導かれるように振り向いた中原さんが、背中に立つ人影を目にする。
「お父さん……お母さん……」
彼女の後ろに立っていたのは、隆史さんと朝美さんだった。僕の位置からは、中原さんの表情が如何なるものか窺い知ることはできない。とは言え彼女が見せる仕草や素振りから、それを察することはできた。両親が歩調を合わせて一歩前に踏み出し、共に中原さんの前に立つ。
中原さんにとっては、高く険しい、大きな壁が聳え立っているような印象を受けただろうと、僕は思った。
「どうして、ここへ……」
「川島くんに電話をもらって、この横断歩道の近くまで来て欲しいって言われたの」
「ともえがいなくなったことに気付いたすぐ後だった。見計らったみたいに電話が来たんだ」
「じゃあ、秀明くんが……」
声が震えている。怯えているのは誰の目にも明らかだった。隆史さんにも、朝美さんにも、そして僕にも。逡巡に逡巡を重ね、文字通りの窮地に立たされた中原さんが、後ろに立つ僕に顔を向ける。彼女の目は、すっかり怯えきっていた。
助けを求めるかのような中原さんの目を見た僕は、大きく前に身を乗り出して、彼女に言葉を掛けた。
「僕は、君が最後まで逃げようとしてるだなんて思ってない」
「君だって、心のどこかで、真正面から立ち向かわなきゃいけないって思ってるはずなんだ」
「自分と向き合って、ちゃんと心の整理をつけてほしい」
「僕には分かってる。僕は、死んでしまうよりも本心を出せないままいることの方が苦しいって、分かってるんだ」
「怖いのは分かる。苦しいのだって分かる。でも、それでも僕は、君に気持ちを振り絞って、前に向かって行ってほしいんだ」
怯懦の色に満たされた彼女の瞳、その最深部に僕の姿が映る。僕の言葉は彼女に届いただろうか。僕が固唾を呑んで見守っていると、中原さんは目を潤ませながら、小さく、ごく小さく、けれど確かに頷いて、後ろに向けていた視線を再び前へ向き直した。
中原さんからは、朝美さんも隆史さんも共にしっかりと視界に捉えることができているだろう。娘と対峙した両親は、何も言わずにただ話し出すのを待っていた。中原さんが、自ら話し始めるのを待ち続けている。眼前の、手を伸ばせばすぐに届かせることのできる距離にいる娘が、死に物狂いの葛藤を続けている。本当は手を差し伸べたくて仕方ないだろう。それでも二人は、ただ彼女のことを待ち続けていた。それが、中原さんが本当の意味で救われる唯一の手立てだと理解していたからだ。
そして。
「お母さん、お父さん……」
固く閉ざされていた中原さんの口が、ついに開かれた。
「……わたしがいて、ごめんなさい」
「わたしが生まれてきて、ごめんなさい」
「お姉ちゃんを、死なせてしまって、ごめんなさい……」
俯き、視線を足元へ落としながら、中原さんは謝った。ここにいる両親に、ここにはいない姉に、何度も何度も繰り返し謝った。ごめんなさい。その言葉を呟くたびに、中原さんの声は掠れていく。華奢な躰を震わせ、幾度と無く贖罪の言葉を紡ぐ。自分が生まれてこなければ、姉を死なせて生き残るようなことも無かったし、両親を不幸にしてしまうことも無かった。両親に向けて初めて吐露した、彼女の痛切な思いだった。
頭を垂れる中原さんに向けて、母親の朝美さんが少しずつ歩み寄っていく。ごめんなさい、ごめんなさい。中原さんはしゃくり上げて声を詰まらせながら、朝美さんに謝り続けた。ごくゆっくりと、それでも止まることなく進み続け、母親は遂に娘の目の前に立った。仕草から、中原さんがきゅっと目を瞑ったのが見て取れた。彼女の背中に立つ僕が、小さく息を呑む。
娘を前にした、朝美さんは――。
「――ごめんなさい、ともえちゃん」
「おかあ、さん……」
娘の躰を、両腕でしっかりと抱き締めた。
母に強く抱擁された娘の肩に、父親の隆史さんがそっと手を添える。何が起きたのか、何が起きているのか、何が起きようとしているのか。中原さんは、自分の置かれた状況を上手く飲み込めていないようだった。
「ごめんな……ともえ」
「おとうさん……」
戸惑っていた中原さんの目に飛び込んできたのは、両の目からぽろぽろと涙を零す、父親と母親の姿だった。
「お父さん、お母さん……どうして……? どうして、泣いてるの……?」
彼女自身も泣き顔のまま、涙を流し続ける両親の顔を代わる代わる見詰める。顔を上げた両親が、中原さんの問いに応える。
