海が、空が、ただただ青い。
目覚めたシラセが真っ先に認識したのは、果ての見えない蒼い空と碧い海だった。青、蒼、碧。どこまで行っても鮮やかなそれを、いつの間にか見慣れている自分がいた。もはや目新しさは無く、いつも側にある物の一つになっている。かつて囲まれていた青とはまた違う青、シラセはそう認識する。
それはすなわち、シラセがこの場所に馴染み始めていることを意味していて。
磯の匂いと潮風に包まれる。今、自分は海の側にいるのだ、シラセが強く強く実感する。大きなあくびを一つして、シラセが頭から垂れる角を揺らした。
白い体毛に青い肌、そしてルビーのような真っ赤な瞳。シラセは図鑑に載っているような典型的なアブソルだった。平均より少し小さな体を大樹の根元に横たえて、木陰がもたらす涼で暑気から身を護っている。本来寒冷地帯で暮らすことの多いアブソルにとって、夏の日差しは厄介な存在である。シラセは持ち前の目敏さで涼しい場所を見つけて、体の具合を悪くすることが無いよう気を配っていた。
アブソル。よその地域では、不幸だとか不吉だとかをもたらすポケモンだと言われているらしい。シラセは人づてにそんなことを耳にしたことがあった。事実かどうかはともかくとして、言われている理由はなんとなく分かる気がした。積極的に肯定するつもりも否定するつもりもない、誰がどう考えたとしても自由だ。シラセはそう割り切っていた。
シラセ。この名前は瑞穂からもらったものだ。人間には生き物に名前をつける習慣があることを、自分に名前を付けられることで知ることになったことを覚えている。シラセ自身はいい名前だと思っていて、気に入っていた。瑞穂が「シラセ」と呼び、瑞穂が呼びかける様子を見た他の人も自然と「シラセ」と呼ぶようになる。やがて自分が「シラセ」であるという意識が芽生えてきて、いつしかそれが自然なことになった。
今の自分は「シラセ」で間違いない。シラセと呼ばれるアブソルは、そんな風に考えていた。
木陰の下で休む。七月も下旬を迎えて、一段と暑さを増してきた。火照った頬を潮風が撫でる感触に、シラセが首をぷるぷると振る。風を浴びながら一人静かに昼寝をする、この上なく幸せだった。昼間から寝ていたところで外敵に襲われるようなこともない。弛緩した身体をぐっと伸ばして、シラセが大きなあくびを一つした。
まばたきをしながら動かした目線の先に、見慣れぬ人間の姿が映る。眠い目をしばたたかせてシラセが目を凝らすと、海へせり出した船着き場の先に、一人の少女が立っているのが見えた。
沙絵と同じくらいの背丈だ、シラセが真っ先に抱いた感想はそれだった。沙絵は確か、十四か十五だったか。この間一つ歳を重ねて、瑞穂に赤飯を炊いてもらっていた記憶がある。腕に赤いバンダナを巻いていて、服装から見て取れる雰囲気はおとなしそうな少女のそれだった。栗色の髪を風に晒して、時折瑞穂のように眼鏡を直しながら、ただじっと海を見ている。海を見ているのか、海に何かを見ているのか、ここからではどちらとも言えない。ただ、立ち止まって海ばかり見ている彼女の様子が、シラセにはいささか不思議に映った。
側に立っているポケモンがいる。少女より一回り大きな体躯をしたそのポケモンを、シラセはかつて目にしたことがあった。バシャーモ、確かそう呼ばれていた。バシャーモはあたかも少女を護るかのように傍らに立って、片時も離れようとしない。彼女に忠誠を誓っている、見知らぬ者が目にしてもたちどころにそう思わせてしまうほどの風格を持って、バシャーモは少女の側にありつづけていた。
あんなに強そうなポケモンを連れ歩いているなんて、あの娘はああ見えて案外バトルの腕が立つのかも知れない。遠巻きに彼女を観察したシラセが、そんな感想を抱いた。側に立っているバシャーモは相当強いポケモンだろう。少なくとも、シラセなら戦いを仕掛けるようなマネはしない。彼女が単にポケモンを連れている市民なのか、それともバトルを生業にするポケモントレーナーなのかは分からない。が、筋骨隆々とした立派な体躯を誇るバシャーモを従えている様子を見れば、どちらであったとしてもごく些細な違いでしかないとも思えた。
シラセが少女とバシャーモを瞳に映しながら、ポケモントレーナー、という単語を頭に思い浮かべた直後、塗装がちらほら剥がれた古めかしいフェリーが船着き場へ横付けされた。入り口が開かれると、中から幾らかの人が降りて榁の地を踏みしめる。それより一ダースほど少ない人が入れ替わる形でフェリーへ乗り込むと、出港までしばしの休息と相成る。これもまた、見慣れた光景の一つだった。
榁で船を降りた人々の、誇張ではなくほぼ全員が、見るからにポケモントレーナーと分かる装いをしていた。モンスターボールをベルトに取り付けている人もいれば、ジグザグマを外へ出して歩かせている人もいる。彼らトレーナーが榁を訪れる理由は概ね二つ。一つは北にある「石の洞窟」を探検するため、もう一つが南にある榁のポケモンジムへ挑戦するためだ。榁へ足を運ぶ明確な目的はこんなところだが、つまるところ他にめぼしいもの、目立つもの、見るべきものが見当たらない場所ということでもある。
