意識を取り戻したハルが目にした光景は、いつも見ているペリドットのそれ――ではなかった。
「なんや、ここ」
覚束ないながらも立ち上がる。辺りは曖昧模糊としていて、どう形容すればいいのか分からない光景が広がっている。桜色と紫色を混ぜた色の雲がどこまでもどこまでも広がっていて、終わりというものが見出せない。異様な空間ではあったが、不思議と「怖い」という感情は浮かんでこなかった。どこかは分からないが、ここにいるのが自然なことのように思える。見覚えはないけれど懐かしい場所、矛盾しているけれど、そう言い表すのが適切に感じられる場所だった。
ふと足元を見たハルが、思わず声を上げた。
「あれ、シラセ?」
姿かたち、そして認知共にまったくズレのない「シラセ」そのものが、ハルの傍に立っていた。シラセもシラセで、ハルを見てきょとんとした顔をしている。不思議な空間にいたけれど、ハルとシラセそれぞれの眼前に居るのは、一分の誤りもないシラセとハルそのものだという感触があった。
そして二人がほぼ同時に視線を前方へ向けると、ペリドットのテーブルで眠っていた律の姿もあった。
「律さん」
「あ、ハルちゃん。それにシラセも」
ハルとシラセが律の元へ向かう。律は二人を見つけると、眠りにつく前とまったく変わらぬ様子で快く出迎えた。
「えっと、律さん。ここ、どこやろ? ペリドットとちゃうみたいやけど」
「んー。まず、あたしもハルちゃんも、それにシラセも、ペリドットにはいるんだよ。それは安心して。ただ、ちょっと違うものを見てるだけだから」
「違うもの?」
「そ。それは……あ、ごめん。ちょっと待ってて」
話し始めようとした矢先のこと、律が左手からやってくる存在に気が付いて、ハルに断わってそちらへ歩いて行った。ハルはシラセと顔を見合わせてから、律の歩いて行った先へ向かう。
ハルが歩いていくと、律は見ず知らずの『紳士』の前に立っていた。
「誰やろ、あれ。あんな人知らんけど」
シラセも首をかしげている。少なくとも、ハルがここへ来てから見たことのある人物ではないのは確かだった。そしてハルより榁での暮らしが長いシラセにとっても、まるで記憶にない存在のようだ。顔はハッキリ見えないが、きちんとネクタイを締め、帽子を被った正装の紳士という表現が一番正しいように思えた。いわゆる「ジェントルマン」と呼ばれる風貌と言えた。
謎の紳士が、律に向かって歩み寄る。律は特に緊張している様子も警戒している素振りも見せず、むしろ紳士を受け入れているように見受けられた。
そして。
「律、元気にしてる? ご飯、ちゃんと食べてる?」
明らかに女性と分かる声色で、律に話しかけた。堅苦しい見てくれと発せられた柔らかな声があまりにかみ合わなくて、隣で聞いていたハルが面食らった顔をしている。
紳士が律の肩にそっと手を置く。された側の律の表情が緩むのが見えた。ハルはますます困惑するばかりだ。
「風邪引いたりしてない? 夜は眠れてる? 何かあったら、なんでも話していいのよ」
口から出てくるのは、律を気遣うような言葉ばかり。律はその一つ一つに頷いている。
「大丈夫。あたしは元気だよ、お母さん」
お母さん。律は確かにそう口にした。どうやらあの紳士は、律のお母さんらしい。外見はどう見ても紳士で律の母親には見えないのだが、この態度を見る限り律の母親であることに疑いの余地は無さそうだった。
「勉強、頑張ってるみたいね。いいことだけど、ほどほどにして、無理はしないでね」
「平気平気。まだまだこれからだもん」
「たまには羽を伸ばして、ゆっくり休んでね」
紳士、もとい母親と話す律の顔は晴れ晴れとしていて、一片の曇りも見られないものだった。
「大学に受かったら、また伝えに来るね」