「ごめんなさい、ともえちゃん……こんなに追い詰めちゃうまで、何もしてあげられなくて……」
「俺たちの方から、もっと早くちゃんと話をしてりゃよかった……許してくれ、ともえ」
肩を震わせていた。中原さんは肩を震わせながら、声を殺して泣いていた。
共に涙に暮れながら、朝美さんが中原さんをいっそう強く抱き締める。母親の胸の中に中原さんが顔を埋める。
僕はその光景に、僕と父さんの姿を見ていた。ほんの今しがた前、僕に起きたことが、ここで中原さんにも起きようとしている。僕にはそう感じられた。
「もう、謝るのはやめにしましょう。私も、隆史さんも、ともえちゃんも」
「その代わりに……ともえちゃんに、もっと伝えたい言葉があるの」
中原さんの背中を撫でる朝美さんが、優しい声で呟く。
「ありがとう、ともえちゃん」
「私たちと向き合ってくれて、ありがとう」
「ここにいてくれて、ありがとう……ともえちゃん」
ごめんなさい。その言葉をやめにしようと言った朝美さんが代わりに口にしたのは、「ありがとう」。「ありがとう」という言葉を、朝美さんは重ねて使った。
「ともえちゃんは、ずっと自分が悪いと思っていたのね」
「自分がいたせいで、お姉ちゃんのともみちゃんが死んでしまった」
「ずっと……そう思っていたのね」
中原さんが頷く。
「そう……やっぱり、そうなのね」
「あのノートを読んだら、そう思っちゃっても、誰もともえちゃんを責められないわ。私も、隆史さんも」
再び、中原さんが頷く。
「けれどともえちゃん、それは違うの」
「ともえちゃんだけが生きていて、ずるいとか、間違ってるとか、お母さんもお父さんも一度も考えたことなんかないもの」
「お母さんもお父さんも、間違ってもともえちゃんに苦しんでもらうために、あの時の選択をしたわけじゃないの」
「ともみちゃんだって、ともえちゃんに苦しんでもらいたいとは思っていないはずよ」
「もちろん、ともみちゃんも生きていれば一番よかった。きっと一番幸せだったわ。けれど、それは叶わなかった」
「だから、どうか、ともえちゃんだけでも、生きていてほしかった……それだけが、私と隆史さんの願いだったの」
「天国へ行ったともみちゃんの分まで、ともえちゃんには幸せになってほしかった」
朝美さんの手が、中原さんの背中を優しく打つ。これまでとは違う涙をぽろぽろ零して、中原さんはただ泣き続けていた。
「ねえ、ともえちゃん」
「今まで一度も言ってなかったけど……ともえちゃんの名前には、大事な意味があるの」
「とても、とても大事な意味が……」
幼い子供に語り掛けるような口調で、朝美さんが中原さんに名前の由来を告げる。
「ともえちゃん、漢字の『巴』(ともえ)にはね」
「『いくつかのものが合わさって、一つの新しいものになる』、そんな意味があるの」
「そう……特にね、三つのものが合わさった――」
「『三つ巴』という言葉が、よく言われているわ」
三つ巴。朝美さんが言ったその言葉を耳にした瞬間、中原さんがはっとして顔を上げた。朝美さんが、顔を上げた中原さんの目を優しく見つめている。
「だから、ともえちゃん」
「ともえちゃんの、その名前には――」
「お母さんと」
「お父さんと」
「ともみちゃんが、一つになって」
「ともえちゃんという、新しい命が生まれた――そういう、意味があるの」
「だからね、『ともえちゃん』」
「生まれてきてくれて、ありがとう」
中原さんの心の奥底に残っていた、拭いがたいわだかまり。朝美さんの最後の一言は、それを文字通り一掃するものだった。
「お母さん……! お母さん!!」
「ともえちゃん……」
「ともえ……」
「お父さん……!!」
朝美さんと隆史さんが、二人で中原さんを抱きしめる。両親の胸に抱かれた中原さんは、ずっと堪えていた、ずっと抑えつけていた感情を一気に爆発させて、声を上げて泣きじゃくっていた。僕は三人の姿を視界に収めながら、込み上げてくる涙を止めることができなかった。一日に二度三度と泣いて、ひり付く目元を拭う指先を緩めようとしても、僕は力いっぱいごしごしと拭うことしかできなかった。
中原さんは、自分に立ち向かったんだ。カタチのない恐怖に囚われた自分に立ち向かって、両親に自分の本心を打ち明けることができたんだ。彼女が自分自身と向き合って受け入れた結果を、僕は今目の当たりにしている。ようやくありのままのカタチを取り戻せた家族の姿を、僕はこの目で見ているんだ。
