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#39 たとえ心が此処に在らずとも

小夏と優真は優真の家まで戻って来た。母親たちと優美はどこかへ出かけたようで、家はがらんとしている。小夏、優真、そしてシズクの順番に居間へ入る。いつものように座布団を敷いて、小夏と優真が隣り合うようにして座った。その間にシズクが入り込む。いつも三人が話をする時の形になった。

つい今しがた、海で見てきたものを二人が思い返す。夏の終わりの海へ押し寄せてきたフィオネの群れと、そこに飛び込んでいって彼らを率いる姿を見せたシズク。どちらも同じものを見ていて、そして同じことを考えていて。けれどそれをすぐ口にすることはためらわれて、うまく取り繕うための言葉を探している。どこを見たって、上手い言葉なんてあるはずがないことは分かりきっているのに。

フィオネたちはシズクを歓迎していた。どうやら宮沢くんの言っていた通り、彼らは本当にシズクを迎えに来たらしい。あの様子では、シズクが自分たちの元へ来るまでずっと待ち続けることだろう。何日でも、何か月でも、彼らはシズクの来訪を――いや「帰還」を、じっと待つに違いない。

「シズク、あいつらと一緒にいて楽しかったか?」

「みぃう!」

「……そうだよね。見ればわかるよ、すっごく楽しかったって」

シズクもまたフィオネたちと共に遊んで楽しいと感じたようだ。それだけではない、ごくわずかな時間で彼らを導くリーダーとなって、集団を見事に統率して見せた。何よりシズクは自分が同胞たちを率いることに、嫌がる仕草も戸惑う様子もまるで見せなかった。彼らを引っ張ってあげることは自分の仕事で、何をおいても成すべきことだと言わんばかりの光景だった。

こうして陸にある家で一人じっとしているよりも、多くの仲間たちを引き連れて大海を往く方が自然である、そうとさえ感じられるほどに。

「小夏。やっぱり、シズクは海へ……」

「還らなきゃいけない、そういうこと……だよね」

優真も小夏も分かっていた。シズクはフィオネたちと一緒にいるべきだ、海へ還って共に暮らすべきだ、と。フィオネたちはシズクが自分たちの元へ来るのを待っている、シズクもそれを拒むことは無いだろう。彼らに交じって遊ぶ姿を見て、シズクはもう一人前のフィオネになっていたことを実感した。体の大きさだって変わらない、むしろシズクの方が少しばかり大きく見えるくらいだ。ずっと幼い子供だと思っていたシズクは、今や立派なフィオネに成長している。

あるべきところへ、還る時が来たのだ。

「分かってる、わたしだって分かってる。けど……けどっ……! シズクと離れたくなんかないよ……っ!」

「そうだよな……どこへも行かずに俺たちの家で暮らしてほしい、俺だって……そんな風に思ってるからな」

理屈では分かっている。シズクを海へ還してやる、それが自分たちがしなければならないことだと。だが心はどうだろう、とてもすんなり受け入れられるはずがなかった。二人で手塩にかけて育ててきたのだから、これからも側にいてほしいという気持ちが湧いてくるのは当然だった。シズクへの愛はとても深い、それこそ海よりも深いと言っても過言ではない。今まで通り自分たちと暮らしてほしい、小夏だって優真だって、同じ気持ちだ。

子供ながらに父として母として、ずっとシズクを見守り続けてきたのだから。

「シズクと離れたくない、それはわたしの気持ちで、優真くんの気持ちでもある」

「俺たちは同じように考えてる、少しもズレてなんかない。だけど……」

「じゃあ、シズクはどう思ってるのかな、このままずっとここにいることがシズクの幸せなのかな、って……」

小夏がシズクの顔を覗き込む。シズクは光り輝く目を彼女に向けて、何も言わずにただじっと見つめている。ふと目線を彼女から外すと、今度は隣に座っていた優真をその瞳へ映し出した。シズクに見つめられた優真は、その瞳の向こうに大きな光が、輝きが宿っているのを見た気がした。

