爽やかに晴れ渡った青い空を、小さな雀たちが緩い集まりを成して飛んでいく。いつも横を通る住宅から顔を出すイチョウの葉が少しずつ色付き、秋の訪れが近いことを告げていた。今年の秋は、例年に比べて暖かいらしい。昨日流れていたテレビのニュース番組で、そんな話を耳にした気がする。
ぐっと顔を上げて空を見上げ、流すように横を向いてイチョウの木を眺め、そして無意識のうちに足元へ目を向ける。
目を向けた先には、何も見当たらなかった。
時々こうして足元を確かめて、あの、僕にくっついていた小さな影がいなくなったことを目の当たりにする度に、僕は変わったのだということを実感した。
かつての日々が、思い出と呼ぶべき旧い記憶に変わりつつあった。
そして僕は、足元へ投げ掛けていた視線を上向きにする。
「今日もいい天気だね、秀明くん」
「うん。過ごし易くて気持ちがいいよ」
僕の隣には、朗らかな笑顔を見せる、中原さんの姿があった。
両親と心を通わせた中原さんは、少しの間休養を取って身体を休めるとすっかり元気を取り戻して、再び学校へ通えるようになった。学校を休んでいたことを級友に心配されたのも、今となっては過去のこと。元通りの日常を取り戻して、今ここに至っている。
元通りの日常、それはちょっと正しくない。もっときちんと言うなら、中原さんが本当にあるべき、本来の日常と言った方が正しい。自分を救ってくれた姉のことを知らずにいたかつての日々でも、自分が姉や両親を不幸にしたと責め苛み続けた過去の日々でもない。すべてを認識し、理解し、受容した、新しい日々だ。
大きく変化した日常の中に、僕らはいた。
「あれから、バド部がどうなったかだけどね」
「唯奈ちゃんのこと、だよね」
「うん。あれで全部表に出ちゃって、学校の中で大騒ぎになったみたい」
「そりゃあ、人が一人死に掛けたんだから。仕方ないよ」
「わたしが自殺しようとしたって分かって、唯奈ちゃんを苛めてたり、苛めてるのを黙って見てたりした子たちが、真っ青になって謝ってきたよ」
「中原さんに謝るのもいいけど、それよりもまず唯奈ちゃんに謝らなきゃね」
「もちろん、わたしもそう言ったよ。先に唯奈ちゃんに謝ってきなよ、って。それで、もう二度と苛めたりしないって約束させて、今はすっかり落ち着いたみたい」
「そうだったんだね。いろいろ大変な事件だったけど、根本の原因が解決してよかったよ。これこそ『怪我の功名』ってやつかな」
「自作自演、と言えなくもないけどね。細かいことは気にしない気にしないっ」
状況が良くなったのは間違いないからね。そう言って屈託なく笑う中原さんの表情からは、かつて窺えた抜き難い陰はすっかり消え失せていた。心から笑っているからこそ、表情にも明るさが出るんだと、僕は思った。
道半ばに到達しようかという頃、僕は別の話題を切り出した。
「この間、母さんの墓参りに行ってきたんだ」
中原さんが僕に顔を向けるのが分かった。横目でそれを見た僕は、彼女に顔を向けて話を続けた。
「父さんと一緒にね。四年ぶりくらいになるよ」
「そっか……もう、そんなになるんだね」
「僕も、こんなに時間が経ってるなんて思ってなかったよ。その間ずっと悩んでたせいかも知れないけどさ」
「自分の中で必死に考えてたから、時間の流れが分からなくなっちゃってたのかもね」
「きっと、そうだと思うよ」
ほとんど同じ時期に、とてもよく似た理由で、僕と中原さんは自分との戦いを始めた。自分が生きていること、もっと遡って、自分が生まれたこと。多くの人にとって当然のことに思えるようなそれらを、僕らはあらゆる角度から疑って、否定しに掛かろうとした。だけどそれは、今この瞬間自分が存在していることを否定することに他ならない。だからどうしても受け入れられずに、悶々とした日々を過ごすしか手立てがなかった。
時間の流れに無頓着になるのも、致し方ないことだった。
「わたしもね、お姉ちゃんのお墓参りに行ってきたの」
「ああ、中原さんも行ってきたんだ」