「ともえちゃん……これで、分かってくれたかしら」
「お母さん、お父さん……わたし、ここにいていいんだよね……」
「ああ……そうだぞ、ともえ」
「お母さんやお父さんと、一緒にいていいんだよね……」
「そう……そうよ、ともえちゃん」
ここにいていいのか、両親と一緒にいていいのか。朝美さんと隆史さんは、その一つずつに優しく応じた。
「今もともえちゃんの中に、ともみちゃんは生きているわ」
「ともえちゃんがこうして生き続けてくれたから、ともみちゃんもここにいられるの」
「だからね、ともえちゃん」
「もう一度――始めましょう」
「ともえちゃんと、お母さんと、お父さんと……それから、ともみちゃんの、みんなで」
「もう一度、『家族』を始めましょう」
両親の抱擁を受けた中原さんが、背中へ――僕へ、今一度顔を向けた。少し前に僕に見せた怯えた顔つきとは似ても似つかない、希望を湛えた眼差しで、僕の顔を真っ直ぐに見据えていた。
「中原さん……」
「いや、”ともえちゃん”」
「今でもまだ、死にたいと思ってる?」
彼女が、首を横に振るのが見えた。
「よかった。本当によかった」
「自分と向き合ってくれて、本当によかった」
「ありがとう、ともえちゃん」
彼女が、首を縦に振るのが見えた。
――そして。
「見て、チェリンボが……」
自分を受け入れることのできた彼女の前から、チェリンボが姿を消そうとしていた。
透き通っていく体、曖昧になっていく存在。僕のカラカラと同じように、使命を果たしたチェリンボは消え行こうとしていた。その中にあっても、チェリンボの表情は穏やかだった。何の憂いも感じ取れなかった。自分の成すべき事をきちんと成して、心残りなど一つも無いと言わんばかりの顔つきだった。
「チェリンボ……」
中原さんがその名を呼ぶ。呼び掛けられたチェリンボは、声に応じてすっくと顔を上げて見せる。
チェリンボは、涙を流しながら――笑っていた。両方の赤いつぶらな瞳に涙を湛えて、それでも顔は笑っていた。
後ろにぶら下がった小さな果実もまた、中原さんを優しく見守っているようだった。
「……ありがとう、チェリンボ」
「秀明くんとわたしを繋げてくれたのも、あなただった」
「秀明くんに『助けて』って言ってくれたのも、あなただった」
「あなたがいてくれたから……わたし、自分に立ち向かえたよ、自分を受け入れられたよ」
「ありがとう……ありがとう、チェリンボ……」
小さな躰を大きく揺らして、チェリンボは頷いた。
「もう……お別れなんだね、カラカラ」
「……きゅう」
段々と薄れていくチェリンボの存在。その隣にいたカラカラもまた同じように、本当の意味での消失を迎えようとしていた。頭に被った骨がかくんと揺れる。声はもうほとんど聞き取れない。おぼろげに残る影を、僕はそれでも最後まで見失うまいと目を凝らし続けた。僕はもう何も言わなかった。カラカラも何も言わなかった。言葉を交わさなくとも、僕はカラカラの思いが理解できていたし、カラカラもまた同じだった。
「カラカラ」
それでも……僕にはただ一つだけ、カラカラに伝えておきたい言葉があった。
「……ありがとう」
ありがとう、と。
カラカラは僕の言葉を聞き終えると、チェリンボの葉っぱの部分を手に取った。チェリンボが呼応して顔を上げる。手を取り合って並んだカラカラとチェリンボが、僕と中原さんに目を向ける。僕らが自己を受け入れることができた、ポケモンである自分たちがいなくても大丈夫になった――それを今一度確かめるかのように。
心配は要らないと思ったのだろう。満ち足りた表情を僕らに見せると、カラカラとチェリンボが僕らに背中を向けて、ゆっくり歩いていく。彼らが僕らから離れて、一歩、また一歩と前へ進んでいくたびに、姿が消え、影が消え、存在が消えていく。
(……さようなら)
消えていく背中を見ながら、僕は思いを巡らせた。
(さようなら。部屋の隅で、一人声を殺して泣いていた、小さな僕……)
滲む視界を繕うために、指先で目元を拭って、僕がもう一度目を開けてみると――
――そこにはもう、カラカラはいなかった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。