シズクと共にいたい。その気持ちはとても強い。だがそれはどこまで行っても自分の気持ちでしかなくて、ここにいることになるシズクの気持ちではない。シズク自身はどう考えているのか、どうあることがシズクにとって幸せなのか。シズクの幸せはシズクにしか描けず、そしてシズクにしか掴めない。シズクが幸せになるための手伝いはできても、最後に幸せになるのはシズク自身なのだから。

「どうすればシズクを行かせずに済むか、帰る途中ずっと考えてたよ。本当に、ただそれしか考えてなかった」

「小夏……」

「でもね……わたし、気が付いたの。なんでわたしのお母さんとお父さんは、わたしにポケモントレーナーになってもいいって言ってくれたのか」

「……それが、愛する小夏のためになるから。小夏を愛していることにつながるから。そういうことだよな」

「うん。本当に、何もかも優真くんの言う通りだよ。いつかはきっとこの時が来るんだって、辛いけど……理解したから」

いつかはきっとこの時が、あるべきところへ還る時が来る。それが今なのだということを、二人は肌で感じ取っていた。シズクは海で生まれた子ども、いずれその海に戻らなければならないのだ。いつまでも自分たちの家に、陸に縛り付けておくことなどできはしない。自分たちのように、シズクもまたいつかは独りで生きていくことになるのだから。

シズクが海へ戻ること、それは自分たちの目指していた未来にも通じるところがある。家族の大黒柱になって母と妹を支えていこうとしている優真、ポケモントレーナーとして外の世界へ旅立とうとしている小夏。形は違っていても、二人もまた小さな家から大きな海へと漕ぎ出そうとしている。シズクと何も変わるところはない。その時優真の母は、小夏の父母は、二人の行く手を阻もうとしただろうか、家の中に閉じ込めておこうとしただろうか。

その問いに対する答えは――とても明白で、明瞭で、明確だった。

「シズクがいなくなったら、わたしたち……もうずっと、一生このままなんだね」

「……俺が小夏で、小夏が俺で。入れ替わったまま、死ぬまで過ごすことになるんだな」

一生、死ぬまで、自分たちの心は相手の身体へ宿ったまま。小夏と優真の言葉が、自分たちに重くのしかかる。シズクが生まれた瞬間に使った、二人の心を入れ替える奇跡。シズクが自分たちの前から去ってしまえば、今後二度と心が交換されることは無くなる。優真は小夏として、小夏は優真として。時が経てばやがて優真は女性になり、小夏は男性になり、相手がするはずだった経験を積み重ねていくことになる。残りの長い生涯を、異性として歩んでいくことになるのだ。

優真にも小夏にも、一方ならぬ思いが募っていく。本来の自分、自分の心とは違う誰かをずっと演じ続けなければならない。人生はきっとこれからの方がずっと長いだろう。たった一ヶ月ほどの期間でこれだけの苦労を味わってきたのだから、どれほどの辛苦が待ち構えているかなんて想像するに余りある。そして、それを他人に打ち明けることもできない。入れ替わった相手と二人、誰にも言えない秘密を抱えて生きていかねばならない。

うなだれた優真が手で顔を覆う。大きな、とても大きなため息をついて、小夏の目を見ることができないまま、掠れた声でつぶやく。

「……俺は、取り返しの付かないことをしたんだ。小夏に重いもの、いっぱい背負わせちまったんだ」

「いつかは元の体に戻れるって思ってた、だから俺……水泳大会で優勝してほしいって、そんな風に頼んで」

「一生このままってことは、小夏が水泳選手になって、母さんと優美を護っていくってことになっちまう」

「小夏は外の世界に飛び出して、したいことや見たいものがたくさんあるって、俺に教えてくれたのに」

「それなのに俺は、俺はっ……! 小夏を、小夏をっ……!」

堪え切れずに泣き出してしまった優真に、小夏は何も言わずに寄り添う、抱きしめる。家族、生活。その重荷を自分が背負う分にはなんとも思わない、重いとすら感じないだろう。だがそれを、最愛の小夏が望まぬまま担うことになるというなら話はまったく別だった。自分のせいで小夏に辛い思いをさせてしまう、彼女を苦しめてしまう、それこそが優真にとって最大の、考えられるもっとも大きな苦痛だった。

