中原さんと図書室で勉強をしたすぐ後にやってきた、日曜日のことだった。
僕はこれといって特に何をするでもなく、住宅街から最寄の駅に掛けてのそこそこ長い道のりをぶらついていた。こういうのは、一般的に言うなら「散歩」に当たるものだろう。ただ、僕自身はあまり「散歩」をしているという気持ちは無かった。外を目的も無く出歩いて、時間が潰れるのを待っている。僕の感覚としては、そちらの方が実態に即している。少しでも早く時間が過ぎて欲しいと思いながら、僕はだらだらと歩いていた。
外で時間を潰す理由は――言うまでも無いと思う。今日のような休日は僕にとっての休日であるだけでなく、あの人にとってもまた休日だからだ。つまり、家の中で一緒にいる時間が格段に増える。そんな状況で平然としていられるほど、僕は図太い神経を持ち合わせていない。僕は朝のうちから何も言わずに家を出て、夜になってから人知れず戻ってくる。休日はたいていそうして過ごしていた。
こんなことでいいのか、僕が僕に問いかける。こうするしかないんだ、僕が僕に言い返す。自分の中で繰り広げられる葛藤はもう数え切れないほど繰り返されていて、そして何度繰り返してみても決して慣れることの無いものだった。正論と現実の狭間で立ち竦んでいる、僕の置かれた状況はそう表現できた。
大きなため息を一つ吐く。一度このことは忘れよう。気を取り直して再び歩き出そうとしたとき、僕の足元で何かが動いた。
「……きゅう」
「カラカラ……? 何かあったの?」
小さく声を上げて鳴いたあと、カラカラは僕の足元を離れて一匹でトコトコと歩き始めた。
珍しいこともあるものだ。いつも僕にくっ付いてばかりいるカラカラが、自分だけで行動するなんて。僕は不思議に思いながら、カラカラの背中を追いかける。そう遠くへは行かないと分かっていても、きちんと見ていないとどこへ行ってしまうか分からない。幸いカラカラが歩くのは遅かったから、僕は余裕を持って後ろから付いて行くことができた。
カラカラが僕に先立って前を歩き始めてから、およそ三分ほど経った頃。道路の脇にある緑に塗られた歩行者向けのセーフティ・ゾーンで、カラカラが不意にぴたりと立ち止まった。今度はなんだろうと僕がカラカラの前まで出てみると、カラカラの目の前に何かが落ちているのが見えた。
「これ……財布かな?」
拾い上げて確認してみると、落ちていたのは財布、それも女性が使うちょっと洒落た感じの財布だった。誰かが落としたに違いない。落とし主の情報は何か無いだろうかと、僕は財布を開いて中を探ってみた。
……すると。
「免許証だ。名前は――『中原朝美』?」
財布の中には自動車の運転免許証が入っていて、名前欄に「中原朝美」と書かれていた。財布から受けた印象に違わず、女性の写真が貼付されている。財布の持ち主に違いない。
それはいいとして……中原朝美さん、か。
(もしかして、中原さんと関係あったりするのかな?)
この近辺で「中原」という苗字は、それこそ僕と同じクラスにいる中原さん以外には聞いた記憶が無い。それに顔写真を見ていると、そこはかとなく中原さんに似たものを感じる。雰囲気というか顔立ちというか、全体を包み込む印象が似通っているのだ。何か関係があるような気がしてならなかった。この若々しい感じは、お姉さんかもしくは従姉妹の可能性が高い気がする。
財布を拾い上げて写真をチェックしていた僕の足元で、カラカラがガサゴソと動いたのを感じた。ふと顔を上げてみると、向こうから人が歩いてくるのを見つけることができた。さらに目を凝らしてみる。若い女の人、背丈はそれほど高くない、なんだか困っている様子。何より――どこかで見かけた顔のような気が。そう思って、僕は何気なく免許証の写真を見返してみる。
(……うん。どう考えても同一人物だ)
見覚えがあるのも当然だった。向こうから歩いてきた女の人は、財布に入っていた免許証に貼られた写真と寸分違わず同じ顔をしていたからだ。状況から考えて、財布を落としてここまで探しにきたとしか思えない。足元をきょろきょろ見回しながら困った様子を見せている辺り、これはもう確定と言ってもいいはずだ。
僕は意を決して、女の人に声を掛けた。
「私ったら、どこで落としちゃったのかしら……」
「あの、すみません」
「隆史さんが心配しちゃう……あら? どうかしましたか?」
