は小夏として。残りの生涯を生きていくと誓ったから。だから、自分の名前を、他人の名前として口にする。その苦しさを胸の奥に秘めて、二人はそれでも手を取って、一歩ずつ前へと進んでいく。
そうして二人が辿り着いたのは、昨日と同じ、はじまりの海だった。
「誰もいないね。海がすごく静かだよ」
「ああ。それに海だけじゃない。街全体が静まり返ってるみたいだ」
「何かあったのかなって思うくらいだよね。そんなことないはずなんだけど」
言葉を交わす二人の前には、昨日と同じ光景が広がっていた。小夏と優真が対面したフィオネの群れは微動だにせず、作り上げた陣形を乱すことなく保ったまま、シズクの来訪を待ちわびていた。やはり彼らはシズクと共に旅立つことを願っているのだ。そしてそれはシズクもまた同じ。
シズクは海へ還るべき運命にあるのだ――改めてそう理解した小夏が、シズクを強く抱いていた腕の力をそっとゆるめてやる。そのことを察したシズクがゆっくり前へ踏み込んで、海へと向かって飛び立つ準備をする。
「みぃう」
振り向いたシズクが小夏と優真の顔を見た。小夏も、優真も、今にもその手をシズクへ伸ばしてしまいそうなのを懸命にこらえて、シズクが旅立つ瞬間を見守り続けている。もう自分たちが手を出してはいけない。シズクを庇護したい気持ちを抑え込んで、優真と小夏はただ見守ることを選んだ。
小夏と優真がほとんど同時に自分の目元を軽く拭って、お日様の光をたっぷり浴びて大輪の花を咲かせたヒマワリのような笑顔を見せて、自分たちを見つめるシズクに向かって言葉をかける。
「行ってらっしゃい、シズク。身体をいたわって、いつまでも元気でいてね」
「シズクなら、きっとどんな荒波だって越えて行けるさ。小夏と俺が言うんだから、間違いない」
「どんなに離れてても、心はいつもあなたの側にいる。だからシズク、大丈夫だよ」
「これからシズクがどこに行ったって、俺たちはシズクのことを忘れない。絶対に忘れないよ」
自分を送り出してくれる、父と母の、そして母と父の言葉。シズクは二人の姿を正面に捉える。行っておいで、その意味を込めて、小夏と優真が大きくうなずく。
ざぶん。ほんの一瞬、海がざわつく感覚がした、その直後のことだった。
「みぅ――」
光。強い光が、シズクを包み込む。目もくらむような眩しさも忘れて、小夏と優真がその目を大きく見開いた。あふれる光に抱かれて、シズクに何かが起きようとしている。その「何か」を知りたくて、優真も小夏も瞬き一つせず、シズクの姿を真正面から捉え続けていた。
大きな大きな光の海の向こうで、少しずつ、本当に少しずつ、けれど確実に、間違いなく確実に、シズクがその形を変えていくのが見えた。シルエットはシズクの面影を色濃く残しながら、しかし今までのシズクとは明らかな差異がある。光の中で、シズクは生まれ変わろうとしていた。
シズクの変化を目の当たりにしていたのは小夏と優真だけではない。海を漂うフィオネたちもまた同じように、変わりゆくシズクの姿を水色の瞳で確かに捉えていた。自分を育ててくれた優真と小夏、そして自分を迎えてくれるフィオネたち。「これまで」と「これから」に見守られながら、シズクはひと時も止まることなく、自らを変化させ続けた。
「こ、小夏……!」
「光が……シズクに……!」
満ちあふれていた光が少しずつ弱くなり、シズクの身体へと収束していく。やがてすべての光がシズクに飲み込まれたとき、そこに「シズク」の姿は無かった。
「あれは……あれは……!」
「こんな、ことが……!」
かつてシズクだった者。そのフォルムには小夏も優真も見覚えがあった。フィオネにとてもよく似た、しかし間違いなくフィオネではない。ある時は書籍で、ある時はテレビの番組で、この姿を目にしたことがある。だがそれはあくまで御伽噺として、現在では否定された迷信として、決して我々の前にその姿を現すことのない、現れることなどあり得なかった存在。
「――マナフィ。シズクが……マナフィになった……」
「マナフィ……!」
幻のポケモン・マナフィ。二人の前に立っていたのは、紛れもなく、マナフィだった。
「マナフィ……タイプはみず、かいゆうポケモン」
「フィオネよりひとまわり小さな体で、フィオネたちを率いて世界中の海を回遊する」
「冷たい海の底で生まれて、生まれつき備わっている能力でどんな人やポケモンとも心を通わせることができる」
「その異名は……『蒼海の王子』……」
かつて読んだことのある本の一文が、小夏の脳裏に瞬時によみがえってきた。無意識のうちにそのすべてを口に出して、小夏が驚嘆する。
マナフィ、その異名は「蒼海の王子」。シズクは蒼海の王子マナフィへと、進化を遂げたのだ。
「――みぃ!」