「ごめん、小夏……ごめんっ、ごめん……っ!」

小夏の夢を壊してしまった、小夏を榁に閉じ込めてしまった、優真の罪悪感は計り知れない。張り裂けそうな胸を抱いてただ謝り続ける優真の姿が痛々しくて、彼のあらゆる心が伝わってきて、小夏の瞳にも透明な涙がはっきりと浮かぶ。声を殺して泣く優真をありったけの力で抱きしめながら、小夏もまた彼に懺悔の言葉をかける。

「謝らないで、優真くん。わたしだって同じだもん、わたしだって……優真くんにつらい思いをさせちゃうんだよ」

「ポケモントレーナーになるんだって言って、そのせいで榁にいたい優真くんを外に行かせる形になっちゃったから」

「もし戻れないんだって分かってたら、優真くんがお母さんや優美ちゃんの近くにいられるようにすることだってできたのに」

「わたしが自分の夢ばっかり見てたから、だから、優真くんが目指してた未来をあきらめることになっちゃって」

「こんなのやだよ! わたしっ、優真くんにいっぱい助けてもらったのに、それを、それを……っ!」

相手に望まぬ未来を押し付ける形になってしまったのは、小夏もまた同じだった。優真は家族と共にいることを望んでいたはずなのに、それが叶わぬ状況へ彼を追い込んでしまった。トレーナーになれば数年は榁を離れることになるだろう。小夏の姿では母と妹に会うこともままならない。何よりそれが小夏自身の夢を叶えるためだったからとあっては、もはや慙愧に堪えない。己の手で優真と家族を引き裂いてしまったようなものだ。

「ごめんね……ごめんね優真くん、わたしのせいで、わたしが優真くんを……っ!」

優真の夢を奪ってしまった、優真を榁から追い出してしまった、小夏の罪悪感は計り知れない。絶望に打ちひしがれてただ謝り続ける小夏の姿が悲しくて、彼女が自分を想っているが故の苦しみだということを感じて、優真が彼女の背中へ手を回す。声を上げて泣く小夏を包み込むように抱きしめて、そして優真もまた泣いた。

「小夏っ、小夏……!」

「優真くん……っ!」

声が涸れるまで泣いて、さんざんに泣きじゃくって、とめどなく涙を流し続けて。

それから――それから二人は、改めて互いに向き合った。優真は小夏を見て、小夏は優真を見る。その二人の間には、悲痛な面持ちのシズクが鎮座していた。

シズクは海から生まれた子。小夏が海底で授かったタマゴから生まれた子。海の子はいずれ海で暮らすことになる。自分たちがここに引き留めていてはいけない、小夏も優真も同じ思いだった。だから、どれほど辛く悲しくとも、シズクを海へ送り出してあげる必要がある。シズクを育ててきた他でもない小夏と優真自身の意思で、シズクの背中を押してあげようと考えたのだ。

