藍子も去ったことだし、そろそろ行こうか。口には出さなかったが、ハルの仕草を見たシラセはそう感じ取った。踵を返して歩き出そうとするハルに、シラセが歩調を合わせて付いていく。
「おおい、そこの子!」
また誰か現れた。ハルが少し肩をすくめて後ろを振り返ると、遠くから少年が一人こちらに駆けてくる。
ヒロだ、とシラセは例によってすぐに気が付いた。ハルにとっては見知らぬ人物だが、シラセにとっては互いによく知った顔なじみ同士だ。間もなくヒロがハルのすぐ近くまでやってきて、少しばかり乱れた呼吸を整える。
「よう、シラセ。お前も一緒だったんだな」
「シラセのこと知ってるん?」
「知ってるも何も、こいつとはかれこれ四年の付き合いだぜ。な? シラセ」
もう四年も経つのかと、シラセがわずかばかりの感慨を覚える。それだけの時間が過ぎたという実感はあまり無かったけれど、年月を重ねているのは紛れもない事実だった。
「そっちこそシラセの知り合いなのかよ」
「知り合いって言うか、なんて言うたらええんやろ。こっち来て最初に会ったポケモンやから」
「おっ、やっぱり外から来たんだな。おれの読みは正しかったわけだ。まず喋り方が違うからな」
ハルは静都で生まれ育った。ゆえに静都ことばで話す。榁は豊縁地方に位置するが、他の街から海によって隔絶されているために、豊縁ことばが持ち込まれなかったという経緯がある。原初に住み着いた人間がたまたま関東生まれだったことから、榁は豊縁でも珍しい関東ことばで話す地域となっている。ハルの言葉遣いは、それだけで物珍しい存在だった。
ひとまずファーストコンタクトが済んだところで、ヒロが腰に手をやった。ベルトから外して見せたのは、赤と白のモンスターボール。ヒロは迷わずそれを放り投げると、中からスバメが姿を現した。
「何やろ、あのポケモン。見たことないわ」
「スバメのタツマキだ。おれの相棒だぞ」
「はあ、スバメ」
「得意技はまだヒミツだぞ。これからたっぷり拝ませてやるからな」
「見せるんか見せへんのかはっきりしいや」
「えっ? 何言ってんだよお前。バトル前に手の内を明かすやつがいるかよ」
「えっ、どういうことなんそれ。意味分からん」
事情が呑み込めていない様子のハルに、ヒロもまたキョトンとした顔をする。そしてこの一言。
「だってお前……トレーナー同士目が合ったらすることは一つ、ポケモンバトルだろ?」
ハルがため息をついて、首を横に振る。
「うちはトレーナーと違う。だから、ポケモンは持っとらへん」
「えぇっ、マジかよそれ!? だってお前、島の外から来るやつなんてトレーナーしかいないだろ!?」
「そうかも知れんけど、うちは違うんや」
呆気にとられたヒロが思わず声を上げる。しかし残念ながら、ハルがポケモンを連れていないのは事実だった。ポケットを探って見せ、腰をひねってベルトに何もぶら下げていないことを確かめさせると、さすがにヒロもハルの言い分を受け入れざるを得なかった。
「シラセはこないして一緒におってくれるけど、うちは戦わせられへん。『おや』とちゃうからな」
「まぁ、シラセは瑞穂さんとこに居候してるだけだもんなぁ」
「せやから、悪いねんけどバトルはできんわ」
バトルはできない、とはっきり言われたヒロが、残念そうに顔を俯かせた。
「ちぇっ、残念だなあ。せっかく同年代とバトルできると思ったのに」
「自分の周り、他にポケモン連れてる子おらんの?」
「いないわけじゃないけど、いつも同じやつと戦ってたら飽きてくるだろ。だから、外から来た子とバトルしたいって思うんだよ」
「ああ、それはあるか。気持ちは分かるわ」
「けどさぁ、お前から明らかにトレーナーの匂いがしたんだけどな」
ヒロの意見にシラセも同意する。アブソルである自分への慣れた接し方や、他人に対してそれほど物怖じしない姿勢を見ると、ハルにトレーナーの気質を強く感じずにはいられない。当のハルもまた、ヒロの発言を否定しなかった。
「ちょっと前まで、トレーナーに近いことしとったんは間違いないわ。ジムにも通っとったし」
「えっ? ジムに? いいなぁ、それ。どんなジムだったんだ?」
「日和田やから、虫ポケモンのジムやったかな」
「虫かぁ。榁にあるのは格闘ポケモンのジムだから、おれは通えないんだよな」