確かにそう言っているように聞こえた。けれどいつの間にか律の声は遠くなっていて、聞き取れていたはずの声が聞こえなくなっていく。
やがてすべての境目が失われて、ハルとシラセと世界が一緒くたになっていって――。
「……はっ」
普段と変わらぬペリドットの風景。顔を上げたハルの目に飛び込んできたのはそれだった。きょろきょろと周囲を見回して、ハルは今自分が間違いなくペリドットにいることを確かめる。手足の感触もある。頬に手を触れるとしっかり柔らかい。
足にふさふさとした感触を覚えて下を見ると、シラセも同じタイミングで目を覚ましていた。ハルとシラセ、揃いも揃って互いに顔を見つめる。
眠りから覚めたという今の状況。非現実的な光景。
「うち、夢見とったんかな」
総合して考えてみると、ハルは夢を見ていた――というのが、適切な答えのように思えた。だとすると、確かめなければならないことがある。あれが夢だとして、普通の夢では考えられないことが起きていたのだから。
「なあ、シラセ。ひょっとして、自分夢見とった?」
「なんて言うたらええんやろ、ほら、あの……ちゃんとした恰好のおっちゃんが、女の人の声で話す夢」
ハルの言葉にシラセが何度も頷く。シラセはハルの言葉をしっかり理解している、となると、シラセも同じ夢を見ていたということで間違いなさそうだった。
「せやったら、律さんも……?」
夢の中には律も登場していた。ハルとシラセがひとつの夢を共有していたというなら、律もまた同じ夢を見ていたと考えるのが自然に思えた。
「夢を見たの?」
「瑞穂さん」
瑞穂に声を掛けられる。辺りはすっかり暗くなっていて、閉店の時間が迫っていた。
「なんて言うたらええんやろ、よう分からんけど、うちシラセと律さんと同じ夢見とって、それで」
「大丈夫。大体わかるよ。りっちゃんのお母さんが出てくる夢、でしょ?」
ハルが静かに頷く。瑞穂の言葉にすべて集約されている。自分が見たのは、確かに律の母親が出てくる不思議な夢で間違いなかった。言葉通り、瑞穂はハルの身に何が起きたのかを理解しているようだった。
「不思議な夢だよね、りっちゃんの夢」
すぐ隣の椅子に腰かけて、瑞穂がハルを見つめた。
「夢に出てきたん、男の人やったけど……あれ、律さんのお母さんなん?」
「そうみたい。でも、出てくるたびに違う姿をしてるんだって。今日は男の人だったんだね。この間は、大きな怪獣みたいなポケモンの姿で出て来たって聞いたよ。それで、りっちゃんと話してるみたい」
「決まった姿しとるんと違うんや」
「夢の中に出てくるからね。その時の気分とかによるんじゃないかな」
「なんやよう分からんけど、変わっとるな」
そこまでつぶやいてから、ハルは黙りこくってしまった。
シラセはハルが何に思いを馳せているか理解していた。風変わりな姿をしていたとは言え、あれが律の母親であることは間違いない。ハルにとって母親は複雑な存在だ。一言で言い表すことができない。そういう意味では、姿かたちこそ決まっているけれど、律の母親のように捉えどころのない存在と言えるかもしれない。
瑞穂が席から離れたのを見たハルが、消え入りそうな声でつぶやく。
「何なんやろな、おかんって」
母親とは何か。それはシラセも答えを持たない。シラセにも母親はいた。今はもう会うことの叶わないところへ行ってしまったけれど、確かに存在していた。
うつむいていたハルの視界の横から、白いミルクの注がれたカップがスライドしてくる。
「あれ……瑞穂さん、これ」
「はい、目覚めのミルク。おいしいよ」
瑞穂から差し出されたミルクに、ハルがそっと口を付ける。
彼女の表情は、ただ、複雑だった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。