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4-2 花子ちゃんとペイズリーおばさん

古びた壁掛け時計が九時を指す。それと同時に、ハルが店先の吊り看板を「CLOSED」から「OPEN」へ翻した。いよいよ開店だ。

「お客さんが来て、席に座ったら、メニュー渡して、何にしますか、って訊けばええんやんな」

「うん。ひとつずつ、丁寧にやっていけば大丈夫。ハルちゃんならきっとできるよ」

「せやけど……お客さんと直に話するから、ヘンなこと言うてまうかも知れへん」

「よくあることだよ。ハルちゃん、今までに何かバイトしたこととかって無い?」

「バイトとちゃうけど、ジムのお手伝いしたくらいかなぁ。スズさんの手伝いさしてもろたりしたわ」

瑞穂と話をしている間も、どこかそわそわして落ち着かない様子を見せている。そんなハルの様子を、瑞穂はちゃんと見ていて。

「こういうところ、あんまり来たことないのかな? お茶とか、コーヒーとか飲むところ」

「無いわ。しいて言うんやったら、マクドくらいしか」

「ありゃま、マクドナルドかぁ。榁にはまだ支店は出てないかな。朝倉さんがたまに作って売ってるけどね、ハンバーガー」

朗らかに笑う瑞穂と、やっぱり顔つきが固いハル。対照的な二人が同じお店の中にいることを、シラセは少し面白く思うのだった。

「えっと、瑞穂さん。うちがうまいこといかんで、それに気付けへんかったら、遠慮せんと注意してください。ここ、瑞穂さんのお店やから」

「いい心構えだね。でも、そんなに固くならないで。ここに来るお客さん、みんないい人たちばかりだから」

瑞穂が言い終えるや否や、入口の方からカランカランと鐘の音が聞こえてきた。早速の来客だ。ハルが側にあったメニューを掴んで、入口まで小走りに駆けていく。

「いらっしゃいませ」

ハルが挨拶をした先にいたのは、彼女より一回り年下の少女だった。シラセは少女を一瞥することすらなく、彼女が花子だということに気が付いた。シラセとは面識があるというレベルの関係ではなく、しばしば花子に撫でてもらったりしている。互いをよく知る間柄だった。花子は常連客の一人で、いつも朝早くにペリドットを訪れている。年端もいかない少女が朝早くから喫茶店を訪れるというのは、他所ではそうそう見ない光景だろう。しかしペリドットにおいてはよくある風景、日常茶飯事に過ぎない。

花子はハルを物珍しげに見つつもその足取りは止めずに、カウンター席のいちばん端へ座る。ハルが後から追いついて、花子にメニューを差し出した。

「あの、ご注文、は」

少したどたどしさが残るハルの注文取りだったが、花子は何も気にしていないようだった。相変わらず落ち着かない様子のハルを見た瑞穂が、そっと助け舟を出す。

「新しい店員さんだよ、花子ちゃん。今日から入ってくれたんだ」

花子がなるほど、と言った調子で頷く。広げていたメニューをそっと閉じてハルに返却すると、顔を上げてこう言った。

「いつもの、ください」

「えっと……いつもの、ですか」

いつもの。そう言われたハルが固まる。今日働き始めたばかりなのだから、花子の言う「いつもの」など知っているはずもない。どうしようか、ハルが悩んでいると、また瑞穂が声を上げた。

「ソーダフロートだね。ちょっと待ってて」

花子の「いつもの」はソーダフロートだった。花子ちゃん、いつもソーダフロート頼んでくれるから。瑞穂がハルにそう言うと、ハルはふんふんと頷いた。それと同時に、目の前にいるちょっと謎めいた少女の名前が、花子、というありきたりもいいところなものだということも知る。ハルはポケットに入れていたメモ帳とペンを取り出すと、花子という名前、そして「ソーダフロート」という単語を書き付けた。

注文を受けた瑞穂が、慣れた手つきでソーダフロートを作る。砕いた氷を詰めたグラスへ少し青みがかったソーダ水を注いで、冷凍庫でストックしておいたバニラアイスクリームを丸く抉って上から載せる。隙間からストローを差し込んでできあがりだ。ハルが瑞穂からソーダフロートを受け取ると、花子の元まで運んでいく。

「お待たせしました」

ハルがグラスをそっと花子の前へ置くと、花子が心なしか嬉しそうな顔をして、お礼の言葉を口にする。

「ありがとう」

言われたハルが軽く目を開いて、それから少しはにかんで見せた。花子から礼を言われたことに嬉しさを感じているようだ。こないしたらええんか、花子にも聞こえないような小さな声で、ハルが独り言を呟いた。