呼びかけられた女の人が、顔を上げて僕の目を見た。少し大きめの丸い眼鏡を掛けていて、髪は綺麗にまとめられた三つ編みのおさげだ。そして何より僕の目を引いたのが、間近で見ると写真で見るよりさらにずっと若く見えたことだ。僕の「お姉さんか従姉妹」の予想は間違いなく当たっているように思えた。
見た目は一旦置いといて、お財布を渡そう。
「もしかして……これ、落とされましたか?」
「……あぁっ! 私のお財布っ! これっ、拾ってくださったんですか?!」
「はい。ちょうどこの辺りに落ちてました」
この女の人は、やはりこの財布の持ち主だった。朝美さんは僕の手から即座に財布を受け取ると、確かに自分のものであることを確認するかのようにしげしげと眺めている。他の人に拾われてしまう前に落とし主が見つかってよかったと、僕は胸を撫で下ろした。
……のも、束の間のことだった。
「きゃ~っ! お財布、拾ってくれたのねっ! ありがと~っ!」
「うわわわわわわわっ?!」
僕が財布を拾ってあげたことに感動したのか(僕としては、人として当たり前のことをしたつもりだったけど……)、朝美さんがいきなり僕に抱きついてきた、いや、抱き締めてきたと言うべきだろうか。それはもうとにかく唐突に、僕をむぎゅーっとハグしたわけだ。
突然のことにタジタジとなる僕をよそに、朝美さんの大胆な感情表現は止まらない。
「よかったわー♪ 優しい人に拾ってもらえて♪」
「あ、あの……そんな、大したことじゃ……」
「そんなこと無いわ、だって私の大事なお財布なんですもの♪」
朝美さんはただ抱き締めるだけでは感情表現として足りないと感じたようで、ハグだけでなく頬ずりまで加えてきた。あの、僕は一体何をどうすれば。今のシチュエーションに頭がまったくついていかなかった。だって考えてもみてほしい。お財布を拾ったら若くて綺麗な女の人に抱きつかれたんだ。嬉しくないわけが無い。あれ、なんかおかしい気がする。
繰り返しずずいずずいと頬ずりされる僕。いやあ、これぞもち肌と言うべきか。実にすべすべだ。そして柔らかい。ふにふにだ。それから、えーっと、これは今気づいたんだけど、僕は胸の中に抱き締められているわけで、その、なんだ。うん、結構大きいなあ。形もしっかりしてる気がする。今は割と控えめの中原さんも将来的にはこんな感じになるのだろうか、実に楽しみだ。いやそうじゃない。そうじゃないぞ僕。
とまあ、煩悩全開の僕をひとしきり抱っこして頬ずりして、ようやく満足した様子の朝美さんが僕を解放した。ああ残念、じゃなくて。これでようやく話ができそうだ。
「ごめんなさい、ビックリさせちゃったわね。でも、拾ってくれて助かったのは本当よ。ありがとうね」
「はい。それで……えっと、拾ったときに免許証を見せてもらったんですけど、もしかして東中の中原……」
「あら? ともえちゃんのこと、知ってるの?」
やっぱり。僕の見立ては正しかったようだった。
「はい。僕、同じクラスにいる、川島秀明って言います。中原さんとは、最近よく話したりしてます」
「ともえちゃんと仲良くしてくれてるのね。どうもありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます」
「うふふっ。ともえちゃん、最近はりきって学校に行くようになったと思ったら、こんな素敵なお友達がいたなんてね。仲良くしてくれてうれしいわ」
朝美さんはぺこりと丁寧にお辞儀をして、僕が中原さんと仲良くしていることに感謝してくれた。僕自身中原さんと一緒にいられて楽しいから、むしろ僕の方こそお礼を言うべきだった。どういたしまして、僕の方こそ仲良くしていただいてありがとうございます。僕がそう返すと、朝美さんは朗らかに笑って見せた。
それにしても――やっぱり若々しい人だ。中原さんに比べて大人っぽい感じはするけど、それでもそこまで歳が離れているとは思えない。朝美さんは中原さんのお姉さんだろう。そうでなきゃ従姉妹。これは絶対に間違いない。姉妹揃って可愛いなんて、実にいいことじゃないか。
しかし、こんな綺麗なお姉さんがいるなら、どうして僕に教えてくれなかったんだろうか。もしかして、お姉さんに気が移っちゃうとでも思ったのだろうか。そうだとすると、これまた中原さんも可愛いと思う。