「わたしたち、ずっと入れ替わったままで……心はわたし、身体はあなた。そうやって、ずっと生きていくことになるんだね」

「……ああ。何があっても他人に秘密を明かしたりなんかしない、約束する」

「他のみんなが、わたしたちの外見だけを見ていていたとしても……わたしたちだけは、自分のことを憶えていたいよ」

「どんなに遠く離れてたって、俺たちはずっと一緒なんだ。俺はどこにいても、小夏のことを忘れたりはしない」

「わたしだって、優真くんのこと、いつだって想ってるから」

手を取り合った二人が、相手の目を見つめながら言葉を紡ぐ。

「俺は、皆口小夏で、川村優真」

「わたしは、川村優真で、皆口小夏」

この秘密を抱いたまま――強く生きていこう。取り合った手に力を込めあって、二人がついに決意を固める。

「……優真くん。これからのわたしたちには、辛いこと、苦しいこと、悲しいこと……たくさん、待ってると思う」

「そうだな。ほんの少し考えただけで……すぐにでも、目をつむりたくなるくらいだ」

「本当に、本当にね。でも、わたしたちはシズクに幸せになってほしい。わたしも優真くんも、同じ気持ち。そうだよね?」

「同じだよ、まったく同じだ。俺は、シズクの思うように生きてもらいたいって、心から思ってる」

「うん。シズクにはシズクの生き方があるから、シズクの幸せがあるから」

優真が目にしたのは、瞳に強い意志を宿した小夏の姿で。その姿は、自分の知っている自分そのもので。

「だから、わたしから……海の底でシズクのタマゴを見つけたわたしから、ちゃんと、ちゃんと言うよ」

小夏が結んでいた口を開いて、そして。

「シズクを――海へ還してあげよう」

確かな言葉として、その意思を明らかにした。

「……分かった、小夏。シズクを、フィオネと一緒に行かせてあげよう」

優真は小夏の言葉を受け入れて、受容して、全面的に賛同する意を示した。

二人の間に座っていたシズクがその顔を上げる。小夏と優真がシズクを見下ろす形になって、そして穏やかな口調と優しい言葉で、シズクに自分たちの意思を告げる。

「シズク。明日の朝、今日一緒に遊んだフィオネの仲間たちの所へ連れて行くよ。それからここを離れて、海で暮らすんだ」

「あの子たちは、シズクが来てくれるのを待ってる。だからね、シズク。あの子たちの所へ行ってあげて」

「海に集まったフィオネたちを、あるべき場所へ導いてやってくれ。それがきっと、シズクが成すべきことだから」

シズクは言葉を学んだわけではない。けれど優真と小夏から与えられたメッセージは、シズクの心へ壊れることなく綺麗に届いたようだ。金色の瞳に涙を浮かべて、それでも泣くのを堪えながら、シズクは、シズクは――。

その小さな頭を、確かに縦に振った。幾度も、幾度も、両親の前でうなずいてみせた。

「そっか……あなたも、あの子たちの所へ行ってあげたかったんだね、シズク」

「けど、そうしたら俺たちが悲しむ。そう思って、考えるための時間をくれたんだな」

「優しいね、シズクは優しい子なんだね。フィオネたちのことも、わたしたちのことも、いっぱい、いっぱい思ってくれて」

「シズクが優しい心を持って育ってくれたことを、俺たちは誇りに思うよ」

「もう立派な、一人前のフィオネだね。きっとあなたは、あの子たちを正しい所へ連れて行ってあげられるよ」

「自信をもっていいんだぞ、シズク。父さんと母さんが太鼓判を押してるんだ。胸を張って、堂々と生きていってくれ」

小夏と優真に力強く背中を押されたシズクは嬉しく思いながら、それでも別れは辛く悲しい。生まれた瞬間からずっと隣にいてくれて、付きっきりで自分を育ててくれた父と母、小夏と優真。彼らの手を離れて独りで生きていくことに、身を裂かれるような悲しみを覚えていたのも、また事実だった。

泣くまいと顔をゆがめているシズクを目にした小夏がそっと頭をなでてやって、その気持ちを解きほぐすように語り掛ける。

「泣いていいんだよ、甘えていいんだよ、シズク」

「俺たちの前でカッコなんてつけなくていい、ありのままのシズクでいいんだ」

泣いていい、甘えていい、カッコつけなくていい、ありのままでいい。

「みぅっ……! みぅ、みうっ……!」

小夏と優真から言葉をもらったシズクが、その瞳からワッと涙をあふれさせた。小夏と優真もまた瞳から涙が滲んできて、三人で、親子で抱き合って、わあわあと声を上げて泣き始めた。