早速ソーダフロートに手を付けようとした花子だったが、ピタリとその手を止める。側で立っているハルに目を向けると、また口を開いた。

「あの、すいません」

「あ、はい。どうしました?」

「お名前、教えてくれませんか」

「うち……ちゃう。私の名前ですか。えっと、ハルって言います。静都の日和田から来ました」

「ハルさん。ハルさんですね。私は花子です」

「花子、ちゃん」

「はい。花子ちゃんです」

ハルと花子が、それぞれ自分の名前を交換する。花子ちゃん、そう呼ばれた花子が、少しだけ頬を緩めている。花子から話しかけられたハルは初め緊張しっぱなしだったが、年下に見える割にとても落ち着いた花子の様子に絆されて、少しずつ平静さを取り戻していった。

「ここのお手伝いをしてるんですね」

「はい。言うても、今日から入ったばっかりですけど」

「私も博物館のお手伝いしてるんです。ハルさん、がんばってくださいね」

「がんばります」

花子から励ましの言葉をもらったハルが、ぐっと握り拳を作って応える。シラセはハルの仕草一つ一つを見て、ペリドットに馴染むのは時間の問題だと思うに至った。ハルにはやる気がありそうだし、ペリドットはどんな人やどんな物でも受け入れてしまう包容力がある。それが大槻さんの時代からあったのか、瑞穂の時代からそうなったのかは分からないが、今のペリドットがそんな緩い連帯を生み出す場となっているのは間違いなかった。

朝からペリドットを訪れるお客たちから注文を取っていくうちに、ハルはどう立ち振る舞えばいいかを飲み込みつつあった。注文取りをハルに任せられるようになったおかげで、瑞穂は料理作りに専念できている。瑞穂にしてみれば、ハルの存在は打算抜きでありがたいものだった。

もう間もなく正午を迎えようとする頃になって、また店を訪れる客が一人。

「いらっしゃいませ」

「あら、ペイズリーおばさん」

ハルの声もずいぶんハリが出てきた。ハルの声に出迎えられたのは、背を丸めた細身の中年女性だった。ペイズリーだ、とシラセが顔を上げる。ペイズリーは少しおぼつかない足取りで、ゆっくりと店の奥へ進んでいく。ハルが空いている座席へ案内すると、ペイズリーが一礼して椅子に腰かけた。メニューを手渡してから、ハルがいったん後ろへ下がる。

ペイズリーは無口な人で、その名前通りいつもペイズリー柄のスカーフを首に巻きつけている。言葉は口にしないがどこか愛嬌があり、瑞穂たちとは身振り手振りでコミュニケーションを取っている。ペイズリー、というのはもちろん本名ではなく、何か別のしっかりした名前があるとは思われるのだが、瑞穂はいつも「ペイズリーおばさん」と呼んでいる。初めのうちは少し不思議だったが、シラセもいつしか「そういうものだ」と考えるようになって、ペイズリーと心の中で呼ぶようになった。

しばらくしてから、ペイズリーがハルをちょいちょいと手招きして呼び寄せた。ハルがぱたぱたと小走りに駆けていく。

「ご注文、お決まりでしょうか」

ペイズリーはメニューのひとつを指さして、これをください、とハルに合図を送った。イエローコーヒーですね、とハルが確かめると、ペイズリーがにこにこしながら大きく頷く。

「かしこまりました。少々お待ちください」

注文を取るハルを、ペイズリーは終始微笑みながら見つめていた。ハルが瑞穂へ注文を持っていくのを見てから、手に提げていたバッグから毛糸と編み針を取り出して編み物を始めた。季節は夏の入り口、毛糸の帽子やマフラーはまだ入り用ではない。けれどそんなことはお構いなしに、ペイズリーはすぐ編み物に没頭し始める。

ペイズリーのオーダーしたイエローコーヒーは、他所ではお目にかかれないカフェ・ペリドットならではのメニューのひとつである。黄色いマメを煎って淹れたコーヒーで、ペイズリーはいつもこれを飲んでいる。他の物を頼んだところを、シラセは見たことがなかった。ペイズリーは編み物をする手を止めて、テーブルに置かれたコーヒーを見てから、ハルに微笑みながら頷き返した。

うっすら湯気を立てるカップを手に取ると、ペイズリーがコーヒーを少し啜る。飲み下してから二度三度と頷く様は、いつも飲んでいる味であることを確かめているかのよう。もう一口飲んでからカップをソーサーへ戻して、ペイズリーは編み物へ戻った。編んでいるのは毛糸の帽子のようだ。季節は夏の盛りだったが、ペイズリーは気にすることなく編み物を続けている。これもシラセがここへ来てからずっと繰り返されている光景であったから、とりたてて気にすることでもなかった。けれど、ハルにとってはそうではないようだ。編み針を夢中で繰るペイズリーをハルがしげしげと眺めていると、ペイズリーが不意にハルへ目を向けた。