シズクがフィオネたちの前に立ち、その腕を大きく振り上げる。大勢のフィオネたちが一斉に鬨の声を上げ、シズクの進化を賞賛し、称揚し、祝賀する。身体は小さくなったにもかかわらず、その存在感はフィオネだった頃よりも何倍も大きく見える。不可視世界に住む神が、人の住む世界に受肉して降臨したかのよう。
まさに「蒼海の王子」と呼ぶにふさわしい圧倒的な風格、堂々たる威容だった。
「みぅ……っ!」
「シズク……っ!」
「……シズクっ!」
フィオネたちに背を向け、シズクがもう一度、小夏と優真に向き直る。金色の瞳から熱い涙も幾筋も流しながら、けれどその顔には憂いなど一切ない満面の笑みを湛えて、自分を育んでくれた優真と小夏に、尽きることのない感謝の念を伝える。シズクのありさまを、二人もまた涙を流しながら、瞳に焼き付けている。
両親が自分をここまでずっと導いてくれた。次は自分が、仲間たちを導いてゆく番だ。シズクの目には、折れることのない強い意志が宿っていた。
「――みぃうっ!!」
全身に力を込めたシズクが声を上げて、晴れ渡った空を仰ぎ見る。
「なっ、なんだ……!?」
「きゃっ!?」
煌びやかで鮮やかな「紅い光」が迸ったのは、その瞬間だった。シズクの胸にある水晶体が激しい光を放って、今度は優真と小夏を包み込んだのだ。小夏も優真も目を開けていられなくて、思わずその目をつむる。まもなく見えなくなり、そして音も消えた世界へと二人を誘う。
すべての感覚が消え失せた瞬間、そのほんの一瞬、二人は幼い子供の声を耳にして。
『ありがとう。おとうさん、おかあさん』
海水のように澄み切った声はコトダマになって、二人の胸へ確かに届く。シズクから贈られた言葉を、我が子からの感謝の言葉を、かつて幼い少年と少女だった二人が、父と母として、その胸へ、ハートへ、深く、深く、深く刻み込む。
シズクの生まれた海の底にまで届くかのように、深く、深く、深く――。
紅い光がシズクの胸にある水晶体へと収束していく。再び小夏と優真がその姿を現して、そしてつむっていた瞼をゆっくりと開く。
「優真……くん?」
「小……夏……?」
そこには小夏がいた。そこには優真がいた。
「優真くん……!」
「小夏……!」
小夏の前には優真がいた。優真の前には小夏がいた。
今この瞬間、小夏の前にいるのは「小夏」ではない、他の誰でもない「優真」だ。姿かたちも、声も、心も、そのすべてが「優真」だ! そして優真の前にいるのは「優真」ではない、他の誰でもない「小夏」だ。姿かたちも、声も、心も、そのすべてが「小夏」だ!
「わたしたち……わたしたち、元に戻ってるっ! わたしがわたしになってる!」
「あの時と同じだ……! シズクが、俺たちの心を元の体に戻してくれたんだ!」
シズクが生まれた直後、赤い光を発して小夏と優真の心を入れ替えてしまった。それと同じことがもう一度起きて――いや、シズクが同じことを起こして、二人を元の心と体へ戻したのだ。小夏は紛れもなく小夏で、優真は紛れもなく優真。心も体も、優真で小夏なのだ。
「優真くん! 優真くんがいるよ! わたしの前に……『優真くん』がいるんだ!」
「本当に……本当に小夏なんだっ! 俺の前に立ってるのは……『小夏』なんだ!」
もう二度と自分には戻れないと思っていた、ずっと自分を隠して生きていかなければならないと覚悟していた。二人は自分たちがありのままの自分に戻れたことを喜んで、声を上げて泣きじゃくりながら、お互い強く抱き合って喜びを分かち合う。願い続けていた自分の身体への回帰、あるべき場所への帰還。
シズクがあるべき場所へ還ったように、小夏と優真もまた、あるべき場所へ還ってきたのだ。
「みぃう……!」
小夏が小夏に、優真が優真に戻ったことを、シズクもまた喜んでいる。生まれた直後に偶然放たれてしまった不思議な力を、今は自分の意志で自在に使いこなすことができる。それはシズクが成長したことの証であり、二人の親に育まれて一人前になったことを示すものでもある。最後に自分の成すべきことを成し終えて、すべてを元に戻して、シズクは仲間たちの元へと向かっていく。
シズクが海へ入る。先陣を切って前へ進むシズクに、フィオネたちが後から付き従って泳いでいく。少しずつ小さくなっていくシズクの姿を最後まで目で追いながら、小夏と優真がその旅路が素晴らしいものになることを願って、あらん限りの声でエールを送る。
「頑張れよーっ! シズクーっ!!」
「シズクーっ! 元気でねーっ!!」
親としてできる最後のこと、シズクを笑顔で送り出すという役目を見事に果たした二人には、同じ思いが去来していた。
(わたしは、皆口小夏で)
(俺は、川村優真で)
