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#19 Get Down to Business

ベッドの上で眠る中原さんを、僕はもうかれこれ三十分ほどずっと見詰め続けている。その間僕は何を考えるでもなく、ただ時間が流れるままに任せていた。何かを考えようとしても、形を成す前にぼろぼろと崩れて手から零れ落ちていく。その感覚が、僕を支配していた。

作業を終えた保険医の先生が、椅子に座ったままの僕に向かって歩いてくるのが見えた。

「今、中原さんのお父さんから連絡があったわ。すぐに迎えに来るって」

「そうですか……連絡がついて、よかったです」

「そうね。車で中原さんを家へ送り届けるつもりだって、そう言ってたわ」

起きた出来事の重大さを鑑みて、保険医の先生は中原さんの両親、朝美さんと隆史さんに連絡を取った。二人は共働きでどちらも仕事に出ていたために、家には誰もいない状態だった。二人の職場へ直接連絡して、先に都合のついた隆史さんが中原さんを迎えにくることになった、というわけだ。

肩を落として中原さんに視線を向ける僕に、保険医の先生が言葉を掛けてきた。

「幸い、と言っては何だけど、中原さんの傷はそんなに深くなかったわ」

「多分だけど……血が流れて来たのを見て、そのショックで気を失ったんじゃないかしら」

「もう血も止まったし、容態は安定しているわ。だから、心配しないで」

中原さんが自分で切った左手首の傷は、それほど深いものではなかった。血は少し多く流れてしまったけれど、急を要するような事態じゃなかったってことだ。適切な処置を受けて、中原さんはベッドで静かに眠っている。目を覚ますまでにはもう少し時間が必要だというのが、先生の見解だった。

――ただ。

「……とはいえ、何度も繰り返してるみたいだから、そういう意味じゃ安心はできないけれども」

今回の傷、それから一昨日に切ったという傷以外にも、中原さんの手首にはかなりの数の傷痕があった。どれも傷の形からして自分から切りつけたもので、今回と同じようなやり口で刃物を当てたものだろうという見解が出された。こんなことは、昨日今日になって始めたんじゃないってことだ。

今までは服の着かたを工夫したり、リストバンドを巻いたりして、巧妙にその存在が隠されてきていた。だから、少なくとも学校内で、中原さんがリストカットを繰り返している事を知っている人は誰もいなかった。近しい友人や部活の先輩後輩を含めて、ことごとくが、だ。

「あの。後輩の女の子は、今はどうしてますか」

「鹿島さんのことね。まだ生徒指導室にいるはずよ。詳しい事情を聞いてるところなの。相当ショックだったみたいで、話すのに時間が掛かってるようね」

「今日の事と、やっぱり……部活の事もでしょうか」

「そうね。バドミントン部で何があったかはそのうち分かるでしょうけど、少なくとも、今日中原さんがこんなことをするきっかけになったのは事実だから」

中原さんと話をしていた唯奈ちゃんは、生徒指導室で事情を聞かれている。僕も初めの方に少しだけ呼ばれて、中原さんの身に起こった出来事について二、三質問を受けた。もっとも、僕はあくまで「自殺を図った中原さんを助けに入ったクラスメート」として認識されているようだったから、彼女との関係を根掘り葉掘り聞かれたり、あらぬ疑いをかけられるようなことは無かった。

もちろん――その中で、この一件に深く関わっているに違いないポケモンの存在について訊かれるようなことも、また無かった。

「川島くんは、まだ彼女の側にいる?」

「それでも、構いませんか」

「ええ。担任の先生にも話はしてあるし、事が事だから、気に掛かるのも自然なことだと思うわ」

僕が中原さんの側にいることを、保険医の先生はあっさり許可してくれた。僕は素直にその言葉に甘えて、眠ったままの中原さんを見守り続けることにした。

さらに四十分ほどが経った。僕はこれを長いとも短いとも感じられず、ただ数字が積み重なっていく無機質な感覚として認識していた。相変わらず中原さんは目を覚まさない。もしかしたら、僕が見たのはただの夢か幻で、疲れて倒れた中原さんを保健室まで運び込んだだけなんじゃないか。一瞬そう思いかけて視線を上げた先に、中原さんから脱がされてハンガーに掛けられた紺色のブレザーがあった。

手首から流した血の痕がブレザーに染み込んで赤黒くなって、くっきりと残っていた。

「――すみません」

茫漠たる思いのまま血の着いたブレザーを眺めていると、聞き覚えのある声と共に保健室の扉が開けられた。保険医の先生が立ち上がって、来訪者を出迎える。

「中原さん。お忙しいところすみません」

「いえ……こちらこそ、ご迷惑をおかけしてしまいました」

スーツを脱いで腕に掛けた隆史さんが、しきりに頭を下げていた。前に中原家の前で出会ったときとはまったく違う、落ち着き払った「大人」の態度を見せていた。僕が立ち上がって視線を投げかけると、隆史さんもすぐに気がついた。何が起きたのかを瞬時に察した隆史さんが、頷き返して僕に応じた。