目を細めて、頬を緩める。編み物をしているところを見てもらって喜んでいるかのよう。茶目っ気のある笑顔を向けられたハルの方がなんだか気恥ずかしくなってしまって、頬をほんのり朱に染めながら、手にしていたメニューでぱっと口元を隠した。瑞穂はカウンターの向こうでグラスを磨きながら、ハルの仕草をつぶさに観察している。無論、その表情は穏やかだ。

時折コーヒーをすすりながら、ペイズリーが毛糸を編んでいく。おっとりした感じの風貌とは裏腹に、編み針を動かす手は相当に早かった。ハルは店にやってくるお客の相手をして注文を取りながら、ペイズリーは何を編んでいるのかと時折ちらりと様子を伺うのだった。

「ハルちゃん。ペイズリーおばさんが呼んでるよ」

客の入りがひと段落したところで、ハルが店の隅で少し息を抜いていた最中のことだった。瑞穂からそう声を掛けられて、ハルが慌ててペイズリーの元へ駆け寄る。ペイズリーは近付いてきたハルを笑顔で出迎えると、何かを包み込むように重ね合わせた両手を彼女の前へそっと差し出した。首をかしげるハルを見て、ペイズリーが右手の上へ重ねていた左手をそっと取り去る。

「これ……手袋?」

ペイズリーがハルに手渡したのは、小さな小さな手袋だった。子供でさえはめられるかどうかという、とても小さな桜色の手袋。目の前にそんなものを差し出されてきょとんとしていると、例によって横から声が飛んできて。

「もらっていいよ、ハルちゃん。お客さんからのプレゼントだしね」

「瑞穂さん」

「私もね、ペイズリーおばさんから毛糸の帽子をもらったことがあるんだ。だから、心置きなく受け取っちゃってよ」

瑞穂の言葉を受けたハルが、ペイズリーの掌に乗っていた小さな手袋を受け取る。もちろんハルの手にははまらないが、なんとも愛らしい。ハルも気に入ったようで、明るい表情を見せていた。

「あの、ありがとうございます」

お礼を言われたペイズリーは、目と口元をひときわ細めて嬉しさを表現すると、また別の何かを編み始めた。

ハルとペイズリーがやり取りしている間も、端っこの席では花子がずっと本を読んでいる。シラセが側によると、花子は本から目を離すことなく手だけを下へやって、手探りでシラセの身体をなでる。読んでいるのはいつもの古生物の本だろうか、シラセが花子の読んでいる本に考えを巡らせる。花子はペリドットの本棚に並べられている分厚い古生物図鑑を読むのが好きで、幾度も繰り返し読んでいることをシラセは知っていた。

ポケモンの始祖に当たる生物たち。彼らは「ポケモンでない」他の生物と、時にぶつかり合い、時に交わり合いながら、少しずつ変貌と進化を遂げていったとされている。厳密には特定されていないが、ある時点で現代のポケモンとほぼ同じ構造を得るに至ったらしい。その生物の化石が復元されて現代に蘇ったのは、もうかれこれ二十年近くも前のことだ。榁と同じ小島にある研究所で、カブトやオムナイトといった古代のポケモンが現世に再誕したという出来事を記憶している人も少なくないだろう。花子はそんな古生物の本を飽きることなく何度も読み返している。瑞穂もそれを気に掛けている様子はなかった。

「これ、汚さへんように、裏においてきていいですか」

「いいよ。大事にしてあげてね」

瑞穂にひとこと断ってから、ハルがスタッフルームへ引っ込んでペイズリーおばさんからもらった手袋を置きに行く。シラセがそっと付いていくと、手袋をロッカーの中へ入れたハルと目が合う。

ハルが屈みこんでシラセに目線を合わせると、少し控えめに口を開いた。

「シラセやっけ、自分」

「この店、なんかちょっと変わっとるな」

「お店もそうやし、言い方悪いけど、お客さんもそう」

ペリドットは独特の空気に満ちている。ハルの口ぶりは言外にそう語っていた。

「せやけど、ちっとも嫌な気はせぇへん」

「なんやよう分からんけど、落ち着く場所やなって思うわ」

「うちが前住んでたところやったら、店にアブソルとかおったら大騒ぎやったやろし」

けれど、そこに嫌悪の色は見られない。むしろペリドットの持つ雰囲気を気に入って、そこへ飛び込んでいこうとしている。

さながら、かつてのシラセのように。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。