瑞穂とハル、それからシラセが、海の見える道を歩いていく。磯の香りが物珍しいのか、ハルが時折小鼻を鳴らしている。隣に付いて歩調を合わせて歩く瑞穂は、そんなハルの様子を微笑みながら見守っている。
「ハルちゃんってさ、静都のどこに住んでたんだっけ?」
「日和田って言うところ。山の方にある、田舎の町やったわ」
「あそこかぁ。モンスターボールと木炭の」
「うん。うちも作ってるところ見たことある。両方とも」
ハルは静都の日和田から、独りでここ榁を訪れた。その距離は相当に離れている。朝早くに出たというハルが瑞穂と沙絵の家へ辿り着いたのは、陽もすっかり暮れてからだった。ハルにとって榁は完全に未知なる土地であり、そして瑞穂にとっても、日和田はさながら遠い遠い異国の地のような場所だった。
故郷から遠く離れた場所で、瑞穂の母は土へ還った。彼女は何を思い彼の地を訪れたのか、最期に胸に去来したものは何か。いずれも今となっては知る由もない。ただ一つ言えることは、母の忘れ形見とも言えるこのハルという少女が、今瑞穂の隣にいる。それだけは間違いなかった。二人の後姿を一つの視界に収めつつ、シラセが一人考えを巡らせる。
「瑞穂さんって、ここでどんな風にして暮らしてるん?」
「大したことはしてないよ。喫茶店で飲み物を出して、商店街でお買い物をして、沙絵と一緒にご飯を作って、それから食べる。あとは、たまに月琴を弾いたりとか」
「ゲッキン?」
「ウクレレのような、ギターのような、でもそれとはちょっと毛色の違う弦楽器だよ。せっかくだから、今度聴かせてあげるよ。今までは、沙絵くらいにしか聴かせてあげられなかったからね」
瑞穂の言葉は彼女の生活を過不足なく表現していた。喫茶店を経営して、そこで日々の糧を得て、妹である沙絵と二人三脚で暮らしている。瑞穂と沙絵が二人で暮らすようになってから、瑞穂はこのサイクルを止めることなく続けている。それが自然なことだと、あるべき姿だと、瑞穂は納得しているように見えた。
少なくとも、シラセの知る瑞穂はそうだ。シラセが上月家へ迎え入れられた頃から、家には瑞穂と沙絵の二人だけがいた。他に家で暮らしている者はおらず、時折外からやってくる旅行者を泊めるくらいのものだった。ただ、それは元からあの家に瑞穂と沙絵の二人だけが住んでいたということを意味するものではない。少なくとも沙絵が生まれるまでは母親が住んでいたはずだし、男物の服が掛けられた押し入れや小難しい本の並んだ書斎の存在は、かつてあの家に父親がいたことを意味している。
20分ほど歩いて辿り着いたのは、他でもない喫茶店「ペリドット」の前だった。ハルが目をまん丸くして、わぁ、と感嘆の声を上げる。
「ここ、喫茶店なん?」
「そうだよ。こういうの、見たことないかな」
「あんまり……テレビでやってた映画とかで見たことあるけど、実物は初めてやわ」
「割と様になってるでしょ? なんとなく入りたくなっちゃう場所にしたいって、大槻さんが言ってたんだ」
映画に出てきそうな場所、とハルに評されたのが面白かったのか、瑞穂が声を上げて笑った。瑞穂がカギを開けてドアを押し開けると、続いてハルも中へ入った。
中の様子を見たハルが、また声を上げる。明らかに、今まで見たことのないものを初めて目にした時の反応だった。
見た目以上に奥行きのある室内、中央に据え付けられた電話ボックス、日焼けした古い雑誌がずらりと並べられた本棚、透明な石が敷き詰められた誰もいない水槽、壁に掛けられた名画のパロディー画、奥に設置されたテーブル型のゲーム筐体。時代に取り残されたとも言えるし、時代に流されないとも言える様相。昔ながらの喫茶店という風情をふんだんに残したペリドット内部は、ハルにとって一周回って新鮮なものに映ったようだ。
「ここ、できたのもう40年くらい前なんだって。43年? 44年? それくらいかな」
「できたん40年前って、大分昔なんやな……」
「そ。ちょうどこういうのがオシャレって言われてた頃だよ。私もハルちゃんも、まだ生まれてないね」
「ほんま、こんなん見たことあらへんって、そない思って」
「前はもうひとつ、そっくりなお店があったんだけどね。今はもうペリドットだけになっちゃった。どう? ハルちゃん」
「どない言うたらええんか分からへんけど、ここ……素敵やな、って」
「素敵でしょ? ハルちゃんも気に入ってくれるって思ってたもん」
荷物を置いて準備をしつつ、瑞穂がハルにペリドットの成り立ちについて話す。
「ペリドットは大槻さんの両親が始めたらしいんだ。らしいって言うのは、私は二人に会ったことないからなんだけど」
「大槻さんはここのマスターで、ずっと一人でお店をやってたんだ。30年くらいだって言ってたかな」
「言ってみれば、ここは大槻さんの城みたいな場所だから、大槻さんの好みとか趣味とか、そういうのがいっぱい詰め込まれてるんだよ」