この榁という場所は、四方を海に囲まれた完全な孤島で、地理的には一応豊縁地方に属している。豊かな縁、と書く豊縁地方だが、ここ榁は他の街やそこに住まう人々との交流が薄く浅く、縁が深いとは言い難いところがあった。豊縁ゆかりの人物だけでなく、それぞれ目的を持って外からやってきた者たちによって拓かれた街という側面を持っていたから、豊縁ことばで話す人間が少ないのも特徴の一つだった。今榁で暮らす者の多くは、関東ことばに近い言葉を使っている。これもまた、豊縁に属しながらその意識を薄くさせる要因のひとつと言えた。
榁で生まれ育った子供の多くは、法的にポケモントレーナーに就くことができる要件を満たす、すなわちほとんどの者にとっては十一歳を迎えると、先ほどやってきたようなフェリーに乗って外へ旅立っていく。シラセは、ある時瑞穂が「島の人口は年々減ってきている」旨を口にしていたことを思い出した。今となっては榁を訪れて居を構えるような酔狂な者も少ない。外から流れてきて住み着いたシラセのような存在は、珍しいものとさえ言えた。
ただ、シラセはここを気に入っていた。珍しがられることこそあれど、ここから出ていけと言われたようなことは一度もない。アブソルにまつわる不吉な伝承の類を知っている人間もそれなりにいたが、知っていてなお「迷信だよ」と笑い飛ばすような豪胆な者ばかりだった。あるいは目に見えぬものへの信仰が薄かったのかも知れないが、ともかくシラセにとっては暮らしやすい街であることだけは間違いなかった。
人々の姿もまばらになって、なお海に目を向け続ける少女をぼんやり眺めていたシラセの前に、おもむろに子供が一人立ちはだかった。
「よぉ、シラセ」
聞き覚えのある声だ。シラセが目線を上げると、そこには見慣れた顔があった。
「今日も昼寝か? 凛々しい見た目だってのに、猫のポケモンみたいなことしてるな」
白い歯を見せて笑いながら、ヒロがシラセに言う。頭に手をぽすっと載せると、そのまま少々乱雑に髪を撫でた。くすぐったさにシラセが目を細めるのを目の当たりにして、シラセが白い歯を見せてニッと笑う。パッと手を離して上に持っていくと、後にはもしゃもしゃになったシラセの髪が残った。ぷるぷると首を降るシラセを、ヒロが笑って見つめている。
シラセとヒロは顔なじみだ。もうかれこれ三年ほどの付き合いになる。出会い頭にこうしてちょっと手荒にシラセを可愛がるのが、ヒロのやり方だった。毛をくちゃくちゃにされつつ、シラセは不思議と嫌な気持ちはしなかった。遠慮なく自分に触れてくれるヒロという存在、それが嬉しかったのだ。
「なあシラセ。あの子、トレーナーかな」
乱れた毛を繕い終えた頃になって、ヒロがシラセに問いかけた。見つめる先にはあのバシャーモの少女がいる。ヒロも同じことを考えているのだな、とシラセは思った。バシャーモは榁ではそうそう見かけないポケモン、目立つのも道理だ。興味津々といった面持ちで、ヒロはバシャーモと少女をジッと見つめている。
「俺さ、ああいう子とバトったり、チーム組んだりしてみたいんだよな。タツマキもそう思うだろ?」
タツマキ、と呼びかけた先には、ヒロの足元でちょこまか歩き回っているスバメの姿があった。ヒロの相棒である。タツマキは一声鳴いてヒロに応えると、足を止めてバシャーモを凝視し始めた。タツマキともかれこれ三年の付き合いになる。ヒロに似て快活で遊び好きなタイプの娘である。
かっこいいよなぁ、だとか、どこで捕まえたんだろな、だとか、バシャーモを見ながらヒロがしきりに声を上げている。ただバシャーモがいるだけでこれだけ気持ちが高ぶるというのは、裏返しにすると普段の榁はそれだけ刺激の少ない場所という見方もできる。それが悪いわけではない、現にシラセはこうして、真っ昼間から堂々と昼寝ができたりしているのだから。
「おっ、やべっ。もうこんな時間か」
ヒロが腕時計を確かめる。何やら約束の刻限が近付いてきた様子だ。
「シラセ、俺マキのところ行ってくるから。お前も遅くならないうちに帰るんだぞ。じゃあな」
そう言って駆け出したヒロを、タツマキが翼を羽ばたかせて追いかける。シラセは去っていくヒロとタツマキを見えなくなるまで見送ってから、また大きなあくびを一つする。
自分もそろそろ行こう、シラセがそう考えてのっそり立ち上がった。目的地は決めている、ここからそう遠くはない。毎日のように訪れている場所だから、道に迷うこともない。大きく伸びをしてから、シラセが一歩一歩しっかり地を踏みしめて歩き始める。海辺を立ち去る間際にもう一度、バシャーモの少女に目を向ける。
最後の最後まで、少女はただ海を見つめるばかりだった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。