「スバメは空飛んでるポケモンやから、そら相性は悪いわな」
「あーっ、お前やっぱ分かってるやつだ! くっそー、戦いたかったなぁ」
会話からして、ハルはポケモンのことを何も知らないずぶの素人ではなかった。ポケモンにはそれぞれ相性があり、自分にとって有利な相手と不利な相手がいる。アブソルは榁のジムに所属するトレーナーが連れている格闘ポケモンに対して不利で、ヒロの連れているタツマキはそれら格闘ポケモンに強い。もちろん、タツマキに対して有利を取れるポケモンも少なくない。アブソルが優位に立つポケモンもまた然り。少なくとも一般に知られているポケモンたちの中に、完全無欠と言えるような種は存在しない。
こうした相性に関する知識は単にポケモンを連れている人間が必ずしも知っているわけではなく、トレーナーとしてポケモンを戦わせるために自発的に学ぶ必要がある情報の一つだ。ハルがヒロとの会話の中でこの知識の一端を見せたということは、すなわちハルがトレーナーだったか、トレーナーを志したことがあったということだ。
「うちも前はポケモン連れとったけど、今はスズさんに預けてるから」
「スズさんって、静都にいる双子のジムリーダーの?」
「せや。うちにいろいろ教えてくれた優しい先輩や。せやけど、うちはもうバトルはせえへん。そう決めたんや」
「そりゃまたどうしてだよ。なんか理由があるのか?」
ハルがため息をついて、小さくかぶりを振った。
「……おかんがトレーナーやっとったせいで、いろんな人に迷惑かけたんやって分かったから」
いろんな人。ハルはその言葉に含みを持たせている。恐らくは日和田に居た頃に接した人々を指しているのだろう。けれど、彼らだけとは思い難い。具体的に誰に迷惑をかけたとハルが感じているのか、正確に推し量ることは難しそうだった。
「そういうもんかぁ。ま、いいや。お前、名前は?」
ずいぶんあっさり話を切り替えてきたヒロに、ハルが少々面食らう。ヒロはさっぱりした性格で、物事をあまり引きずらない。それはシラセもよく知るところだった。
「おれはヒロ。ヒロって呼んでくれよ」
「ヒロ、か。分かった、覚えとくわ」
ヒロの名前を復唱したのち、ハルが自分の名前を口にする。
「うちは上月ハル。上に月って書いて、こうづき、や。日和田ではあんまり見ぃひん苗字やったかな」
「上月? 上月ってもしかして、瑞穂さんところの?」
失敗した、と言いたげな顔をして見せるハル。ヒロの言い方からして、上月という苗字はこちら榁でもそうそう見かけないものらしい。そしてどうやら、その上月姓を持つ瑞穂はなかなかの有名人の様子。瑞穂との関係性を訊ねられてもおかしくない状況だった。
「ハル。ひょっとしてお前、瑞穂さんと沙絵さんの親戚だったりするのか?」
「親戚って言うたら、親戚かも知れんけど」
ハルが肩をすくめて、きまり悪そうに答える。ここで馬鹿正直に瑞穂と沙絵の妹だと言おうものなら、話がややこしくなるのは明らかだった。だがハルの口から言わなくとも、ヒロは少なくとも瑞穂や沙絵とハルに何か関係があるところまでは察したみたいだ。自分の心にどんどん踏み込んでくるヒロにハルは少しげんなりしているが、ヒロは対照的に目を輝かせていた。元トレーナーでポケモンバトルの知識があり、瑞穂や沙絵とも関係がある。ヒロがハルに関心を抱くだけの理由は揃っていた。
さらに何か訊ねようとしたヒロ、だったのだが。
「おにぃーちゃーんっ!」
「ひゃっ!?」
背中から誰かに抱き付かれて、ヒロが思いきり前へつんのめった。倒れそうになったところを何とか踏ん張って、よろめきながら体勢を立て直す。
「ちょっ、マキ! やめろって、びっくりするだろ!?」
「だっておにーちゃん、急に走ってくんだもん」
背中からしがみついているマキを下へ降ろすと、ヒロがぱたぱたと服を手で払う。やっぱりマキか、とシラセが納得する。マキはヒロといつも行動を共にしている、もっと平たく言うならヒロにくっついている年下の少女で、年齢的には先ほど現れた藍子と同い年くらいになる。どうも榁の女の子というのは、ずいぶんとアクティブなところがあるらしい。
「おにーちゃん、だっこだっこ!」
「分かった分かった。慌てるなって」
