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7-2 いねむり姫

「みーっずほさんっ」

夕方に差し掛かったころ。ハルがテーブルを拭いていると、誰かがペリドットのドアを開くのが見えた。掃除の手を止めてハルが入口へ向かうとともに、シラセもそちら側へ目を向けた。

律だ、とシラセはすぐに気が付いた。彼女もまたペリドットの顔なじみの一人だ。

「ありゃま、りっちゃん。遊びに来てくれたんだ」

「補修終わったから、ちょっと冷たいものでも飲んでこうかなって思って」

慣れた様子でさっとカウンター席へ座る律の元へシラセが向かう。律はシラセの姿を見つけると、おーっ、と声を上げた。

「こんちゃっす。シラセちゃん、元気してたー? 最近外あっついから、毛皮着たシラセちゃんは大変だね」

シラセをもしゃもしゃと撫でている律に向かって、ハルが声を掛けた。

「いらっしゃいませ」

「およ、見慣れない顔。瑞穂さーん、新しいバイトさん?」

「そうだよ。ちょっと前から入ってもらったんだ」

カウンターの奥から出てきた瑞穂が、ハルの肩を抱きながら言葉を添える。

「紹介するね、ハルちゃんって言うんだ。ペリドットが誇るウェイターさんとして、縦横無尽に大活躍してくれてるよ」

「いや、うち普通に注文取って瑞穂さんに回してるだけやけど」

「あはははっ。頼れる助っ人さんってわけだ、瑞穂さんも大助かりだね」

ハルの返しが面白かったのか、律が声を上げて笑った。笑うのがひと段落したところで、律が改めてハルの方へ向き直る。

「初めまして、あたし律。ペリドットにはちょいちょいお世話になってます」

「常連さんの一人だよね、りっちゃんは」

「試験前に勉強したい時とか、特にね。静かでありがたいっす」

「りっちゃん、都会の大学へ行きたいって言ってるからね。私も応援してるよ」

軽く瞬きをしてから、律がハルの顔を覗き込んだ。

「瑞穂さん、ハルちゃんのおかげで助かってるんじゃない?」

「おかげさまで大助かりだよ。お料理に集中できるのっていいね。ハルちゃんの気配りの賜物だよ」

瑞穂から誉めそやされたハルが、伏し目がちにしながら照れたように笑う。満更でもない、そんな表情をしている。

「ハルちゃん、あたしが言うのもなんだけどさ、瑞穂さんのことよろしくね。瑞穂さん、割と頑張りすぎちゃう感じだからさ」

「こらこら、りっちゃん」

さてさて、ご注文はどうなさいますか、と瑞穂が律に訊ねる。

「じゃ、アイスカプチーノひとつ」

律はほぼノータイムでアイスカプチーノをオーダーする。いつものだね、と瑞穂も慣れた様子だ。

「アイスのカプチーノって、ちょっと珍しい気ぃする」

一方、ハルはちょっと面食らった様子で、そんなことをぽつりと零していて。

「アイスのカプチーノが飲めるのは、ペリドットだけだよ。瑞穂さんが大槻さんから伝授してもらったんだよね」

「そうだよ。大槻さんが私に仕込んでくれたんだ」

大槻さんは私にいろんなものをくれたけど、これもその一つだよ。瑞穂が少し誇らしげに言って見せる。そんな瑞穂の様子を、律は楽しげに眺めていて。

「瑞穂さん、大槻さんのこと好きだったもんねー。分かる分かる」

「りっちゃんったら。大人をからかうんじゃありません」

二人の会話を聞きながら、シラセが思いを巡らせる。瑞穂は大槻さんのことが好きだった。この「好き」というのはどういった感情だったのか。親愛の情を抱いていたのか、あるいは恋慕していたのか。大槻さんと顔を合わせたことのないシラセにとっては、想像するのが精いっぱいだった。

律が不意にぐーっと大きく伸びをする。ハルがテーブルへ届けたアイスカプチーノを一口飲むと、くーっ、とばかりに目を細めて見せた。

「ペリドットっていいよね。落ち着くっていうか、なんとなく来たくなるっていうか」

「そういう場所になったらいいな、って思いながらやってるから、りっちゃんの言葉はうれしいね」

「うん。家とはまた違う安らぎを感じるんだよね」

「来たかったらいつでも来てね。歓迎するよ」

「アイスカプチーノだって飲めるしね、ペリドットなら」

瑞穂の言葉を受けた律が、ニッと歯を見せて笑った。

「あ、そうだ瑞穂さん。今日は花子ちゃん来てないの?」

「うーん、今日は見てないね。朝も来てなかったし」

「そっかぁ。図書館に新しい古生物の本が入ったよって教えてあげたかったんだけど」

「新しい古生物の本って、なんか矛盾しとらん?」

ハルが横からさりげなくツッコミを入れると、律がぱんと手を打って、大きく目を見開いた。

「ホントだ! これちょっと面白くない? 新しい古生物って何? って感じで!」

「律さん、笑いの沸点低くない?」

腹を抱えて笑う律を見たハルはそう言うものの、ハルも横で笑いを堪えているのが見て取れる。律が気持ちよく笑っているのを見て、つられて一緒に笑いそうになっているのが容易に分かる光景だった。律とハルが笑っているのを見た瑞穂が、綺麗な花でも見るかのように二人の様子を眺めている。

