お昼を過ぎて客の入りがひと段落したところで、瑞穂が変わらず入口の辺りに立っているハルに呼び掛けた。
「ハルちゃん、ちょっと休んだら?」
「いいんですか」
「うん。朝から立ちっぱなしの気も張りつめっぱなしで、疲れちゃったでしょ。空いてる席、好きに使っていいよ」
ハルが瑞穂に軽く一礼してから、空いていたカウンター席の一つに座る。エプロンを外して、皺にならないように広げて膝の上に掛けると、ほう、と大きく息をついた。瑞穂の言う通り、疲れが溜まっていたようだ。額にジワリと浮かんだ汗を拭うと、ゆっくり肩の力を抜いた。
隣に冷たいおしぼりを置いて、瑞穂がハルに語り掛ける。
「はい、お疲れさま。お仕事、どうだった?」
「やっぱり、慣れてへんからかな。めっちゃ緊張してしもた」
「肩に力が入っちゃったんだね。それくらい本気でやってくれてるってことだから、私は嬉しいな」
ハルがカウンターに突っ伏して体を伸ばしている間に、瑞穂が何か作っている様子をシラセは見逃さなかった。グラスに冷たい牛乳を注いで、そこに粉末を溶かしている。飲み物ができあがると、冷蔵庫から切り分けたケーキを一切れ取り出して、小皿に取り分けた。準備が整ったところでトレイにグラスとお皿を載せて、瑞穂がカウンターから手間へ回り込んだ。
「ハルちゃーん、ちょっと起きて」
「はぇ?」
間の抜けた声を上げるハルの前に、瑞穂がグリーンカフェオレとベリー入りチーズケーキのセットを並べて見せた。鮮やかな色をした飲み物とデザートに、うっすら閉じかけていたハルの目がいっぱいに見開かれる。グラスに注がれたカフェオレはさながらメロンジュースのような明るい緑を帯びていて、ケーキには小さなベリーが幾つも埋まっている。どちらも初めて目にする代物だったが、ハルの瞳はキラキラと輝いていた。
「これ、うちのん?」
「もちろん。あれだよあれ、『まかない』って思ってくれればいいよ」
おいしそうに食べてくれたら、お客さんへの宣伝にもなるしね。そう付け加えてペロリと舌を出す瑞穂。ちゃっかりしたところを見せる瑞穂に、ハルが表情を少し緩める。
ハルがベリー入りチーズケーキにそっとフォークを入れる。一口大に切り分けて口へ入れると、チーズケーキの風味とベリーの甘酸っぱさが交わり合いながら口の中で広がっていく。おいしい、ハルはそう呟いた。白いストローの刺さったグラスを手に取ると、冷たいグリーンカフェオレを喉へ流し込む。見た目より甘くなく、しかし苦味もまたほどよい。ポップな見た目とは裏腹に、カフェオレとして王道の味わいがあった。うまい、ハルがまた呟いた。
「すごいな、瑞穂さんは。こんなんパッパと作ってまうんやから」
少なくとも、ハルはグリーンカフェオレやベリーの入ったチーズケーキが売られているのを見たことがない。ほぼ間違いなく、瑞穂か大槻さんが考案したメニューだろう。新しいメニューを考え出すには料理の地力が求められるわけで、瑞穂や大槻さんはその能力に優れているということになる。
「うち、料理はからっきしやからな」
「瑞穂さんのようには、行かへんわ」
ケーキを切り分けて食べながら、ハルが少しばかり寂しげに言葉をこぼした。
休憩を挟んでからまたウェイターの仕事をして、店を閉める時間になった。最後のお客の帰りを見送ってから、表の札をひっくり返して「CLOSED」にする。
「今日はここまでだね。ハルちゃん、一日お疲れさま。どうだった?」
「大変やったし、まだちょっと上手いこと行かんところもあるけど、でも、どうにもならへんってことは無さそうやわ」
完全ではないが、手も足も出ないわけではない。そう応えたハルに、瑞穂が頷く。
「一緒にお仕事してみて思ったけど、やっぱり手伝ってくれる子がいると大分違うよ」
「だから、ってわけじゃないけど、ハルちゃん。夏休みの間、ここで働かない?」