泣いても泣いても涙は止まらなくて、共に過ごした掛け替えのない時間が次々に思い起こされて。

「ねぇシズク、覚えてる? あなたが……タマゴから生まれてきたときのことを」

「水晶玉みたいな……綺麗なタマゴを割って、シズクは外の世界へ飛び出してきたんだぞ」

夏休みが始まった日。ベッドで目覚めた小夏はタマゴを抱いていた。夢の中で見つけたタマゴだ。同じ夢を優真もまた見ていた。そこから生まれてきたのが、他でもないシズクだった。

「そのすぐ後だったんだ。俺たち二人、とんでもないことになっちまって……目の前に俺がいた時のことは、昨日のことみたいに思い出せるよ」

「わたしたちの心がそっくりそのまま入れ替わるなんて、ホント、想像もしてなかった。男の子のカラダになって、大変なこといっぱいあったしね」

何か奇跡が起きたのか、或いは神のいたずらか。シズクは小夏と優真の心を入れ替えて、優真の心を持つ小夏と、小夏の心を持つ優真にしてしまった。おかげで二人は否が応でも一緒にいることを余儀なくされて、ああでもないこうでもないと言いながら、二人三脚をすることになってしまったのだ。

「俺は最初、シズクが泣いているときにどうしたらいいのか、ちっとも分からなかった」

「まだ子供なのに……お父さんとお母さんの役目なんて絶対できっこない。そう思って、わたしの方が泣きたい気持ちになった日もあったよ」

子供が子供の面倒を見る、子供が子供の世話をする、子供が子供を育てる。優真と小夏のしようとしていたことを言い表すなら、これらを置いて他には無かった。他に言いようがなかった。まだ親の手から離れていない子供が、もっと幼い子供の親になろうとしていたのだ。どれほど大変なことか、想像するに余りある。二人はそれでも、シズクを孵した者として、シズクの親になることを誓ったのだ。

「ご飯をなかなか食べてくれなくて、どうしてだろう、ってもどかしい思いをした日もあったよ。夜泣きしたときなんて、もうげっそりしちゃったし」

「朝起きて布団がびしょ濡れになってた時はビックリしたぞ。シャワーだって冷たいのしか浴びたがらないし、風邪引くかと思ったのは一度や二度じゃないからな」

シズクを育てるのはまさに七転八倒、七転び八起きの日々だった。お腹が空いているはずなのにご飯を食べたがらない、夜更けに突然泣き出してなかなか泣き止まない、寝たと思えばおねしょをする、水浴びだって気が済むまでやめない。小夏も優真もシズクに振り回されっぱなしで、何もかもうまく行かなくて、辛いことの連続で、それでもシズクへの愛情を途切れさせることは決してなかった。

「けど、あの日から変わった気がする。海岸で俺と小夏で言い争いを始めちまって、シズクが泣いて飛び出してった日だ。覚えてるよな?」

「自分の気持ちばっかり相手にぶつけて、掴み合いのケンカになって……それでもシズクが戻ってきてくれて、本当に、本当に良かった」

あの日……積もり積もった気持ちがちょっとしたことで爆発して、小夏と優真が本気のケンカをしてしまった日のことだ。その様子を悲しんで、二人の姿を恐れて、シズクはどこか遠くへ飛んで行ってしまった。榁の街中を探し回って、危ない目にも遭いながら、シズクはまた自分たちの元へ帰ってくることを選んでくれた。そしてこの日は、小夏は優真のことを、優真は小夏のことを考えて、相手の思いに寄り添おうと決めた日でもあった。

「シズク。あなたにその名前をあげたのは、その次の日だったはずよ」

「俺も小夏も、同じ名前を考えたんだ。だからそれしかない、それが一番だって喜んだんだ」

以心伝心というものは確かに存在しているんだ、ということを実感させられた日だった。小夏も優真も、まだ名前の無かったフィオネに「シズク」という名前を与えることを考えていた。心と体を分け合っている、だからこそ気持ちが通じ合ったのかも知れない。入れ替わって苦労することばかりだったのが、この日ばかりは自分たちが共にある事を噛み締めたことを憶えている。

