海の見える喫茶店「カフェ・ペリドット」。シラセが向かっている先はそこであった。
防波堤に護られた道をゆっくりと歩く。シャッターを下ろした店や、打ち捨てられたままの家がちらほら見える。瑞穂が言っていたことは疑う余地のない事実だ、とシラセは考える。榁の人口は減りつつある。人がいなくなれば、商店も家屋もその役割を失う。取り壊されることもなく残されているのは、後に続くものがないから。アブソルのシラセにも、それくらいのことは理解できた。
時計の針が止まってしまったかのような朽ちた建物を目にする度に、シラセはこれらが再び時を刻み始める、つまり活気を取り戻すようなことはあるのだろうか。シラセは時折そう考えることがある。自分にはどうしようもないこととは言え、暮らしている場所が少しずつ寂れていくのを見ているだけというのは辛いものがある。考えてどうなるというものでもなかったが、それでも考えてしまうのは、知性を持つ生き物のサガと言えよう。
シラセが道なりに進んで行くと、途中で緑の作業着に身を包んだ一団が目に留まった。案件管理局の人達だ、シラセは心の中でそう呟いた。沙絵から聞いた話によると、彼らは榁で見つかる奇妙なものや危険な場所を管理している組織だという。シラセ自身も、北にある石の洞窟に出入りしている姿を目撃したことがある。榁以外の場所でも同じように活動しているらしいが、榁は他に比べて彼らが管理するようなものが多く見つかるらしい。
歩くことおよそ二十分。シラセは古びた喫茶店の前までやって来ていた。錆び付いた看板には「カフェ・ペリドット」と書かれている。瑞穂が経営している喫茶店だ。特に躊躇することもなく、シラセがドアを押し開けて中へ入る。冷たい風がシラセの火照った身体を撫でる。
「ありゃま、シラセじゃない。いらっしゃい」
ストレージから豆を持ってきたばかりの瑞穂がシラセを出迎える。店の中にはお客が三名、誰も彼も見慣れた顔ばかりだ。アブソルのシラセがいきなり店に入ってきても、驚く者は一人としていない。カフェ・ペリドットにおけるシラセの存在は、それくらいごくありふれた、さながら喫茶店のコーヒーのようなものだった。
シラセが小さく鳴いて応えると、定位置であるお店の隅へ移動した。目印の代わりに小さなマットが敷かれている。床の上で直接寝るのは味気ないということで、瑞穂がシラセのために用意してくれたものだ。シラセが身を横たえると、マットがぐっと沈み込む。落ち着いた気持ちになって、シラセがほう、と小さく息をつく。
「あっ、シラセちゃんだ。こんにちは」
「散歩から戻ってきたのかな。相変わらず可愛らしいね」
店にはお客が二人入っていた。頼子と環だ、とシラセがすぐに思い至る。
頼子のことを、シラセはそれなりによく知っていた。ペリドットに来店することが多いから、ということもあったけれど、それとは別に彼女には少し思う処があった。それは恨みつらみのようなネガティブな感情ではなく、さりとて友情のようなポジティブなものでもない。強いて言葉にするなら、「自分に近しい存在」だと感じている。もちろん種族や生まれ育ちは大きく異なるけれど、そういった部分を越えて、シラセは頼子に特別な感情を抱いていた。
もう一方の環も同じく顔見知りの一人だ。見ての通り頼子の友人で、彼女と共にペリドットを訪れることがしばしばある。そうでない時も、ひとりで来店して瑞穂とお喋りをすることがあった。頼子や環だけではない。シラセはペリドットの常連客の顔と名前をほとんど覚えている。そしてお客の方も、ペリドットでくつろいでいるアブソルのシラセを可愛がっていて、今ではここペリドットのマスコットのように見られている。
「じゃあ、今日はミントレモネードを」
「私はクリムゾンオレをください」
「はい、かしこまりました。ちょっと待っててね」
注文を受けた瑞穂がキッチンへ戻って、オーダーされた品物を作り始めた。
ペリドットはちょっと風変わりな食べ物や飲み物を多く出している。コーヒーだけでもグリーンやパープルといったバリエーションがあるし、七色に見える不思議なアップルジュースなんかもある。軽食も然りで、ラッキーの卵とナッツを使ったサンドイッチや、マトマの実をスライスしてチーズと共にパンに乗せて焼いたピザのようなものも出している。これらのほとんどが、今の店主である瑞穂が編み出したものだ。常連の多くはここでしか口にできない飲み物や食べ物を求めて店を訪れる。もちろん、単にカフェ・ペリドットの空気が好きというお客も多い。
