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5-1 おしゃべり

朝焼けが海を照らす。白波が陽光を抱く。

ハルは早朝からシラセを伴って、海を囲うかのように続いている道を悠々と散歩していた。辺りに人影はなく、寄せては返す波の音とキャモメの鳴き声だけが聞こえてくる。涼しい風を浴びながら、ハルは当てもなく歩き続ける。

昨日はペリドットでの仕事を終えてから、瑞穂と沙絵の家へ帰って共に夕飯を囲んだ。ペリドットで働いていることを沙絵に話すと、沙絵は「やるねー」とハルを誉めそやした。それから床に就いて眠ったのだが、朝になって二人よりも早く目を覚ました。少しだけ先に起きていたシラセと目が合い、瑞穂と沙絵を起こさないよう揃って散歩に出ることにした。そうして今、二人は海岸線を歩いている。

「しばらくはここに居ることになるんやし、ちょっとは地理も知っときたいから」

榁を訪れてまだ三日。ハルはもっとこの場所について知りたいと考えている、シラセはそう感じた。それがハルの恒久的な榁への滞在を意味しているのかはともかく、ハルがある程度の期間榁で暮らすことは間違いなかった。ハルに興味を抱いていたシラセにとっては朗報と言えた。シラセはハルに対して自分に近いものを見出していて、彼女とより深く接したいと考えていたからだ。

シラセの気持ちを知ってか知らずか、ハルがそっとシラセの背中を撫でる。ふるふると軽く体を震わせたシラセがハルを見る。自分触ってると、なんか落ち着くんよ。ハルはシラセに言うと、ひと撫で、ふた撫でと繰り返した。

「シラセ、自分も他所から来たんやんな。うちと一緒か」

ハルの問いかけに、シラセははっきりと頷いて返した。生まれは榁から離れた遠い山奥、ハルと同様に外から榁へ流れ着いた身だ。ハルに感じている親近感の大きな一因と言える。そしてそれは、ハルもまた同じく抱いている心持ちのようだった。

背中を撫でていたハルが立ち上がり、ぐっと体を伸ばす。胸いっぱいに空気を吸って、それから大きく吐き出す。

「さっきからずっと波の音しとる。海って静かやと思とったけど、意外と賑やかなんやな」

砂浜に寄せて地面を濡らしては、そのまま海へ退いていく。海がある限り、打ち寄せる波の音が止むことはなく。ハルは波の音を「賑やか」と評した。そこには聞きなれない音、自分にとって新しい音というニュアンスが込められている。あるいは、波の音に耳を傾けられるほどには、心に余白ができてきたと言うこともできるかも知れなかった。

「波もそうやし、風もそう。山は山の匂いするけど、海は海の匂いするんやな」

うちの近くに、海はあらへんかったから。ハルはそう付け加えた。

昨日の夕飯時の会話で、ハルがかつて暮らしていた日和田市の話題が少しだけ出たことを思い出す。日和田市は四方を山に囲まれた地方都市で、海に囲われた榁とは環境が大きく違っている。木と林と森、それらを育み支える山々。ハルがぽつぽつと語る日和田の風景を、瑞穂と沙絵が物珍しげに聞いていた。その傍らで、シラセはハルの言葉に心の原風景を見出していた。

シラセは山奥で生まれ育った。まだシラセという名前が与えられる前のことだ。その時記憶に刻まれた光景は、ハルが話して見せた日和田市のそれによく似ている。緑に抱かれて育ち、今は青に包まれている。ハルもシラセも同じだった。

だから、シラセにはハルが今どんな心境でここに居るのか分かる気がした。何もかもすべて分かっているというわけではないにしろ、ハルの気持ちに寄り添うことくらいならできる。そんな思いがあった。

「ひょっとしたら、シラセも同じように思てるかも知れへんけど」

「こうやって海見るたんびに、うち、遠い所へ来たんやなって思う」

遠い所へ来た。故郷から遠く離れた、見ず知らずの姉二人が住む榁の地へやってきたことを、ハルはそう表現した。単に地理的に遠い、というだけではない、もう少し複雑な意味が込められた「遠い所」。同じ思いは、榁の地を踏んだばかりのかつてシラセも感じていた。同じことを思っている、ハルの言葉は正鵠を射ていた。

「これから上手いことやっていけたらええな、って思ってる」

「せやけど、どないしたらええんか分からへん。いちいち考えやなあかんのって、結構しんどいな」

ハルがシラセに語る間も波が止むことはなく、僅かに揺らぎのあるリズムで音を立て続けている。晴れの日の海は遠めから見ると穏やかに見えるけれど、その実波が収まることはなく、音が止むこともない。それはさながら、落ち着いたような振る舞いを見せながら、内心は未だぐらつき揺らいでいるハルの心境とシンクロしているかのよう。ハルの心が凪を得るまでは、まだ少し時間が必要そうだった。