しばらく続けて働かないか。どこかそんな提案を受けるのではないかと予測していたのだろう、ハルは驚いた様子も見せずに、瑞穂の目をじっと見つめている。そこに否定の色はなく、受け入れるつもりでいるようだった。瑞穂がさらに続ける。
「ハルちゃんなら、きっとうまくやってけるよ。もの覚えもいいし、てきぱき動けるし、何よりまっすぐだし」
「分からないことがあれば、私が教えるよ。そこは安心していいからね」
「あ、もちろんね、雇うからにはお給料だって出すから。お小遣いとかじゃなくて、ちゃんとした金額でね」
「ちょっと人手が足りてないから、ハルちゃんみたいな子に手伝ってほしかったんだ」
お店には正真正銘瑞穂しかおらず、ハルがいなければ瑞穂が注文を取って回る必要がある状況だった。妹の沙絵はペリドットの運営・経営に関わっていないらしく、一度も姿を見せていない。人手が足りないという瑞穂の発言は、残念ながら紛れもない事実だった。一日働いてみて、ハルもそれをよく理解している。
「瑞穂さんがそない言うてくれるんやったら、うち、やりたいです」
「榁に来たばっかりで、うちもこれからどないしたらええんか分からへんで、何かこう……すること、せなあかんこと、欲しかったから」
シラセは二人の様子を見ながら、あるいは瑞穂も同じことを考えていたのではないか、と思いを巡らせた。ハルはここに至るまで、母親を亡くして、遠く離れた地に足を踏み入れて、見ず知らずの姉二人に面会するという怒涛の中にいる。自分が何をすればいいのか迷うのは当然のことと言えた。その心の隙間を埋めるために、何か「しなければならないこと」を求めるのは、生き物として自然な情動ではなかろうか。シラセはそう考えた。
「せやから瑞穂さん、うちをここで、ペリドットで働かしてください」
ハルが身を乗り出して、瑞穂に「ペリドットで働きたい」と申し出た。
「はい! 契約成立っ。ようこそハルちゃん、ペリドットへ」
ぱん、と手を打って、瑞穂がハルの申し出を受け入れた。言葉通り、ハルを従業員として雇う、或いはハルが従業員として働く契約が成立した。
それはすなわち、ハルがペリドットで働くための理由ができたということで。
「明日からもお店に立ってもらうから、よろしくね」
「あっ、はい」
「って言ってみたけど、辛かったりきつかったりしたら、ちゃんと言ってよ。無理はさせたくないからね」
それから、と付け加えてから、瑞穂がハルに告げる。
「福利厚生、ってわけじゃないけど、ハルちゃんには住むところが必要だね」
「家賃補助みたいなのは、うーん、ちょっと出すには厳しいから、代わりと言っちゃなんだけど、うちに居てもらえるかな」
「今は使ってない部屋があるから、今度掃除して使えるようにするよ」
これで、ハルが瑞穂と沙絵の家にいるための理由もできた。
ただ血縁関係があるから、という理由でハルを家に居させるのは、生真面目なハルにとってかえって息苦しさを感じさせるものになってしまうだろう。けれど、家に住み込ませてペリドットで働いてもらうというハッキリした理由をハルに与えることで、ハルの心の持ちようを軽くさせてやりたい。瑞穂の性格なら、そんな風に考えるのが自然に思えた。ハルは察しがいいから、瑞穂の意図を分かっているように見える。瑞穂はそれも理解したうえで、敢えて一つずつ理由付けをしている。シラセはそのように考えた。
「ちょっと間が空いちゃったけど、この際だから、ちゃんと言っておこうかな」
ハルを真正面に見据えて、佇まいを直した瑞穂が。
「ようこそ、上月家へ」
「ようこそ、ペリドットへ」
「これからもよろしくね、ハル」
そう、静かに告げたのだった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。