「けど、中原さんにお姉さんがいたとはなあ……そんなこと、思いもしなかったよ」
考えているうちに独り言が零れる。あ、これ口に出して言わなくてもよかったかも。言ってから決まってそう思うのが僕のパターンだった。こういうのは胸のうちに止めておくべき、本当にただの独り言に過ぎないのだから。
「秀明くん……今、なんて? ともえちゃんのお姉ちゃんがどうとか……」
「えっ?」
「まさか、ともえちゃんがお姉ちゃんの話をしたなんて……」
それは、思考がゆるんでいた僕が急にハッとさせられるほどのものだった。朝美さんは先程までの朗らかさが微塵も見受けられないような緊迫した面持ちを僕に向けて、僕の独り言について問い掛けていた。
ともえちゃん、つまり中原さんにお姉さんがいる、僕はただそう呟いただけのつもりだった。けれどそれは、今の雰囲気から察するに、何か特別な意味を持った言葉になってしまった。朝美さんの見開かれた目が僕を見据えている。何か答えを求められているような気がして、僕は何か適切な答えを返そうとした。けれど、そもそも何が起きているのか、あるいは何が起きたのかを知る由もない僕がどうにかできるわけがなかった。
僕が答えあぐねている様子をみた朝美さんが何かを察したようで、ふっと顔の緊張を緩めるのが見て取れた。僕が戸惑っているのを見て、話が噛み合っていないと理解してくれたみたいだった。
「ごめんなさい、秀明くん。今のは、気にしないでね」
「は、はあ……分かりました。すみません、ヘンなこと言って……」
「ううん、秀明くんは悪くないのよ。ただ、少し気になっただけだから」
元の明るい笑顔を取り戻すと、朝美さんが手にしていた財布を小さな手提げカバンの中へしまい込んだ。
「秀明くん。これからも、ともえちゃんと仲良くしてあげてね」
「あ、はい。僕の方こそ、よろしくお願いします」
「ええ、帰ったらともえちゃんに伝えておくわ」
朝美さんが姿勢を正す。これから家へ帰るつもりだろう。思ったよりも話が長くなったなあ。
「それにしても――ともえちゃんったら」
「それにしても……?」
「こんな素敵なボーイフレンドがいるなら、早くお母さんの私にも紹介してくれればいいのに♪」
「…………はい?」
はて? これは何かの聞き間違いだろうか。
僕の耳が腐っていなければ、朝美さんは今間違いなく「お母さんの私」と言った。念のためもう一度言っておくと、「お母さんの私」だ。「お姉さんの私」でも「お姉ちゃんの私」でも「お母さんに」でもない。
紛れもなく「お母さんの私」だ。
「秀明くん。ともえちゃんのこと、お母さんからもよろしくお願いするわね。それじゃ!」
「……………………」
呆然とする僕をよそに、朝美さん、つまり中原さんのお母さんは、颯爽と来た道を引き返していった。
あの若々しい女の人は、中原さんのお姉さんでも従姉妹でもなく、中原さんのお母さんだった。その事実を前にして、僕はただ愕然とするほかなかった。愕然とするほかなかったというか、これなんてエロゲ? という言葉が何回も何回も繰り返し僕の脳内を左右に往復した。この話自体が二十世紀末から二十一世紀初頭くらいにかけてたくさん出たエロゲのシナリオみたいだとかは言ってはいけない。それはこの僕が一番よく知っている。
「あの人、中原さんのお母さんだったんだ」
どうでもいい雑多な考えはドブにでも捨てて、去っていったばかりの朝美さんのことを思い返す。中原さんのことを「ともえちゃん」と呼んで、僕に「仲良くしてあげてほしい」と言っていた。僕の見た限り、中原さんと朝美さんの仲はよさそうに見えた。
普段から互いに心を通わせている姿が、僕には容易に想像できた。
「……母親、か」
ため息混じりに呟く。
母親。僕はその短い言葉を呟く度に、言い知れぬ胸の痛みを覚える。突き刺すような痛みを堪えていると、眩暈がしてきそうになった。
何かから逃げるように投げ出した視線の先に、僕はあいつの姿を見た。
「……」
「……そんな目で見るなよ。僕だって、苦しいんだ」
それでもあいつは、僕に寂しげな目を向けるのを止めようとはしなかった。
――その日は結局、いつもより一回り遅い時間になってから、家へ帰った。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。