笑っていた律がちょっと落ち着きを取り戻したところで、瑞穂が彼女に話しかけた。

「りっちゃん。たまちゃんとよっちゃん、元気にしてる? しばらく見てないから、気になっちゃって」

「環ちゃん? 変わってないよ。部活も毎日やってるし。あたしと違って真面目な子だからねぇ。頼子ちゃんも同じかな。あの二人、仲良いから」

惚れちゃう子がいるのも分かる気がするわぁ、と律がどことなく羨ましげに言う。それは「たまちゃん」が惚れられていることを羨ましがっているというより、他人から惚れられるくらい器量のいい「たまちゃん」自体に羨望のまなざしを向けている、そんな風に聞こえる言葉だった。

「あっ、いや、けど、うーん……環ちゃんの方は最近ちょっと元気無さげかも? 気もそぞろって言うか。あれはきっとお祭りがあるからだね、間違いない」

「あぁ、星祭り。八月の七日だから、あと二週間と少しだね」

「それそれ。ほら、きっと準備とかで大変なんだよ。お祭りの会場ってのもあるけど、それよりもっと大がかりで大変なのがあるから」

「りっちゃんが言ってるのって、あれのこと?」

「そう。あの一大イベント。お祭りで神社に来てる人が、みーんな揃って環ちゃんに注目する瞬間だから」

とんとん拍子で会話を進めていく瑞穂と律の横で、ハルが顔に「?」をいっぱいに浮かべている。

「星祭り? 神社?」

「あれ、ハルちゃん知らないんだ。ここからちょっと離れた山の上に『星宮神社』って神社があるの。この辺で一個しかない神社だから、お参りする人も多いよ」

「毎年七月……ううん、違うね。八月の七日になると、『星祭り』ってお祭りが開かれるんだ。榁に古くから伝わる『星の神様』に捧げるお祭りだよ」

「ま、神社には他にも神様がいるんだけどね」

「へぇ、他にもおるんや」

「曰く――縁を司る海の神様、時を司る森の神様、それから、夢を司る星の神様。この三体の神様が祀られてるんだって。榁は星の神様が一番って序列付けをしてるから、星祭りって名前になってるみたいだけど」

でもこの神様たち、あちこちに分祀されて、他所の神社でもお祀りしてるところいっぱいあるらしいけどね。律がおどけて言うと、あっちこっちで願掛けされて、神様も大忙しやな、とハルが小気味よく返す。わかるー、と律が膝を叩いて笑った。

「今更だけど、ハルちゃんは日和田の出身なんだよ。ほら、静都の」

「日和田? もしかして、あの日和田?」

「律さん、知ってはるんですか。えらい辺鄙な場所ですけど」

「知ってるも何も、あの梵栗の名産地でしょ? 榁の人はほとんど知ってるはずだよ。たぶん場所もちゃんと言えるだろうし」

「星宮神社で梵栗を育ててるんだよ。お祭りで使うからなんだけど。日和田から持ってきて植樹したんだって」

「へぇー、意外や。観光名所もないし、誰も知らん街やと思とったわ」

意外なところで故郷とのつながりがあることを聞かされたハルが、心なしか嬉しそうな表情を見せる。なんだかんだで、生まれ育った場所には思い入れがあるのだ。日和田から持ち込まれた梵栗の木が榁の神社で育っている、それは紛れもない事実だった。

さて、アイスカプチーノを飲み乾して、それからもスマートフォンをいじったり瑞穂と他愛ない話をしたりして時間をつぶしていた律だったけれど。

「ふぁ……あぁ……」

大きなあくびを一つして、眠そうな顔を瑞穂に向ける。

「瑞穂さん、ちょっと寝てもいい?」

「いいよ。ゆっくりしてってね」

「ん。ありがと、瑞穂さん」

寝ていいよ、と言われた瑞穂が、机にゆっくり突っ伏してしまう。しばらくもしないうちに、規則正しい寝息を立てて眠り始めた。

「律さん風邪引いたらあかんから、控室から毛布持ってくるな」

「ハルちゃん。さすが、気が利くね」

他にはもうお客さんもいない。閉店まで律にゆっくり寝かせてあげよう。ハルは奥から毛布を抱えて戻ってくると、適度に広げて律の背中の上から掛けてあげた。律はそれに気づくこともなく、気持ちよさそうに眠るばかりだった。そんな律の様子を、ハルは微笑んで見ていたのだけれど。

「……は……ふわぁ……」

まるで律につられたかのように、ハルもまた大きなあくびが出た。不意に強い眠気を覚えて、うつらうつらと不安定な様子を見せ始めた。そしてハルの足元では、シラセも眠そうに目をしばたたかせている。二人の様子を見た瑞穂が、すばやく声を掛ける。

「ハルちゃん。りっちゃんと一緒に寝ていいよ」

「ふぇ……せやけど、瑞穂さん……」

「大丈夫。今日はきっともうお客さん来ないと思うし、ハルちゃんも疲れちゃったでしょ。時間になったら起こしたげるよ」

「……うん。わかった。うち、ちょっと寝るわ……」

律の隣の席へ座ると、ハルもまた机に顔を伏せて眠り始めた。律とハルの間に入るようにして、シラセも足を折りたたんで眠りにつく。

ハルが夢の世界へいざなわれるまでは、そう時間はかからなかった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。