「うん。お父さんの実家の近くにあって、車で一時間くらいのところ」
「意外と近くにあったんだね」
「そうだね。わたし、その時に初めてお墓の場所を教えてもらったよ」
山に囲まれた静かでいいところだったから、きっとお姉ちゃんも気に入ってくれてるよ。墓所を望むように遠くの空を仰いで、中原さんが呟く。
「秀明くん、お母さんに言えた?」
「……大丈夫。言ってきたよ」
母さんの墓標を前にした時の光景が、脳裏を過る。
「中原さんこそ、お姉さんにちゃんと言えた?」
「うん……ちゃんと、言ってきたよ」
中原さんも、また同じようだった。
僕らがそれぞれ何を言ったか、それを口に出して言うことはなかった。
『僕を産んでくれて、ありがとう』
『わたしの命を繋いでくれて、ありがとう』
わざわざ口に出して言うまでもなく、自分の言うべきこと、相手の言うべきこと、そのどちらも分かっていたからだ。
僕と中原さんの目が合う。中原さんが話をしたそうな素振りを見せていたから、僕は彼女が話し始めるのを待った。僕が聞く体勢に入っている事を察した中原さんが、小さく息をついてから、僕にこう言った。
「ポケモン、見えなくなっちゃったね」
僕らにはもう、ポケモンが見えなくなっていた。
足元にくっついていたカラカラも、胸の中にしまわれていたチェリンボも、今はもう影も形も見当たらない。あの日手を繋いで消えていった時から、僕も中原さんもポケモンを見ることができなくなった。カラカラとチェリンボが見えなくなったのだから、仮に近くに他のポケモンがいたとしても、きっと見ることは叶わないだろう。
「やっぱり、消えちゃったのかな……もしかしたら、見えなくなっただけで、二人一緒にどこかで暮らしてるかも知れないけど」
「わたしは、そっちの方がいいなって思うよ。完全に消えちゃったら、やっぱり寂しいしね」
少し寂しげな様子を見せて、中原さんが顔を俯けさせる。
「ポケモンが見えなくなって……わたし達、『普通』になったのかな?」
「見えていた頃よりは、『普通』に近づけたと思うよ。いいのか悪いのかは別としても、ね」
「そっか……そうだよね」
普通。僕らがそれに近づいたのかと問われて、僕は思っていることをそのまま口にした。少しはそれに近づくことができたと思う。ただ、それがよかったのか悪かったのかは分からない。結果はこれからの人生の中で、徐々に明らかになってくるだろう。
「ねえ、秀明くん」
不意に足を止めて、中原さんが僕の名前を呼んだ。僕もすぐに立ち止まる。正面から互いに見合う形になった。
「秀明くんは、わたしがまだチェリンボを見れた頃に、こんな風に言ってくれたよね」
「『中原さんにチェリンボが見える限り、僕が側にいるよ』って」
「わたし、あの時すごくうれしかった。秀明くんが側にいてくれるんだって思って、すっごく心強かった」
「ずっと一緒にいられる。そんな風にまで思っちゃってた」
「……だけど」
中原さんが足元に視線を投げ掛ける。
「わたしも秀明くんも、自分と向き合って、お父さんやお母さんと話をした」
「いつかしなきゃいけないことだったし、わたしもお父さんやお母さんとちゃんと話ができて、ホントによかったと思ってるよ」
「でも……わたしが、自分を受け入れたから、チェリンボは見えなくなった」
「それは秀明くんも同じで、わたし達はもう、ポケモンを見ることはできない」
「だから――」
足元に預けていた目線を持ち上げて、僕の目を真っ直ぐに見据えた。
「秀明くんは、どこかへ行っちゃうの?」
僕を見つめる目は、不安の色に染まっていた。
中原さんと僕を結びつけたのは、中原さんのチェリンボだった。カラカラとチェリンボがいたから、僕と彼女は心を通わせて、仲良くなって、お互いの心の内を明かせるような間柄にまでなった。ポケモンがいたからこそ、僕と中原さんはここまでたどり着くことができたと言っていい。
そのポケモンが僕らの前から姿を消して、果たしてこのまま一緒にいられるのだろうか?