「怒ってたロンの前に出ていって、俺たちの前に立ってくれたことがあったよな。俺、あの時驚いたんだ。シズクがこんなに強くなってたなんて、そう思って」

「案件管理局とエーテル財団に追われて、もうダメだって思ったとき、わたしたちのことを励ましてくれたよね。わたし嬉しかった、本当に嬉しかったよ」

いつしかシズクは身も心も立派に成長して、ただ護られるだけのか弱い存在ではなくなっていた。二人を脅かすものの前に立ちはだかり、絶望した二人に勇気をもたらしてくれた。それだけの強さを、シズクは身に付けていたのだ。

すべての出来事が綺麗な思い出になって、小夏と優真、二人の胸に強く焼き付いている。死ぬまで忘れることなどないだろう。いつまでも鮮やかなまま、記憶に留まりつづけることだろう。思いのたけを語った二人が、シズクに親としての言葉を捧げる。

「シズクに会えてよかった。シズクと一緒にここまで来られて、本当に良かった」

「生まれてきてくれて――ありがとう、本当にありがとう、シズク……」

シズクに会えてよかった、生まれてきてくれてありがとう。

親としての二人が我が子のために紡ぎ出した、ありったけの感謝を込めた言葉だった。

 

 

「やだっ! シズクちゃんとお別れするなんて、絶対やだっ! やだやだやだーっ!!」

目を真っ赤にして泣きわめきながら、優美が大きな声を上げて優真に抱き付いている。フィオネの群れが海へやってきていること、シズクは彼らと共に遠くへ行くのだということを、小夏が優美に伝えたのだ。シズクと仲の良かった優美は当然のようにこれに反対して、火が点いたように泣き始めたのだ。兄妹の様子を、母は沈痛な面持ちで見つめている。

「お兄ちゃん、どうしてシズクちゃん、海へ行かなきゃいけないの……? 優美、せっかくシズクちゃんと仲良しになったのに、どうして……?」

「あのフィオネたちは、シズクを迎えに来てくれたんだ。一緒に行こう、一緒に暮らそうって」

「でもっ! シズクちゃんのおうちは、優美の家とこなつお姉ちゃんの家だもんっ! 海じゃないもん! 海じゃ……海じゃない、もんっ……!」

優美の気持ちは痛いほどわかる。自分だってほんの少し前まで、今の優美と同じ気持ちを抱いていたのだから。そんな自分が、優美を叱りつけたりすることなんてできるはずもない。できるのは優美の気持ちに寄り添ってあげること、思っていることを全部吐き出させてあげることだけ。無理に答えを押し付けようとせず、泣くのをやめさせようともせず、小夏はただ兄として、妹の気持ちを受け止めつづけた。

やだ、行かせなくない、離れ離れになりたくない……ただただそう言い続けていた優美が、ふとシズクと目が合う。シズクはとても悲しそうな顔をしていて、涙で顔をくしゃくしゃにしている優美をただじっと見つめ続けるばかりで。泣いているばかりだった優美に変化が生じたのは、それから少し経ってからで。

「シズクちゃんは……シズクちゃんは、おともだちといっしょに海へ行きたい……?」

「……みぅ。みぅ」

仲間の元へゆきたい。それはシズクの願い。優美はシズクを可愛がっていて、とても大切にしていて、シズクの望むことならしてあげたいと思っている。それは今も何も変わらない。そして今シズクは、住み慣れた家を離れて、仲間たちと共に海を渡ることを望んでいる。優美はそれが分からないような子ではなかった。

よりいっそうたくさんの涙をあふれさせて、声を嗄らして泣きながら、シズクを力いっぱい抱きしめた。

「シズクちゃん、シズクちゃんっ……!」

「遠くへ行っても、優美とお兄ちゃんとお母さんのこと、忘れないで……っ! 優美もシズクちゃんのこと、一生忘れないもん!」

「ここは……シズクちゃんのおうちだからね、いつでも帰ってきていいからね、また帰ってきて、優美といっしょにあそぼうね、いっしょに、いっしょに……!」

例えシズクが世界のどこへ行こうと、この家がシズクにとって我が家であることには変わりはない。いつでも帰ってきていい、帰ってきたらまた一緒に遊ぼう。優美の言葉は旅立つシズクの背中を優しく押してあげるもので、そしてこの上ない愛情にあふれていた。