「あれやな、瑞穂さん家で会うた時から思とったけど、自分とおると落ち着くわ。なんでも話せるし、ちゃんと聞いてくれてるって思う」

本質的にハルはよく喋る子なんだな、とシラセは感じ取った。瑞穂と沙絵を前にすると口数が減ってしまうのは、まだ心の距離を詰められていないから。血が繋がっているとは言え面識のない「姉」二人にどう接すればよいかなど、一朝一夕に把握できるものでもない。

「さっきからごめんな、うちばっかりべらべら喋って。シラセも口きけたら、うちにいろいろ言いたいことあるやろけど」

話すことができたら、お互いより心を通わせられる。それはシラセも同じ思いだった。あいにくシラセはハルの言葉こそ理解できても、ハルに理解できる言葉で話すことはできなかった。ハルの言葉がきちんと届いている、そのことをハルに伝えたくて、シラセはハルの足にそっと身を寄せた。

「あかんあかん、うちこしょばいの苦手やねん」

ハルがくすぐったそうにして笑う。彼女が初めて見せた屈託のない笑顔だとシラセは感じた。瑞穂や沙絵にはまだ見せられない、心からの笑顔だった。

「ほんま、シラセがおってくれて良かった。うち一人やったら、こないして散歩しとる途中に泣いとったかも知れへん」

誰か話せる相手がおるだけで、だいぶちゃうんやな。ハルの口にした言葉で、シラセは自分がハルの支えになっているのだと実感する。こうして話の聞き手に回ることで、ハルの気持ちが少しでも軽くなるなら、シラセはいくらでも耳を傾けるつもりだった。

海岸沿いを歩いている途中砂浜へ下りる階段を見つける。ちょっと行ってみよか、軽く駆けていくハルを追って、シラセが砂浜へ降り立った。砂浜には漂着した木材や海藻が無造作に転がっていて、時折波に攫われてまた海へと漕ぎ出していく。

「いきなりやけど、瑞穂さんってすごいな」

砂浜に足跡を残しながら、ハルが何気なく呟く。

「すごいって言うか、立派って言うた方がええんやろか。なんでも上手いことやってまうし」

「家でも、ペリドットでもそうや。家事も上手やし、ペリドットやとあっという間に飲む物食べる物作ってしまう」

「なんやこう、別の世界の人みたいや」

「うち、これでも瑞穂さんの妹なんかな。まだ実感湧かへんわ」

自分が誰かの妹であることに実感が湧かない。自分に姉がいることを現実のこととして感じられていない。血の繋がりは心の繋がりと等価ではなく、そして当人同士にとってさほど意味を持たない。ハルの率直な言葉を、シラセはありのまま受け止めている。返す言葉を持っていなかったけれど、ハルには自分の言葉を受け止めてくれる存在が必要だった。シラセは人知れずその役目を担っている。それで十分だった。

砂浜を歩いていたハルが、不意にぽつりと呟く。

「ペリドットって、何なんやろうな」

ペリドットとは何か。曖昧模糊とした言葉にもかかわらず、シラセにはハルが何を言わんとしているのかあまりにもよく分かる気がした。

「あそこの中、時間の流れ方が外とちゃう気がする。ゆっくりしとるように思うのに、気ぃ付いたらめっちゃ時間経ってたりするし」

何とも不思議な場所だ。ただの喫茶店のはずなのに、何かが違う気がする。古めかしい内装がもたらす錯覚なのか、代理マスターである瑞穂が醸し出す空気ゆえなのか、それともやってくるお客が皆一風変わっているからか。或いは、それらすべてが重なり合った結果か。

こういうことくらい、瑞穂さんと沙絵さんの前で喋れたらええんやけど。ハルがぽつりと呟く。二人の前では、まだうまく話すことができない。解決するには今しばらく時間が必要そうに見える。

「まだ上手いこと、口がきかれへんから」

ハルが瑞穂と沙絵に心を開くまで、せめて自分が話し相手になってやれれば。シラセはそのように考えるのだった。

二人がほどほどに間を空けて砂浜を散歩していた最中、ハルがぴたりと立ち止まった。

「なんやろ、あれ」

目線は海の方を向いている。シラセも足を止めると、ハルが見ているだろう方角に目を向けた。アブソルは人間よりずっと目が利くから、ハルが何か見ているのなら同じく目に留まるはずだった。

目を凝らした先に、シラセは海を悠々と泳ぐ人影を見た。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。