頼子のミントレモネードと環のクリムゾンオレを仕上げてテーブルへ運んだあと、瑞穂が冷蔵庫から何かを取り出す。
「シラセ、外暑かったでしょ? ほらほら、シラセの好きなアレだよ」
ぼんやりしていたシラセの前に、瑞穂が不意にお皿を置いた。皿の上には、半分ほど凍らされたチーゴの実が、少し多めに注がれた練乳に漬けられて置かれている。シラセの好物である「フローズン・シーベリー」だ。シーベリーというのはチーゴの実の別名で、果実が海(Sea)のように青いことに由来している。この「フローズン・シーベリー」も、瑞穂がペリドットで出している料理の一つ。甘さ三分・酸っぱさ七分と言われるシーベリーの味を程よく凍らせることで際立たせつつ、モーモーミルク入りの練乳を交えることで食べやすくしている。シンプルなレシピながら、ペリドットでは人気のあるメニューの一つだった。
シラセが早速シーベリーを食べる。冷たさと甘さと酸っぱさがいっぱいに広がる。口の中がキューッとして、言葉にはしがたい、けれど間違いなく幸せと言える気持ちになる。シラセが目を細めているのを見た瑞穂がしきりに頷いて、ふさふさの毛で被われたシラセの背中を撫でた。
「おいしい? って、これなら聞かなくても分かるね。よかったよかった」
もしゃもしゃと半凍りのシーベリーを頬張るシラセを見やりつつ、瑞穂がシラセに聞かせるように続ける。
「凍らせ方、ちょっと変えてみたんだよ。あんまりカチコチにすると、おいしくなくなっちゃうしね」
瑞穂は時折こうやって、シラセに新作や既存のレシピを改良した料理を味見させることがある。シラセがおいしいって言うなら間違いないから、瑞穂は以前そう言っていた。もちろん瑞穂自身も味見はするし、妹の沙絵にそれを頼むこともあったが、瑞穂曰く「自分で作った物は全部おいしいって思っちゃうし、沙絵はなんでもおいしいって言ってくれる」から、シラセに味を確かめてもらいたい、ということらしい。
シラセ自身は、こうしてちょくちょくおいしい物を食べさせてもらえるということで、悪くないと思っている。自分なりに瑞穂とカフェ・ペリドットの役に立てているなら、それはシラセにとって嬉しいことだった。
店内はラジオが流れるようなこともなく、お喋りをするような人もいない。至って静かな空間が広がっている。けれど静まり返っているというほどでもなく、時折新聞をめくるような音や、瑞穂が冷蔵庫を開け閉めする音が聞こえてくる。その空気は緩いという表現がピッタリで、穏やかな気持ちにさせてくれるようなものだった。気が付くといつまでも居てしまいそうになる、少なくないお客が、カフェ・ペリドットをそう評していた。
中央には古びた電話ボックスが置かれている。携帯電話の普及しきった今では榁でさえ使う人は稀になってしまったが、瑞穂は電話料金を払ってちゃんと電話機を維持している。隅には三段の本棚が据え付けられていて、色褪せた本や雑誌がランダムに並べられている。新しいものを入れる気はあまり無さそうだった。壁に取り付けられたコルクボードには、風景写真や瑞穂と客が枠に収まった集合写真がピン留めされている。シラセは他の喫茶店を知らなかったが、それでもレトロな、あるいは古めかしい場所であることは十分に理解できた。
ここだけ時間が止まってしまったかのよう、ペリドットを訪れたお客の一人がそう言っていた記憶がある。不思議な場所であることは間違いない、とシラセは思った。他では飲めないような変わった飲み物が出てきて、広々とした店内には時代を感じさせるモノがいくつも散らばっていて、自分のようなポケモンが寝そべっていても誰も気にかけない。こんな場所がいくつもあるとはシラセには思えなかったし、また少なくとも榁においてはここしか無いことは間違いなかった。
マットの上でうとうとしていると、不意に身体の上から何かをかけられて。
「お昼寝する? いいよ、時間になったら起こしたげるから」
どこからか、瑞穂が毛布を持ってきてくれた。シラセは瑞穂の言葉に甘えることにして、そのまま目を糸のようにして眠り始めたのだった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。