小夏が優しい妹の背中をポンポンと叩いてあげると、優美はお兄ちゃんの胸の中で、わあわあと声を上げて泣いたのだった。

 

「シズクを海へ還すって……なっちゃん、それは本当?」

「フィオネたちがね、シズクを迎えに来たの。だから、行かせてあげようって優真くんと話したんだ」

夕飯を食べ終えたあと、優真は小夏の両親に向かって告げた。シズクを海へ還すと、やってきた仲間たちに合流させると。お父さんもお母さんも少なからず驚いていて、優真の言っていることをうまく飲み込めずにいるようだ。優真はその事を十分に理解していて、自分たちの決定がとても時間をかけたものであること、お互いに納得づくのものであることを説明した。

「シズクは海から来た子だから、いつかは海に戻る日が来る。わたしも優真くんも、そう思ったんだ」

「小夏……事情は分かったが、小夏は本当にそれでいいのか? せっかくここまで育ててきたのに、辛くはないのかい?」

「なっちゃん。なっちゃんの意志は立派よ、けれど、本心からそう思ってるのかしら? どこか、無理をしたりはしていないかしら?」

両親は娘が決めたことだからと気持ちを尊重しながらも、それがやせ我慢や一時の気の迷いではないかとても気に掛けているようだった。子供の気持ちを慮ってくれる立派な父と母に感謝しながら、それでも優真の決意は変わらなかった。

自らの境遇を振り返って、優真が両親を双眸にしっかり捉えて、自らの思いをはっきりと語った。

「お母さんやお父さんの前で嘘なんてついてもしょうがないから、ホントのことを言うよ。わたしね、すごくつらいよ。別れたくない気持ちでいっぱいだもん」

「でも……いつかみんな『その時』が来る。シズクにだって、わたしにだって。きっと、お父さんやお母さんだって同じだったと思うんだ」

「だから『その時』に、胸を張って笑顔で送り出してあげるのが……シズクのお母さんとしての、わたしの役目」

「わたしは、シズクのお母さんとして、シズクの行きたいところへ行かせてあげるよ」

保護者として、母として、優真はシズクを護り育ててきた。優真と小夏のおかげでシズクはすくすくと成長して、今まさに自分の道を歩みだそうとしている。その時母としてできることは何か。このままシズクを家に閉じ込めておくことだろうか、自らの目の届くところへ置き続けておくことだろうか。そうではない。それは違う。シズクを笑顔で送り出してあげること、シズクの旅立ちを祝うことではないか。

「なっちゃん、あなた……!」

「小夏は、そこまで考えてシズクを……」

優真の決意と覚悟は、両親にも伝わったようだった。感嘆の声を上げて、娘の下した辛くも前向きな決断を、隅々まで理解するに至った。

「小夏。小夏は、立派なお母さんだ。お母さんと同じくらい、立派なお母さんだぞ」

「なっちゃん……あなたは本当に、強くて素敵な女の子に育ってくれたのね。お母さん、なっちゃんのお母さんになれたことを……本当に、誇りに思うわ」

娘が紛れもない「母」になった姿を見たお母さんは、眼鏡を取って零れる涙を指先で拭っていた。お父さんは胸に手を当てて、娘が自分たちの手を離れていくこと、そのことの持つ意味を今一度深く噛み締めていた。もう娘は「子供」ではない、一人の女性に成長したのだと。母としての気高さはかくも美しいものなのか。これ以上娘の決めたことにとやかく言う筋合いはない。二人は優真の決断を全面的に受け入れて、シズクを海へ還すことに賛成してくれた。

 

夏休みが終わるまで――あと、一日。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。