「――確かに僕らは、もうポケモンは見えなくなった」
「カラカラもチェリンボも、僕らの前からいなくなった」
僕は、その問いにこう応えた。
「それでも、僕がここからいなくなったりはしないよ」
「前に、僕にこう言ってくれたよね。『ずっと、同じものを見ていけたらいいね』って」
「僕らはもう、ポケモンは見えなくなった。だけど、同じものを見ていくことはできる。僕はそう思う」
ポケモンが見えなくなったこと。それはもう動かしようの無い事実だ。けれど、ポケモンがいなくなっても、同じ目線で同じものを見続けていくことは、決して不可能なことじゃない。時には衝突することもあると思う、喧嘩だってしないとは思えない。それでも、こうしてめぐり合うことができた縁を、僕は大事にしたかった。
カラカラとチェリンボが結んでくれた絆を、僕はこれから、自分たちの手で育んでいきたかった。
「だから――僕は、ともえちゃんの側にいるよ」
彼女と共に在りたいという思いを、僕は率直に告げた。
「……ありがとう、秀明くん。これからも、よろしくね」
「こちらこそ、ともえちゃん」
笑顔を取り戻した表情の方が、彼女には格段に似合っている。僕にはそう思えてならなかった。
「うん。やっぱり『ともえちゃん』の方が、可愛い感じがしていいと思うよ」
「やっぱりちょっと子供っぽい気はするけど……でも、お母さんから名前の意味を教えてもらったから、今は素直に受け止められるよ」
「そうだよね。それに、子供らしさの残る今の控えめの発育を踏まえても、『ともえちゃん』の方がしっくり」
「そっちは関係ないよっ! ぜんっぜん関係ないよっ! 秀明くんったら、油断も隙もないよっ!」
「えぇー。そうかな?」
「そうだよ! それに、わたしだってもうちょっとしたらお母さんみたいになるんだもんっ!」
「うん、それはそれでいいね。今から楽しみで楽しみで仕方ないよ」
「うー……秀明くんのヘンタイっ! やっぱりどっか行っちゃえ! わたしもう知らないっ!」
「ごめんごめん、ちょっと本音が出ちゃって」
「謝ってないよそれ! これっぽっちも謝ってないよっ!!」
ああだこうだと騒ぎながら歩いていった僕らは、やがて、あの横断歩道に差し掛かった。
信号が、赤のランプを灯しているのを見る。
「ねえ、ともえちゃん」
「知らないっ」
僕が呼び掛けてみても、彼女はふくれっ面をしてつれない返事をするばかり。ちょっとからかい過ぎたかも。僕は苦笑いを浮かべて、少しばかり反省した。
ここは、ちゃんと気持ちを伝えてあげないといけないな。
「ほら。もうすぐ、信号が変わるよ」
僕はそう言って――彼女に手を差し出した。
彼女の目が僕を見つめる。僕は穏やかな気持ちで、こくり、と小さく頷いて見せた。
赤を灯していた信号が、ぱっと青に切り替わる。
「一緒に行こう、ともえちゃん」
僕が差し出した手を、彼女ははにかんだ笑顔を見せながら、そっと取った。
僕らは手をしっかり繋ぐと、歩道から一歩前へ踏み出す。
新しい未来へ繋がる、大事な一歩を。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。