「本を読むのが好きだったから、こうやって幾つも本棚を置いたりね」
瑞穂がカウンターに立つと、ハルと向かい合う形を取る。
「私はね、大槻さんの代わりで、マスターやってるんだ」
「あくまで代理だから、本当のマスターは大槻さんのまま」
「まだまだひよっこだからね、私は」
聞き覚えのあるフレーズだと、シラセは思った。自分は代理に過ぎず、本来のマスターは大槻さんだと、瑞穂はいつも口にしている。仕事ぶりは丁寧かつ完璧で、瑞穂がマスターだと言われても何らおかしなことはないのだけれど、瑞穂はあくまで大槻さんの代理だというスタンスを崩していない。
「飲み物や食べ物を作ったり、注文を取ったりもそうだし、食材の仕入れから皿洗いまで」
「時々バイトのトレーナーさんに手伝ってもらうことはあるけど、ほとんどは私一人でやってるよ」
「自分で何でもやるのは大変だけど、楽しいからね」
瑞穂が近くにあったメニューを広げて、カウンター近くで立っているハルに差し出した。
「イエローコーヒーに……チョコレートプディング?」
「ちょっと変わってるでしょ。ちょっとだけどね」
「これ、うちの知らんメニューばっかりや」
「でしょ? よそじゃ見ないものを出してるのが自慢なんだ」
ここじゃ他に喫茶店らしい喫茶店は見当たらないけどね、と瑞穂が笑う。
「これ、見てみて」
「なんなんこれ、青色の……マメ?」
「見たことないでしょ? アローラから買い付けてるんだよ」
「アローラって、あの南国の?」
「そう。そこでしか取れないって言われてるから、結構貴重なんだよ。ま、アローラだとうんとたくさん取れるから、割と安く買えるんだけどね」
開店までにはまだ時間がある、瑞穂はそう前置きしてから話を続ける。
「大槻さんね、七年くらい前に旅立ったんだ。榁から」
「旅立ったって、それ……」
「あぁ、ううん。本当の意味だよ。自分のイメージに合う理想のコーヒー豆を捜しに行くって言って、私に店を預けてくれたんだ」
素敵な人だったよ。あんな風になりたいって思わせてくれる、理想のマスターだったな。思い出を紐解くような口ぶりで、瑞穂がハルに語り掛ける。
「時々だけど、お店にエアメールが送られてくるんだ。あっちこっちの風景を取った写真と一緒にね」
「お店に?」
「そう。ペリドットにね。あっちこっち旅してるみたいだけど、まだいい豆は見つからないみたい」
瑞穂が指差した先にはコルクボードがあって、そこには大槻さんから送られてきたのだろう風景写真が幾つもピン留めされている。
「いろんなことを教わったよ。お客さんへの接し方とか、仕入れをする時の考え方とかね」
「コーヒーの淹れ方だって仕込んでもらったよ」
だから。瑞穂はそう言って、ハルの瞳をまっすぐに覗き込んだ。
「大槻さんみたいに、私もハルちゃんに教えられたらいいなって思ってる」
「お仕事のことだけじゃなくて、もっといろんなことをね」
自分が大槻さんからしてもらったことを、ハルにもしてあげたい。瑞穂はそう考えている。瑞穂らしい言葉だと、隣で耳をそばだてていたシラセは感じ取った。瑞穂は自分だけが得をするということを、自分だけが何かを貰うということを好んでいない。皆と分かち合うことが好きで、それは有形無形を問わない。瑞穂はそんな性格だった。
「それで、ハルちゃん。ハルちゃんには、大事な仕事をひとつ、頼まれてもらいたいんだ」
「大事な仕事、ですか」
「うん、とっても大事な仕事。ここへ来たお客さんから注文を取ってもらいたいんだ」
「ウェイター、って言えばええんかな。そういう風に聞いたことあるけど」
「まさにそれだね。ウェイター。お客さんと直接やり取りするから、頑張ってね」
奥へ来て、と瑞穂がハルを呼ぶ。瑞穂が扉を開けた先には、あまり広いとは言えないスタッフルームがあった。ここで着替えをしてね、瑞穂がハルに告げる。ハルは瑞穂から制服とエプロンを渡されて、ハルが来ていたものを脱いで制服に身を包んだ。サイズは誂えたようにピッタリだ。後姿を鏡で見て、きちんと身に着けられていることを確かめる。ここまでは良かったが、ハルの顔には疑問符が浮かんでいる。
「瑞穂さん。なんで制服があるん?」
「お、目の付け所がいいね。たまにね、榁へ来たトレーナーさんをバイトで雇ってたんだ」
「じゃあ、そのために?」
「そう。いくつかサイズを用意しておいて、合ったものを着てもらってるよ。全部私が作ったものだけどね」
着替えを終えたハルを前にして、瑞穂がうんうんと頷いて見せる。似合ってるよ、瑞穂からそう言われたハルはちょっと照れくさそうな顔をして、パタパタとエプロンの裾をはたいた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。