「もしかして、ともえは――」

「ええ。同じクラスの川島くんが、手首を切った中原さんをすぐに見つけて、保健室まで運んできてくれたんです」

保険医の先生が中原さんが自殺未遂を起こすまでの事情を簡潔に説明して、隆史さんは静かに耳を傾けていた。

「そういうわけで、命に別状はありません。ただ、出血が少し多かったので、しばらくは安静にしている必要があります」

「車でここへ来ているんですが、ともえを連れて帰っても大丈夫でしょうか」

「ええ。それくらいなら、特に問題はありません。今は眠っていますから、小型のストレッチャーか、車椅子をお貸ししましょうか?」

「いえ。俺が車まで抱えていきます」

ベッドで眠る中原さんを横目で一瞥して、隆史さんがそう言い切った。

「それと……もう一ついいでしょうか」

「はい。なんでしょう?」

「ここにいる川島君と、折り入って話がしたいのですが、彼を一緒に連れて行っても構いませんか」

「それは……」

僕は何も言わずに小さく頷く。答えはそれだけで十分だった。

隆史さんが何を話したいのか、僕には察しが付いていたし、それを聞く覚悟もできていた。

「……ええ、いいでしょう。担任にはその旨お伝えしておきます。川島君、教室から荷物を持ってきて」

「分かりました。中原さんの分も、一緒に持ってきます」

僕は椅子から立ち上がって、保健室を後にした。

 

隆史さんが中原さんを後部座席に静かに横たえるのを見てから、僕は助手席に乗り込む。キーを回してエンジンを点火すると、隆史さんは間を置かず車を発進させた。

そう長くは無い沈黙を挟んだあと、先に口火を切ったのは隆史さんの方だった。

「……ともえを助けてくれたのは、やっぱりお前だったか」

「もしかして、学校へ行くまでに何か予想はしてましたか」

「ああ、なんとなくな。同じクラスの男子だって聞いて、ついこの間家に来た川島って奴じゃねえかとは思ってたさ」

眼前の信号が赤く灯る。車は緩やかに速度を落として、道路に敷かれた剥げ掛けの白線の内側でぐっと停止した。

「すまねえな。ややこしいことに巻き込んじまって」

「いえ……僕が、もっと早く気付いて、中原さんを止めていれば……」

「けっ、言われてもねえことで謝るもんじゃあねえぜ」

「……ありがとうございます」

「いつかどっかで、今日みてえな事が起こるとは思ってたんだ。気に病むのは止してくれ」

確かに、僕が早く飛び出して、中原さんを取り押さえていれば、手首を切りつけるような真似は未然に防げたかも知れない。それを踏まえてみても、隆史さんの言う通りだった。中原さんはいずれどこかのタイミングで、本気で自ら命を絶とうとしていただろう。今日のように手首を切っていたかも知れないし、首を括っていたかも知れないし、屋上の手摺りを乗り越えていたかも知れない。僕はそう考えざるを得なかった。

「それでだ、川島」

青に切り替わった信号を確認してから、隆史さんが車を再発進させた。

「お前は――ともえのことを、どれくらい知ってる」

本題に入ったと、僕は小さく身構えた。隆史さんは、僕と中原さんがポケモンを通していろいろとやり取りしていることを直接知っているわけじゃないけれど、中原さんと親しいということは既に知っている。だから、どの程度「親しい」のかを知りたいと考えているのだろう。僕がただの親しい友達なのか、或いはそれとは色合いが異なるのか。これから話をするにあたって、それは間違いなく必要な前提だった。

僕は思い切って、恐らく確信に近いだろうと思っている言葉を口に出した。

「中原さんには、お姉さんが居たんですか」

僕に向けられた隆史さんの目が一瞬驚きで見開かれて、直後に元の姿を取り戻す。大きな大きなため息を一つついて、右手で顔をごしごしと拭うのが見えた。

「川島。お前、質問に質問で返すんじゃねえって学校で習わなかったのか」

「学校の知識なんて、社会じゃ役に立ちません」

「けっ。そりゃ、社会に出たことのねえガキの言い草ってもんだ」

見通しの良い道路。前方に車が無いことを確認して、隆史さんがアクセルを深く踏み込む。

「だが」

「それを知ってるってことは――」

これ以上何も訊く必要はない。続きは落ち着いたところで話すべきだ。隆史さんは何も言わなかったけれど、態度からその意思が容易に読み取れた。僕もこの場ではもう何も言わなかった。僕も隆史さんも、次に何をすべきか完全に理解していたからだ。

車が入り組んだ住宅街を抜けて、あるところで見慣れた道に入ったかと思うと、間もなく中原家の前まで辿りついた。窓の外に目をやると、同じく仕事から帰ってきたのだろう、朝美さんが門の前で既に待機しているのが見えた。隆史さんは車を家の前で止めると、パワーウィンドウを開けて朝美さんに声を掛けた。

「隆史さん」

「朝美、帰ってきてたか。すまねえが、ともえを下ろすのを手伝ってくれるか」

「ええ、分かったわ。それと――」

朝美さんが運転席側からぐっと中を覗き込む。流れで僕と目が合った。

「秀明くん、来てくれたのね」

「はい」

「ありがとう。ともえちゃんを部屋へ運ぶから、少し待っててちょうだいね」

朝美さんと隆史さんが、未だ目を覚まさない中原さんを、彼女の自室まで運んでいった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。