この夏をずっと一緒に過ごした、自分の姿をした優真、自分の姿をした小夏。大海へ消えゆくシズクの姿に、「彼」と「彼女」との今生の別れが、色鮮やかに重なっていく。
さよならを言おう。目の前にいた自分に、さよならを言おう。
(さよなら)
自分を取り戻した今――もう二度とまみえることのない二人に、最後のさよならを言おう。
(さよなら、わたし)
(さよなら、俺)
さよなら、わたし。さよなら、俺。
やがて海は静けさを取り戻して、ただ波の打ち寄せる音だけが聞こえるようになって。
シズクは、遥か彼方へ旅立っていった。
「ねえ優真くん、知ってる? マナフィとフィオネ、その両方にある本能のこと」
「俺だってそれくらいは知ってるさ。どれだけ遠く離れても、いつかは生まれた場所に帰ってくるって言われてる。フィオネも、マナフィも」
「うん。シズクも……またいつか、わたしたちのところへ帰ってきてくれる。そうだよね」
「その時が来てくれたら、めいっぱい、思いっきり、シズクのこと歓迎してやりたいな」
長い旅を終えて、シズクはいつかこの榁の海へ戻ってくる日が来る。戻ってきたシズクを、大手を振って迎え入れられるようにしたい。小夏も優真も、考えることは同じだった。
小夏と優真が向かい合って、そしてかつて「自分」の宿っていたその体を、今は「自分」として見つめ合う。
「わたしたち……やっと会えたんだね、優真くん」
「俺、小夏に会いたかった。ずっと会いたかったんだ」
「もう会えないって思ってた、優真くんにはもう会えないって思ってた、だから、わたし……っ」
「小夏の顔が見たかった。他でもない、小夏の顔を……っ!」
二人が手を取り合う、二人が手をつなぐ。その感触は確かに自分のもので、相手のもので、元の体に還ってきたのだということを実感する。
すべてが元通り。小夏と優真は夏が始まる前の、あるべき形へと戻ることができた。
「わたしたち、元に戻ったけど……でも、戻らなかったものだってあるよ」
「ああ。こればっかりは、もう元通りになんてならないさ」
けれど二人にとって、戻ることのないものもまた、確かに存在していて。
「俺が、小夏とずっと一緒にいたいって気持ちと」
「わたしが、優真くんのことが好きだって気持ち」
優真が小夏を想う心、小夏が優真を想う心。二人がこの夏で育んできた恋慕の感情は、決して元通りにはならない。固いきずなで結ばれた二人は、もうかつてのような関係ではなくなっていた。優真が優しく握った手を、小夏が万感の思いを込めて握りなおす。
揃って頬をリンゴのように赤く染めた二人は、しばらくそうして砂浜に立っていたけれど、やがて小夏がおずおずと口を開いて。
「あのね、優真くん。わたしたちって、その……いわゆる、恋人っ、恋人同士だと思うんだよ」
「面と向かって言われると照れくさいけど……けど、そうだよな。俺たちはお互いのことが好きだ。間違いない」
「うん、そうだよね、そうだよね。だからね、優真くん。お願いがあるの」
もう一つの手でつないだ手を覆うと、小夏が顔を真っ赤にしながら、何度もはにかんで見せて。
「口に出して言うのは恥ずかしいけど……でも、ちゃんと言葉にしなきゃ」
「声に出して言葉にしなきゃ、わたしの想いは伝わらない」
「わたしがはっきり言葉にすれば、きっと優真くんの胸に、わたしの声が届くから」
顔を上げた小夏が、優真の瞳の向こうを覗き込むようにして、そして。
「……はじめてのキス、優真くんとしたいな」
優真のビックリした顔が小夏の目に飛び込んできて、小夏がにっこりほほ笑む。小夏に負けないくらい顔を赤くした優真が、あわてた様子で目をキョロキョロさせて。
「こっ、小夏……! け、けどっ! あの時、俺……」
「あれは人工呼吸っ! 救命行為だし、キスじゃないよ! 形が似てるだけだもんっ!」
「小夏……そっか、そうだよな!」
「そう、そういうことだよ!」
動揺が収まった優真が、手をつないだままの小夏に優しい笑みを投げかける。それが嬉しくて、小夏もまたいっしょに微笑んで。
「ちゃんとした形で――もう一回、はじめてのキスをしたいな。優真くんと」
初めてのキスをしたい。小夏の意図を確かに何もかもすべて汲み取って、固く手をつないだまま、そっと彼女の元へ顔を寄せる。
「俺もだ、小夏。はじめてのキスは、小夏とがいい」
小夏と優真、優真と小夏。二人が護り育んできたハートのたまごは、長い長い道のりを経て、数多の苦難を乗り越えて。
そしてついに、かけがえのない偉大な命と、消えることのない大きな愛を、この世界へと生み出した。
「優真くん……」
「……小夏」
二人の唇が、一つに重なる。
ふたりのハートは、今、ひとつになった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。