しきりに抱っこをせがむマキをあやしながら、ヒロがマキの背中へ腕を回してそっと抱きしめた。ヒロのいかにも腕白そうな見た目に反して、小さな少女であるマキを抱く手つきはとても穏やかで優しいものだった。さながら母が娘を抱くかのように、繊細なものを壊さぬよう、そっとマキを包み込んでいる。
ヒロに抱かれて落ち着きを取り戻したのか、マキがヒロから離れて周囲を見回し始めた。その途端、マキがそのどんぐり眼を大きく見開く。
「シラセもいる! なでなでさせて!」
見つけたのはシラセだった。あっという間に駆け寄ったマキの手で例によって背中や頭をわさわさと撫でられて、シラセが目を細める。マキの様子を見たハルが、ヒロにそれとなく訊ねる。
「妹?」
「妹分さ。おれのな」
ハルが声を上げたことで存在に気が付いたのか、マキがシラセを撫でるのをやめて顔を上げた。ハルに視線を投げかけると、そのままじーっとハルの目を見つめる。まじまじと見つめられたハルの方は、ちょっとばかり居心地が悪そうだ。マキは後ろ手に手を組んで、ハルを観察しながらぐるりと一周する。
観察が済んだところで、マキがヒロに問いただす。
「おにーちゃん。このおねーちゃんと話してたの?」
「そうだぞ。榁に来たばっかりみたいだから、いろいろ訊こうと思ったんだ」
「ふーん。それだけ?」
マキはヒロがハルと楽しそうに話をしていたことが引っかかっているのか、ヒロに食い下がっている。ヒロは「それだけだぞ」と返すばかりだが、マキが納得して引き下がる様子はない。二人の様子を見ながら、ハルがそれとなく、シラセに耳打ちをする。
「ヒロとマキちゃんって、ホンマに兄妹なん? 顔、似ても似つかへんけど」
言われたシラセは軽く俯いて、暗にハルの言葉に同意した。確かにこの二人、顔立ちがまるで違っている。普通の兄妹ならどこかに共通する面影を見出せそうなものだが、ヒロとマキにはそういうところが見られない。マキが「お兄ちゃん」とヒロを慕っているのでパッと見兄妹に見えるのだが、改めて見てみると何かが違うように思える。ハルの言いたいことは、シラセにもよく分かっていた。
用事を思い出したのか、マキがヒロの服を引っ張り始めた。
「おにーちゃん、そろそろ行くよっ」
「分かった分かった、服が伸びるから引っ張るなよ。替えがあんまり無いんだから」
これにてお別れのようだ。去り際に、ヒロがハルに言葉を残していく。
「じゃあな、ハル。今度はもっと落ち着く場所で喋ろうな」
マキに引っ張られながら歩いていくヒロを、ハルがひらひらと手を振って見送った。
「ふぅん。お兄ちゃん、か。ま、いろいろあるんやな」
ハルは騒がしい二人が去ってようやく一息つけるとばかりに、ぐーっと大きく伸びをする。
「悪い子とちゃうみたいやけど、ちょっとお節介焼きやな。うちから見ても」
そしてハルも歩き出す。そろそろ瑞穂と沙絵が起き出してくる頃だろう。家に帰って朝食の準備を手伝わなければ。くるりと踵を返して、ハルが瑞穂たちの家のある方角へと歩き出す。
「それにしても、や」
「ペリドットに来るお客もそうやし、今日砂浜で出会うた人らもそうやけど」
「変わり者の多い街やな、榁は」
二日の間に出会った人々の顔を順繰りに思い浮かべながら、ハルが率直な感想を漏らした。一人で喫茶店に通い古生物の本を読みふける少女、無口ながら愛想のいい編み物が趣味のおばさん、「ミサキ」を伯母に持つパン屋の看板娘、自称兄妹の騒がしい二人組。どれをとっても一筋縄ではいかない、一癖も二癖もある人物ばかりだ。
「シラセはどない思う? 同じ他所から来たもん同士として」
シラセは迷うことなく深く頷いた。ハルより長く榁で暮らしているとは言え、風変わりな人物が多いというのはシラセもまた認めるところだった。ハルがまだ出会ったことのない人物の中にも、強い個性を持つ者は大勢いた。それがこの榁という街の特徴だと、シラセは感じていた。
今日はどんなお客さん来るんやろな。そう呟いて歩き出すハルに、シラセは付き添って。
「ほな、行こか」
「瑞穂さんと、沙絵さんの家へ」
砂浜に足跡を残しながら、来た道を戻っていった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。